【二】
沈みかけの太陽が不吉なほどに周囲を赤く染める。
立ち込める硝煙とおびただしい血のにおいが混ざり合い、男はうんざりと眉をひそめた。
「まったく、きりがないな」
鋭い瞳はまっすぐに前方を睨めつける。
国王軍の紋章が入ったマントを羽織り、聖十字を模した大剣を携えるのは、此度、吸血鬼討伐の勅命を受けた若き指揮官ヴァン・ヘルシングだ。
眼前の城は陥落まであと一息と思われた。
だが、先ほどから迎え討つのは奴らに隷従を誓った眷属ばかり。呪われた怪物に魂を売り渡した裏切り者。
いまだに姿を見せぬ敵に苛立ちが募る。
ヘルシングは大剣を天に掲げ、号令を発した。
「撃て!」
同時に大筒が火を吹き、轟音とともに城壁の一角が崩れ落ちる。これでは不死身の吸血鬼といえどもしばらくは動けないだろう。
「突入!」
第二の号令とともにヘルシングは自ら先陣をきって敵城に駆け込んだ。
静まり返った廊下に高い靴音が響く。
厚く閉ざされたカーテンには金銀の刺繍、丁寧に細工された調度品、古い甲冑、美しい女性の肖像画……洗練された品々は、とても化物の住まう城とは思えなかった。
やがて日が沈み、完全な闇に覆われる。空気が急激に冷やされ、一行は全身が総毛立つのを感じた。
「お、恐るな! 我らには主の加護がある!」
かすかな松明の火を頼りに、さらに進もうとした時だった。
暗闇に浮かぶいくつもの赤い光。
整然と並んだそれが、吸血鬼たちの瞳だと気付くのに時間はかからなかった。
ヘルシングは息を呑み、大剣を握り直す。
「……けて、お願い、助けてください!」
「――ッ!」
危うく松明を落としそうになり、慌てて一歩退く。
いつの間に、物音も立てずに懐に入ったのだ!
ヘルシングの負けは確定した。
だが、敵は首筋に噛みつくことも、胸にナイフを突き立てることもなく、ただ涙を流してすがりつくばかり。
「お願いします、ほんの少し、あなたの血をわけてください!」
「……」
揺れる火に浮かぶ彼女の顔があまりに美しく、誰もが言葉を失った。
陶器のように白くすべらかな肌を縁取る輝く金髪、涙に潤んだ瞳はルビーのごとく。甘くかぐわしい香りに頭の奥が痺れるのを感じた。
「う、あ……離せ!」
「お願いです、あの子を……どうかあの子を助けてください!」
見れば背後に控える吸血鬼の一人が、幼い少年を抱きかかえている。
先ほどの砲撃の影響か、少女のようによく整った顔は血で汚れ、苦しそうに吐く息が浅い。
「助けて。お願い……あの子さえ助かれば、今後いっさい人間の血を欲しません」
一行はどよめく。それはまさに彼らの望むところ。
だが、よもや怪物の言うことをおめおめと信じはしまい。
討伐隊員たちは固唾を飲んでヘルシングと女吸血鬼のやりとりを見守った。
「……あれは、おまえの子か?」
「いいえ。ですが、子供は血族の宝。死なせるわけにはいかないのです」
決して彼女の美しさに惑わされたわけではない。ただ、少年の流す血が人間と同じく赤かったからだ。
「二度と人間を襲わぬと誓うか」
美しい女吸血鬼はうなずく。
「た、隊長、まさか!」
「子供とはいえ憎き吸血鬼を助けるおつもりか!」
それには応えず、ヘルシングは手にした大剣を自分の腕に薄く当てた。一筋の赤い血が流れる。
「……主は無益な殺生を好まれない」
「あ、ありがとうございます!」
女吸血鬼は細い手でヘルシングの腕をとり、そっとくちづけるようにして滴る血を一口含んだ。そして少年の方へ駆け寄り、それを与える。
「飲みなさい、ヴァイト!」
反射か本能か、かすかに喉が動いた。どうやらうまく飲み込めたようだ。次第に呼吸が落ち着き、頬に赤みが差す。なんという生命力。
「ああ、ヴァイト……。人間の騎士殿、ありがとうございます」
「……約束は守れよ」
ヘルシングは剣についた血を払い、鞘に収める。そして踵を返して不服そうな隊員たちに撤退を命じた。
「騎士殿、約束は守ります。ですが、あなたたちが再び我がブランパニア城に攻め入った時には容赦しません。いいですね?」
その心配は無用とヘルシングは一瞥し、城を後にした。
しかし、現実はそれほど簡単ではなかった。