遭遇
――――ぐっ――う、――――んっ!
男が片腕と体幹のみで引いた力で、単車ほども重量のあるギグモの体がいとも簡単に宙を舞う。
男は糸を刀で断ち切るのではなく、屋内へ引きずり上げようとするギグモを綱引きのように逆に引っ張り出し、剣玉遊びの玉のように無造作に地面に叩きつけた。
自重と男の力とを合わせて高みからコンクリートに落とされた、内部に至る衝撃には、流石の金属の甲殻もほとんど意味を為さない。体の異常か、それとも痛みからか、蜘蛛の体は成す術もなく痙攣している。
「!!」
体中にじわりと、しかし急速に広がる痺れの中、強烈な力が糸に掛かり、地面の感覚が消失した。
無数の蟻が外と内を這いずりまわるような感覚とともに味わう浮遊感。いや、高速で移動する体に横向きの重力がかかるいわば飛翔感とでも言うべきそれは、凄まじい勢いでギグモの脳に死を予感させた。
天地が回転し足場の消えた世界の中で、刀を提げて待ち受ける鎧の男を視界に捉えたのは、ギグモにとってまったくの偶然だった。既に状況判断を求めるような冷静さなど本能が全ての脳からは消え失せて久しい。自分の死を実感させるような映像を認識させる要素が偶然以外にもし有るとすれば、それは男の悪意だけだろう。焼き切れそうなほど警鐘を打ち鳴らす本能が、少し気の早い断末魔をあげさせる。
「gggggiiii--- !!!!」
「かァ――――ッッ!!!!!!」
その断末魔と視界が疾駆する鮮烈な衝撃に両断された直後、ギグモの意識は生命ごと暗転した。
「はッ、くっだらねえ。玩具にもなりゃしねェぜ」
男はギグモの頭部ごと地に叩きつけた太刀を引き戻し、宙を振って青い血を落とす。
子供の遊ぶ水風船のように糸で引き寄せたギグモの頭を、技も何もなくほぼ純粋な力のみで太刀の打ち下ろしの的にしたのだ。空中に投げられた西瓜を我武者羅に棒でたたき割るように。
斬撃と打撃の間の、男の技量からすればまさに遊びに近い実にいい加減な一撃で、ギグモの頭部は半ば切断されながらコンクリートに叩きつけられ、跡形もなく砕かれ、青い液体を地に振りまいている、というのが簡易な状況の説明として妥当か。
「約束通りてめえの血だまりの中ですぜェ?ハン。まあそれまでに死んでたかよ?」
己の前に立った異形の命の下らなさを嘲笑い、そして驚くべき前触れの無さで転調。その様はさながら物狂いの如く。ギグモだった死骸を、面白くもなさそうに睨んだ。
「あアつっまらねえ。下らねえ。退屈だ。死にゃあいい。これだけ大馬鹿の馬鹿の糞馬鹿の限りに数を集めて、”アイツ”の足元爪先うぶ毛の一本にも及ばねえってのかッ、アァッッッ……!!!?」
地を天を憎悪するように仰ぎ、沸々と湧き上がり溜まり続ける怨嗟の声を、獣の吼え声のように吐き出す。
誰に聞かせようと言ったはずもないその声は、しかし、戦場にて殺到する兵士たちですら、立ち止まらせてしまうほどの凄まじい声量と、怒気を有していた。
その狂ったような姿は正気の人間という観客席から見ればさぞ、哀れにも映るだろう。
――――その吼え猛る後ろ姿を、音すら立てない飛燕の刺突が奇襲した。
「っとォ!?」
過たず正確に首の関節部を狙ってきた、躊躇いの欠片も見受けられない攻撃に、辛くも男は反応する。
辛く、といっても男の対応能力は諸手で称賛されてしかるべきだ。気配や殺気を読んだなどと言っても、そんなものの材料となる音や存在感が皆無に等しいところまで抑えられた奇襲だった。
達人を含めた常人、凡人にはまったく手掛かりの与えられていないと言える状況の下、例えるなら”見えない何か”に過たず反応した男独自の嗅覚は、まさに人外の境地に近い。
「おいおい今日はクレーム対応が随分とはえェじゃないですかぁ、カミサマよーゥ」
一歩間違えればそのまま己の命を刈り取っていただろう襲撃にも、男は余裕の物腰を崩さない。彼は舌なめずりをするような歓喜をもって、撃剣の手ごたえを堪能した。
衝撃を散らすため飛び退りながら払いのけた一撃は、重いというより鋭いという印象を与えてきている。
その刃には体全体を痺れさせるような破壊力はないが、一点に集約された貫通力のある一撃が無駄なく、速く、鮮やかに手元から太刀を弾き飛ばそうとする。
緻密に綿密に積み上げられてきたのだろうその技量の程が、男には空腹で出された極上のスープの芳香のように臓腑に染み渡った。空の体躯に血肉に代わって満たされた魂が、稀に見る大馳走の予感に本物の細胞の如く飢えを目覚めさせる。爆発するような衝動を、男は笑いに変えた。
「くきキっ……、ああ、アアっはっはっはァ!!ひゃはははは!!ひゃーーァははははははっははァ!!!!!!!!」
受け止めた感覚で剣に類する武器だとわかる。確信を持って言えるが、その切れ味はあっさりと骨ごとに人の体を両断するだろう。
奇襲の一撃を受け止められたその瞬間、すぐさま襲撃者は次の行動に移った。速い。切り替えも、その動き自体も。
暗殺の失敗は襲撃者本人からすれば驚きもあるのかも知れないが、端から見れば次の行動が最初からの予定調和だったかのように淀みなく移り変わる。
一撃目の切れ味といい、襲撃者の実力はギグモとは比べ物にならないと男は判断した。
死角、
死角、
死角――――。
確実に男から見えない位置に移動しつつ、鎧の急所を的確に狙ってくる襲撃者の攻撃。
だが、殺気の無いにも関わらず確実に人の生命を一撃で刈り取れるに違いないそれらを、男は視覚を使えないままに、培った戦闘における勘と伝わってくる攻撃の手応えのみで次の位置を割り出し、見事にさばいていく。
あろうことか男は、己の不利に歓喜の笑声をあげていた。
「かかっ!――――くかかかァッ!ちょォろっちょろっ、とウゼぇェェってぇんですよォッ!!さっさとそのツラ――――っ、」
怒号が途切れたその瞬間、男の殺気が一気に膨れ上がった。
「拝ませろやぁあっ!!!!!!」
「!!―――ち!」
化け物め、ここから大技を打ってくるか!そういう舌打ちを放ち、“彼女”は危急存亡の速度でその場から飛び退った。
その額の僅か鼻先を、閃光か龍の如く男の刀が疾り抜けていく。
「オイオイ、……これはこれは…まさか女たァ…ねえ……っ!!」
男のあげる声音にしては、珍しく本当の驚愕が感じられる呟きだった。
「こ~れだからこの国は面っ白ェよ。まさかまさか俺がたまらねえとなるような使い手がその辺に落ちてる女のガキとは……いやぁ、ごっそうさんですねェ」
大馬鹿の極み――――、とでもいうかなんとまあ……気色の悪い、胸糞の悪くなるような言い分である。
少女もそれで気分を害したからでもあるまいが、眉間に皺を寄せ、無言で男を睨んでいた。とはいえ、ゴーグルで隠されて視線をたどることはできないのだが。
分厚いゴーグルと黒ずくめの軽装、二振りの刀。紛れもなく、先ほどギグモの群れを事も無げに蹴散らした彼女だった。