1 芽生える
母は、可哀想な人だった。
資産家の家で大切に育てられた、世間知らずの箱入り娘。そんな母は、大学で父に出逢い恋に落ちる。
そして母が二十四歳の時、二人は結婚。
翌年にはわたしが生まれ、母は幸せの絶頂にいる――はずだった。
「どうして、パパは帰ってこないの?」
わたしが物心ついたころ、父は数日に一度家に顔を出せばいい方だった。
幼稚園の友達のパパは、毎日一緒に遊んでくれるらしい、と聞いたわたしはよく母を困らせたものだった。
その度に、母は寂しそうにわたしに言い聞かせた。
「サキちゃん……パパはね、おしごとがいぞがしいの。だから、しかたないのよ」
娘とはほとんど顔も合わせない父の代わりに、母はよくわたしと遊んでくれた。
度々、母方の祖父母の家にも行った。祖父母もわたしを可愛がってくれたし、父がいない寂しさはそれほど感じなかった。
父なんていなくても、わたしは幸せだった。
だけどそれは、長くは続かなかった。
わたしは成長するにつれ、自分の家の異常に気づいていく。
この頃には、父はほとんど家に寄り付かなくなっていた。
表向きは「仕事のため」の別居。母自身がそう言っていたのに、母は毎夜帰らぬ父を嘆いて泣く。父のことを訊ねれば、ヒステリックになって叫んだりもした。
それでも、母は娘のわたしには父の悪口は言わなかった。
ただ一人で病んで、病んで、落ちていった。
わたしが父の不倫を知ったのは、中学生になってから。祖父母に貰ったお小遣いを貯めて、探偵を雇った。
この年頃になれば、大体の想像はついていたし、父に愛人がいたことにはそれほど驚かなかった。
驚くべきはその先。父と愛人の付き合いは、母よりも長かったのだ。出会ってからの時間も、男女としての仲も。
ならば何故、父は母と結婚したのか。
その答えは、母の実家と父の実家にあった。父の実家は会社を経営していて、父はその家業を継いでいる。しかし当時、会社は経営難で、会社の存続には莫大な資金が必要だった。
そこに現れたのが、資産家の一人娘で父に恋した母。
父は母と結婚し、母の実家からの支援金で会社の立て直しに成功する。
その間、愛人との関係は続けたままで、わたしが産まれた翌年には異母弟すら産まれていた。
父は結局のところ、少しも母を愛してなどいなかったのだ。
夫婦としての生活はほんの短い期間だけ。
あとは仕事と称して、愛人のところに通っていた。
母の不幸は、その心の弱さだったのかもしれない。
ついに病に倒れ、死に至るまで、母はとうとう父を糾弾することができなかった。
親にも、娘にも自らの苦しみを告白できずにこの世を去った。可哀想な人。
母が死んでから半年後。四十九日もとうに過ぎて、既に母がいない日常にも慣れてしまった。そんなある春の日のこと。
その日校門前は、入学式を終えたばかりの新入生とその保護者で混雑していた。
満開の桜の木の下で、入学式の記念撮影をする幸せそうな家族たち。
ちょうど一年前、わたしもここで母と写真を撮った。それが随分、昔のことに思える。
そんなこと考えた次の瞬間、ある一組の家族が目にとまった。
息が――止まるかと思った。
「紗己子? どうしたの」
泉の声で我に返る。
友人は、急に立ち止まってしまったわたしを不思議そうに見ていた。
「ううん。なんでも」
「かっこいい新入生でもいたんじゃないの?」
「まさか。初々しいなあって、思っただけだよ」
そう言って軽く微笑んで見せれば、泉は納得したように頷いた。
「確かにいいよね。なんかみんな可愛くて」
入学式の後、新入生とその保護者で混雑する校門前をすり抜けて、わたしたちは駅までの道を歩き出す。
わたしは、泉に見えないように一度だけ振り返った。
間違いない、あれは父だ。
父とその愛人と、二人の間に生まれた息子。
確信に変わった途端、父に対する憤りが沸々と沸き上がる。
本妻の子と愛人の子を同じ高校に通わせて、堂々と入学式にも現れるなんて、どういう神経をしているのだろう。
わたしが何も知らないと思って舐めているのか、それとも単にわたしがここに通っていることを知らなかったか。
多分、その両方だと思う。
昔から父は、わたしに興味がなかった。
一緒に遊んでもらったこともなければ、誉めてもらったこともない。
親戚の集まりの時だけ、白々しく母とわたしの名を呼んだ。
きっと今、父は母が死んでせいせいしているのだろう。
母の葬儀の時だって、涙一つ流さなかった。それらしく神妙な顔をしていたって、わたしには分かる。
汚らわしい男。初めから、母の実家の援助だけが目当てだった。
母を死なせておいて、自分だけがのうのうと幸せになるつもり?
許さない。そんなこと、絶対に。
「ねえ、大丈夫?」
「え? なにが」
「なにがって……さっきから、ずっと上の空だったでしょ」
気づけば、駅の改札口だった。わたしと泉の家は逆方向にあるから、いつもここで別れる。
「ごめん。ちょっと考え事してた」
「もう、紗己子ってば。心配したんだからね」
母が死んで間もないことを泉は知っているから、いつもこうして気遣ってくれる。優しい子。わたしが心許せる数少ない友人だ。
だからといって、全てをさらけ出せるわけではもちろんない。
父の不倫も、家庭が冷えきっていることも何も話してはいない。
話せるわけない。こんな真っ黒い感情を。
「大丈夫だよ。でもありがとう、泉」
いつものように笑顔を作れば、素直で可愛い泉はほっとしたように微笑む。
「また明日、学校でね」
上りのホームへ向かう階段に消えていく泉を見送りながら、わたしはどうしようもなく沸き上がる苛立ちを噛み殺した。
何度思い出しても腹が立つ。
もう母のことなど忘れたような顔の父。
わたしたちから盗んだ幸せを、当然のように謳歌する女。
そして、何も知らない異母弟。
両親に愛されて、自分の罪深さも知らないから、ヘラヘラと笑っていられる。それが憎い。
――いっそ、壊してやろうか。
不意に浮かんだ考えが、何故かとても魅力的に思える。
どうして今まで思いつかなかったのか。
もっと早くに、そうすればよかった。
わたしにはその権利があるのだから。