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3 絡まる

 春が終わり、次第に蒸し暑い季節になった。制服のブラウスがじとりと身体に張りついてなんとも言えない不快感を覚える。

 その日は午後から移動教室で、わたしは泉と実験室までの廊下を歩きながら、少しだけ額に浮かんだ汗を拭った。


「あ、椎名くんだぁ」


 先に気づいたのは泉だった。

 職員室の前、丁度退室してきた陸と目が合う。


「先輩、こんにちは」


 わたしたちを見つけると、軽く微笑んで挨拶をしてきた陸は、爽やかで、感じもよくて、欠点などどこにも見当たらない。

 それが余計、わたしを苛立たせる。


「それ、入部届?」


 泉が陸の持っていた紙に目をとめると、陸は少し困った顔で笑った。


「はい……水泳部の顧問の先生が熱心で、渡されて。なかなか諦めてくれないんですよね」

「私たちに気がねしなくてもいいんだよ? 兼部でも大丈夫だし、中学の時はすごい選手だったのに辞めちゃうなんてもったいないよ、ね、紗己子?」


 陸はずっと続けていた水泳を辞めたらしい。しかしそれでもって、うちの同好会に入部してきた真相はよく分からなかった。

 「先輩が誘ってくれて、楽しそうだなって思ったから」――と、陸はそう言っていたけれど。


「……わたしは椎名くんのやりたいことを応援するよ。水泳でも、テニスでもバスケでも」

「そうですか……」

「もちろん、わたしたちと一緒に部活したいって思ってくれるならそれも嬉しいよ」


 どこか浮かなかった陸の表情が不意に明るくなる。そして、晴れ晴れとしたように言った。


「……もともと、水泳に戻る気はないんです。やりきったっていうか」




 水泳部には断りを入れる、と言って去っていた陸。その後ろ姿を眺めていると、隣で泉が意味ありげに微笑んだ。


「椎名くんって、紗己子になついてるよね」

「そんなことないでしょ、別に」


 泉の鋭い言葉に内心どきりとする。


「あるよぉ。だって紗己子、椎名くんにすごく優しいもん。そんなこと言って、気に入ってるんじゃないの? 爽やかだし、結構かっこいいし」


 泉はなかなかわたしのことをよく観察している、と思った。

 親切で優しい先輩、それが陸の前でのわたしの役。もちろんいつまでも演じ続けるつもりはない。信用させて油断させて、最後に全てを暴露する。そうしてどん底に突き落としてやるのが、わたしの復讐のシナリオ。まあ、陳腐だけれど。

 実際のところ、確かに陸は多少わたしになついてくれている感じはあるが、単なる先輩後輩の域を出ていないように思う。

 わたしの目的を果たすためには、もっと仲良くなる必要がある。裏切られた時のダメージは、その人間との親密さに比例するから。


「そんなんじゃないってば、もう」

「本当? 違うならいいんだけど、椎名くんじゃなくても、好きな人ができたら教えてね。絶対に協力するから」


 泉はどこまでも無邪気だった。

 わたしの全てを知ったら、この子はきっと軽蔑するだろう。




 そしてある日の放課後、チャンスはやって来た。

 旅行研究同好会は、基本的に週三回部室に集まるだけの、のんびりした同好会。人が集まればミーティングをするが、集まりはよくない。長期休み中に行われる旅行以外は来ないメンバーすらいる。

 そんな中にあって、わたしは比較的部室に足を運ぶ方ではあった。というのは、部室が人がいない故に勉強するのに丁度良かったからだけれども。

 その日、いつものように部室の扉を開けると先客がいた。陸だった。


「椎名くん、こんにちは。一番乗り? 珍しいね」


 陸は机に向かっていた陸は、わたしに気づいて顔を上げる。


「菅原先輩……お疲れ様です」


 言った陸は笑っていたが、どこか沈んでいるようにも見えた。


「それ、今度の旅行のプラン? 真面目だねぇ、わたし、まだ考えてないや」


 旅行研究同好会では、来月の三連休で日帰り旅行に行くことになっていた。行き先などのプランは部員が考える。個人でもグループでもいいが、それぞれの考えたプランを発表して、最終的には多数決で支持されたプランが採用されるのだ。


「はい、でも……考えがまとまらなくて」

「まだ一年生だし、気負わなくてもいいんだよ。先輩のプランに乗っかるのも楽しいし……って、そういうことじゃないのかな。何かあった?」


 陸は一瞬躊躇するように視線をおよがせた後、「実は……」と恥ずかしそうに告白した。

 聞けば彼は、先日の中間テストが散々だったらしい。全教科で追試を言い渡され、更にはこのままでは進級が怪しいと言われたとか。

 これまでの人生で勉強でつまずいたことがないわたしは、少し同情した。

 一方で、そんなことか、とがっかりもした。成績が悪いくらい、大した不幸でもない。そもそもそんなことで悩めることが、恵まれている証拠だ。


「わたし、これでも勉強は得意な方なの。部活の時間でよければ教えるよ」


 そう言ったのは、もちろん同情からではない。悪意という下心あっての言葉。彼の心に入り込むチャンスだと思ったのだ。


「え……いや、でも、悪いです」

「追試、だめだったら、旅行も行けなくなっちゃうんでしょ。それじゃ、わたしが嫌なの。椎名くんがいなきゃ、つまんないよ」


 瞬間――少し言い過ぎた、と思った。綺麗事が過ぎると、どこか胡散臭くなってしまう。

 しかし、そんな心配は全く必要なかった。

 陸の反応を伺うと、普通に感動したようにわたしを見つめてきた。純粋なのか、馬鹿なのか。




 それから追試までの間、わたしは部室で毎日のように陸の勉強をみた。たまに他の部員がやってくることもあったが、基本的に自由な部活だったので誰も何も言わない。泉には後でからかわれたけれど。

 そして、教えてみて分かったことだが、陸はどちらかというと要領がいい。同じことを二度言わせることはほとんどなかったし、覚えも早い。

 勉強ができない、というのは語弊がある。おそらく勉強していなかっただけなのではないか、と思った。




 追試が行われる前日、なんとか全教科を仕上げた。陸が参考書を閉じて息を吐いた時、外は既に暗くなっていた。


「本番は明日だからね。気を抜かないで頑張って。絶対に一緒に旅行行こうね!」

「はい。本当にありがとうございます。先輩のおかげて、なんとかなりそうです……なんとお礼を言ったらいいか……」

「そんなの気にしなくていいんだよ。わたしがやりたくてやってるだけだから」


 歯の浮くようなセリフも、この頃は随分自然に言えるようになった。陸はいちいち素直な反応を返してくれるから、やりにくさはあまり感じない。こんなに善良な少年が、不倫男と不倫女から生まれたと思うと、この世は理不尽だと思う。

 奇しくも、陸とわたしは帰り道が同じだった。同じ路線の、同方向。最寄り駅が二駅離れているだけだったから、必然的に一緒に帰ることになる。

 当たり障りない会話をたくさんした。わたしにとっては、話の内容なんてどうでもよくて、ただ陸の心に入り込むためのもの。表面上は笑っていても、楽しくないし、おもしろくもない。

 だけど、陸は本当に楽しそうに笑った。


「じゃあ、またね」


 電車がわたしの家の最寄り駅に到着する。いつものように陸に手を振って、電車を降りようとした時だった。


「先輩」


 不意にわたしを呼び止めた陸は、いつもに増して真剣な顔だった。


「この追試が終わったら、話したいことがあるんです」

「……話?」


 陸のあまりに真剣な顔に、どきりとする。

 いくらでも話す時間はあったのに、改めて話したいこととはなんだろう。


「……いいよ。じゃあ、来週部室で待ってるね」


 まさか、わたしの素性がばれてしまったのか。そんな動揺は隠して、あくまで平静を装って答えた。




 この時のわたしは、本当に若くて、浅はかで、愚かで、どうしようもなかった。陸のことなんて、何も分かってはいなかったのに。

 そして、わたしは思い知る。

 わたしが手を伸ばした禁断の果実の、その蜜の味を。




 しかし、翌週になっても陸は部室には現れなかった。

 追試は終わっているはずなのに。約束を忘れてしまったのだろうか、と思いながらわたしは少しほっとした気分だった。

 やはり大した話ではなかったのだ。部活に来ないのは、友達と遊んでいるか何かなのだろう、と思った。


「そういえば、最近椎名くんに会った?」


 泉と一緒に顔を出したある日の部活、二人で旅行の計画を考えていると、泉が唐突に言った。


「ううん、どうして?」

「だって、紗己子が一番椎名くんと仲いいでしょ」


 端からはそう見えるようだ。それはわたしの狙ったことでもあるし、シナリオとしては順調なのかもしれない。だから、これは喜ぶべきことなのだろう。


「そうかな? 可愛い後輩だとは思ってるけど」

「本当にそれだけ?」

「もちろんだよ」


 わたしが陸に勉強を教えることになってから、泉はわたしたちの仲を以前に増して怪しむようになった。

 確かに、仲の良さを演じようとしているのはわたし自身だし、他人に勘違いされるのは仕方のないことなのかもしれない。しかし、わたし自身にそんな気がない以上、否定するのも次第に億劫になってくる。


「紗己子って、実は無自覚小悪魔系?」


 そう言った泉は、小さく息を吐いた。


「何言ってるの、そんなわけないじゃん」

「気づいていないの、紗己子だけだよ。紗己子って、美人だし、男子からも結構人気なんだよ?」


 泉が何を言いたいのか、さっぱり分からなかった。それは確かに、過去には何人かの男子に告白されたこともあったけれど。

 興味のない男子から好意を持たれたって仕方がない。好きな人に振り向いて貰えない気持ちは、泉には分からないだろう。

 「そんなことないって」と言って適当に流せば、聞く耳持たないわたしに泉も諦めたようだった。

 泉のことは好きだけれど、これ以上はもやもやとした感情を抑えられなくなる。

 わたしにだって、好きな人くらいいる。

 それを言えないのは誰のせい? 別に責めたいわけじゃないけれど、だけど……




 一時間後、泉は用事があると言って先に帰ってしまった。少しだけ気まずく泉を見送ったわたしは、気を取り直して真面目に部活に取り組むことにする。

 日帰り旅行のプランの発表会は来週に迫っていた。別に必ずプランを出さないといけないわけでもないが、この同好会に入った以上はそれが義務のように感じていた。

 どうせ選ばれるのは、部長か長谷部先輩のプランなんだろうけれど……一応。

 もちろんそんな気持ちで考えても、いいアイディアなんて浮かぶわけない。わたしはただ無為に時間を過ごした。

 一人きりの部室の扉が開いたのは、それから更に数十分後のこと。


「先輩……こんにちは」


 遠慮がちな声に振り返れば、陸がいた。会っていなかったのはほんの一週間ほどだけれど、随分久しぶりに思える。


「椎名くん! 久しぶりだね、追試はどうだったの? 最近見ないから、泉や部長たちも心配してたんだよ」

「顔見せなくて、すみません。追試の方はおかげさまでなんとかなりました」


 追試に合格したというのに、陸はあまり嬉しそうには見えなかった。というよりは、雰囲気がどこか違うような気がする。


「良かった。じゃあ、旅行も一緒に行けるね!」

「…………」

「……椎名くん?」


 何かおかしなことを言っただろうか。陸が急に黙ってしまって、わたしは不安になった。


「前に、話したいことがあるって言ったの覚えてます?」


 沈黙の後、ようやく口を開いた陸は言った。


「ああ、えっと……そうだったね。何かな、話って」


 わたしはにこりと笑ったが、何故かひどく不安になった。心臓の鼓動はどんどん早くなる……聞いてはいけない、そんな気がして。

 だけど、それは訪れる。陸の真っ直ぐな言葉と共に。


「俺、先輩が好きです」


 ようやく、わたしは泉が言いたかったことが分かった。

 気がつかなかったのは、わたしがその可能性を初めから排除していたから。


 だって、わたしたちは血の繋がった姉弟なんだ。

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