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4 繕う

「俺、先輩が好きです」


 そう言った陸が知らない男のように見えた。自分のことを俺と言って、わたしを真っ直ぐに見つめてくる強い眼差し。ほんの一週間会わなかっただけで、何が彼を変えてしまったのだろう。


 ――違う。


 きっとこれが椎名陸という男なのだ。わたしが知らなかっただけ、知った気になっていただけ。


「先輩……? 返事は?」


 黙り込んでしまったわたしに、陸は答えを促した。

 もちろん返事はノーだ。弟とどうこうなるとか、考えられないし、ありえない。それ以前に、わたしは陸のことを好きじゃない。むしろ嫌いだ、こんな純粋培養みたいな男は。

 だけど、にべもなく断って、それで本当にいいのだろうか。わたしたちの関係は切れる、復讐のシナリオからは大きく外れることになる。


「……えっと、あの……冗談だよね?」


 わたしが咄嗟に選んだのは、現実逃避。冗談でした、そう言って陸が笑ってくれるわずかな可能性にかけた。

 あわよくば、仲のいい先輩後輩のまま……なんて。


「こういう冗談は嫌いです、俺」

「…………」


 淡い期待は、陸によってすぐさま打ち砕かれた。

 わたしに残されたのは二択。どちらも選びたくないが、それは叶わないだろう。

 何の罪もない弟に復讐なんて、きっとわたしはバチがあたったのだ。だから、こんなことになる。

 もしかしたら、神様がやめろと言っているのかもしれない。引き返すなら、今だと。


「……ごめんね」


 わたしは観念した。血の繋がった弟と――なんて、わたしにはどうしても考えられなかった。


「わたし、好きな人がいるの。だから――」

「それでもいいよ」

「……え?」


 本当は、椎名くんの気持ちには応えられない、という言葉が後に続くはずだった。


「だから、好きな人がいてもいいから」


 思わず聞き返してしまったわたしに、陸は同じ意味のセリフを繰り返す。


「返事は、もう少し考えて下さい」

「でも……」


 待ってもらっても、返事は変わらない。なんて、懇願するような陸を前にしてはとても言えなかった。




 もう少し、とはどれくらいだろうか。そんなことをぼんやりと考えながら、わたしは陸を避ける日々が続いた。

 学年が違うと、避けるということは容易く、気がつけばもう何日も陸の顔を見ていなかった。

 わたしが部活に行かないことを泉は訝しんだんだが、一緒に暮らしいている祖母の体調が悪いと言って押し通した。実際の祖母は、すこぶる元気だったけれど。


「ねぇ、紗己子。おばあさまの体調って、まだ良くないの?」

「え? ああ、おばあちゃんは……うん、あんまりね」


 ある日の昼食時、泉から投げかけられた問いに、わたしは言葉を濁す。

 なんとなくのしかかる罪悪感。わたしは祖母が今日も元気にカルチャースクールに通っていることを、知られないようにを祈るばかりだ。


「そっか。心配だね……」


 泉はわたしの家に来たことがあるから、祖母とも面識がある。だからあまり重病設定にするのは好ましくないのだが、祖母が回復したことにすると、今度は部活を休む理由がなくなってしまう。それも困るのだ。

 今、陸には会いたくない。どんな顔をすればいいか分からないし、告白の返事を聞かれると思うと気が重い。


「じゃあやっぱり、旅行も難しいよね」


 残念そうに泉に言われて、思い出す。

 気づけば、同好会の日帰り旅行が今週末に迫っていた。

 泉によると、行き先は江の島に決まったらしい。プランの提案者は、まさかの陸だったとか。

 それにしても、江の島か。行き先のセンスは……悪くない。どうしよう、ちょっと行きたい気がしてきた。


「おじいちゃんもいるし、一日くらいなら大丈夫かも……」

「本当? 嬉しい!」


 瞬時に泉の顔が明るくなった。泉は部長に知らせなきゃ、と言って早速スマホを取り出す。


「みんな残念がってたから、喜ぶよ! 特に、椎名くんとか!」

「あ……そうなんだ。それは良かった」


 良かったって、何がだ。問題は何も解決してないっていうのに。江の島の誘惑に負けたわたしは馬鹿だ。

 平静を装って微笑んではいたものの、わたしの心は少しも穏やかではなかった。そしてそこへもう一つ、嵐がやってくる。


「あと、一応報告なんだけど」


 それは少し恥ずかしそうに切り出した、泉の言葉だった。


「私、部長と付き合うことになったんだ」


 幸せそうに言った泉の前で、わたしはうまく笑えていただろうか。


「……ほんと? 良かったね、おめでとう。ずっと部長のこと好きだったもんね!」


 誰かがわたしの口を操って、心にもないことを喋っている――そんな気分だった。

 部長への恋心を打ち明けられてから、数ヵ月以上。こんな結末はいつだって予想していた。その時が来たら、友人として自分のことのように喜ぶつもりだった。

 だけどそれが、こんなに辛いなんて。




 少しだけ楽しみだった江の島旅行。でもそれは、恋人同士になった二人を見せつけられるなんて知らなかったからだ。


 ――いやだ。行きたくない。ずっと旅行の日が、来なかったらいい。


 しかしそんな時に限って、時間というのは早く過ぎる。

 あっという間に旅行当日、わたしは部員たちと共に、初夏の江の島駅に降り立った。

 ホームに降りた瞬間、真夏のような強い日射しに焼かれ、軽くめまいを覚える。

 目の前には初々しくはしゃぐ新入部員。道行くカップル、家族連れ、友達グループ、そして……

 何もかもが眩しくて嫌になる。本当に馬鹿みたいだ。失恋一つで動揺して。


「大丈夫? 紗己子ちゃん。もしかして体調悪いんじゃないの?」


 電車を降りてすぐ、声をかけてくれたのは長谷部先輩だった。

 どうやら顔に出てしまっていたようだ。誰にも知られてはいけない――と、わたしは慌てて笑顔を作った。

 こんなわたしでも、取り繕うのだけは得意なんだ。


「大丈夫です。少し暑くて」

「ああ、だよねぇ。先週あたりから急に。でも、週明けはまた気温が下がるらしいよ」

「そうなんですか……」

「でも大丈夫なら良かった。電車でもあまり喋ってないみたいだったから」


 それは、泉と部長をできるだけ視界に入れないことだけを考えていたからだ。

 付き合い始めた二人が、仲睦まじく隣り合わせに座って話しているのを見たいと思うほど、わたしはマゾではない。


「ちょっと寝不足だっただけですよ。ていうか、先輩そのバッグ可愛いですね。もしかして――」


 わたしが思い当たったブランド名をあげれば、長谷部先輩は嬉しそうに肯定した。彼氏からのプレゼントなの、と言って。

 その後、長谷部先輩とは他愛ない話をしながら目的地まで歩いた。だけど後になって、わたしは先輩と何を話したのか、全く思い出すことができなかった。




 午前中は江の島の主な観光名所を回った。神社、展望台、洞窟、その他諸々。そして少し歩き疲れてきた頃、海の見えるお店で昼食をとった。

 とりあえずは何事もなく過ぎて、わたしは少し安心していた。

 部長と泉は相変わらずだったが、あからさまにいちゃついているわけでもないし、陸とも朝の挨拶以上の接触はない。このまま平穏無事に、旅行を終えられるかもしれない。そんな甘い考えが、わたしの中に生まれ始めていた。


「それじゃあ、後はしばらく自由行動で。四時に入り口に集合。時間厳守な」


 部長の号令がかかったのは、午後のメインである水族館に着いてすぐのこと。


「菅原さん。良かったら、私たちと一緒にイルカショー見ない? アシカもいるんだって!」


 誘ってくれたのは、同じ二年生の部員である三原さんと永塚さんだった。彼女たちは泉と部長が付き合い始めたことを察して、気を遣ってくれたのだろう。

 気持ちは、ありがたい。しかし、すっかり気疲れしていたわたしは、体のいい理由をつけて断ろうと思った。


「ありがとう。でも――」

「残念。菅原先輩は、僕と回るんです」


 横から突然現れた陸に、声を上げる間もなかった。


「あっ……そうなんだぁ。そっか、そうだよね、ごめんね」


 三原さんははっとしたように言うと、永塚さんと共にそそくさとわたしの前から消えた。

 二人は確実に何かを勘違いしている。誤解を解こうと思ったが、陸の得意気な顔を見ると呆れてそんな気も失せた。


「椎名くん……どういうつもりなのかな?」

「すみません。でも、先輩が俺のこと避けるから、ですよ?」

「それは……」


 誰のせいだと思っているのか。


「旅行も来てくれないのかと思ってた。だから、嬉しいです」

「泉から聞いて、驚いたよ。椎名くんのプランが採用されたって……」

「先輩のおかげです。この旅行、先輩と一緒にいくと思って、考えましたから!」


 相変わらず、腹が立つほど純真な笑顔。

 陸は知らない。わたしがどれほど弟を妬んでいて、醜い女なのか。


「……仕方ないな。許すのは今日だけだからね」


 わたしを好きだなんて、見る目がないにも程がある。

 かわいそうな子。ならば、せめてわたしも最後まで演じよう。きみが好きになった、優しい先輩を。


「わたし、熱帯魚が見たいな」


 笑いかけるのは、今日で終わりにする。きみは、わたしの弟だから。




 陸はとても喜んで、わたしを案内した。予め相当に下調べをしたようで、何を見たいと言っても、迷うことなくわたしを導いた。

 ここまでの気合いの入りようは、気まずいを通り越して逆に感心する。

 そして一通りの展示を見終わると、わたしは「お手洗いに」と言って陸から離れた。「はい」と笑顔で言った陸は、まるで忠犬のよう。自分の行為が期待を持たせているようでなんとなく罪悪感を覚える。

 今日、ちゃんと断ろう――と、この時はまだ、そう思っていた。




 用を済ませて元いた場所に戻ると、陸の姿が見当たらない。しかし、代わりに知っている声が聞こえてきた。


「先輩、見て見て、あのクラゲかわいー」


 幻想的なクラゲの水槽を指差してはしゃぐ泉。その傍らには、部長。二人は恋人のように腕を絡め、寄り添っている。そこはもう既に二人の世界。

 わたしは咄嗟に、二人の後ろ姿から目を逸らした。

 こうなることは、ずっと分かっていたはず。それなのに、この胸に押し寄せる感情は。


 ――ずるい。わたしだって、そこにいたかった。


 運命はいつも、わたしの目の前に残酷な現実を突きつける。

 父はわたしを愛さなかった。母はわたしを残して死に、好きな人は親友を好きになった。この虚しさは誰にも分かってもらえない。




 わたしは、その場から無意識に逃げ出していた。

 それは単に二人を見たくなかったのかもしれないし、衝動的にどこか遠くに行きたくなったのかもしれなかった。


「あ――先輩!」


 少し歩いたところで陸に行き合って、わたしは幸いにも我に返った。

 こんな感情は、悟られてはいけない。大丈夫、笑える。いつものように。


「すみません……ちょっと売店行ってました」

「大丈夫だよ。何か買ったの?」

「手、出してください」


 陸は売店の袋からキーホルダーを取り出すと、わたしの手のひらにのせる。

 それはクラゲを可愛らしくデフォルメしたもので、光が当たるときらきらと光った。

 実物も確かに綺麗だった。だけど、思いだそうとすると、泉と部長の姿がちらついて邪魔をする。


「先輩に似合うと思って」

「いいの? ありがとう」


 いらない、なんて言えないから、わたしは少し眺めた後早々に鞄にしまいこんだ。


「クラゲと言えば、ですけど。クラゲの水槽のところで柏木先輩と部長がいて……あの二人、付き合ってたんですね。びっくりしました」


 今一番口にしたくない話題。見てしまったなら、話したくなるのはわかるけれど、心にもない笑顔でいるのはそろそろ限界だった。


「……そうだよ、この間から。お似合いだよね。羨ましいな」

「先輩はああいうカップルが理想ですか?」


 そうだよ。当たり前。だから、きみとは付き合えない。ていうか、それ以前の問題。


「そうだね、憧れるなぁ。わたし、年上が好みなの。だから申し訳ないけど、やっぱり――」

「先輩って」


 改めて断ろうとしたことに気づいたのか、陸はわたしの言葉を遮り――そして、何故か妖しげに言った。


「何が目的? 本当は部長が好きなのに、俺にもいい顔して。それとも、単に無自覚なんですか?」


 一瞬にして、鈍器で頭を殴られたかのような衝撃。


「まあ、そういう先輩を好きになったのは俺なんですけどね」

「…………何言ってるの。意味……わかんないよ?」


 なんとか震える言葉で返しても、頬が引きつってうまく笑えない。

 どうしよう。どうして。なんで。

 取り繕うのは得意だった。誰にも気づかせたことなんてない。それなのに、きみは。


「知らないふりしてるのは、先輩でしょ」


 次の言葉を必死に探すわたしを見て、陸はくすりと笑みをもらす。そして次の瞬間――


「……!」


 柔らかいものが、わたしの唇に触れた。

 ほんの一瞬の不意打ち、それはすぐに離れて、何事もなかったかのように目の前にある。


「し……椎名……くん?」


 だけど、確かに残る感触。

 今、間違いなく、陸の唇がわたしのそれに触れた。


「心配しなくても、先輩の秘密は誰にも言わないよ。先輩が誰を好きでも、俺は先輩が好きだから」


 恋は盲目とは言うけれど、陸が好きなのは見せかけのわたし。本当のわたしは、どす黒い感情で溢れ返っている。

 だから、少し想像してしまった。

 姉と弟――全てを知ったら、きみはどんな顔で絶望するだろう、と。




 わたしの中には、いつもぽっかりと空いた空洞がある。

 不完全なそれを繕う何かを、遂に見つけた気がした。

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