牛頭と馬頭
飯綱に牛頭と呼ばれた鬼は威嚇するかのように棍棒を掲げ、キッカを嬲るように睨みつけている。今にも喰い荒らそうかという、荒々しい唸り声を上げていた。突き出た鼻の先にある穴は大きく動き、その鼻息がキッカまで降りかかるかのように荒い。
「飯綱さま、牛頭とは?」
キッカは、ゆっくりと迫ってくる牛頭から視線を外せないでいる。いつの間にか、一歩後ろへと下がっていた。
『見た目通りの筋肉バカよぉ。餓鬼より、かなり強いし、少しばかり頭も良くて、中々面倒くさい奴よ。今回の事態は、コイツが原因かもしれないわねぇ…。コイツが指示をしていたとしたら、餓鬼の行動も納得できるわぁ。ただ、あいつが厄介なのはそれだけじゃないんだけどぉ…。何でこんな奴がこんな所にいるんだかぁ…』
飯綱から何時もの余裕が感じられない。それほどに牛頭という鬼は厄介なのだろう。どれ程の重さを持つのか想像も出来ないほどに巨大な棍棒を軽々と振り回し、餓鬼を肉片に変えたことから、巨体に見合った膂力を持っているのは間違いない。
生唾を飲み込んだキッカは、薙刀を下段に構える。
牛頭との距離は、半町を切っただろう。それまで、ゆったりと己の存在を誇示するように歩いていた牛頭が、キッカへと向かって突進を始める。その巨体通りに一歩一歩が大きく、予想以上に速い。キッカが呼吸を終える前に、牛頭が棍棒の間合いへとキッカを収める。あまりの速さに面食らったキッカは、反撃の機会を逸していた。高く掲げられた棍棒が垂直に振り下ろされる。転がるようにしてキッカはそれを避ける。棍棒が叩きつけられた地面は、大きく抉られていた。
『さずがにあれをまともに喰らったら、一溜りもないわねぇ…』
飯綱も、その馬鹿げた力に肝を冷やしている。
キッカは体制を立て直そうとするが、させじと牛頭が棍棒を横薙ぎに振るう。しゃがみ込むことで、それを躱す。しかし、牛頭の振るった棍棒の風圧によって、キッカは転倒してしまった。
『一度、距離を取って!』
追撃を仕掛けてくる牛頭であったが、キッカは大きく後ろへと跳躍することで、何とかそれを免れる。同時に、牛頭と距離を取ることに成功した。
『今よ!」
牛頭はキッカを逃すまいと、その距離を詰めてくるが、キッカが攻撃するだけの余裕はある。キッカは渾身の力を込めて薙刀を振るい、真空の刃を牛頭に向けて放った。
空気の振動を感知したのか、牛頭は両手を顔の前で揃え脇を絞る。鎌鼬がその腕に吸い込まれていった。鮮血が舞う。腕の肉を切り裂いたものの、骨を断つことは出来ていない。牛頭が握り固めた前腕は、キッカの鎌鼬を防ぐだけの硬度を有していた。しかし、完全に防ぎきれるわけではなく、牛頭は痛みに顔を歪めていた。その脚は止まっている。
「まだ!」
ここを好機と見たキッカは、素早く薙刀を振るい、鎌鼬を一発二発と加えていく。再度、鮮血が舞い地を赤く染めていくが、牛頭の防御は固くその腕を切断するのには到らない。
「なんて頑丈なのよ…」
さらなる連撃を加えていく。腕部からの夥しい出血により握力を維持できなくなったのか、既に牛頭は棍棒を握り落とした。棍棒が地面を転がっていく。しかし、牛頭は未だ膝を着くことなく立ち続け、キッカを睨みつけていた。赤黒く染まった牛頭の腕は血を纏って、より硬度を増しているのではないかとさえ感じられる。血が凝固することで、固くなっているのではないだろうか。実際に、牛頭の前腕は、一回り太くなっていた。
薙刀を振るい続けたキッカの動きは、次第に鈍くなっていく。肩で息を刻んでいる。呼吸が追いつかず、攻撃の手を止めてしまった。
その間隙を縫って、牛頭が巨大な咆哮を上げる。爆発的な音量が、辺り一面を震わせていく。耳をつんざくあまりの大きさに、キッカは思わず薙刀を手放し、両手で耳を塞いでしまった。
「しまった…!?」
牛頭の巨体が、キッカを轢き殺さんばかりの勢いで猛進してくる。薙刀を拾おうとするが、それでは回避が間に合わない。横に飛び退くことで難を逃れ、薙刀へと目線を向ける。そこでは、牛頭の足が薙刀を踏み抜き、その柄をぽっきりと折っていた。
「…くっ、これじゃあ…」
武器を失ったキッカは、身の竦む思いを感じていた。牛頭が、キッカへと振り返る。その瞳には、キッカに対する怨嗟が蔓延していた。昨日まで、ただの村娘だったキッカに、その怨嗟を受け止めるだけの度量はない。背筋を冷たい汗が流れて、膝から力が抜けていく。
再度、咆哮を上げた牛頭がキッカへと突進し、キッカを刈り取ろうと手を振るう。
『諦めないで!武器がなくても、アタイの力は使えるわ!』
飯綱がその神力によって強風を起こし、牛頭の動きを抑えつける。その合間に、キッカは後退していた。
『気になることがあるから、一度屋敷まで引きなさい!』
「どうしてですか?ここでコイツを何とかしないと!」
キッカは、思わず反論してしまう。牛頭の両手にかなりの深手を負わせたといえ、その圧倒的な体躯があるだけで、村を破壊することが可能だろう。このまま牛頭を放置することで、村が危険に晒されることは必至である。逃げ出したい気持ちはあるが、それを堪えなければならないのだ
『説明は後で!とにかく急いで!』
飯綱の言葉には、有無を言わせぬ迫力があった。
「わかりました…」
キッカは身を翻す。牛頭からの恨めしそうな視線を振り切るように、村へと跳ねるようにして飛んでいく。幸い、牛頭よりもキッカの方が、移動する速度は速い。その距離は、グングンと拡がっていく。追いつけないことを悟ったのか、後方では牛頭が喚き散らすように鳴いている。
キッカは出せる限りの速度で、村の中心部へと引き返す。後少しでシロウの屋敷だという所まで辿り着く。その目には、先程まで対峙していた牛頭とよく似た鬼が、屋敷を破壊しようとしている光景が飛び込んできた。手に持った巨大な棍棒が、塀に叩きつけられている。その多大な質量を持つ一撃に、次々と塀が叩き壊されていった。守りの要である塀が壊され、シロウの屋敷は丸裸になりつつある。
それを為している鬼は、牛頭と同様に圧倒的な体躯を誇るが、唯一異なるのは、その身体の上に乗っているのが牛の顔ではなく、馬の顔であるという点であった。
『やっぱり、馬頭のやつもいた…』
飯綱は、苛立ちを隠せずに舌打ちする。
剥き出しとなったシロウの屋敷からは、桑や鋤といった農具を持った村人が、馬頭に応戦しようと飛び出してくる。しかし、村人たちは巨大な馬頭の姿を目の当たりにすると、腰が引けてしまった。気休め程度に獲物を振るっているが、何も意味をなさない。馬頭は、悠々と歩んでいく。
「危ない!?」
キッカの叫びも虚しく、馬頭の凶手は、虫けらでも振り払うといった具合で棍棒を薙ぐ。まとめて吹き飛ばされた村人たちは、轟音とともに屋敷の壁に勢いよくに衝突する。土埃が巻き上がり、村人の姿を覆い隠す。馬頭は、土煙の中を完全に破壊しようと棍棒を振り上げていた。
「させないんだから!」
間一髪で、キッカは牛頭の前へと割り込んだ。馬頭に向けて右手をかざし、暴風を巻き起こす。突風が駆け抜け、眼の前にある巨体を跳ね飛ばした。
馬頭は上下を入れ替えながら、後方にある壊れかけた家へと転がり込んでいく。馬頭が激突したことで、家が完全に倒壊した。家が瓦礫と化しガラガラと音をたて、馬頭の身体に覆い被さっていく。
風が吹き止むと、瓦礫を払い除け馬頭が起き上がってくる。その身体に、大した傷は付いていない。
『こいつは、牛頭と2匹でつるんでいることが多いのよ…。牛頭のやつを結構痛めつけてやったのに、姿を表さなかったから…。牛頭のような力はないけども、その分動きが速いから注意して!』
差詰め、別働隊として動いていたのだろう。村の奥にまで侵入を許し、被害まで出てしまった。キッカは、依然頑健な肉体を見せつけてくる馬頭を一瞬だけ睨みつける。そして、馬頭に吹き飛ばされた村人の方へ視線を移すと、辛うじて息をしているのが確認できた。
「良かった…」
怪我を負ってしまっただろうが、まだ生きている。まだ助けられる。キッカは、自身の身体を村人たちの盾にするようにして、牛頭の前に立ちはだかる。
「誰か、怪我人を運んで!」
屋敷の中から恐る恐る戦いの様子を観察していた村人が、慌てて飛び出してきて怪我人たちを回収していく。その間、キッカはすぐに攻撃を出来るように、牛頭を見据え膝を落とす。馬頭の方にも動きは見られず、キッカを観察するように見据えていた。
『こっちから仕掛けるよぉ…行けるわね!?』
キッカは頷くと、全身に力を込める。右手を振るい鎌鼬を馬頭へと放つ。馬頭へと空気の刃が唸りを上げながら一直線に突き進んでいく。馬頭は、キッカの動きに合わせてその場から飛び退くが、完全に回避しきれたわけではなかった。馬頭の動きよりも速く、空気の刃が右腕を掠めた。裂傷を負った腕からは淡い血が滲んでいる。
「躱された!?…まだ!」
躱さることを予想していなかったキッカであるが、未だ自分の間合いである。再度、馬頭にむけて鎌鼬を放つ。しかし、これも直撃はしなかった。馬頭の腕の皮を剥ぐのみである。
「また!?」
キッカは、驚きを隠せない。キッカの倍はあろうかという巨体が俊敏に動き、高速の鎌鼬を躱すのだ。さらに、追撃を行うがこれも当たらない。薄皮を剥ぐことさえなく、完全に回避されていた。キッカは闇雲に鎌鼬を連射していく。
『焦らない!まだ、手はある!このまま、あいつを近づけさせないで!』
キッカは、馬頭の接近を許さないように鎌鼬を放ち続ける。馬頭の方も鎌鼬を避けることで精一杯であり、反撃の機会を見つけることが出来ないでいる。
『いい?言葉には魂が宿るのぉ。特にアタイたち神が振るう力は、その影響が大きいわ。つまり、キッカの言葉を乗せることで、もっと大きい力を出せるようになるってこと。わかった!?」
言葉に魂が宿る。確かに、先程村人たちを馬頭から救った時は、自分の想像以上の風が吹き荒れた。咄嗟に出た言葉とともに、風の神力を使ったが、その際の風の勢いは今までの比ではなかったのである。言葉を乗せた神力を馬頭にぶつければ…。キッカは、鎌鼬をより鋭く、より速くなるようにとの想いを言葉に乗せていく。
鎌鼬が吹き止んだ。
それを好機と感じ取ったのか、馬頭は反撃へと転じるために地を蹴ると、キッカへと迫っていった。
「…音よりも速く、全てを切り裂く刃となれ、鎌鼬!」
馬頭が、キッカへと到達する前に言葉を言い終える。身体の奥底から湧き上がる力が、高鳴っていく。これまでよりも、はるかに薄くより研ぎ澄まされた真空の刃が射出された。激しい反動がキッカを揺さぶっている。
刹那、馬頭の右腕が宙を舞った。吹き出した鮮血が、馬頭の身体を染めていく。
「外した!?」
キッカは、紡ぎ出された膨大な力を制御しきれなかった。それでも、完全に外したわけではない。馬頭に深手を負わせることができ、目の前で身体の一部を欠損させた巨体が立ち尽くしている。
あまりの痛みに馬頭は嗚咽を漏らし、そこから動けずにいた。右腕から止め処なく流れ落ちる馬頭の血は、地面を赤黒く汚していく。
次は外さないとばかりに、キッカは再び言葉を紡ぎ出す。馬頭の方を向けて突き出された右腕を、左腕で支えることで固定する。次で仕留める。
「オォォォォ!」
しかし、別の方角から咆哮が上がると、馬頭と同じ巨体を持った鬼が家々をなぎ倒しながら突進してくる。それは牛頭であった。
言葉を紡ぐことに集中しきっていたキッカは反応が遅れ、牛頭に接近に気づいていなかった。既にその距離は、牛頭の手をキッカに届かせるには十分な程近かった。キッカの胴回りよりも確実に太いであろう、強靭な腕が振るわれる。キッカは回避しようと、横に跳ぶが間に合いそうもない。
『キッカ!?』
飯綱がキッカの周囲に風を巻き起こし、牛頭が勢いを削ぐ。しかし、押し返すことはできない。その豪腕が、キッカへと到達した。キッカの身体は、鞠のように吹き飛んでいく。
「ぐっ…!?」
飯綱のおかげで致命傷となっていないが、全身に鈍い痛みが走る。幸いにも、骨や内臓には異常は感じられなかった。身体はまだ動く。ここで自分がやられるわけにはいかない。キッカは、自己を叱咤することで、懸命に立ち上がっていく。その足は、生まれたての子鹿のように震えていた。
キッカの眼前には、牛頭が止めを刺そうと詰め寄ってくる姿が見える。その腕が振り上げられた。それを避けようとするが、身体が言うことを聞かない。直に、牛頭の腕が振り下ろされるだろう。その時、キッカの視野の端に、何者かが走り込んでくる影が映る。
「やめろぉぉ!」
悲壮な叫びを上げながら、キッカと牛頭の間へと割り込んできたのは、アスハであった。
1町=109.9メートル