5 堕ちる
気持ちを見透かされた動揺の中、愚かしい考えが頭をよぎった。それは、手にしてはいけない禁断の果実だ。
ああ、でも。なんて、美味しそうなんだろう。
「好きになってなんて、贅沢は言いません。俺が好きでいるぶんには、問題ないでしょ?」
健気なのか、独りよがりなのか。甘い綺麗事ばかり吐き出すその口にやはり苛立つ。
少しは落ち込んだそぶりも見せればいいのに、そんなところは全くない。
むかつく。もっと傷つけばいい。絶望すればいい。
「そこまで言うなら、試してみる?」
「え?」
目を見開いて、驚いたような陸の顔が可笑しい。
「見返りを求めないなんて、虚しいでしょう? わたしを本気にさせたら、きみの勝ち」
きみを好きになるなんて、天地が引っくり返っても、ない。
だけど、好きになったふりならできる。優しい先輩が、優しい彼女になる。
どうして今まで考えなかったのだろう。
それが一番、きみを傷つける効果的な方法だ。道徳や倫理を犯す、覚悟さえあれば。
「いいんですか? 俺、本気にしますよ」
「……いいよ。部長のこと、忘れさせて?」
都合よく優しい男にすがる、傷心の女のように微笑む。忘れてしまいたいのは、嘘じゃない。
だけど、かわいそうな子。この勝負は初めから、どちらに転んでもきみの負けが決まっているのに。
帰りの電車の中、夕焼けに染まった湘南の空が遠ざかっていく。
隣に座った泉は、始終ご機嫌だった。
付き合い始めたばかりの彼氏との初旅行は満足のいくものだったようだ。のろけたくて仕方なさそうな泉だったが、わたしに気を遣ったのか部長とのことはあまり話さなかった。
「ねぇ、紗己子は今日どうだったの。水族館で椎名くんといたでしょ。もう告白された?」
不意に直球がきて、どきりとする。
「そんなんじゃないよ、本当に。弟みたいな感じ」
「でも絶対、紗己子のこと好きだと思うんだよね」
「そうかなあ」
「もう。紗己子ったら」
陸とわたしの関係は誰にも言わない。それがわたしが陸と付き合う上での条件。
無自覚小悪魔だと言うなら、そう思わせとけば良い。どうせ長くなる関係でもないのだし。
「わたしのことより、泉はどうだったの。キスくらい、したの?」
からかうように言えば、純情な泉は顔を真っ赤にして俯く。
そしてぽつぽつと語りだした惚気話を聞きながら、わたしは自分が意外と冷静でいることに気づいた。
不思議とあの焼けるような嫉妬は感じない。ただ自分との違いに笑えてくる。
復讐の先にあるのは、幸せなんかじゃない。そんなことは分かっているけれど、許せなかった。
きみだけが、幸せになるなんて。
付き合い始めてからの陸は積極的だった。
内緒にするという手前、部活では今まで通りだが、家に帰れば毎晩のように電話をした。
話す内容はいつも似たり寄ったり。学校での出来事とか、テレビの話題。そして陸は、たまに自分のことも話した。
「ねぇ、椎名くん。電話代とか、大丈夫?」
毎回かけてくるのは陸からだったから、少し気にかかっていた。クラスでは、電話のし過ぎで親に携帯を取り上げられたという子の話を聞かなくもない。
『大丈夫ですよー。うちの親、俺に甘いから』
親の話が陸の口から出たのは初めてだった。あの人間のクズのような父親か、それとも泥棒猫の母親だろうか。
「椎名くんの家って……もしかして結構お金持ち? なんて」
『どうですかね。普通だと思いますよ。でも、どうして?』
「大したことじゃないの。なんとなく育ちが良さそうだなって思って」
自分で言っていて笑えた。汚らわしい二人の間に生まれた子供の育ちがいいとか。
『菅原先輩こそ幼稚園から私立のお嬢さまって聞きましたよ? 俺なんか高校からの外部だから、全然』
「お嬢さまじゃないよ、別に。母の実家が小金持ちってだけで」
母の実家はもともと資産家だったし、母が箱入り娘だったことは疑いようがない。けれどわたしは母方の祖父母には可愛がられてきたものの、母が死ぬまで一緒に住んだことはなかった。
もちろん、裕福な生活には違いなかっただろうが、毎夜嘆きながら酒に溺れる母を見て育つ環境が、恵まれていたとは思わない。
『そうなんですか? 先輩……一年男子の間じゃ、一つ上に超金持ちで美人の深窓の令嬢がいるって噂になってて。俺、気が気じゃなくて』
陸が妙なことを言うものだから、わたしは思わず吹き出してしまった。
勝手なイメージだとは承知しているが、自分が「深窓の令嬢」からかけ離れていることは自覚している。見かけはともかく。
『……先輩?』
「――大丈夫だよ。心配しなくても、わたしはきみと付き合ってるんだから」
『でも、それは、俺を好きになってもらったわけではないし……』
陸は時々、ひどく自信がなさそうに言う。あの日、水族館でわたしの部長への気持ちを暴いてみせたのとは、同一人物には思えない時がある。あれほど自信満々にわたしを好きだと言い切った男でも、好かれるかどうかには自信がないらしい。
しかし、それも当然かとも思う。愛情や恋情なんて不確かなもの。わたしの母は、一時すらも愛されはしなかったが。
「確かに、そういう約束だったけど……わたしだって、全く好きでもない人と付き合ったりしないよ?」
電話の向こうに、沈黙が訪れた。おそらく、陸は照れて顔を赤くでもしているのだろう。
本当に、容易い。
『せ、先輩! 今度の週末、どこかへ行きませんか』
照れ隠しのように、声を張る陸はいっそ愛しくすら思える。こんな女に騙されて、愚かしくて、可愛いのだ。
「……いいよ。どこへ行く?」
『丁度と言ってはあれなんですが、遊園地のチケットがあって』
「わかった。遊園地だね。楽しみにしてるね」
陸の気合いの入りようが、手に取るように分かる。彼はわたしとの約束通り、わたしを本気にさせようとしてくれている。
今のところは、順調。あとは、わたしが、自然に陸を好きになるふりをすればいい。
ちょうど電話を切るか切らないかのところで、リビングの扉が開いた。入って来たのはお風呂を済ませたばかりの祖母で、携帯を持ったわたしを見て意味ありげに微笑んだ。
「サキちゃん、最近よく電話してるわね。もしかして、ボーイフレンドなの?」
「そんなの、まだわたしには早いよ。ただのお友達だよ」
「あらまあ、そうなの? 隠さなくてもいいのに」
ふふふ、と笑って祖母はキッチンの方へと消えた。
偽のボーイフレンド。彼は友達ですらない。
だけどそんなことは、人のいい祖母や祖父には言えなかった。二人は、父の本性すら未だに知らない。
愛人や隠し子のことはもちろん、母とは金目当ての結婚だったことも。そして母の死後、わたしを祖父母に預けたのは、仕事が忙しくまともに家に帰れないからだと、本気で信じている。
とはいえ、今後陸との電話は自分の部屋に限った方がいいだろう。
余計な詮索をされても面倒だし、何よりこの復讐に祖父母を巻き込むつもりはない。万が一わたしのやろうとしていることを知ったら、優しい二人は心を痛める。
絶対に、知られないようにしなければ。
陸との初デート日、週末の遊園地は人でごった返していた。
今月リニューアルオープンしたばかりの新しいおばけ屋敷が人気で、例年の倍以上の人出になっているらしい。
ただでさえ暑いというのに、この熱気は異常だ。人ごみ、暑さ、遊園地……わたしの嫌いなものばかり揃っている。
ちらりと隣に目をやると、陸がにこにこしながら笑いかけてきた。その目はきらきら輝いていて、何を考えているかは聞かなくても分かるような気がする。
「先輩、少し休憩しましょう。何飲みますか?」
「え?」
陸の言葉は予想外だった。
ようやく入場ゲートを通ったばかりで、まだ何もしていない。それなのに休憩とは。
「ここで待ってて下さいね」
内心首を傾げるわたしを木陰のベンチに座らせると、陸は飲み物を買いに近くの売店へと駆けていった。
確かに喉は渇いていた。だけど、そんな顔は見せていないし、もちろん口にも出していない。
「ありがとう。もしかして、気を遣わせちゃったかな……?」
しばらくして戻ってきた陸から飲み物を受け取りながら、彼の反応をみる。
「いやっ……そんな、全然!」
陸はわずかに顔を赤らめて視線を外した。
それだけで、彼の気遣いが分かる。
「でも、どうして喉が渇いているって分かったの?」
「そんなに大層なものじゃないんですけど、電車の中で流れてたジュースのCM、めっちゃ見てたから。なんとなく、そうなのかな……と」
電車のCMは覚えている。新発売の清涼飲料水が美味しそうに見えた。でも、それだけだ。無意識のうちに、そんなに凝視していなんて思わなかった。ていうか……恥ずかしい。
「え? そ、そうだっけ?」
陸といると、何故か調子が狂う。
ぼうっとしているようで、人のことをよく見ていて、鋭い。わたしが部長を好きなことも見破ったし、本来は油断ならない相手のはずなのに。
「それより、休んだら何から回りますか? やっぱり、人気のおばけ屋敷? 先輩、怖いのは大丈夫ですか?」
無邪気にパンフレットを広げる陸は、ごく普通、年相応の少年にしか見えない。分かっているのに、つい――気がゆるむ。
「大丈夫だよ。ホラーとか好きだし。ああ、でも、結構並ぶんじゃない? 他のをあまり回れなくなっちゃうかも」
「そこは気にしなくて平気です。今日のチケットは、待ち時間不要のプラチナチケットなんで」
「えぇ? そうなの?」
そういうチケットの存在は聞いたことがある。でもあまりに値段が高くて、買う人は少ないとか。
「なんだか悪いなあ。いくらだったの? 後で払うね」
「そんな、気にしないで下さい! 父の仕事の関係で、貰ったんです。俺にそれが回ってきただけで……」
「椎名くんのお父さまって、お仕事は何をされてるの?」
「あまり詳しく聞いてはいないんですけど、商社だとか」
「へぇ、チケット貰えるなんて羨ましいなぁ。わたしもそういう父親がいたらよかったのに」
「はは……そうですかね。仕事が忙しくて、小さい頃はあまり遊んで貰えなかったし。その埋め合わせなのかも」
照れ臭そうに笑う陸を見て、聞かなければ良かったと思った。
この無垢な笑顔はいっそ羨ましく感じる。どうしてこんなにもわたしと違うのか。
こういう不公平は、この世の常なのだろうか。
しばらく休んだ後、わたしたちはおばけ屋敷含むアトラクションを順に回ることにした。
プラチナチケットだけあって、すいすい進む。おかげで夕方には、八割方のアトラクションを済ませてしまった。
思ったよりも楽しめたと思う。客観的に見れば、陸はごくごく一般的な少年で、いい子なんだろう。彼といると、時々自分のしようとしていることを忘れそうになった。
忘れてはいけない。わたしは陸の腹違いの姉。この笑顔は全部偽物で、全てが復讐のための伏線に過ぎないのだ。
日も暮れかかって閉園時間も近づいてきた頃、わたしたちは最後に観覧車に乗ることにした。
静かに上っていく観覧車の中、射し込む夕日がどんどん増していく。車内が赤く染まり、窓からは地平線に沈んでいく夕日が一望できる。
「綺麗ですね」
眩しさに少し目を細めた時、隣に座った陸のうっとりしたような声が聞こえた。
「……そうだね」
わたしは素直に頷いた。確かに、絶景だ。
「今日、誘って良かったです。楽しんでもらえるか、少し不安だったから……」
「大丈夫だよ。わたし、きみのこと結構好きなんだよ?」
付き合った経緯のことで不安がる陸を安心させようと微笑めば、彼は急に真面目な顔をした。
「そんなこと言われたら、俺、勘違いしちゃいます」
「……勘違いしても、いいよ」
車内は頂上に差し掛かる。見つめた陸の瞳がゆっくりとわたしに近づいてきた。
水族館の時のような不意打ちではない。これはわたしが選んで、受け入れた。血の繋がった弟の唇。
初めは触れるようなキス。それはいつの間にか深くなって、息を紡ぐのさえ苦しくなる。わたしはただ必死に陸に応えた。
思考が溶けていくように、何も考えられなくなる―――。
しばらくして離れた二人の唇を、銀色の糸が繋ぐ。それは何故かひどく背徳的で、改めて自分の行為を思い出させた。
禁断の果実の魅力に取り憑かれた愚かな女。それでもいい。
この身がどこまで堕ちたとしても、わたしが憎んだ全てに復讐を果たせるなら。