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12 思い出す

 九月になった。うだるような暑さは去り、一時に比べると随分過ごしやすくなった。半袖が時折肌寒く、吹き抜ける風に秋を感じる。そんな時、わたしは何故だか酷く孤独に襲われた。




 あれから陸は、「解放する」と言った言葉の通り、私から離れていった。電話をメールもなくなった。部活にも顔を出さなくなった。

 わたしは、陸に出会う前の日常に戻った。相変わらずの父、優しい祖父母、気立てのよい友人……全てが元通りになったはずなのに、確かに何かが違う。だけどその正体が分からない。


「管原さん、最近何かあったの?」


 ある日の放課後、担任教師に職員室へと呼び出された。顔を見るなりの唐突な問いかけに、わたしは首をかしげざるを得なかった。


「何か、とは……どういうことでしょうか」

「いえ、ね。何もないのなら別にいいのよ。だけど、最近他の先生方にも言われるの。予習はしてない、提出物は遅れる……もちろん成績も下がってる。この間の校内模試なんて、酷い有り様だったじゃない」


 小言など、余計なお世話だ。自分がどんな有り様かなんて、自分が一番よく分かっている。


「何か悩みごとがあるなら、話を聞くわ。とにかく成績を戻さないと……このままだと推薦も危なくなるわよ」


 悩みを聞くと言いながら、この教師が心配しているのは成績のことばかり。わたしを見ているのではない、わたしの成績を見ているのだ。

 ああ、くだらない。本当に。


「結構です。別に何もないですから」


 わたしは、自分でも驚くほど落ち着いていた。

 そんなわたしを見て、担任教師はあからまにほっとしたような顔をする。


「じゃあ、この前の模試は単に調子が悪かったのね。大丈夫、そういうこともあるわ。この次頑張れば十分挽回できるから」

「……はい」

「管原さんは品行方正で成績も良いから、みんな期待してるのよ。何か困ったことがあったら、何でも相談してね」


 作り笑顔で適当な相槌をうてば、まもなく職員室からは解放された。品行方正なお嬢様の役は、こういう時には便利である。

 けれどもその役も、ついに危うくなってきているらしい。一回目は大丈夫……けれど二回三回と続けばどうだろう。わたしの築き上げてきた信用が、イメージが、崩れていこうとしている。

 そして心のどこかで、それでも構わないと思っている自分がいた。

 一体どうしてしまったのだろう。いつまでも、いつまでも、心の空洞が埋まらない。関係を絶ったはずの、異母弟の姿を無意識に探してしまう。


 ――わたしは、もしかして……


 そんな風に考えることがある。

 その度、打ち消すように否定する。今更、考えること自体が無駄だ。彼とは別れた。二度と、関わることはない。


 ――これでよかったのだ。


 あの時、別れを切り出した陸に、何も答えることができなかった。

 言葉を忘れてしまったかのように物言わぬわたしを、陸は少し悲しげに見て、笑った。

 わたしの存在こそが、彼を苛ませていた。それを望んだのは他でもない自分だったのに、今更何を後悔しようというのか。そんなことが、許されるはずがない。




 誰もいなくなった放課後の教室に鞄を取りに戻る。先に部活に向かった泉には、気が向いたら行くと言ってあったが、やはりそんな気にはなれなかった。

 次の旅行はおそらく冬。今の時期は、来月の文化祭に向けた準備でもやるのだろう。

 ――どうでもいい。果てしなく興味が持てない。何もかも。


「……あっ」


 学校を出る前に寄った一階のトイレの前で、先に小さく声をあげたのは向こうだった。

 彼女ははっとしたように口をつぐむと、ばつが悪そうに視線を外し、そそくさとトイレから出ていこうとする。


「待って、天童さん」

「な……なんですか?」


 つい反射的に天童さん呼び止めてしまった。久しぶりに見た彼女は、わたしを警戒するように見てはいたが、元気そうに見えた。

 だけど――どうしよう。特に話したいことがあったわけではない。


「いや……その、最近見ないから。どうしてるのかなと思って」

「どうもしませんよ。安心して下さい。あたし、もう陸くんに近づいたりしませんから」


 天童さんの勝ち気なところは相変わらずだったが、意外と律儀らしい。それとも、もう陸のことは冷めたのだろうか。


「別に――そんな……わたしは」

「……どうしたんですか? なんだか先輩らしくないですね」

「そう……かな」

「もしかして、別れたって噂本当だったんですか?」


 そう言って、天童さんは眉を寄せる。図星を指されたわたしは、思わず言葉を飲み込んだ。

 別れたことは、誰にも話してはいない。けれども、泉などは薄々感じているだろうし、陸自身が話したのかもしれない。

 不意に、どうしようもなく嫌だと思った。もしかしたら今も、虎視眈々と彼を狙っているかもしれないこの子の前で認めるのは。

 それがたとえ、どんなに滑稽でも。


「違うよ。ちょっと喧嘩中なだけ」

「……ですよね。管原先輩が陸くんと別れるわけないと思ってました」

「そう?」

「そうですよ。だって先輩、彼のこと大好きだったじゃないですか」


 あまりにもストレートな表現に、わたしは少々面食らった。

 天童さんには、そんな風に見えていたのか。確かに、そういう風に演じてはいたのだけれど。


「あたし、実は先輩に感謝してるんですよ。欲しいものを手に入れるためには、なりふりかまってはいられないんだって。それがどんなに残酷でも、悪でも。先輩のおかげで勉強になりました」

「あはは……ありがとう」


 礼とも皮肉ともつかない天童さんの言葉には、苦笑するしかなかった。


「それじゃ、あたし急いでるので失礼します」

「ああ、うん。引きとめてごめんね」


 天童さんの後ろ姿を見送りながら、わたしはようやく自覚した。

 ずっと、彼女に嫉妬していたのだ。脅したのは半分、演技ではなかったと思う。陸をとられたくなかった。わたしの陸を、とられたくなかった。

 ここに至るまで、ずっと認めることができなかった。だって、彼は父の愛人の息子で、わたしの異母弟おとうとで。恋してはいけない人、だったから。

 わたしはきっと、救いようのない馬鹿だ。

 

 本当に大切なものは、失って初めて気づく――なんて陳腐な言葉なんだろう。




 それから数日が過ぎた。

 自分の愚かしさに気づいたからといって、何かをするわけではない。今のわたしにできることは、過去の自分をただ嘆くこと。そこから学ぶことくらいだろう。

 もちろん、そんなに早く切り替えられるわけがない。それでもいつか、本当に過去にできる日が来る。そう信じるしかなかった。

 完全にやる気をなくしていた勉強も、また、真面目に取り組み始めた。怠けていた分を取り返すのは容易ではないけれど。

 ただ――部活だけは、まだ復帰する気にはなれなかった。新部長は、三原さんに決まったらしく、部の雰囲気も随分変わったとか。だけど陸が来ているのか、泉に聞く勇気がなかった。

 臆病なわたしは、その日も授業が終わると早々に帰路につく。


「管原紗己子さん、よね」


 声をかけられたのは、丁度校門を出たときだった。

 その人は、小綺麗な格好でブランド物のバッグを持って、わたしににっこり微笑んでみせた。


「覚えているかしら、一度家に遊びに来てくれたわよね。椎名陸の母です」


 唐突な来訪に、驚きを隠せなかった。それでも、この女を忘れるはずがない。


「ええ――もちろん。その節は……」

「つまらない挨拶なんていいのよ。単刀直入に言うわ」


 不意をつかれながらも、なんとか愛想笑いを浮かべたわたしの言葉を、陸の母親は容易く遮った。

 そして――一瞬にして牙を剥く。


「言いたいことは一つだけよ。陸とは別れてちょうだい。何故かは分かるでしょう?」


 前に会った陸の母親と、同一人物とは思えなかった。

 おっとりした優しい母親の姿はどこにもなく、目の前には憎しみのこもった目でこちらを睨み付ける女が一人いるだけだ。

 彼女は更に、高ぶる感情のままに、黙りこむわたしを罵った。


「何とか言ったらどうなの? あなたが息子に色々と吹き込んでいるのは知っているのよ」


 校門周辺には帰宅する生徒がまばらにいた。陸の母親がヒステリックな声をあげるので、彼らの視線は自然とこちらに集まっていく。

 このままでは、明日の噂の的になりかねない。せめて人目のないところに、と思った。


「とりあえず、場所を変えませんか」


 母さん、と呼ぶ声が聞こえたのは、わたしが言ったのと同時だった。


「何やってるんだよ。先輩に何するつもりなんだ?」


 現れたのは、他でもない陸。

 もう一月は会っていない。久しぶりに見る陸は、心なしか少しやつれたように思える。

 そんな彼でも、姿を見れば心が躍る。嬉しい――と思った。


「何って、当然のことをしているまでよ。何があっても、あなた達のことは認められません」

「だから――先輩は関係ないって言ってるだろ!」


 陸はわたしと母親の間に割って入り、庇うように言い返した。

 不意に、わたしの中に今まで存在し得なかった感情が生まれる。

 それはまるで激情のようにこみ上げて、ついには心の蓋さえも動かした。


「……椎名くんのお母さま。わたし、彼と別れるつもりはありません」


 次の瞬間、驚きに目を見開いたのは、陸もその母親も同じだった。

 無理もない。言ったわたし自身すら、驚いていた。


「自分が何を言っているのか――分かっているの? あなたたちは血の繋がった……」

「では、お母さまはわたしの父との不倫を認めるのですね」


 わたしは静かに、いきり立つ女の耳元へと囁く。


「ご両親はご存じなのですか。兄弟は? 友人は? ご近所の方々は? きっと皆さん驚かれるでしょうね。こんなに立派な奥様が、実はただの愛人だったなんて」


 くすりと笑みをもらせば、女の顔から血の気が引いていくのが分かった。

 それを内心嘲笑っているなんて、どこまで醜い心根だろう。それでもこの女を黙らせるすべが、他に思いつかなかった。


「――取引、しませんか。お母さまが口外しないと約束してくだされば、わたしは誰にも話しません」


 私の中には、悪魔が棲んでいるのかもしれない。

 だけどそんなこと、今更誰が気にするものか。

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