両親の安否
チクサ村が、餓鬼の大群に襲われてから一日程経過したのだろうか。村の到る所に餓鬼が溢れかえり、人の姿は確認できない。人々に雨風を凌ぎ、安寧を提供する場として建築された家々は、その大半が打ち壊されている。炎に包まれている家もあった。朴訥とした趣のあった村は、その表情を一変させていた。激しい風が村に向かって吹き荒れている。まさに凄惨な光景がそこにあった。
「どうしてよ…、父さま、母さま…」
「姉さま、父さまと母さまはどこにいるの?」
炎によって撒き散らされた黒煙に覆われている村の光景に、キッカとアスハは焦燥とした表情を浮かべている。両親の安否が気になり、急ぎ村まで引き返してきたものの、肝心の村がこの有り様では否が応でも最悪の想像をしてしまう。キッカは気丈に振る舞おうとしているものの、アスハの目には涙が滲んでいた。
「二人とも、慌てない!」
一方の飯綱は、冷静であった。首を左右に振り、時には匂いを嗅ぎながら、注意深く村の様子を観察している。
「でも、これじゃあ…」
「慌てないで、村を良く見て。これだけ、荒らされているのに、村人の死体が1つもないじゃないのぉ。きっと、どこかに逃げたか、隠れているんだわぁ」
飯綱は、キッカとアスハに寄り添うに身体を擦り付ける。二人は、飯綱から優しさを受け取っていた。
現在、キッカたちがいるのは、村の端である。それにしても、飯綱の言う通りに、キッカの目に見える範囲には、人の死概は見当たらない。このことは、村人が生存していることの根拠となりえる。家を壊され、炎まで上がっているにも関わらずに、死体が一つも見当たらない。逃げ惑った末に、惨殺されたのであれば、村の端にこそ人の亡骸があっても良さそうなものである。しかし、それはこの場にはないのだ。このことが、消えかけた希望の灯火に僅かばかりであるが、再度火を灯す。
「姉さま、長の屋敷だよ!きっとそこに集まっているんだ!あそこなら、村のみんなで隠れられるくらい大きいから」
一筋の光明を見出したのは、アスハも同様である。灰色の瞳は、色を取り戻していた。
「そうね、長の屋敷に急ぎましょう!」
長の屋敷は、緊急時の避難場所も兼ねていたはずだ。それに彼処なら、周囲を高い塀に囲まれており、易々と餓鬼に侵入を許すことはない。キッカは、直ぐ様長の屋敷へと向かおうと足を踏み出す。
「だから、闇雲に進まないで!」
しかし、飯綱はそれを認めなかった。キッカたちを一喝する。キッカの足は宙を掻き、前につんのめった。体制を立て直すと、飯綱の方へ急いで踵を返す。
「長とやらの屋敷に向かうことはいいわよぉ。だけど、村の中は至るところに、餓鬼がいるかもしれないのよね。いつ襲われるかもわからないんだからぁ、さっきからこっちを、チラチラと伺ってる奴もいるしぃ…。キッカの手にある薙刀が怖いのかも、今の所、襲ってくる気配は感じないけどぉ…。慎重に進みなさい!キッカは良いかもだけど、アスハもいるのよ」
焦りすぎていたと、キッカは反省する。折角ここまで来たというのに、自分たちが無事でなくなったとしたら、元も子もない。
キッカは、大きく息を吐き出すと、その反動を利用して大きく息を吸い込んだ。自分が、アスハを守らなくてはならない。何も考えず村へと突入したとしたら、自分はともかくアスハは、餓鬼の良い餌食となってしまうだろう。
乾いた音が響く。キッカが、両の頬をその手で張ったのだ。
「すみません、周りが見えなくなっていました…」
「分かればいいのよぉ。アタイがキッカの中に居た方が都合が良いから、そうさせて貰うわよぉ」
冷静さを取り戻したキッカは、アスハの手を引き、一旦物陰に身を潜める。その間、飯綱はキッカの中へと戻っていた。現在の飯綱の姿は、キッカの魂によって構成されている。そのため、一体となった方が、その神力は増すのである。
「さて、どうやって長の屋敷へと向かおうかしら…?」
キッカは、頭の中に村の地図を広げると、その道筋を思案する。長の屋敷は村の中央に位置している。そこへ至るためには、四半刻もかからない。しかし、必ずどこかで開けた場所を通らなければならず、村の至る所に餓鬼が徘徊していると考えると、どこかで餓鬼に見つかってしまうだろう。可能ならば、餓鬼と遭遇しないようにする必要がある。
「実際に出来るかどうかはわからないけど、僕に案があるから聞いてくれるかな…?」
アスハは、キッカの耳へとその口を近づけると、何事が囁く。すると、キッカが目を白黒させていた。
アスハが提案した案とは、キッカがアスハを背負った状態で、家々の屋根の上を飛び移っていくというものだった。
「姉さまは、ここに来るまでに何回か餓鬼と戦ったでしょ?その時に思ったんだけど、姉さまの力もそうだけど、飛んだり跳ねたりする速さもとんでもなく速いなって…。上からなら、餓鬼に見つかっても関係ないし。」
妙案だとばかりに、アスハの瞳は自信の色に染まっている。
飯綱と縁を結んでから、キッカの身体能力は、これまでとは比べ物にならない程高くなっていた。以前の自分であれば、両手で振ることがやっとの程の重さがある薙刀も、片手で軽々と振るうことができる。山を下った際も、アスハに歩を合わせてきたとは言え、息一つ切れていないし、随分のんびりと下ってきたと思ったていた。
「確かに、自分でも驚くくらい力が溢れてるけども、さすがに…」
それでも、キッカは、常識的に考えて、一間以上の高さまで跳ぶことはできないだろうと考えていた。三間はある家々の間を、人一人背負って跳び移っていくことは不可能だろう。
『今のキッカなら、それくらいできると思うよぉ。あの高さなら餓鬼は手が届かないだろうし、良い案じゃん!』
この案に、太鼓判を押したのは飯綱であった。キッカに力を与えたのは飯綱であり、その力は元々、飯綱のものである。キッカよりも、その力で何ができるのかを把握しているだろう。飯綱が出来ると断言する以上、キッカとしても反対する理由はない。
「わかりました。自信はありませんが、その案で行くとしましょう…。アスハ、振り落とされないでよ?」
腰を落としたキッカの背中に、アスハがしがみつく。組つくようにして、その手足をがっちりと固定させた。キッカは目線を上へ向ける。今から飛び上がろうとしている家々は、自分の背丈よりも幾分も高い。本当にあの高さまで跳べるのだろうか…。家々は餓鬼の襲撃を受け、破損が目立つ。その中から、飛び移っても大丈夫そうな場所を見繕っていた。
「行くわよ…」
キッカは膝を落とし、全力を込める。膝を伸ばすと、一気にその力を解放した。すると、その身体は飛び上がる鳥のように、高く舞い上がっていく。跳ね上がった高度は、予想よりも遥かに高い…。予定の倍は、跳んでいるのではないか。ここまで跳べるとは思いもよらず、着地点を見失いそうになる。加速が収まり、重力に引っ張られ始める頃には、村の全域を見渡せる程の高さに達していた。
『跳び過ぎよぉ!姿勢が崩れないように注意して、着地はどうにかするから』
目の眩む高さであったが、何とか着地点を見据え、手足をばたつかせることで目的地へと自身を誘導する。肝を冷やしながらも、何とか目的の場所へと着地することができた。あれ程の高度から落下したというのに、着地における衝撃は殆どなく、キッカの足は直ぐにでも再度跳ぶことが出来るほどに健在であった。その際、身体の中から風が吹き抜け、一瞬宙に浮くような感覚がしたため、飯綱が風の神力によって着地の衝撃を和らげたのだろう。心の中で飯綱に手を合わせる。
屋根の上からだと、周囲を塀に囲まれた一際大きい長の屋敷を確認することは容易である。大半の家々は打ち壊されているが、それらと違い、建物自体に破壊された箇所は見当たらない。
「長の屋敷は、無事みたいだよ!」
廃墟の中に、頑健と建つその屋敷は、アスハの胸を撫で下ろした。
キッカが飯綱と縁を結んだことによる恩恵は、視力の向上をも伴っていた。まだ随分と先にあるにも関わらず、屋敷の様子をありありと把握できる。そのキッカの目は、塀の中から外へ向かって石を投げつけている村人の姿を映していた。
「村の人は無事みたい!父さまと母さまは、きっとあそこにいるはず…」
村に到着した時に、消えかかっていた灯火の光は、より大きく燃え上がっている。逸る気持ちを抑え、慎重に次の足場となる屋根を吟味し、そこへ跳び移っていく。眼下では、キッカたちを見つけた餓鬼たちが何事か喚いているが、それを無視し、屋根から屋根へと渡っていく。ひたすらに、屋敷を目指す。後一跳びと迫った所で、キッカは塀の中にいる村人と目が合った。
「キッカ?キッカなのかい!?それにアスハも?アンタたちは社へ避難したはずじゃ?それになんて所にいるんだい?」
「詳しい説明は後よ!今からそっちへ行くから、場所を開けてくれるかしら?」
こで最後だと、キッカは、力強く足を踏切り、目前の屋敷へと跳ね跳んでいく。
キッカがアスハを背負い空を舞う様に、仰天しながらも踏みつけられては敵わぬとばかりに、村人はキッカたちが着地するだろう場所から逃げ出していた。
キッカたちは、軽やかに塀の中へと降り立つと、着地と同時に舞い上がった砂埃を払い落としていた。アスハは、目を回したのか、たたらを踏みながらキッカの背から降りている。
「本当にキッカとアスハなのかい?」
先程、目の合った村人が、疑いの眼差しを二人に向けている。
「父さまと母さまは?それにみんなは無事なの?」
そんなことなどお構いなしに、キッカは村人へと詰め寄った。依然、目の前の村人から警戒されているように感じるのであるが、それは仕方のないことだと割り切る。キッカたちのした行いは、常人には出来るはずもないことなのであるからだ。それよりも気になるのは、両親が無事であるかどうかなのである。
「シンさんもユラさんも、この中にいるわよ。それに今の所、犠牲になった人はいないわ」
「良かった…。びっくりさせたと思うけど、正真正銘、キッカとアスハよ」
両親が生きていることがわかり、キッカとアスハの二人の胸のつかえが一つ降り下がる。これまで険のある表情をしていたキッカの顔も、和らいで見えた。
「父さま、母さま、村をお助け致したく、キッカとアスハは戻ってまいりました!」
キッカは、屋敷中に響き渡るような大声を張り上げる。
何事かと、屋敷の中から村人たちが集まってきた。その中には、キッカとアスハの見知った顔もいくつかあるのだが、中々目当ての顔は見当たらない。すると、周囲の人を押し分けるようにして、良く知る顔が二つ覗いてきた。父と母である。
「キッカにアスハだって!?何で帰ってきたんだ!?避難しているように言っただろう!」
「お前さん、今はこうしてまた会えたことを喜びましょう」
少しばかり怒気を込めた声でキッカたちを叱りつける父と、優しげな眼差しをキッカたちに向ける母の姿がある。一日しか経っていないが、キッカは、その懐かしい顔を見つめ、無事でいてくれて良かったと心の底から思う。キッカとアスハの二人は思わず、両親の基へと駆け寄っていた。
「先程も申したように、村をお救いする手助けをしたいと存じます」
背筋をまっすぐと伸ばし、胸を張ったキッカが、村人たちの前に歩み出る。
「お前に、何ができるっていうんだ!?子どもが身を危機に晒す必要はない!」
下がれという意志を込めて手を払い、父であるシンはキッカの行動を制そうとした。シンはキッカたちの身を案じているのだろうが、キッカは今やただの子どもではない。大の大人よりも、遥かに強力な力を身に宿している。これまで、命ぜられれば必ず従っていた父の制止を振り切り、さらに一歩前へと進み出た。
「事情を説明致しますと…」
キッカは飯綱と縁を結んだこと、餓鬼をその神力を以て撃退したという昨晩の出来事を、村人たちに説明する。
「そんなわけがないだろう…」
子どもの戯言だろうと村人たちは、冷ややかな目をキッカへと向けている。シンも、その中の一人であった。キッカの話は、にわかに信じることができない。シンには、凡庸である自分の血を受け継いだ娘に特別な才能があると思えないのだ。
「そうだよ!飯綱さまが僕たちを助けてくれたんだ!」
アスハも、未だ信じられないといった様子である大人たちの説得を試みているが、その成果は芳しくない。がっかりした表情を浮かべる村人たちは、少しづつ屋敷の中へと引き返していた。
『二人の言うことは本当よ。なんたって、キッカには、アタイ、志那都飯綱姫が憑いてるんだから!キッカ、見せてあげなよぉ』
「畏まりました」
突如、誰が発したものでもなく、頭の中に直接声が響いくる。声を発したのは、飯綱であった。村の者たちはその得体の知れない声に狼狽えている。中には、驚きのあまり尻もちを着く者もいる。
当然のことのように、その謎の声に返事をしたキッカは、一足で塀の上へと跳び移る。そこで、宙に向かって薙刀を一閃した。すると、塀の外にある背の高い木の枝が音もなく切断された。大人の腰回りはあろうかという太さの枝が、地面へと落下していく。一人の村人が驚愕の声をあげると、村人たちの中に驚きが伝染していった。
「何事か?」
声の先では人垣が割れていく。ゆっくりとその間を縫って進んでくる老人がいた。村の長である。横に付き添いながらシンが事情を説明していた。シンは大層な身振り手振りを交え、キッカの馬鹿げた行動を止めるようにと説得している。
「まさか、この村から神と結ひを得るものが出るとは…。して、神の名は?」
しかし、飯綱の名を父から聞くと、納得したように頷く。そして、キッカに向かって拝むように手を合わせた。この者は、他の村人と違い神のことについての知識を持っているようであった。
「志那都飯綱姫命ですか…。私の声が聞こえているのでしょう。貴方様に力添えをしていただけるとは…。その御力をもって、どうか村をお救い下さい。お願い申し上げます」
長は、キッカに向かって深々と頭を下げる。その行動に村人たちは、困惑の色を滲ませている。
『もとよりそのつもりだからぁ!大船に乗ったつもりでいなさい!まずは事情を説明してもらおうかしら?』
1間=1.8メートル