16 終わる
ただ、殺してしまおうと思った。
病に倒れ身動きすらできない今なら、この男は抵抗すらできずにわたしに殺されるだろう。わたしと母を苦しめた当然の報いだ。だから、躊躇することなんてない――と。自分を納得させる理由としては、十分だった。
けれども次の瞬間、わたしは一度伸ばした手を咄嗟に引く。
「先輩……何してるんですか」
振り返れば、扉のところに明らかに戸惑ったような陸がいた。
「なんだ……びっくりした……ノックくらいしてよ」
「しましたよ。でも反応がなかったから」
陸はわずかに苦笑すると、後ろ手で扉を閉めた。
作った笑顔は多分見抜かれている、ような気がする。
「本当に? 全然気づかなかったよ。来るなら言ってくれたらよかったのに。気が変わったの?」
「……先輩の」
陸の視線が泳ぐ。その先には、意識を失ったままの父がいた。
「様子が変だったから、心配になって追いかけて来たんです」
ぽつりぽつりと、呟くように言う陸は、どこかわたしの出方をうかがっているように見えた。
彼がいつから見ていたのかは分からない。でも、おそらく気づいているんだろう。わたしが何をしようとしているのか。
「……わたしは、この男に目覚めてもらっては困るの。きみなら、分かってくれるでしょ。それとも――お父さんが大事?」
「……よく、分かりません。でも、自業自得だと思う」
少し意外だったのは、そう言った陸の声がひどく冷めていたこと。
「この人のこと……庇うわけじゃないけど。きみはわたしと違って愛されてたよ」
「本当にそうなのかな。認知もされてなかったのに? 確かに父さんは俺を可愛がってくれたのかもしれないけど、籍は入れない、認知もしない。それでいて、先輩の家の財産も手に入れようとしている。あれもこれも、なんて叶うわけがない。父さんは自分の行いにきちんとけじめをつけるべきだった。結局――父さんには俺を息子と認めるよりも大切なことがあったんだ」
陸はまるで他人事のように、淡々と話した。そこには、信じていた父親に裏切られたような失望の色は見られなかった。彼にとってはもう、過去なのか。それとも、全て受け入れてしまったの後なのか。
「先輩と俺も、同じです。あれもこれもなんて、手に入らない。二人でいるために、捨てなければならないものがたくさんある。それが父親だというなら、仕方ないのかもしれません。でもこんな人間のために、先輩が手を汚す必要なんてないです」
「きみはこいつの本性を知らないから、そんなことが言えるの。やらなければ、こちらがやられる……これは、そういうもの」
綺麗ごとなんてもうたくさんだった。
わたしの意思を悟ったのか、陸は軽く息を吐いて言った。
「そこまで言うなら……じゃあ、俺が殺します」
「え?」
今、なんて言ったの――そう聞き返す間もなく、陸はわたしの側に立つと、父の周囲の機械をしげしげと眺める。
「これ、スイッチってどれなんだろう。まあ、適当に切ればいいか」
「ま、待って!」
無造作に機械に触れた陸の手を、わたしは慌てて掴んで引き戻す。
「何やってるの!?」
「何って? 俺だって、父さんが邪魔なのは分かってますし」
「やめてよ……きみを殺人者になんかさせられない!」
自ら叫んで、ようやく我に返った。
そんなわたしに、陸は悲しそうに目を伏せる。
「俺だってそう思ってること、どうして分かってくれないんだ。先輩は、父さんを殺して……それで、どうするつもりなんですか。もう少し冷静になってよ」
「きみだって! わたしが止めなかったらどうするつもりだったの!」
「さあ……人殺しになって、捕まるか。それとも、一緒に逃げてくれますか」
投げやりに言って窓の外に目をやった陸を、わたしは思わず抱きしめた。
何故だか、そうしなければ彼が儚く消えてしまうような気がして。
「逃げるよ……どこへだって。でも、そんなこと言わないで」
「先輩が無謀なこと、やめてくれるなら」
「やめるよ、やめるから!」
どうかしていた。陸にこんなことを言わせてしまった自分をひどく恥じる。
全部――わたしのせい。弟はわたしとは違って幸せだったはずなのに。わたしが、何もかも狂わせてしまった。そして今だって、自分の行動が彼に与える影響を何も考えていなかったのだ。
「約束ですよ……」
そう言って笑った陸の顔を、直視することができなかった。
その日、病院の屋上から見上げる空は、雲一つない快晴だった。夏の暑さの名残もとうに過ぎ去り、冬が始まる前の一番良い季節。沈みかけた太陽の光は、ただただ綺麗だと思えた。
しかしそんなただ中にあっても、わたしの心は少しも晴れなかった。あの後、屋上で話そうと言った陸についてきたはいいものの、胸がざわついて仕方がない。不安と、まるで袋小路に追い詰められたかのような焦燥。
「それで、父さんの容態はどうなんですか?」
人気のない屋上に着いてまもなく、陸から口を開いた。
それはわたしへの問いかけではあったが、おそらく予想はついているのだろう。どこか確認をしているようにも思えた。
「先生の話では……検査の数値も安定していて、この数日で意識が戻れば一気に回復に向かうって。後遺症とかはまだ分からないけど、多分……」
隠すことになんの意味もないので、わたしも医師に言われたことをありのままに話す。
すると陸は、自嘲するように笑った。
「やっぱり、そんな都合よくいくわけないか。俺、正直言うと……父さんがこのまま死んでくれたらって思ってました。先輩には大丈夫だとか、心配するなとか言っておきながら……結局、現実逃避してただけなんです」
「わたしもそうだよ。今だって……可能性ならゼロじゃない」
「そうですね。でも今から父さんが急変するとか、医療事故が起こるとか、そんな奇跡に期待するのは現実逃避以上に馬鹿げている」
奇跡と呼ぶにはあまりにおぞましい願望。わたしも陸も、それを自覚しながら口に出しているのだから、もうどうしようもない。
「俺の両親はもう手遅れだからいいとして――このままならきっと近いうちに、先輩のご家族にも知れちゃいますね。いいんですか? 優しいおばあさま、おじいさまを悲しませても」
「そんなの……!」
あまりにも今更な話だ、と言いかけたのを思わず飲み込んだ。
あの日の、父の最後の言葉が頭をよぎる。何が一番自分のためになるのか、よく考えろとあの男は言った。
どういう意味かは分かっている。けれどそれらは承知の上で、この道を選んできたはずだった。
それよりも何よりも、どうして今頃になって陸はそんなことを言うのか。まるで――わたしの心を揺さぶろうとしているみたいに。
「だけど――たった一つだけ、先輩が家族も友達も捨てずに済む方法がありますよ」
無意識に眉をよせたわたしに、陸は予想通りとでも言いたげに苦笑する。
そして、咄嗟に思い浮かんだ不安。
「……そこには、きみは含まれているの」
けれども、陸はそれには答えなかった。代わりに、ただ笑った。それで――悟る。
「一緒に逃げようって言ってよ。そうしたら、わたし……」
「生活力もない子供が二人で、どこへ行こうっていうんですか」
陸は感情を押し殺すように、淡々と正論突きつける。
それが理解できないほど、馬鹿ではないつもりだった。けれども、理解するのと、受け入れるのとでは違う――……
「それは、やってみなければ分からないじゃない。最初から諦めるというの?」
「諦めるわけじゃありません。俺達が別れを選んだ――そのことに意味がある」
「意味なんて、分からないよ……」
制服のスカートを握りしめ、首を振る。
そんなわたしを諭すように、陸は言った。
「もう二度とこんな風に会うことはなくなっても、俺と先輩には同じ血が流れている。この繋がりだけは、どんなに離れても切れることはありません。俺達はいつも繋がっている、だから」
皮肉な話だと思った。あれほど憎んだ父親が、忌々しくすら思うこの血が、わたしと弟の唯一の繋がりだなんて。
だけど、それすら単なる気休めでしかない。離れていても繋がっているなんて、そんなスピリチュアル的な話をされても理解できなかった。
「さよならです、先輩」
一瞬が永遠のように感じられた。彼の顔を見れば分かる……この決断は、覆ることがないと。
こうするのが誰のためにも一番良いのだと分かっている。わたしたちの関係は、誰も幸せにすることができないのだ。それは、わたしたち自身でさえも。
だからわたしは別れを受け入れた。
そうするしか、なかったから。
わたしたちは、しんみりしながらバス停までの道を歩いた。
お互い何を話せばいいのか分からず、沈黙が長く続く。もう会えなくなるのだと思うと、一瞬一秒が惜しい。それなのに、何故かどうでもいいような話題しか思いつかないのだ。
到着したバスに乗り込む陸を見送る時、わたしは込み上げるものを必死にこらえて笑顔を作った。
その時――不意に陸がわたしの耳に囁く。
「先輩。もしも――……、――――……」
その時は、意味も分からずただ首を傾げた。
わたしが彼の最後の言葉と微笑みの意味を知るのは、ずっと先のこと。
そうして離れたわたしたちは、長い時間を互いを知らずに過ごし、大人になる。
何もなかったかのように以前の日常に戻ったわたしは、いつしかかつて愛した異母弟も、彼と犯した罪さえも思い出さなくなっていった。