【八】
月はとうに沈み、東の空が白んでいるというのに、エリーゼは窓辺でうとうととまどろんでいた。
膝の上には編みかけの小さな靴下。腹の子のために、不器用ながら一目一目愛を込めて編んでいるのだ。
「まあ、奥様。窓を開けっ放しで。お体は冷えていらっしゃいませんか? すぐに温かいお茶をお持ちしますね。どうぞ、奥でお休みくださいませ」
様子を見にきた女中のラウラはいそいそとベッドを整える。
「ああ、私、つい夢中になって。ふふ。編み物っておもしろいわ。私、この子のためにたくさん編んであげたいの」
「あら、旦那様には編んで差し上げないのですか?」
エリーゼは想像してみる。あの強面のブラド・ドラキュラ伯が、手編みのマフラーなどを巻いているところを。
ラウラも同じく想像して、笑った。
「あは、あ、いえ、奥様の編まれたマフラーなら、きっと喜ばれますよ」
「そうかしら。ふふ。次の冬までに編めるかしら」
ブランパニアの冬はとかく寒さが厳しい。不死の身とはいえ、心まで凍えることはない。
「さあ、どうぞ。ゆっくりお休みになって、赤ちゃんのためにも――」
エリーゼは立ち上がり、短い夜を名残惜しそうに振り返る。
「どうして私たちは、夜の世界でしか生きられないのかしら」
窓の外はいよいよ明るい。エリーゼは諦めて寝室に入った。
その時だった。
騒々しい音を立てて駆け込んできたのは、城門の警備を任せていたブラドの眷属だ。
彼はエリーゼの前で大量の血を吐き絶命した。その胸には深々と銀の杭が打ち込まれている。
「ひ……!」
エリーゼは短い悲鳴を上げ、すぐにベッドの向こうに隠れた。
人間だ。ヴァンパイアを吸血の鬼と忌み嫌う人間が、城内に侵入してきたのだ!
機転を利かせたラウラはすぐに寝室に鍵をかけ、タンスを動かし扉を隠した。
ほどなく、大勢の足音が部屋の前に集まる。
なるべく平静を装い、掃除をしながらやり過ごそうとした。
「ラウラ? おまえ、ラウラか?」
扉を蹴破り押し入った一人が、ラウラの肩に掴みかかる。
「お、お父さん!」
「ああ、ラウラ! やっぱりおまえか! 無事だったんだな」
山菜採りに出かけたまま行方不明になった娘を案じていた父親だ。親子は再会を喜び、抱き合って涙を流した。
「ああ、ラウラ、こんなひどい傷を……くそっ、吸血鬼め!」
「違うの、お父さん。これは崖で足を滑らせて。動けなかった私を奥様が――」
言いかけて、慌てて口をつぐむ。
奥の寝室に隠れるエリーゼの存在を知られてはいけない。
しかし父親は顔を強ばらせ、ラウラを突き放した。従軍していた司教が聖水を振りまき討伐隊に指示すると、彼らは銀の杭を手に大槌を振るった。
狂気。
一つの信念のもとに動く彼らを止めることなどできない。
「あったぞ、隠し扉だ!」
エリーゼは暗闇の中で震える。
(あなた、助けて……!)
隣の部屋で先に休んでいる夫は気付いているだろうか。しかし、夜明けが近い。たとえ気付いていても、寝室から出ることは難しい。
エリーゼは声を出さぬようにしっかりと口を塞ぎ、できるだけ身を縮めて、どうか彼らがこのまま立ち去ってくれるようにと祈った。
だが、人間たちは容赦なく汚い靴で部屋を踏み荒らす。
ついに松明の火がエリーゼを捉えた。
「いたぞ! 女だ!」
可哀想に、まだ少女のあどけなさを残す愛らしい女吸血鬼は、恐怖に顔を引きつらせ、大粒の涙をこぼしている。
「お願い、見逃して……。私、あなたたちに危害を加えたりしないわ」
かすれた声は狂気に満ちた人間たちに届くはずもなく。
神を信じ、邪悪な存在を討ち滅ぼすと信じ、彼らは笑みさえ浮かべて銀の杭を打ち込んだ。
「あ……ああ……あなた、ごめんな……さい……赤ちゃん……私たちの……守れなくて……」
意識が遠のき、身体から力が抜けていく。
「……」
案内役を買って出た旅人たちは、呆然と立ち尽くした。
「……違う」
「彼女は……」
エリーゼの力が消え、暗示が解けたのだ。記憶が戻る。
一宿一飯の世話になり、お礼にと茶を贈り甘いケーキの焼き方を教えた、あの優しい夜の記憶が――
「お待ちください、司教様!」
「私たちは彼女に――!」
開放された窓から朝日が差し込み、部屋中を金色に染める。
倒れたテーブルから転がった淡いピンク色の毛糸玉、同じ色の小さな靴下は仕上がることなく。