7 整える
落ち着け――わたし。何やってるんだ。
陸は、わたしにとって単なる復讐対象。それ以前に、血の繋がった弟で、恋愛対象にはなり得ない。今の関係は、ただの見せかけ。偽物。好きだなんて、全部嘘。
それなのに、こんな――誰がどう見たって当てつけみたいなのは、どうかしている。
今はわたしがすべきなのは、好きでもない男にやきもきして腹を立てることじゃない。
そんなことは、十分分かっている。
「先輩っ……待って下さい!」
その時、陸がわたしを追いかけて部室から出てきた。
静かな廊下には、陸の声がいやに大きく響く。聞こえなかったふりもできなくて、わたしは仕方なく立ち止まる。
「 誤解です。キスしてたように見えたかもしれないけど……あれは、天童が強引に」
ああ、本当にしたんだ。と冷えた頭がぼんやりと思った。
「別に言い訳しなくてもいいんだよ? 天童さんて、可愛いじゃない」
違う。こんなことが言いたいんじゃない。
だけど、なんと言えば正解なのか。
分からないまま、わたしの口は愚かな言葉ばかり吐き出す。
「お似合いだと思うよ。彼女もきみのこと好きみたいだし」
「確かに告白はされましたけど、きっぱり断りました。俺が好きなのは、天童じゃありません。先輩なんです」
陸は、愚直なまでに真っ直ぐな瞳で見つめてくる。
それは不思議と、わたしを落ち着かせた。
浮気ではなかった――陸の言い分を信じるならば、だけれど。
――大丈夫。冷静に、いつものように、演じればいい。彼のことが好きな、彼女のふり。
「本当に? 信じてもいいの?」
「先輩が気にするなら、天童とはもう話しません。だから、信じて下さい」
文字通り、陸は必死だった。わたしもという彼女を繋ぎ止めるために、部室に一人、あの子を残して追いかけてきた。好きなのはわたしだ、と言って。
それが何故かどうしようもなく気持ちいい。きっと、それはこの計画が限りなく順調だからだ。この哀れで愚かな弟が、滑稽で可笑しい。
この先――どうせきみは思い知るのに。全ては嘘で偽りで、きっと絶望しか残らない。
だから、今だけは許してあげる。かわいそうなきみを許してあげる。
たとえ故意でなくとも、他の女とキスしたことを。
「話もしないなんて、そんなことしなくていいよ。ごめんね、みっともなかったよね。でも本当に誤解で良かった……わたし、嫌われちゃったのかと」
好きあっている恋人同士なら、嫉妬するくらいは普通のことだ。何もおかしくなんかない。
イライラしたのは……暑さで少し、疲れていただけ。
「嫌いになるなんて、そんなわけないじゃないですか。それに俺、本当はちょっと嬉しかったんです」
「……嬉しい?」
首をかしげたわたしに、陸は幼くはにかんで見せた。
「だって……妬いてくれたくれたってことは、俺のこと好きでいてくれてるってことじゃないですか!」
嬉しそうな陸に、あえて違うとは言わなかった。
これは「役」だから。これでいいのだ。わたしは何も間違えていない――全部上手くいっている。
自分にそう言い聞かせることにばかり必死になって、わたしは考えることを避けた。
それから一週間、陸とは元通りに付き合い続け、わたしはことが思い通りに運んだことで上機嫌だった。
万が一、陸を天童さんにとられるようなことになっていれば、復讐にも支障をきたす。でも、そうはならなかったわたしは天すらも味方につけている。もしくは、陸をべた惚れにさせるほどのわたしの演技力の賜物だ。
しかし、このまま陸とただ付き合い続けるだけでは意味がない。この交際の目的は、異母弟と疑似恋愛をすることではないのだ。
陸はひたすらわたしをちやほやしてくれるから、それはそれで心地よかったのだけれども……そろそろ次の一手を考えなければならないだろう。
そんなことを考えていた、ある昼休みのことだった。
「さっき購買で天ちゃんに会ったんだけど、放課後屋上に来て欲しいって」
パンを買って教室に戻ってきた泉が、わたしの前に座りながら言った。
「え? わたし?」
思わず聞き返す。ここ数日、彼女のこともその存在も、すっかり頭になかった。蹴落とした女のことをいつまでも考えているほど、暇ではないのだ。
「そう、紗己子。わざわざ部活の前に、って何かな? 心当たりある?」
「さあ、進路相談かな? 一年生は文理選択あるし」
わたしは適当なことを言ってうそぶいた。
泉さえも、不審に思っている。先輩をサシで呼び出すなんて普通はない。というか、かなりいい度胸。
もちろん、用件は容易に想像がつくが、泉にも怪訝に思われるし、迷惑なことに変わりはない。
「……そう言えば、天ちゃんって椎名くんにはふられてるらしいよ。付き合ってなかったって」
「そう……なんだ?」
満面の笑みで言われて、わたしは少し困惑する。良かったね、と言わんばかりに、泉はにこにこだった。
そもそもそういう話題をどこで仕入れてくるのか、謎だ。わたしが噂話というものに疎いから、そう思うのかもしれないが。
「案外、椎名くんの話だったりするんじゃない?」
「どうして?」
「だって、天ちゃんがふられたのは多分紗己子がいるからじゃん。付き合う気がないなら、彼には近づかないでとか、そんな感じの」
泉の想像はほとんど当たっているだけに、全く笑えなかった。
実は泉は全て気付いているのではないかとすら思う時がある。正直、最後まで隠し通せる自信はない。
まあ……ばれてしまった時は、その時だ。
泉はわたしを軽蔑するだろうが、それを含めても復讐を選んだのは自分なのだから。
放課後の屋上は最高に暑かった。その暑さゆえに、夏は近寄る人がほとんどいない。それを理由にこの場所を指定したのかと思うほど。
「天童さん?」
先に来ていた天童さんは、わたしの声に顔を上げた。
彼女と同じく、わたしも比較的涼しい物影に入る。必然的に距離が近くなった。
「……ああ、先輩、お待ちしてました。わざわざお呼び立てして、すみません」
「いいけど……用件は何かな?」
すみませんと思うなら呼びつけるな、とは思う。
「単刀直入に言いますけど、陸くんのことです。一体彼に何を言ったんですか? 急にあたしを避けて――」
「えっと……椎名くんのことなら、本人に聞いた方がいいんじゃないかな?」
「とぼけるのはいい加減にしてください! あたし、知ってます。陸くんは先輩のことが好きなんです!」
そんな、泉でも知っているようなことを得意気に言われても困る。
「それなのに、先輩は陸くんをふった上にいつまでも彼を振り回して……あなたに、彼を縛る権利なんて何もない!」
わたしと陸が本当は付き合っているということを知らなければ、天童さんの言い分は至って正論だ。
しかし、それを何の関係もない部外者に言われる筋合いはない。
このまましらを切り続けても良い。その方がどちらかといえば、わたしの対外的なイメージは守れる気がする。
穏やかで、控えめな、資産家の令嬢。腹の底で渦巻く黒い感情を隠して、ここ数年わたしが作り上げてきた虚像だ。
壊すのは勿体ない……でも、この子は邪魔だ。
「どうしてそんなこと、天童さんに言われなくちゃならないのかな。わたしに命令する権利なんてあなたにないでしょ。ていうか、ふられたくせに図々しいのはそっち」
「なっ――……!」
わたしの言葉に天童さんは顔を赤くした。
「何年も近くにいたのに、何もなかった時点で諦めた方がいいんじゃないかな。陸言ってたよ? 無理矢理キスなんてされて迷惑だって」
少々言いすぎな気はしたけれど、これくらいは言わないと。
もともと、既に蹴落としたと思っていた女だ。それがこうして、わたしの邪魔をしに来た。
今度はわたしに歯向かおうなんて気を起こさせないように、徹底的に潰しておかなければいけない。
「陸がわたしのことを好きだって、気づいているんでしょう。だったら、天童さんの出る幕はないよ。みんなには内緒にしてたけど、わたしたち本当は付き合ってるの」
「え? で、でも……陸くんは」
「周りに気を遣われるのが嫌だから、黙っていただけ。これで納得した? わたし、陸を振り回してなんかいないし、彼もそう思ってないよ」
そしてわたしは、最後に優しく諭すように言った。
「わたしたちのことは、天童さんも内緒にしてね。そうすれば、あなたが陸にしたことは誰にも言わないし、忘れてあげるから」
天童さんからは、その後生意気な言葉が出てくることはなかった。
酷く憔悴したような顔で立ち去って行く彼女の後ろ姿を見ながら、自然と笑みがこぼれる。
きっと彼女は、大いに傷ついていることだろう。
――だけど、悪く思わないでね。
全てはわたしの復讐のためだから。そのためなら、わたしはなんだってできる。
わたしのような悪女より、本当はきっと彼女のような子の方が陸には相応しいだろう。
だから、全てが終わったその時は彼女に陸を譲ってあげてもいい。
もっとも――その時の陸が、今と同じとは限らないけれど、ね。
「先輩、今日はなんだか機嫌がいいですね」
陸が言ったのは、帰りの電車の中だった。
結局あの後、天童さんは部活に来なかった。その理由は明白だったが、何も知らないふりをしてとぼけておいた。
わたしとしては、かなり気分が良い。
「えー? 分かる? 夏休みの旅行、楽しみなんだ」
「次の旅行は泊まりなんですよね」
「そうそう」
「行き先はどこに決まりますかね……やっぱり、部長の案が有力かな……」
夕方の電車は、帰宅するサラリーマンや学生で少し混雑していた。わたしたちは、離れないように手を握りながら、会話に花を咲かせる。
「どこでもいいよ。椎名くんと一緒なら」
不意に電車が傾いて、わたしは扉に寄りかかる陸に体重預ける。
「……先輩」
吐息が鼻にかかりそうなくらい、二人の顔が近づいた。
わたしは、周りの乗客に聞こえないように、陸の耳に口を寄せる。
「……好きだよ」
囁くように言えば、うぶな陸はすぐに顔を赤らめた。
「俺も……です」
「ふふふ」
わたしは穏やかに微笑んだ。
もう邪魔者もいなくなった。全て、上手くいっている。
そろそろかな、と思う。
「ねぇ、椎名くん。お願いがあるんだけど」
「なんですか?」
無邪気に首を傾げる陸に、わたしは言った。
「今度、お家に遊びに行ってもいい?」
「え? うちですか? 別に構わないですけど……」
「本当? 嬉しいな。楽しみにしてるね」
こうして寄り添っても、人の心なんて見えやしない。そんな不確かなものを信じているなんて、本当に滑稽で笑える。
「椎名くんの育った場所を、一度見てみたかったの」
それはある意味、嘘偽りない本心だった。
――退屈な茶番劇はもう終わり。さあ、復讐を始めましょう。