13 犯す
「先輩っ……」
困惑したような陸の声が、何度も何度も聞こえていた。けれどもそれらの一切を無視して、わたしは彼の手を引いたまま歩き続ける。
「ねぇ、先輩」
どのくらいの間、あてもなく歩いただろうか。陸の母親の姿など、とっくに見えなくなっていた。馴染みのない景色に気づいて、ようやく我に返る。
「落ちついて下さい――一体どこに行くつもりなんですか」
「……ごめん」
わたしは呟くように言って、足を止めた。同時に、ずっと無意識に掴んだままだった陸の手を離す。
理性が戻ってくるにつれ、自分がしでかしたことの重大さが身に染み渡ってくる。
言葉では取引と言いつつも、あれは脅したも同然だった――――。青ざめた顔で立ち尽くす陸の母親の目の前から、奪うように陸の手をとると、返事も聞かずに勢いでここまできてしまった。
ああ――わたしは、なんてことを。
こんなことをするつもりではなかった。
わたしは、ただ。
「どうしたんですか。先輩らしくないですよ」
強引に連れてこられた陸は、ただ心配そうにわたしを見た。
「ごめん……わたし、どうかしてた。なんでもないの、つれ回してごめんね」
わたしはどうにか理性を取り戻して、作り笑顔で取り繕う。けれどそんなずさんな代物で、陸が納得するはずがなかった。
「でも、先輩、別れないって……母さんに。どういう意味ですか?」
「違うの、それは。間違えたの」
白々しい笑顔に、見え透いた嘘を上塗りする。もはや、ただの悪あがきに過ぎない。
もう抑えられない。この感情からは逃げられないのだと、気づいてしまった。
「間違えるわけないでしょ。何かあったんじゃないですか? 母には何を言われたんです?」
「……」
「先輩? 答えて」
陸は自分の母親をあんな風に脅したわたしを、一切責めようとしない。考えてみれば当然のことだった。自分を騙し、あれだけ傷つけた女を一度も責めなかったのだから。
もう――限界だった。
「……わたし、きみに酷いことをたくさんした。それが悪いなんて思ってなかった。だけど、そんなわけないよね」
「どうしたんですか……急に」
「謝りたいの。今までわたしがしたこと、全部。わたしにできる償いならなんでもする。虫がよすぎるのも分かってるよ、でも」
閑静な住宅街に、互いの声だけが響く。ここがどこだか、よくわからない。誰が見ているかも分からない。
それでも、今すぐ彼の胸に飛び込みたいと心が叫ぶ。そんな資格はないと、分かっているのに。
「……好きなの。きみが好き」
瞬間、陸は言葉をなくしたようにわたしを見つめた。
その戸惑いに揺れる瞳を見て、更に自嘲気味に言う。
「笑っていいんだよ。だって馬鹿みたいでしょう、今更……」
「笑えるわけ……ない」
やっとしぼりだしたかのような陸の声は、意外にも静かな怒気を含んでいた。
だってわたしは、陸が怒るところを見たことがなかったから。いつも理性的で、感情のままに怒鳴ったりしたところを見たことがなかったから。
「許せるわけない……どうして今更そんなこと言うんですか。先輩と俺は姉弟で、それだけは何があっても変えられない。どうにもならないのに、どうしろっていうんですか!」
「……それは」
不意に、陸の瞳から涙がこぼれた。
不謹慎にも、それが綺麗だと思う。
半分だけ同じ血が流れている弟は、そうとは思えないほどに清い心を持っている。醜い醜いわたしとは、比べ物にならないほど。
だから――だろうか。
「謝るくらいなら、赤の他人に生まれ直して来てくださいよ。そうしたら、全部許してあげます……」
「はは……無茶苦茶を言うんだね。そんなの無理に決まってるじゃない」
「分かってますよ、でも他に方法がないじゃないですか!」
気がつけば、わたしは手を伸ばしていた。
涙に濡れた頬に触れると、彼はぴくりと身体を震わせる。
「先輩、なにを……」
「……陸」
その時、わたしは初めて弟の名前を呼んだ。
ありえない。こんなことがあってはいけない。そんなことは分かっている。
だけどもう――止められなかった。
「もう、なるようにしかならないよ」
「せんぱ……」
陸の言葉を遮るように、わたしは唇を重ねた。
一瞬の触れるだけの口づけ。すぐに顔を離せば、痛々しく顔を歪めた陸が言った。
「きっと……幸せになんてできません。それでもいいんですか?」
人はおかしいと言うかもしれない。けれどわたしはその瞬間、確かに嬉しかった。
「……いいよ、きみとなら怖くない」
こんな状況なのに、自然と笑みがこぼれる。
父の愛も、初恋の人も手に入れられなかった。そんなわたしが遂に手にいれたのだ。
この世界で一人、たった一人の弟。
それがたとえ、神にも背く禁忌だとしても。
その後わたしたちは、あえて家とは反対方向の電車に乗って、適当な街に降りた。
そこで買い物をして、制服を着替え、夕方のホテルへと入る。
求めあうために、どうしてこんな不自由をしなければならないのか。そんな多少の不満と煩わしさは感じていたが、二人でいればそれすらも楽しい。
禁断の果実は、想像以上に甘く、まるでわたしたちを堕落させる毒だ。
わたしはそれに気づいていて、気づかないふりをした。
その日陸と一線を超えたわたしは、夢のように満たされた気分だった。
けれど、わたしたちが姉弟であることは何も変わってはいない。この先もただこの幸福が続くなんてことはありえない。
それでも、今だけはこの罪に溺れていたかった。
だから一緒に、禁忌を犯そう。
きみとなら、きっと地獄にすら堕ちていける。