1話
画才しかない男は農村ばかりを描いて生計を立てていたが、ちょっとしたきっかけで、描く対象を少女に据えた。これは描く者と描かれる者の物語である。
一
「ウエンディ、すまないが。」
「はあい。」
赤茶色の髪は顔前も肩半ばまである下端も揃えられており、器用にも自分で切ったらしい髪―おさげの三つ編みを揺らし駆ける少女はウエンディという。目じりがやや吊り上り日焼けした肌をものともせず生命力を感じさせる印象を与える少女である。名は孤児院に居た頃に与えられたもので愛着があり、実の親も本当の名前もわからないがゆえに変えたくないらしい。
一方少女を雇った男はヘルヴェールといい、絵を描くこと以外には何も学んでこなかったのだろうかと疑われるほど興味関心がなく、実際できないのだった。ウエンディが家事をしにやって来た当初のこの家の惨状は記すのをためらわれるほど、転がった絵具や絵筆と紙で溢れていた。ヘルヴェールは実子でありながら両親には愛されず、子どものできなかった伯母に養ってもらった素性の持ち主である。伯母は穏やかな性格の資産家だったから、生活にも愛情にも困ることなく、そして甘やかされて躾されることなく育ったヘルヴェールは一種のお坊ちゃん同様、身の回りのことを自分でするという意識がない。それより絵を描いていたいと言うのだ。だから身なりは汚く、なんでも絵具で汚してしまうため、仕事のみをする手伝いが来ないというのも事実だった。
そんなヘルヴェールがなりゆきでウエンディを引き取り面倒をみることになった―というのは体裁のためで周りから見るとようやくほっとしたというのが本当のところである。とくに知らせを受け取った伯母はたいそう喜んで、ウエンディ宛てに服や衣類を大量に送った。少女が喜びそうなものとして、彼女なりに気を遣ったらしかったが当のウエンディはそれらを全て売り払ってお金にしたのち、修道院の修繕費の足しにした。
この一件を受けて、ヘルヴェールは大層ショックを受けた。それは滅多に彼が見せない表情らしく、はじめはなにか引き付けを起こしたかのように苦しみ、そして情緒不安定のように大声でむせび泣いていた。ヘルヴェールは己の優遇された生活に対し自覚がなくそれゆえ理解したときに深く胸を痛めたのであった。ところが内情を理解できなかったウエンディは冷静に医者を呼んだ。
ヘルヴェールは人を疑わないかわりに、身の回りに人を置くことをかなり嫌がった。それは伯母の環境下で過ごした幼少期から続くもので、警戒心が強く、他人が傍に居ると落ち着かないのであった。彼自身は相当の変わり者だということを自負していたが、説明する場所もなくいつも沈黙したままであった。そして彼は言葉として”当てはめることができないもの”が多いからと口にする言葉はいつも数単語というようなものだった。それがヘルヴェールの正直なきもちであったが、人はそうは取らず、なんと未熟でなまいきなこどもなのだろうとして扱われた。
そんなヘルヴェールが見知らぬ少女と会話し、暮らすというのは大進歩だったし、ヘルヴェール自身も緊張していたのである。ウエンディを家に連れて帰った折、「名前、何にする?」と『お前の名前は何というのか』『何と呼べばいいのか』でもなく、つまり当たり障りのある言い方をしてひどくウエンディが怒らせてしまった。ちなみに『おい』や『お前』とか呼ぶという思考は彼にはなかった。このことをきちんと説明するのにヘルヴェールは一晩中かかって、付き合わされたウエンディはしかし義理固いように眠い目をこすりながら付き合った。
出会った当初から二人の波長が合わず―常識的に考えればヘルヴェールがなっていないのは誰もが頷くことだろう―しかし不思議なことに以後現在までウエンディはなぜかこのぼろ小屋を出てゆこうとしない。
そもそもヘルヴェールがウエンディを引き取ったのは、彼の唯一の友人―しかしそれも悪友のキールからの誘いがあって、「お前、孤児院のこどもを養ってやったらどうだ?」とキールは酒瓶片手ににやりと笑った。対してヘルヴェールは「自分はあまり稼ぎが安定した職業ではないし、そもそも人づきあいを満足にもできないしこどもを相手にできるほど大らかではない。」という内容の言葉を本人の努力で並べられるだけ連ねたが、「お前はどんな人間でも会って経験した方がいいんだよ。」と強引に丸めこまれ、当人としては一旦は断りを入れたつもりだったが既に引き取ることになっていた。腹を括って孤児院まで迎えに行くと件の少女―まだ十歳程度と思われる―が背を向けぽつんと草むしりをしていた。「ほかのみんなは貰われて行ってしまったから、わたしがここをきれいにしなきゃ」泥に塗れた手で顔にかかる髪を払いながら少女は答えた。大変いじらしい少女に惹かれヘルヴェールは少女の手を引いた。ヘルヴェールは自身でも意外だったように少女の手を引きながらも震えた。訝しむ少女に何か言わなくてはならない。ヘルヴェールはひとつの案を口にした。「だったら俺の家から通わないか。」いきおいよく顔を上げた少女ウエンディの青い瞳の透明さに、ヘルヴェールは一生であるかないかというくらいに胸を打たれたのであった。
ヘルヴェールはウエンディの後ろ姿を見送って再び筆を手に取る。しばらくしてウエンディは紙に包まれた両手一杯の大きさの届け物を持ってきた。
「これ、グリーズのおばさんからよ。」
淡々と答えるウエンディに男は礼を言う。以前ウエンディに敬語は必要ないから止めてくれと男はお願いしたのだ。忠実に少女はそれを守る。
「…ありがとう。」
ヘルヴェールの声は聞き取りづらくタイミングもずれていて、ウエンディはあえて待った上で聞き取るとさっと身を翻した。このウエンディという少女は適応能力が高く、よっぽど我慢強く、大人びているのだった。実際、ヘルヴェールは真逆といっていいほど絵を書く以外の日常動作すべてが幼子のようであった。料理も洗濯も窓の開け閉めでさえ―しかもこのぼろ小屋の窓の鍵は壊れており開け閉めにコツが要るのである―ウエンディに任せきりなのであった。ヘルヴェールは自己完結したようにキャンバスに目を向けた。要するに現実逃避でもある。
その日、夜遅く夕餉の時間を忘れてさえヘルヴェールは絵に没頭した。いつものように描こうと思って描くのではなく唐突に無性に描きたいと思ったのだ。「はやく形にしなくては!」その感情がヘルヴェールを動かした。寒さと空腹でパレットを持つ手が震え始めるまで彼自分を制御できなかった。ちょうどその時ウエンディが二度目の控えめなノックで顔をのぞかせた。
「ここに置いておくわ。」
律儀である。
「…ありがとう。」
ヘルヴェールは毎日「おはよう」「おやすみ」そして「ありがとう」「ごめん」しか口に出していないが、本人はこころのなかで言っているつもりだった。
キャンパスにはいくつもの少女の表情、それに決まってドアから覗かせるポーズを描いていた。
―もっと、ウエンディのことが知りたい。
それは奇妙なほど冷静な興奮だった。友情や恋愛とも違う、もちろん家族愛でもない、ただウエンディという存在に対する好奇心が治まらなかった。人間に対して興味、まして好奇心を抱いたのはこれがはじめてだったヘルヴェールは、今はじめて自分のことがよくわからないと思ったのであった。