6 妬む、嫉む
初めてのキスは大好きなあの人と――なんて、人並みに乙女な夢に憧れていた。そんな幼き日を今ではすっかり懐かしく思う。
夢と現実、という言葉がある通り、やはり夢は夢でしかなかった。だからといって、初めて付き合った相手が血の繋がった弟だなんて、あの頃のわたしは想像もしなかっただろうけれど。
とはいえ、あれから陸との交際は順調だ。何度かデートを重ね、これといった喧嘩もない。しかし、それは当然のこと。わたしはただ演じているだけなのだから。
わたしたちは偽りの絆を深めていく。全てが思い通り――上手く行きすぎて、怖いくらいだった。
「ちょっと、紗己子! 私、すごいもの見ちゃったんだけど!」
その日、泉は朝から異様にテンションが高かった。
ホームルームが始まる前に、今日の予習をするわたしの机にやって来て、興奮したように言った。
「椎名くんって、天ちゃんと付き合ってるの?」
声を落として、わたしの耳元で囁くような泉の言葉はそれなりに衝撃だった。
天ちゃんとは、旅行研究同好会の三人の一年生部員の一人――天童美咲の愛称だ。その彼女が、陸と付き合っている?
あまりにも馬鹿げた質問だ――わたしはそう思って、つい答えてしまった。
「……そんなわけないでしょ」
「だよねぇ。椎名くんは紗己子が好きなんだと思ってたし」
「……それは、知らないけど」
真顔で言った泉を冷静にかわす。未だに、陸と付き合っていることは周囲には秘密だった。
「それで、何を見たの?」
付き合っているのかと勘違いするほどのことだ――多少の予想はしていたけれど。
「それがね……キスしてたの! 校舎裏で!」
「……へえ」
「なんかショックだなぁ。私、椎名くんと紗己子がくっついたらいいなって思ってたのに」
想定内? いや、想定外の展開だ。これは。
「そんなんじゃないってば。弟みたいなものなんだよ」
何度か繰り返した言い訳を無意識に口にしながら、衝撃の余韻がいつまでも消えない。
陸が――浮気?
「 まあでも……椎名くんって、同級生の間で人気あるらしいしね。告白されたら、付き合っちゃうのかもー」
泉からもたらされた知らせは、授業が始まった後もいつまでもわたしの頭の中を支配した。
陸が浮気なんて、あり得ない……と思う。
そういう器用な男には見えないし、昨晩の電話でも普段通りだった。彼は今も、わたしのことが好きなはず。
だけど、キスするなんて――外国人じゃないんだから、普通じゃない。もし、もしも本当に浮気だったら?
わたしは彼女として、どう振る舞うべきなのか。
もやもやとした感情が、ぐるぐると巡り続ける。
そんな思考の中に、わたしを呼ぶ声がした気がした。
「……、……菅原さん、聞いていますか?」
我に返って顔上げた時には、数学の教師の不機嫌な顔と、クラス中の好奇の目がわたしに向けられていた。
黒板には数学の問題。どうやら――たぶん、当てられている。
「菅原さん? 体調が悪いの?」
「……いえ、大丈夫です」
「なら、前に出て問題を解いて下さい」
視線を下に落とすと、ノートに書いた文字が途中で止まっている。一体いつからこの状態なのかも思い出せなかったが――仕方ない。
わたしは小さく「はい」と答えて、立ち上がった。途中、泉が心配そうにこちらを見ていたから、大丈夫と笑って見せる。
予習をしていて良かったと、この時ほど思ったことはない。
無事に問題を解いて席に戻れば、一気に安堵感がやって来た。一応、わたしは推薦も狙っている。受験まではまだ一年以上あるとはいえ、手を抜くことはできない。
こんなこと、わたしらしくもない。陸なんかに気をとられるなんて、馬鹿馬鹿しいことだ。
とりあえず、何も知らないふりをしておけば良い。知らなければ、問いただす理由もない。
別にわたしは、陸のことが好きで付き合っているわけじゃないんだから。彼がどこで誰と何をしていようと、気にすることじゃない。
わたしはそこできっぱりと考えるのをやめた。おかげでその後は、授業中に集中力を失うこともなく済んだのだが――それも、放課後になるまでのことだった。
その始まりは、泉の言葉から。
「紗己子ごめん! 今日、部活行けなくなっちゃったの。先輩に伝えといてもらえる?」
「いいけど、どうしたの?」
最近では日に日に暑くなり、夏休みも近くなってきた。
夏休みに行われる旅行は、旅行研究同好会最大のイベントといってもいい。泉とは、そのプランを一緒に考えるという約束をしていた。
「委員会の仕事、今日までだったの忘れてたの。本当にごめんね」
手を合わせて必死に謝る泉に、「気にしないで」と言って、わたしは一人で部室に向かった。
泉は今年度から美化委員会に入っている。これまでは忙しそうにしている泉を呑気に眺めているだけだったけれど、わたしも推薦を狙うなら委員会にでも入った方が良いのかもしれない、と考える。
それか、生徒会活動とか。どうせ、暇な部活だし――時間ならある。
そんなことを考えなから部室の前に着いて、わたしはいつものように扉を開けた。
「あっ! 菅原先輩、こんにちは!」
瞬間――弾けるような笑顔がわたしを迎えた。
「……早いね、天童さん」
わりと最悪なタイミング。疑惑の渦中にいる人物に鉢合わせするなんて、考えずにはいられなくなる。しかも、部室には二人きり。
それでも最初は、頑張って忘れようとしたけれど。
「……今日は皆川さんと一緒じゃないんだ?」
「そうなんですよ。茉奈ちゃんは、家の用事で来れなくって」
一年生部員は、陸の他には二人の女子。それが天童さんと皆川さん。旅行好きな皆川さんが仲良しの天童さんを誘った経緯もあり、二人はいつも一緒に行動していた。
部活に来る時も、二人は一緒。少なくともわたしはそれしか見たことがない――だから、余計な邪推をしてしまう。
もしかして、陸を待っているんじゃないの?
「天童さんって、彼氏とかいるの?」
わたしは唐突に切り出した。
やめておけばいいのに、何故か地雷原に踏み出そうとするの止められない。
これ以上、陸の浮気疑惑については考えないようにする。そう決めたはずだったのに。
「えっ!? あたしですか? いないです!」
「そうなんだ? 意外だね、可愛いのに」
お世辞ではない。天童さんは取り立てて美人というわけではないが、愛嬌がある可愛い系だと思う。積極性もある。
だけど、陸の好みだろうか?
「いえ、あたしなんて全然。先輩こそ、付き合っている人とかいるんですか?」
「……いないよ。今はそういうの、いいかな」
「本当ですか?」
否定したわたしを、まるで疑うように見る。陸との関係を知っているみたいに。
「あたし、付き合ってはいないけど……好きな人はいます」
直感する。おそらく陸のことだ。
陸が好きで彼を見ているのならば、泉のように陸の気持ちにも気づくに違いない。だからわたしを敵視する。
もちろん、表面上は笑っている。それはわたしも同じだから、よく分かった。
「そうなんだ、片想いなの?」
何も気づかないふりをして言えば、天童さんは「今はまだ」と小さく言い、そして――――
「でも絶対、振り向かせて見せますから。だから、その気がないなら陸くんのことはもう放っておいてあげて下さい」
「ごめん……よく分からないけど、天童さんは椎名くんのことが好きってこと?」
部室の扉が開いたのは、わたしが取り繕った笑顔で、首を傾げて見せた時だった。
「あ……陸くん……」
陸の姿を見た途端、天童さんは何事もなかったかのようにわたしから顔を反らした。
「先輩……こんにちは。天童も来てたんだ?」
陸も陸で、わたしたち二人を見てどこかばつの悪そうな顔をする。
やはり、キスをしていたという泉の話は、見間違いでもなんでもなく、本当の話のように思う。少なくとも、何かある。
「珍しい組み合わせでしょ? わたしたち」
「確かに、そうですね。天童はいつも皆川と一緒だから」
わたしは微笑んで、陸を部室の中に招き入れる。
そして、部室の中央に並べられた机の、天童さんの隣の席を敢えて勧めてあげた。
「いつも一緒なんて、大げさだよ。確かに、茉奈ちゃんとは小学生からの付き合いだけど」
「……そんなに長いの?」
「はい。小学生の時に、スイミングスクールで仲良くなって、それからずっとなんです」
天童さんは、わたしにも愛想よく答えた。先程の挑戦的な発言は幻かと思ってしまうほど。
それでも、わたしと違って純粋なんだろう。表面上わたしと陸は付き合いを隠しているから、彼女には好きな男の子をその気もなく誘惑する悪女に映る。
ある意味それは事実だが、そんなことに憤って、先輩であるわたしにも怯むことなく向かってきた。純粋で、無垢で、馬鹿正直。
それはわたしが捨ててきたものなのに、どうしてこんなに苛立ってしまうのだろう。
「スイミングかぁ、懐かしいね。わたしも少しやってたよ。とっくに辞めちゃったけど」
「あたしは、中三の夏までやってました」
「もしかして、選手コースとかで泳いでたの? すごいね」
「まぁ……でも、市レベルでそこそこな感じだったし。先がないなって思って辞めました。だから、陸くんみたいな才能が羨ましかったです」
不意に視線が陸へと移る。すると、陸はまたもばつが悪そうに顔を背けた。
「才能とか言い過ぎ。運で勝ってただけだから、俺は」
「ああ――もしかして二人は、同じスクールだったの?」
「はい。びっくりしました……陸くんが同じ高校で、同じ部活だった時は。まさか水泳を辞めてるなんて」
どうやら、天童さんはただのクラスメイトではなかったようだ。何年の付き合いになるかは知らないけれど、確実にわたしのそれよりは長い。
「絶対に振り向かせる」――なんて自信は、過ごした時間の長さから?
だけど、それはあなたの勘違いだから。
「ねえ、陸くんは何で辞めちゃったの? 本当にこの先もやらないつもりなの? 全国の表彰台も狙えるって、コーチ達も言ってたのに」
「まあ、いいじゃん俺の話は。過去の話だよ」
ムカつく。その、自分だけが陸くんの過去を知ってます感。
陸も陸だ。こんな子とキス、なんて。浮気もいいところ。
「いいじゃない。さっきも、二人で椎名くんの話をしてたんだよ?」
「え? 俺、ですか」
ああ――ムカつく、ムカつく、ムカつく。
わたしの二人への苛立ちは募るばかり。
まさか、と驚いた顔をした天童さんが目に入ったけれど、構わず言ってやった。
「今朝、二人が校舎裏で一緒にいるところ見たの。隠すなら、もっと上手くやった方がいいよって」
言葉を失った二人をよそに、わたしは用事を思い出したと言って部室を出た。
日の当たらない廊下のひんやりとした空気が、わたしの頭を現実へと引き戻していく。
途端に、酷く動揺した。
急に用事なんて、わざとらしいにもほどがある。いや、そうじゃない。そうじゃなくて。
動悸が収まらない。自分でも分からない。
――わたし、一体何をやっているの?