【九】
ヘルシングの怪我は驚異的な早さで回復した。傷跡が残ることも、体力が落ちることもなく、むしろ以前よりも調子がいいくらいだ。
「約束だ。ヴァイトの力を消してくれ」
吸血鬼とともに数日を過ごしたというのに、ヘルシングの態度は頑なに彼らを拒絶する。
美しい女王はため息をつき、ヘルシングとヴァイトをそばに呼び寄せた。
「ヘルシング殿、ヴァイトの頬に手を。力を抜いて、そう、呼吸を合わせて」
言われたとおりにするが、何も起こらない。
ヴァイトはくすぐったそうに目を細めて笑う。そしておもむろに、ヘルシングの懐にしがみついた。
「ねえ、人間の国に戻るの? なんで? ずっとここにいた方がいいよ。ボク、あんたのことはけっこう気に入ってるんだ」
「離せ。俺はおまえの眷属でいるつもりはない」
冷たい言葉が幼いヴァイトを傷付ける。ではなぜ、頬を包む手はこれほどに温かいのか。
ヴァイトは泣き出しそうなのをぐっと堪えた。
「では、力を戻します」
女王はヘルシングの手に自分の手を重ね、瞳を閉じる。触れた手が熱を帯び、ヴァイトは優しい力が流れ込むのを感じた。
やがて頬に残っていた傷が消える。治癒の能力を取り戻したのだ。
「これであなたは元の人間に戻りました」
非力で、少しの怪我や病気でさえ命を落としてしまう弱い人間に。
ヘルシングは口の端を上げて自嘲気味に笑った。
身体が重くだるい。使い慣れた大剣でさえ、どう扱えばいいのか戸惑うほどだ。
「……我がブランパニア城に人間は招かれざる客。早急に立ち去りなさい」
命じる女王の瞳は氷のように冷たい。ヘルシングはため息をつく。
「おい、ヴァイト。席をはずせ」
すっかり拗ねてしまったヴァイトは何も言わずに背を向ける。
それと同時にヘルシングは女王の腕を掴み、自分の方へと引き寄せた。
「離しなさい、無礼者」
しかし女王は広い胸に額を押し当て、瞳を閉じる。かすかに震える肩が愛おしくてたまらない。
そっと背を抱くと、すがるように身を預けてきた。
「なぜ神は、人間と吸血鬼を憎しみ合うように作ったんだろうな」
「あなたたちが……神への信仰を捨ててしまうからでしょう?」
ほほ笑む顔はまさに女神。
ヘルシングは襟元を緩めた。
「引き止めるなら今だ。噛み付いて、力を吹き込み、永遠におまえのものにすればいい」
目の前に露わになった男の首筋に、女王は赤面する。
「い、言ったはずです。私は私欲であなたを眷属にはしません」
それに、とつぶやき、女王はヘルシングの首筋にそっとくちづけた。
「私がほしいのはあなたの心。意思のない傀儡などいらない」
「……つくづく相容れないな」
もはや言葉は無用。
ヘルシングは女王の髪を撫で、頬に触れ、そして唇を重ねた。
「……」
このまま時が止まればいいと思った。
女王は美しい瞳からはらはらと涙をこぼし、それでも気丈にヘルシングを突き放す。
「お行きなさい、誇り高い人間の騎士よ。ここでのことは忘れ、どうかひとの世で……お幸せに」
彼女は孤高の女王。血族をまとめ、人間を愛し守る慈悲深い女王。ただ一人の男にうつつを吐かすことは許されぬ。
ヘルシングは美しい女王をしかと瞼に焼き付け、城をあとにした。
「……なぜ……記憶を?」
柱の影から始終を見ていたヴァイトは、泣き崩れる女王をどうして慰めればいいのかわからなかった。