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「紗己子」


 ある日のこと。部活を終えて家に帰ると、迎えたのは祖母ではなく父だった。

 まともに顔を合わせるのはどれだけ振りだろう。あまりにも久しぶりなので、わたしの父親はこんな顔だったか、とまじまじと見つめてしまった。


「なんだ? 驚いたような顔して」

「……別に。久しぶりだね、お父さん。何しに来たの?」


 貼り付けたような笑顔で、冷たく答える。

 しかし、父はそんなわたしにすら鷹揚に笑ってみせた。


「おいおい、娘の顔を見にくるのに理由がいるのか?」


 これだ、この顔。この男が厄介な理由。一見、人当たりだけは良い。だからみんな騙される。母も、祖父母も、かつてのわたしも。


「それに今日は母さんの月命日だろう。今まで仕事の都合がつかなくてすまなかったが、今日はみんなで母さんを偲ぼう」


 何を今更。白々しい。

 この男の言動は最高にわたしを苛立たせる。さすが陸の父親。とはいえ、あの子とは質の違う気持ち悪さだけれど。


「そんなの別に気にしてないから。お父さんは、早く再婚してもいいんだよ。わたしはおばあちゃん達の養子になるから」

「何馬鹿なこと言ってるんだ。そんな気当分ないよ。父さんには母さんだけで十分だ」

「……そう? ならいいけど」


 わたしは小さく言って、早々に自分の部屋に逃げ込んだ。

 あの男の前では、何も知らないふりも楽じゃない。あのままいたら、全部ぶちまけてやりたくなる。

 もう少しの我慢だ。もうすぐ、全てが終わるのだから。




 何も知らない祖父母は、仕事を抜けて顔を出した父を歓迎した。

 祖母はいつもに増して張り切って、豪勢な料理で裏切り者をもてなした。それを美味しいと言って口にしながら、父は一体何を考えているんだか。

 さっさと愛人の女と再婚しないのは、この家の遺産を狙っているからなのか。わたしの中には、父に対する疑心ばかりが渦巻く。

 四人で囲む食卓は、まるで茶番劇だ。全てが嘘、偽り。それはわたしと陸みたいに。




 陸がわたしを自分の家に招待してくれたのは、翌週の日曜だった。

 天候は生憎の曇り空。いつものように友達と遊びに行くと言うと、祖母は傘を持たせてくれた。

 「あまり遅くならないのよ」と言った優しい祖母は、会っているのが友達ではないと気付いているのかも。

 けれどもそれが本当は異母弟で、わたしが彼に何をしようとしているのか、そんなことは善良な祖母には思いもしないことだろう。

 この復讐が終わったら、わたしは自らのエゴと引き換えに残った全てを失うかもしれない。優しい祖母も、大切な親友も、この何不自由ない生活も。

 そんなことを考えるわたしは――もしかして、迷っている?


「今ならまだ、間に合いますよ」

「え?」

「いや、だから、次の上映。どうしますか?」


 我に返ったわたしは、自分が今いる場所を思い出して首を振る。


「やっぱりお腹すいちゃったな。先にご飯にしよう」

「じゃあ、お店は任せてもらっていいですか?」

「うん、任せるよ」


 わたしはそう言って腕を絡め、本物の恋人同士のように歩き出す。

 馬鹿な考えだ。今更やめる、なんてあり得ない。




 陸の家は、わたしの家から普通電車でたった二駅のところにある、高層マンションだという。駅からは徒歩圏内で、快速電車も停まる駅の周囲は、わたしの家の近所よりはよほど栄えている。

 駅前にはシネコン併設の大型ショッピングセンターがあり、わたしたちは先にそのレストラン街で昼食を済ませることにした。そして、映画を見るという定番デートの後に、陸の家に向かう予定だ。

 わたしの心は、変に高ぶっていた。これまでは全部復讐への準備で、これからやっと全てが始まり――終わる。そう思うと、何故か少し息苦しい。

 大丈夫。きっと全部上手くいく。

 さっきからそう言い聞かせ続けているのに、息苦しさは消えるどころか増すばかり。


「あまり好きじゃなかったですか?」


 レストランの中、パスタを食べる手を止めて、陸が心配そうにわたしを見た。

 彼が選んだのは、洒落た雰囲気のイタリアンのお店。年下の癖に、生意気だとは思う。


「ううん。そんなことないよ。美味しい」


 わたしは微笑んで答える。確かに味は美味しい。けちをつけるところなんてない。


「そうですか、良かった。ここのボロネーゼ、昔から大好きなんです」


 陸は無邪気に言う。わたしに気に入ってもらえたのが嬉しくて仕方ない、そんな顔で。


「へえ。わたしもたまに作るけど、こんなに美味しくは作れないや」

「えっ……先輩、料理するんですか?」

「普通にするよ? 失礼だなぁ」

「すみません! お嬢さまだからしないのかと」


 息苦しさも忘れて、わたしは笑ってしまった。時々、陸は気の抜けるようなことを真面目に言うから困る。結構天然だと思う。

 この子は、天童さんじゃなくても、きっと誰からも好かれる。そんなところが嫌いだった――羨ましかった。


「いいよ。別に怒ってない。ていうか、お嬢さまじゃないってば。お手伝いさんとか、今はいないし」

「今はってことは、前はいたんですか?」

「うん。昔ね、お母さんと住んでた頃」


 意味深な言葉に陸が首をかしげたので、わたしは言った。ただ淡々と、感情を込めないように。


「死んだの、去年。今は母方の祖父母と住んでる」

「……そうなんですか、なんかすみません」


 わたしの話の中には、不自然なほど父親の影が見えない。けれども、陸はあえて詮索しようとはしなかった。

 気を遣ったのだろう。別に聞いてくれても良かったのに。どうせもうすぐ、教えることだ。


「気にしないで。もう吹っ切れてるから」


 空々しい大嘘には、最早自分で笑える。吹っ切れている人間が、復讐なんて愚かなこと、考えるもんか。




 食事を終えたわたしたちは、予定通りに映画を見た。流行りの恋愛映画はどこか陳腐な結末で共感はできなかった。

 けれども、陸や周囲にいた客の何人かは泣いていたようだったから、やっぱりわたしがおかしいのかもしれない。

 そして――映画を終えたわたしたちは、遂に陸の家へと向かう。




 二人手を繋いで歩いて、まもなく陸が住むマンションに到着した。見上げると二十階以上はあるだろうかと思った。そう、ちょうど、わたしが母と住んでいたのもこんなマンションだったような気がする。


「多分母さんがいますけど、あまり気にしないで下さい。どうせ、夕方から出かけるって言ってたし」

「そんな、ご挨拶しなきゃ。付き合ってるんだもの」

「いや、なんか、恥ずかしくて」


 二人きりのエレベータの中、陸は気恥ずかしそうに視線を逸らした。


「お父さまはいらっしゃらないの?」

「さあ、多分。あんまり帰ってこないんです。会社に泊まっていることが多いみたいで」


 陸の言葉は意外なものだった。

 てっきり、あの男はこの家に入り浸っているものと思っていた。仕事というのは本当だったのか、それとも、他にも女がいるのか。

 いや、それはないはず。あの男のいく先々は全て調べたのだから。


「ただいまー」


 陸が持っていた鍵で玄関の扉を開ける。その声と音に反応したかのように、奥からパタパタとスリッパの音が聞こえた。


「あら、お客さまなの? 陸」


 廊下からわたしたちを迎えた陸の母親は、息子から何も聞かされていなかったみたいだ。驚いたように目をぱちくりさせながらわたしを見、そして陸へと視線を移した。

 父親の愛人――目の前の女のことは、以前から一方的に知っているが、間近で見るのは初めてだ。ふわりと柔らかな雰囲気のある、見た目はおっとりした女。どこか母と似ている、そう思ったのは気のせいではないかもしれない。


「そう、部活の先輩」


 陸は少しぶっきらぼうに言った。

 まあ、嘘ではない。


「菅原紗己子です。お邪魔します」


 わたしは軽く頭を下げ、目の前の女を見た。正直言って、父がこの女にどんな風に話しているのかまでは分からない。

 もしかしたら、父の娘だと気づくかも。


「……まあ、可愛らしい。どうぞあがって下さいな。たいしたおかまいもできませんが」


 一瞬、間があった、ような気がした。

 けれど陸の母親はそれ以上何も言わず、陸の部屋へと向かうわたし達を微笑みながら見送っただけだった。

 まるで絵に書いたような、優しい母親。

 その実態は、ただの愛人に過ぎないというのに。


「お母さまに言ってなかったの? 付き合ってるって」

「だって誰にも言わないって、先輩との約束だったから」

「……ああ、そっか。そうだったね、ごめん」


 陸の部屋は八畳くらいの、普通の部屋だった。きちんと整頓されていて、フローリングの床に物が落ちているなんてこともない。部屋のまん中に置かれた低いテーブルの前に腰を下ろしながら、わたしは自然と笑みをもらした。

 そういえば、そんなことも言った。親にまで律儀に守ってくれているなんて、本当に可愛い。

 一方で陸は、少し落ち着かない様子だった。初めて彼女を部屋にあげて、緊張しているのだろうか。そんなことはお構いなしに、わたしは陸の部屋を眺める。

 初めて入る男の子の部屋は、当たり前だが、自分の部屋とは違う匂いがする。陸は男の子なのだと、今更ながらに思い出した自分に内心苦笑してしまう。


「ゲームでもしますか?」


 沈黙に気を遣ったかのような陸の言葉に、わたしはゆっくりと首を振った。

 もうすぐ終わる偽物の時間。それはすぐそばに迫っている。無知で愚かな可愛い弟は、その時どんな顔を見せてくれるだろう。

 不思議だ。いつのまにか、息苦しさは小さな胸の痛みに変わっている。緊張している時に、こんな風に胸が痛むなんて知らなかった。


「わたし、あれが見たいな。アルバム」


 チクチクとした正体不明の痛みに気づかないふりをしながら、わたしは本棚を指差した。

 本や漫画が並べられる棚の中で、差し込まれるように無造作にアルバムが置かれている。


「え? いいですけど、別に面白くなんかないですよ?」


 そう言いながらも、陸はアルバムを持ってきて、わたしの前で開いてくれる。

 それは思った通り、幸せな家族の写真が詰まっていた。

 七五三、入学式、運動会、家族旅行、その中にわたしの父親と同じ顔をした男を見つける。分かってはいたけど、自分の父が他の子供の父親のような顔をして写っているのはやはり気分のいいものではなかった。


「これ、水泳の大会? 優勝したんだ、すごいね」


 家族写真の他に多かったのが、陸が水泳をやっていた時の写真だ。まだ幼い陸が優勝トロフィーを持ってはにかんでいる。


「……可愛いな」


 わたしは、無意識に呟いた自分に気づかなかった。


「せ、先輩!? 大丈夫ですか!?」

「え? 何が?」

「何って……」


 目の前で狼狽する陸を見た時、自分の顔に違和感を覚える。不思議に思って手を伸ばすと、触れた指が濡れていた。


「あれ、わたし……変だな。ごめんね。なんでも、ないの……」


 泣いている? わたしが? 分からない。理由なんてない。

 自分で自分に戸惑って、心配そうに覗きこむ陸から顔を背けた。

 とりあえず落ち着こう、そう思って。

 だって、こんなところで意味不明に泣いている場合じゃない。わたしは今から目の前の男を傷つけるために、そのためだけに、今までやってきたのに。


「先輩、泣かないで」


 しかし、陸の言葉と共に、わたしは彼の方へと引き寄せられる。


「ごめんなさい。俺が無神経でした、お母さんを亡くしたばかりだったのに」

「違うよ……違うから……」


 後ろから抱きすくめられた腕の中で、わたしは必死に言う。

 同時に、遠くで玄関の扉が閉まる音が聞こえた。


「好きです、先輩。お母さんの代わりにはなれないかもしれないけど、俺がそばにいます。これから先も、ずっと」

「……違うの。わたし」


 わたしは、あなたのことなんか好きじゃない。

 しかしそれは、言葉にならなかった。

 陸が唇が、開きかけたわたしの口を塞いだからだ。


「……っん」


 それは今までで一番荒々しく、わたしの奥を揺らした。

 何もかも、全部、忘れそうになる。

 彼がわたしから奪ったものを、わたしのつみを。


「し……なくん、待って」


 陸の手がわたしの胸へと伸びる、そこでようやくわたしは彼を制止した。


「なに?」

「ダメだよ。これ以上は」

「俺じゃダメってことですか?」


 陸は少しショックを受けたように言った。

 そんな彼から身体を離して、真っ直ぐに見据える。

 何故か、嫌な汗をかいている。息苦しくて、胸が痛む。


「……そうだよ」


 それでも、精一杯の笑みを浮かべた。

 この失恋が、陸にとって一生の傷になるように。

 わたしのことをずっと、忘れないように。


「だって、わたしたち血の繋がった姉弟なんだもの」


 なんでも持ってるきみが、ずっと憎かった。

 これは、当然の報いなの。

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