11 告げる
陸との交際は、その後も続いた。
これまでと変わったことといえば、その交際がよりオープンになったこと。陸は学校でも外でも、わたしたちの仲を見せつけるように手を繋ぎ、ことあるごとに一緒にいたがった。おかげで、わたしたちの関係はあっという間に周囲に広まってしまった。
しかし二人が本当は姉弟であるという秘密だけは、陸も決して言わなかった。
それが逆に厄介なのだ。全てを暴露してわたしを糾弾するなら、こちらも諦めがつくというものを。
未だに、陸の本当の目的は分からない。わたしに復讐をしたいなら、もっと効果的な方法が他にあるはずだと個人的には思う。
いずれにせよ、向こうに主導権が握られているというのはどうも落ち着かない。気がつけば、いつも陸のことを考えてしまっている。
おかげで先日の期末テストの結果は散々だった。驚いた担任の教師に呼び出されて事情を聞かれても、事情は到底答えられるはずはなく。
捌け口のない澱が、心の中に積もっていく。それが徐々に自身を蝕んでいくこと知りながら、わたしは気づかないふりをした。
弱音も泣き言も、陸にだけは言いたくなかった。それは単に、負けを認めるようで嫌だったし、そもそも自分にそんな資格はないだろう。
それは最初、生理のせいだと思った。
「わたし、寝るから」
旅行の日、早朝に出発した新幹線の中で、わたしは早々に宣言した。
それは当然のように隣の席に座る陸に対するもので、暗に「話しかけるな」という意味であったが、彼は案の定にこやかに了承した。
いつも――こうだ。陸は彼に付き合ってさえいれば、それ以上のことは求めなかった。これまで通りの交際の継続……それ以上でも以下でもない。わたしを脅して従わせたいのなら、例えば性的関係でも強要すればいいのに、それもない。
わたしからすれば、気味の悪いことこの上なかった。本当の目的は? 一体何を企んでいる? わたしをこうして困らせ、悩ませることだけが、本当に彼の復讐なのか? 直接訊ねてみたこともあるが、陸はいつものらりくらりと話題を逸らすのだ。
しかしながら、昨晩から生理のせいか体調が思わしくないわたしにとって、移動中だけでも陸と白々しい会話をしなくて済むのは、せめてもの救いだった。
できれば行きたくなかったこの旅行、それでも来てしまったのは陸からの無言の圧力のせい。何故か「恋人」という形式にこだわる陸が、このイベントを見逃すはずがなかった。
別に今更、暴露したいならすればいい。そう思うのとは裏腹に、わたしは陸に従うように動いていた。
「先輩、起きてください」
陸に声を駆けられて目覚めれば、まもなく駅に到着するところだった。
相変わらず頭痛は昨晩から引かないままだし、寝不足も解消されずじまいで身体もどこかだるい。
「大丈夫ですか? 荷物持ちますよ」
「……ありがとう」
心配げにこちらをのぞきこむ陸に荷物を任せて、ホームに降りる。一歩車外に出れば、高温多湿の日本の夏。少しばかり都会を離れたからといって、何も変わりはしなかった。
駅からは少しだけ歩いて、引率の教師が運転するレンタカーに乗り換える。このまま車で周辺を観光して昼過ぎにはキャンプ場に向かうことになっていた。
国立公園にも指定されているという富士山を望む高原を訪れたわたしたちは、そこで散策および昼食をとる。
あまりにも雄大で美しい景色を目の当たりにしたわたしは、内心「これは嫌でも良いレポートが書ける」と思った。
正直言うと、山には全く興味がなかったが、いざ来てみるとこれはこれで良いのかもしれない。加えて周辺は標高が高く気温が低いため、暑さに溶かされそうだったわたしの体調は少しだけ回復した。
「紗己子、顔色よくなったね」
泉がそう言ったのは、レストランでの昼食の後だった。
女子トイレの鏡の前で化粧直しを済ませた泉は、ほっとしたように微笑む。
「え? ……そうかな」
「うん、朝と全然違う! 朝はずっと辛そうにしてたから」
わたしの隣に陸がいたように、泉もほとんど部長といたにもかかわらず、わたしを見ていたのは意外だった。
それは嬉しいと思う反面、申し訳なくもなる。
「ごめん。心配させてなんて知らなくて。今日、あの日だから……」
「ああーなるほど。旅行と重なるなんてついてないね。でも、そっか……」
「……?」
「いや、もしかしたら、ね。椎名くんと上手くいってないんじゃないかなあ、なんて、余計なこと考えちゃったり。私の勘違いならいいんだけど、最近元気ないように見えたから」
泉の純粋な瞳を見ていると、自分が情けなくなる。こんな友人に、わたしはまた嘘をつかなければならない。嘘を隠すための嘘を。
「……椎名くんは関係ないよ。ちょっと最近夏バテしてたからかな……昔から暑いの苦手でさ。体調崩しやすくなっちゃうの」
「そっかあ、気を付けなきゃね。でも、もし何かあったら遠慮なく言ってね。紗己子には助けてもらったし!」
泉は言ったが、わたしなんて何もしてない。アドバイスでも何でもない、適当な言葉をかけただけ。こんな風に優しくしてもらう理由なんてないのだ。
「ありがとう。頼りにしてるね」
裏腹な言葉と心。嘘ばかりついていると、時々……自分がどこにいるのか分からなくなる。
不意に――鳴りを潜めていた頭痛が疼きだす。お前に感傷にひたる権利はない、と言われている気がした。
キャンプ場に向かって出発した一行は、途中のスーパーで食材や必要物を調達して、十四時には現地に着いた。
早速皆で夕飯の準備を始める。顧問の先生、部長、陸の男子メンバーはコテージ側の備え付け大テーブルで火の準備を、残りの女子メンバーはコテージの中のキッチンで食材の準備をすることになった。
「では、長谷部先輩はお米をお願いします。皆ちゃんは京子と焼きそば、菅原さんと柏木さんは野菜のカットとサラダ、私は豚汁を仕込みます!」
何が三原さんをそこまで突き動かすのかは分からないが、とにかく彼女は燃えていた。しかし、ほとんどがアウトドア初心者であるわたしたちにとって、三原さんが頼れる存在であることは間違いない。
指示の出しかた、段取り、手際のよさ、仕切りの能力……そもそもこの旅行のプランが三原さんの提案である。指示されたように野菜に包丁を入れながら、わたしは次の部長は彼女だろうか、と思った。
三年生はこの旅行を最後に引退する。そして春には卒業……部長と長谷部先輩は学校からもいなくなる。そう考えると確かに多少寂しくはあるのだが、それ以上の感情はわいてこない。不思議だ。あれほど好きだった人と離れるというのに、悲しみ一つ感じない。
そうなってしまった理由をわたしは自覚している。わたしは、多分部長のことが好きではなくなってしまったのだ。
明白な理由。しかし、どうしてそうなってしまったのかと問われると、途端に分からなくなる。――何故?
「そういえば、天ちゃん結局来れなかったね」
共に野菜のカットに励む泉が、少し離れたコンロの前に立つ皆川さんと永塚さんを見ながら言った。
わたしを呼び出したあの日以来、天童さんは一度も部活に顔を出していなかった。辞めたとは聞いていないから、籍はまだあるはずだけれど。
「……そうだね。皆川さんも寂しそうだし」
「本当、どうしたのかな? 学校には来てるらしいけど」
「……そうなんだ」
おそらく……いや、確実に天童さんが来なくなったのはわたしのせいだ。そんなことは微塵も疑っていない泉に、ちくりと罪悪感が芽生える。
何を――今更……
馴れない手つきが二人、なんとか野菜を切り終わった頃、長谷部先輩がサラダを手伝ってくれていた。
他のメンバーも、もうほとんど完成が近い。
「ごめん。ちょっと外で休んでる。先に始めてていいよ」
「えっ――大丈夫なの?」
「平気だから、心配しないで」
驚いた泉になんとか笑ってみせて、わたしは一人コテージの外に出た。
先程から、一旦おさまったかと思った頭痛がどんどん酷くなっている。身体のだるさも更に増し、立っているのも結構しんどい。
だけど、きっとみんな楽しみにしていた旅行だ。誰にも知られたくなくて、わたしはコテージの裏手にしゃがんで身を潜めた。
自分でも馬鹿だと思う。こんなところに隠れて、落ち着くのを待っているなんて――……
「なぁにサボってるんですか、先輩」
軽い声が聞こえてきたのは、数分後だった。
その瞬間、もっと上手く隠れるべきだったと後悔しながら、顔を上げ立ち上がる。
「そっちこそ、火はついたの?」
「もちろん、完璧ですよ。俺は柏木先輩に探して来るように言われて……ていうか、先輩本当に体調悪いんじゃないですか?」
「……大丈夫」
陸にはあっさり見抜かれてしまったようだが、わたしはあえて否定した。生理の時の体調不良なんて、よくあることだ。
「でも、顔色悪いし」
「暑いの苦手だから」
「朝からずっとじゃないんですか」
「大丈夫だって!」
陸がしつこく聞いてくるので、わたしは思わず声を荒げた。苛々して、仕方がない。
こんなこと、以前ならあり得なかった。最近のわたしは、猫を被る余裕すら失っている。
「隠されて、何かあった時の方が皆が迷惑するんです。正直に言ってください」
「……ねぇ、何なの? 白々しく心配してるふりなんかして。付き合ってるふりもそう。何が目的なの?」
わたしが本性をあらわしても、全く引く様子のない陸に更に苛立ちが募る。
「ふりなんかじゃ……」
「じゃあ、なんだっていうの。もう限界なの! わたしのこと、皆に言いたいなら言えばいい! どうせ最初からそのつもりだった。それでもわたしはきみに復讐したかったの、ずっと憎くて大嫌いだったから!」
「俺とはもう、付き合いたくないって……ことですか」
「当たり前でしょ。誰が弟なんか……と……」
それ以上は言葉にならなかった。
視界がぐにゃりと歪む。立っていられなくなる――……
「先輩!」
次に気づいた時には、わたしは陸の腕にもたれかかっていた。
「……離して」
「こんな時に何言って――」
一瞬気が遠くなってしまったわたしを、陸が受け止めてくれたのであろうことは容易に想像できた。本来なら感謝の言葉こそあれど、憎まれ口なんてあり得ないはずなのに。
「触んないでって、言ってるの!」
――わたしのこと、嫌いなくせに。
「そんなこと言ってる場合ですか!」
本気で怒ったような陸の声が聞こえて、それから泉の慌てた声が聞こえて……それから、それから……
その後のことは、ぼんやりとしか思い出せない。
目覚めた時、わたしはコテージの寝室にいた。窓から差し込む光は既に赤く染まっている。
ベッドから身を起こすと、隣で椅子に座っていた陸が気づいた。
「先輩? 気分は?」
そう聞かれると同時に、コップに入った水を渡される。
それほど喉が渇いていたわけではなかったけれど、わたしはそれを受け取り、一口飲んだ。
「大分すっきりした……かな」
呟くように言うと、陸があからさまにほっとするのが分かった。
おそらく、ずっとついていてくれたのだと思うと、複雑な気分になる。
「もう適当に大丈夫とか言わないで下さいね」
「ごめん。本当に大丈夫」
実際、頭痛は嘘のように消え去っていた。身体のだるさは若干残るが、それほどでもない。
「バーベキューは?」
「今、表でやってますよ。何かもらって来ますか?」
「そうじゃなくて、きみは行かないの? わたしはもう、一人でも大丈夫だから」
そう言うと、陸は何故かひどく傷ついた顔をした。まるであの時――みたいな。
「すみません。先輩が体調崩したのは俺のせいですよね」
陸の突然の予想外の言葉に、わたしは思わず目を見開いた。
「いや、そういうわけじゃ……」
確かにただの生理痛で倒れたことなんて今まではなかったから、何らかのストレスが原因の一つにあったりはするかもしれない。だけどそれは、誰にも分からないことだ。
「慰めてくれなくていいですよ。先輩を困らせるって言ったのは俺だから。……俺、おかしいんです。姉弟がいけないってことは理解できるのに、どうしても、先輩のこと諦められなかった」
「……椎名くん?」
わたしは最初、陸が何の話を始めたのかを分からずに首をかしげた。
「だったらいっそ、頭のおかしいふりをしてでも、先輩を繋ぎ止めたかった。俺、先輩に復讐したいなんて思ってません。そりゃあ、最初は酷いと思ったけど、でも結局俺はそれ以上に先輩が好きなんだなって、思って」
陸の言葉は、堰を切ったように止まらない。
「父さんのことも、謝ります。俺、ずっと何も知らなくて……先輩と先輩のお母さんが辛い思いをしてる間も、ずっと、何も」
「や、やめてよ……」
陸は、ほとんど泣き出しそうだった。
別に謝って欲しかったわけじゃない。だって……きみは。
「別れて、もう会わないようにするのが一番だって分かってるんです。だけど、ちょっと欲を出しちゃって。この旅行が終るまでって、自分を納得させて。そのせいで先輩を苦しませてしまいました」
陸の言おうとすることが、ようやく分かった気がした。
わたしと目が合うと、彼は笑ってみせて、そして。
「仕方がないから、先輩のこと……もう解放してあげます」
別れを告げた陸は、どこか晴れ晴れとしていた。
わたしは別に、陸に謝って欲しいなんて思ったことはなかった。
だって、彼は何も悪くない。彼には一片の落ち度もない。
そんなこと、本当はずっとわかっていた。
それでもわたしは、彼を傷つけたかった。
その罪深さに、今更気がついた。