【一】
ボクはただ一人待ち続けている。
この広い城でただ一人、彼女が永遠の眠りから覚めるのを。
彼女の眠りを覚ましてくれる、あの男を。
ボクは待ち続けている――。
ミスタルシア大陸の西の果て、厳しい寒さとそびえる針葉樹に護られるは古城ブランパニア。切り立つ断崖が要塞のごとくひとを拒絶する。
否、たとえ開かれた地であったとしても、かの城を訪れようなどと思う者はいるまい。
美しく、そして荘厳なブランパニア城に住まうのは、人間の血を好み、不死の身を持つヴァンパイアの一族なのだから。
バルコニーで夜風に当たりながら、ヴァイトはため息をつく。
細い月の光は青白く、少女のようによく整った顔とやわらかな金髪を儚げに照らした。
広間では今宵も一族が集い、終わりのない彼らの未来について議論を交わす。
中でも近頃力を付けはじめたアルカードは、血気盛んな若者たちの中心となりやれ人間狩りだ、世界征服だと声高に叫んだ。
「なぜ人間よりもはるかに優れた我々が、このような辺境の地に身を潜めねばならない? 我々こそが世を治めるのに相応しいと思わないか!」
盛大な拍手と歓声が起こると、アルカードは満足げに笑みを浮かべる。まるでこの黎明の館の主にでもなったかのような振る舞いに、古参の者はうんざりと眉をひそめた。
「隣、よろしくて?」
不意に声をかけられ、ヴァイトは驚き振り返る。
亜麻色の髪を緩く編み、まだ少女の面差しを残す愛らしい女性は返事を待たずにヴァイトの隣に並んだ。
「ああ、夜風が気持ちいい。ふふ、男の方たちのお話って、なんだか難しくてつまらないわ」
「ブラド夫人……」
「あら、エリーゼと呼んでくださいな」
彼女の可憐な笑顔に、ヴァイトは思わず頬を染めた。
「ヴァイト、あなたはいつもこうして一人でいるのね」
「……あんな会合、意味がないから。クイーンは人間との共存をお望みだ。なのにアルカードのやつ、クイーンを差し置いて勝手なことを」
静かな怒りにヴァイトの瞳が赤みを帯びる。エリーゼは少し困った顔になり、そして話題を変えた。
「ねえ、ヴァイト。今度、遊びにいらして。とても美味しいお茶をいただいたの」
「お茶?」
「ええ。新しいケーキの焼き方も教わったのよ。私、あなたのために美味しいお茶とケーキを用意するわ」
彼女はなんとも無邪気に、楽しげにヴァイトを誘う。
「ブラド夫人……いえ、エリーゼ、あなたはまた人間を!」
「あら、いけない。誰にも内緒だったのに。お願い、あのひとには言わないで――」
「何を内緒にしていたのかね」
エリーゼは短い悲鳴を上げてヴァイトの背後に隠れた。
腕を組み、赤い瞳で二人を睨みつけているのは、彼女の夫ブラド・ドラキュラ伯だ。
「あ、あなた、聞いていらしたの! お願い、怒らないで。私、きちんと暗示をかけておきましたから。二度とここには来ないように、ここには恐ろしい吸血鬼がいるのよ、と……」
「恐ろしい吸血鬼というのは、私のことかね」
ぐっと眉間にしわを寄せると、元来の強面がさらに恐ろしくなる。エリーゼが震えているのが、肩越しにわかった。
ヴァイトは笑いをかみ殺す。
「ブラド伯、奥方にお茶を誘われたのですが、今度お邪魔してもよろしいでしょうか」
「ほう。妻の相手をしてくれるか。私はどうも甘い菓子は苦手でね」
ブラドは不器用に笑い、そして泣きそうになっている愛しい妻の髪を撫でてやる。エリーゼは嬉しそうにうっとりと目を細めた。
「……仲がよろしいのですね」
「ん? あ、ああ、まあ、その……そうだな」
まさか厳格なブラドが照れて顔を赤くするとは。
ヴァイトはほほえましく、そして少しうらやましく思う。
「ヴァイト、いつでも遊びにきなさい。クイーンの警護は血族の義務。おまえだけが背負うことはない」
「……ありがとうございます」
夫妻を見送り、一人になったヴァイトはまた月を見上げてため息をついた。
――ヴァンパイアと人間の共存
かつて女王は言った。
我々は無暗に人間を捕らえ殺してはならない。我々の力は人間から与えられたもの、それを忘れては身を滅ぼすだけ。
人間に感謝し、彼らを愛し守りなさい、と。
(……ですが、クイーン)
人間たちは我々を恐れ忌み嫌う。
広間からは耳障りな演説が続く。
今夜いく度めかのため息がこぼれた。
(ボクたちは、あなたのようにはなれない)
そう、ヴァンパイアと人間が愛し合った奇跡のような瞬間は、たしかにあったのだ。