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15 狂う

 学校を早退し、まもなく迎えに来た祖父の車に乗って病院に向かう。私が到着した時、病院で父の緊急手術が終わるのを待っていたのは祖母だけだった。父方の祖父母は既に他界していて、地方にいる叔母になんとか連絡がつき、こちらへ向かっているところらしい。

 祖母によると、父は仕事中に頭痛を訴えた後、昏倒して救急車で運ばれた。検査の結果、脳に出血が見つかり、すぐに手術となったのだという。

 手術が終わった頃には、既に外は暗くなっていた。手術は成功し、一命はとりとめたと医師は言った。しかしながら楽観視できる状況ではなく、この先数日いつ容態が急変してもおかしくはない――とりあえず、病気に関して全く知識のなかったわたしに理解できたのは、そのくらいだった。




 手術の後、集中治療室で意識なく眠ったような父に少しだけ面会した。昨日わたしを嘲笑った嫌みな男の姿はそこにはなく、たくさんの管や機械に繋がれた患者がいるだけだった。

 突然のことに、理解はできても気持ちが追いつかない。

 もちろん、父が死んでも悲しいと思わない自信はある。ただ、昨日まで元気そうだった人間が、こんなに簡単に死の病に倒れることに恐怖を覚えた。

 どうなるんだろう、と漠然と思った。この男が死んだら? もしくは死ななかったら?

 わたしと陸の未来は、きっとこの男の生死に左右されるに違いない。


「お父さんはきっと大丈夫よ。強い人ですもの」


 多分、酷く落ち込んでいるように見えたのだろう。祖母はわたしの肩を抱き、優しく語りかけてくれた。

 わたしは力なく笑って目を伏せる――そうしなければ、見抜かれてしまいそうだった。わたしが父の心配など、微塵もしていないこと。大病を患った男に、同情心すら感じていないことを。




 翌日は、普段通りに登校した。予定では授業が終わった後に病院に行く。もしもそれまでの間に、父の様態に急変があれば、祖父母が連絡をくれることになっていた。


「あの父親……死ぬかもしれないって」


 二日ぶりに陸と話した朝、わたしは淡々と告げた。

 父がわたしに会いに来た日、帰り道で別れて以来陸とは連絡をとっていなかったから、大層驚いたことだろう。心配して二年の教室を訪ねてきてみれば、異母姉が自分たちの父親が死ぬと言うのだから。

 「どういうことですか」と言う陸に、昨日倒れて手術をしたが、いつ急変してもおかしくはないという話をした。


「そうですか……」


 黙って聞いていた陸は、少しの沈黙の後呟くように言った。

 陸は父が生死の境をさ迷っていることを知っても、取り乱したりはしない。正直なところ、彼にとって父親がどのような存在なのか分からなかった。ずっと父を憎み続けてきたわたしとは、違う感情を持っているだろうとは思う。


「今日も学校が終わったら病院に行くの。一緒に来る?」

「いえ、俺は家族じゃないから……」


 そう言って遠慮した陸の顔が切なげに歪んで、思わず胸が苦しくなった。


「そんなの、気にしなくていいんだよ」

「気にしますよ。友達の親が危篤だからって、お見舞いには行かないでしょう、普通。俺のこと、なんて説明するんですか」

「それは……だけど……きみの親でしょ。何があっても後悔しないの?」


 陸は再び沈黙した。

 本当に、人生はままならないことが多い。わたしなら言い切れる。後悔しないって言い切れる。

 そんな薄情な娘が、書類上の家族。きっとわたしよりも長い時間を過ごした彼は、赤の他人だなんて。


「おばあちゃんたちのことは、任せて。上手く誤魔化しておくから……それでばれちゃったとしたら、それはしょうがないよ」

「……分かりました。じゃあ俺は外で待っているから、父さんの様子が分かったら教えて下さい」


 それが彼なりの妥協点だったのだろう。口を開きかけたわたしを黙らせるように、彼は続けて言った。


「それで、いいですよね?」


 陸が会わないというなら、わたしが無理に会わせることはできない。それ以前に、わたしは彼を父親に会わせたいのか。会わせてもよいのか。自分が分からないでいた。




 「学校が終わったら迎えに行く」と、昼休みに電話で話した祖父の声は、酷く疲れているように聞こえた。実際、祖父も祖母も昨晩からの疲労が蓄積しているに違いなかった。父方の親族で連絡がついたのは叔母のみ。それも遠方ですぐにかけつけることはできず、入院の手続きや準備は全て義理の両親である二人が済ませたのだ。

 放課後、わたしは祖父母の身体を労るというていで迎えを断ると、陸と共に病院に向かうバスに乗った。

 バスの中で、陸はほとんど話さなかった。というよりは、父が倒れたことを話してから、ずっと。

 何を考えているのか、色々想像はできたけれど、わたしはできるだけそれを考えないようにした。




 病院のロビーで陸とは一旦別れて、わたし一人で父のところに向かう。祖母と叔母が既に来ていて、父の様子を聞いた。

 集中治療室の父は、昨日と変わらず意識が戻っていない。祖母から聞いた医師の話では、未だ予断を許さない状況だという。ただ一つ、昨日とは違う情報がわたしの頭の中に残った。

 それは、父の意識が戻って、この先数日間を何事もなく過ごせば、回復の可能性がぐっと上がるということ。


「きっと大丈夫」


 祖母は何度も繰り返した。

 わたしは祖母の言葉に頷きながらも、「なんだ、助かる可能性があるのか」と思った。そんなことはとても、祖母には言えなかったけれど。




 祖母たちには適当な理由を告げて、わたしはロビーで待つ陸に会いに行った。

 自分の感情は出さないように、ただ事実だけを淡々と話す。

 陸は聞き終わると、「そうですか」と言ってわたしを見、首をかしげた。


「もしかして……父さんと何かありましたか?」

「え?」


 わたしの中の動揺を、陸に見抜かれるとは思わなかった。急に父が倒れたから、父にわたしたちのことが知れてしまったのは話していなかったのに。


「例えば……何か、言われたとか」

「……どうして?」

「母さんが知ってる以上、父さんに話が伝わるのは予想できますよ」


 陸は淡々と言った。彼の母親への脅しは、父への口止めには不十分だった。何もかもが甘い――わたしは。

 陸と一緒にいたいならば、何がなんでも知られてはいけなかったのに。


「……あの人、わたしたちのこと引き離す気みたい」

「でしょうね。でも父さんは倒れた。当分は何もできないと思う」

「でも」


 きみはあの男の本性を見ていないから。

 あの男の狡猾さも冷酷さも知らずに、ただ愛されて育ったから、そんな楽観的なことが言える。


「……大丈夫ですよ。先輩は何も心配しないで」


 何が大丈夫なのか、ちっとも分かりはしなかった。けれど、陸が久しぶり笑いかけてくれたから、わたしは小さく頷くしかない。

 そして陸は、わたしに言った。


「俺を病院につれてきてくれてありがとう。これで息子としての義理は果たせました」


 その言葉の意味はよく分からなかった。




 その後、父が倒れてから一週間以上が過ぎた。

 父の意識は依然戻らず、楽観視はできないと医師は言ったが、集中治療室から一般病棟へと病室を移した。とりあえず検査の数値は安定しているから、とのことで、祖父母は喜んでいた。

 元気だった頃のように回復できるかは分からないが、父は日に日によくなっている。それに比例するように、わたしの不安は増すばかりだった。


 もしも、父の意識が戻ってしまったら?

 このまま何事もなく、父が回復してしまったら?


 考えるだけで恐ろしい。あの悪魔のような男が戻ってくる。


「――先輩、聞いてます?」

「えっ……ごめん、何?」


 怪訝そうな陸の声に我に返ったのは、いつもの駅までの帰り道。電車の音がすぐ近くにに聞こえる、人や車の往来の多い駅前でのことだった。


「最近、なんだか上の空ですね」

「そうかな……ごめんね」

「別に謝らなくてもいいですけど……」


 ここ数日は、いつも駅前のバス停で陸と別れる。毎日わたしが、父の見舞いに行っているからだ。


「ねぇ、今日は一緒に行かない?」


 断られるだろうとは思ったが、念のために声をかけてみる。しかし、今日も予想が覆ることはなかった。


「やめておきます」

「一般病棟にも移ったし、叔母さんも今は家に帰ってるよ。今日はおばあちゃんもいないし」


 誰の目も気にせず父親に会える。医師や看護師聞かれたら、わたしの友達だと言えばよい、と渋る陸を説得する。

 それでも、陸は決して首を縦にはふらなかった。

 倒れた翌日、一緒に病院に行ってからずっとこうだ。もしかしたら、彼はもう父親には会わないつもりなのかもしれない。どういうつもりでそうしているのかは、分からないけれど。


「先輩の気持ちはありがたいですけど、今は会うべきではないと思うんです。ただでさえ、家族ではないんだし……」


 陸から返ってくるのは、いつも曖昧な答え。なぜ自分の父親に会いたくないのか、その理由が分からない。

 本当に家族に遠慮しているのか。それとも別の何かなのか……聞いても陸はきっと答えない。

 わたしは、一緒に来て欲しいのに。


「分かったよ。もう誘わない、じゃあね」


 苛立ちを隠さず吐き捨てるように言うと、陸の返事も聞かずにバスに乗った。

 困惑したようにわたしを呼ぶ声も、全部無視して。




 一緒にいて欲しかったのは、単純に一人では気が狂いそうだったから。そんなことも素直に吐き出せないわたしは、結局病室で父と二人きりになる。

 機械音だけが響く、無機質な空間。意識のないの父がわたしに語りかけることはない。わたしも何かを語りかけることはない。この男には何一つ恩義は感じてはいない。愛されてもいなければ、愛してもない。そんなわたしが、何故かここに足を向けてしまう理由は一つ――この男が目覚めてしまわないか、見張るためだと思う。

 どうしてそんなことを、誰かに話せるだろう。血を分けた父親が、このまま目覚めないことを望んでいるなんて。

 もしも、もしも。父が目覚めてしまえばわたしはきっとあの男に勝てない。陸とは引き離される……二度と、会えなくなる。

 そして、それは現実になろうとしていた。先程病室にやって来た医師が、数日中に、快方に向かう可能性が高いと言ったのだ。


 そう――だから、やるなら今しかない。


 この時のわたしは、冷静な判断ができないほど我を失っていることに気づいていなかった。

 この男さえいなくなれば、全てなかったことにできる。わたしたちは、ずっと一緒にいられる――そればかりが頭の中を支配して。

 父の生命を維持する機械に繋がったいくつかの管。わたしは静かにそれに手を伸ばした。

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