【五】
静かな夜の山道に、地を割く蹄の音が響く。
息をすることさえ忘れて単身馬を駆るのは、吸血鬼討伐隊長ヴァン・ヘルシングだ。
止めなければ……
彼はただその一念で愛馬に鞭を振るう。
美しい女吸血鬼と約束を交わし、下山したヘルシングは英雄として迎えられるはずだった。
しかし待ち受けていたのは国王の勅使と教会、彼らはヘルシングを捕らえ査問した。
「ヴァン・ヘルシング、おまえは神と国王を裏切り魔に魂を売ったのか」
否。
「魔と手を組み人類を脅かすのか」
否。
「女吸血鬼の美しさに惑わされたのか」
否!
ヘルシングは机を叩いて立ち上がり、査問官を睨みつけた。
「俺は、二度と人間を襲わないと吸血鬼どもに約束させた。もう人間が奴らに怯えることはない」
査問官は半ば憐れむようにヘルシングを見下ろしため息をつく。
「まったく、これだから田舎者は……」
「何?」
「田舎者だと言ったのだ。誰が吸血鬼どもと和解しろと言った。国王陛下はおまえに吸血鬼討伐とかの城の攻略を命じたはず。それをたかが口約束を取り付けたくらいで英雄気取りか」
「……」
その時はじめてヘルシングは気が付いた。
これは人間に害なす吸血鬼を討ち滅ぼし、平和な世を築くための聖戦ではない。彼らの城を手に入れ、さらに西へ侵略するための足がかりとする、言わば戦争を起こすための戦いだったのだ。
信心深いヘルシングは天を仰ぎ、人間の罪を恥じた。
「査問官どの」
証人席で挙手したのは、先ほどまで副官を務めていた男だ。
「我々は見ました。ヘルシング隊長が自らの血を与え、憎き吸血鬼の子を助けたのを!」
傍聴席がざわめく。副官は薄汚い笑みを浮かべ、やはりヘルシングを見下ろした。
もはや言い逃れはできない。
「神への反逆は大罪。明朝まで牢につなぎ、日の出とともに磔に!」
言い終わらないうちにヘルシングは扉を守る部下を殴り倒し、教会を飛び出した。
「い、いかがいたしましょう……?」
「放っておけ。たかが田舎者の剣士一人に何ができる? 吸血鬼の餌食となるか、それとも奴らの眷属となり我らに歯向かうか。万が一にも吸血鬼どもを全滅させたならば褒めてやろうじゃないか」
醜く太った司教はヘルシングを嘲り、袖の下を渡した副官を新たな討伐隊長に任命した。
厚い雲が月を隠す。
灯りの一つも持たずに馳せ続けるため、長い木の枝や藪に何度も突っ込み顔も手足も傷だらけだ。
それでも止まるわけにはいかない。なんとしてでも争いを回避しなければ。
「なぜ、奴らの強さに気付かない……!」
あの時、砲撃の直後に負傷していたのは金髪の少年ただ一人。女吸血鬼をはじめその他の者は全て無傷だった。それが頑強な肉体のせいか、不死の力のせいかはわからない。だが、奴らはたしかに人間のはるか及ばぬ強さを有していた。
愚かな部下たちだが同じ人間、死なせたくはない。
あの女吸血鬼ならば話ができるだろうか、そう一縷の望みにかけて彼らの根城を目指した。
「こんな夜更けに何の用だい、騎士サン?」
それははじめ風の音かと思った。
振り返ると、背後に金髪の少年が座って厭味な笑みを浮かべているではないか。
「――ッ!」
「おっと、危ないな。急に止まったらこの子が足を折ってしまうよ?」
少年は身軽に馬から飛び降り、改めてヘルシングを見上げた。
「……あの女吸血鬼と話がしたい」
「クイーンのこと? まったく無礼だね、人間は。クイーンに会いたいなら、それなりの誠意を見せなよ」
なんと生意気な態度だ。
だが今は一刻を争うとき。つまらぬ誇りは捨て、ヘルシングは下馬して少年に傅いた。
「……火急の用で参りました。女王陛下にお目通りを」
「ふ……はは、おもしろいやつだな。いいよ、クイーンに会わせてあげる。でも今夜はダメだ。誰かさんが壊した城の修復に忙しいからね」
「……」
「明日なら会えるかもね。それまでここで、人間たちの侵入を防いでいてよ」
ヘルシングはどきりとした。彼らには予知の力もあるのか。
いや、少し考えればわかることだ。気付かずにいた自身の愚直さにうんざりする。
「騎士サンはボクの恩人だから、少し力をわけてあげるよ」
そして少年は一瞬のすきにヘルシングの首筋に噛みついた。
痛みはない。ただ強烈な甘い香りが鼻の奥を刺激し、全身が燃えるように熱くなる。
「やめ……ろ……!」
憎き吸血鬼に頭を下げただけでも屈辱だというのに、妖しい力を吹き込まれるとは!
「あはは。さあ、人間は約束を守れるかな?」
楽しげな笑い声を残し、少年は闇に溶けるようにして姿を消した。
あたりに静寂が戻る。生温かい風が吹き抜けるたびに不安を煽った。
この身一つで国王の正規軍を止めろと言うのか。
ヘルシングは腰に差した大剣を確かめる。やるしかない。
どうせ街に戻れば反逆者として捕らえられるのだから。同じ命を捨てるのなら、少しでも希望のある方を……
ヘルシングは愛馬を放し、森に紛れて夜明けを待った。