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9 恐れる

「やだな、先輩。変な冗談やめてくださいよ」


 陸は最初、笑っていた。

 わたしがあまりにも突飛なことを、平然と言ったせいもあるだろう。陸は、わたしの言葉をすぐには信じなかった。


「……こんな冗談は言わないよ。わたしの父は、きみのお父さま。わたしたちは、腹違いなの」

「何――言って、」


 陸の瞳が不安げに揺れた。わたしはできるだけ、それを見ないようにする。


「優しい両親に囲まれて、何も違和感はなかった? あの男は、母とわたしがありながら愛人と通じていたんだよ。きみの母親は、汚らわしい泥棒猫。そしてきみは不義の子――滑稽だね、今の今まで何も知らなかったなんて。でも、幸せだったでしょ? 何も知らない方が、ずっと幸せなの」

「そんな――嘘だ。俺は――父さんは……」


 幸せだった日々が、一瞬のうちに崩れさってゆく。きみだけが何も知らずにいるなんて、もう許されない。


「嘘だと思うなら、聞いてみればいい。きっと真っ青になるでしょうね」


 陸の視線は宙をさ迷う。未だ、信じられない、受け入れられないという顔だ。

 ずっとその顔が見たかった。もっと、もっと、傷つけばいい。


「……先輩、は……ずっと知っていて? じゃあ、俺と付き合ったのは……」


 ここまで来れば、流石の陸もわたしの悪意に気づく。今にも泣き出しそうな顔で、震える声で、恐れるようにわたしを見た。


「そうだよ。わたしから全てを奪ったくせに、何も知らずに幸せそうにしているきみが嫌いだった。だから、教えてあげようと思ったの、本当のこと。ねぇ――ずっと、聞きたかったんだ。今、どんな気分?」


 陸は答えなかった。いや、答えられなかった。

 茫然と空を見つめる陸にはわたしを非難する気力すらないように見える。

 これ以上は無駄だと悟って、わたしは作り笑顔やめた。


 ――どうして。


 この胸の痛みも、息苦しさも少しも収まらない。

 わたしはきっと物足りないのだ。この程度の不幸では、満足できないほどに欲深いに違いない。


「……帰るね。今までありがとう」


 これまでの人生で一番ショックを受けているであろう陸を置いて、逃げるように部屋を出る。幸いにも、陸の母親には会わなかった。そのまま走って、一気にマンションのエントランスまで出た。

 外はまだ明るく、日差しがじりじりと照りつける。ようやく立ち止まって肩で息をしながら、わたしは怖くて仕方がなかった。

 わたしは――おかしくなってしまった。ずっとこの時を待っていたはずだったのに。陸を不幸のどん底に突き落とす、この時を。


 ――それなのに。


 少しも嬉しくないのは、どういうことか。

 

「……っ、ぐ」


 その時、とうとう込み上げてくるものをこらえきれなくなった。

 それは拭っても、拭っても、止まらない。

 とめどなく溢れる、この涙の正体は。


 ――苦しい。


 この気持ちをなんというのだろう。

 わたしは知らない。知らなくていい。




「おかえりなさい、サキちゃん」


 暗くなる前に帰宅したわたしを、優しい祖母はいつものように迎えてくれた。

 涙はとうに乾いていたとはいえ、何かを悟られそうな気がしてどきりとする。


「……ただいま」

「もう少しでご飯ができるから、少し待ってちょうだいね」


 玄関の扉を開けてくれたエプロン姿の祖母は、そのまませわしなくキッチンへと戻っていく。最近、少し腰が曲がってきたように見えるが、わたしを可愛がってくれた優しさも笑顔も何も変わらない。

 復讐は終わった。この先もいつも通りの穏やかな日々が続いていく。それでいいじゃないか。

 母の無念は晴らされた。だからわたしも、もう全てを忘れて前に進むことにする。




 その夜、毎日続いた着信履歴が遂に途切れた。当然のことだと思いながら、どこかで寂しく思う自分がいる。そんな自分に苦笑しながら、わたしは全ての履歴を削除した。

 明日からは、いつも通りの日々。陸に出会う前の、心穏やかな日常に戻る。

 今はこの胸を覆う痛みも、時間と共に消え去るだろう。

 この時はまだ、そんな都合の良いことを考えていた。




 翌朝は、ひどく蒸し暑い快晴だった。まだ、七月。直射日光の下に晒されれば、立っているだけで汗が流れてきそうだった。日に日に強くなる日差しは、猛暑を予感させる。暑さが苦手なわたしにとっては、うんざりすることこの上ない。

 そんな夏の日、登校したわたしを待っていたのは、随分と気落した泉だった。

 聞けば、昨日のデートで部長と喧嘩したらしい。喧嘩の理由は、本当に些細なこと。弟を騙して傷つけたことに比べれば、二人共落ち度があるとは思えないような。

 あまりに沈んだ泉を見かねたわたしは、一限目の水泳の授業を、理由をつけて共に見学にした。


「ねぇ、どうしたらいいかな」


 昨晩泣いたのか、泉の目は少し腫れぼったい。プールサイドからどこか虚ろに彼方を眺める姿が、ショックの大きさを物語っていた。


「うーん……」


 正直、昨日彼氏をこっぴどく振ってきたわたしに聞かれても、あまり適切なアドバイスはできそうにない。

 陸もこんな風に落ち込んだのだろうか。それとも、怒っているだろうか。わたしのことを恨んでいるだろうか。

 別に、わたしには、関係ないけれど。


「謝っちゃいなよ……このまま夏休みになったら、旅行もあるしさ。気まずいのは嫌でしょ?」

「……でも、私悪くないもん。なのに、謝らなきゃいけないの?」

「じゃあ、謝らせるように仕向けるとか」

「どうやって?」


 適当なことを言っていたわたしは、泉のすがるような問いに詰まってしまう。

 分からない。そんな方法はない。

 明らかに落ち度があるのに、自分は悪くないと思っている人間がここにいるのに。


「さあ、わたし……男子と付き合ったことないし……」


 卑怯な言い方かもしれない。それでも、わたしには答えられるはずがなかった。


「紗己子……何か、あったの?」

「え? どうして?」


 不意にわたしに話題を向けた泉に、わざとらしく首をかしげてみせる。


「あ……ううん、なんでもないの。私の気にしすぎ……かな……」

「そう?」


 もしかしたら、それは、気にしすぎではないかもしれない。わたしは泉のように目を腫らして登校してわけでもないのに、何かを感じとったのだろうか。

 特に普段と何も変わってないはずだ。わたしはそう、思っている。


「そっ、それより、今日部活行くよね!」

「いや、わたしは……」

「お願い! 一緒にいてよ、ね?」


 両手を合わせて懇願する泉を見て、府に落ちる。そういうことか――泉は、部長と顔を合わせた時のことを心配しているのだ。


「……いいよ。一緒に行こう」


 本当は今日は部活には行かないつもりだった。夏休みの旅行の行き先を決める割りと大切な日だが、とてもそういう気分ではないし、もしも陸がいたら……と思う。

 だけど、陸は来ないだろう。わたしが彼なら、絶対に行かないから。


「だけど、早く仲直りしちゃいなよ?」

「うん……頑張る……」


 自信がなさそうに言った泉の顔が、プールの水面に映って揺れる。

 不思議だ、今は本当に自然に応援できる。というよりは、何も感じないのだ。悪く言えば、どうでもいい。もちろん、泉には幸せになって欲しいとは思うけれど。




 放課後の部活には、いつもに比べるとかなり多くの部員が集まった。これが最後の旅行になる三年の部長と長谷部先輩はもちろん、陸と天童さん以外は全員。


みなちゃん、天ちゃんと椎名くんって、今日は欠席かな?」


 皆が集まったところで、いない二人に言及したのは長谷部先輩だった。

 二人と同じクラスの皆川さんは、長谷部先輩に聞かれて少し困ったような顔をする。


「美咲ちゃんは、今日は来れないって……」

「そうなんだ……最近見かけないけど、体調悪いのかな?」

「いえ、そういうわけでは……すみません、あまり詳しくなくて」


 どこか歯切れの悪い返事。もしかして、二人は一緒にいる? そんな嫌なイメージが何故か頭の中に浮かんだ。

 何を気にしているんだろう。全てが終わった今となっては、もはやどうでもいいことなのに。


「ああ、でも、椎名くんは少し遅れるかもって言ってました」

「……え? 来るの?」


 絶対に来ないと思っていた――その驚きから、思わず声に出してしまっていた。


「何か問題があるんですか? 菅原先輩」


 皆の視線が一斉にこちらを向く。中でも、皆川さんは睨み付けるように怖い顔でわたしを見た。


「ううん、そうじゃないの。ただ、今日は用事があるって聞いてたから」


 皆川さん以外は、咄嗟の笑顔と嘘で誤魔化すことができたと思う。だけど彼女は、彼女だけは信用ならないという顔で、ずっとわたしを睨み付けていた。

 もしかしたら、天童さんが何か話したのかもしれない――そう思った時、部室の扉が開いた。


「すみません、遅れました!」


 急いで来たのか、彼の額には汗が浮かんでいた。それでも、いたって普段通りに見える。

 まるで、何もなかったみたいに。


「あ、椎名くんも来たね。じゃあ、始めようか」


 部長が言ったのをどこか遠くに聞きながら、わたしの視線は思わず陸に釘付けになった。

 不意に――視線が重なる。

 そして、あろうことか彼は、わたしに笑いかけたのだ。


「――っ!」


 すぐに視線は逸らした。けれど、心臓が早鐘のように鼓動を打つ。

 だって――ありえない。あれだけのことがあった後で、わたしにまた笑いかけるなんて。

 確かに昨日は、かなりのショックを受けていたはずだ。それなのに、今日はもう、何食わぬ顔でわたしの前に現れた。

 ただの能天気なら、まだいい。でも、そうじゃなかったら……?


「……紗己子、大丈夫? 真っ青だよ?」


 隣に座る泉にそっと声をかけられて、今がミーティングの真っ最中であることを思い出す。


「……ごめんね、何でもないよ」


 泉に囁き返して、なんとか前を向く。

 今はちゃんと集中しないと――……




 得体の知れない恐怖に、酷く怯えた。

 自分が何か、大きな失敗をしてしまった気がして。

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