出没
冷たい渦を巻く朝靄の中、分厚いゴーグルの下に隠れた少女の眼は、その先を探っていた。
「…………………………………。」
無言で背筋を伸ばして立つ彼女の纏う空気のあり様は、成程、例えば刀の如し、だ。
鋭いが重く、切れるが脆くはない。ひどく抽象的ではあるが、戦場に突き立つ名もなき業物のような彼女のイメージを言の葉に表現すると、そういう独自の空気を持った人間だった。
身長は女性としてなら高い方なのだが、それでも体つきは細い。華奢と言っても良いようなその体の持ち主が、十指など軽く上回る数の化け物に囲まれて、尚、不遜に笑っていられるような、良く言って勇猛で、ともすれば一種頭の螺子の閉まり具合のおかしい人間だなどとは、容易には思える術もない。
ただ、一見華奢に見えても実は、その体には猫科の獣のように引き締まった筋肉が無駄なく付いているし、纏う空気には鉄火の重苦しさと血の湿り気を濃厚に感じられる。見る者が見れば少女はやはり、一目でその実力の秀逸のほどを推し量れる優秀な戦士なのである。
その姿に目を向ければ、まずはその色合いの特徴的なことが目についた。彼女の服装は上がノースリーブのボディースーツのような物で、下はすねの辺りまでの長さの、少しだぼっとした大き目のカーゴパンツのようだ。そして腰に二振りの刀を差し、その上にコートらしきものを巻いている。
特徴的と言ったのは、そのどれもが黒一色で統一されているからだ。頭髪も真っ黒であるため、血色のいい白い肌と強いコントラストを描き、制服のような、他者の抱くイメージを誘導するために意図的に作り上げた服装だという感覚がする。受け取る不吉さは、死体の山の上を鳴きながら舞う鴉そのものだ。
髪はしなやかで極細の針金のように硬質で、頭の後ろの上の方でまとめたそれを、結っていると言えば多少大雑把に感じるほど無頓着に縛り上げている。それが似合っているのでわざと跳ねさせたようにも見えるが、くせのある髪質なのかまとめていない部分は結構好き勝手な方向に跳ねていた。
それはとても剣士然としていて、彼女の凛とした雰囲気によく合ってはいる。
少女はゆっくりと顔に嵌めた分厚いゴーグルを外し、首にかけた。
その下から現れたのは、黒曜石のような漆黒の瞳だ。真っ直ぐに空間を射抜き、揺らぐことのない視線が、並々ならぬ鋼の精神力を感じさせる。
「数だけ……か、大したことはなかったな」
少女の口から出たのは、ともすれば慢心とも取れそうな台詞だが、抑揚の乏しいその声音からは事実を確認しているだけといった印象を受けた。
凛と張りのある声だが、表情からも声からも感情を窺えないため、これだけを取れば機械じみた冷淡な人格にも思える。故意なのかはわからないが、少し低めの声のトーンは威圧感すら感じさせた。少なくとも敵を打倒したことに昂揚したり、人目にわかるほど安堵するタイプではなさそうだ。
ただ、気負いの無いその立ち姿は実に悠然としており、かつ背後から伺っても付け入る隙などまるでない。
戦士としてはけして大きいとは言えない彼女だが、戦いの場で彼女に背中を預ける者ならば、その感情をむやみに表現しない、言ってしまえばとっつきにくい印象を与える態度にも、逆に安心感を持って受け取れるのではないだろうか。
どんな状況の下、たとえ味方や救いなど何も見つけられないようなときでも、きっと彼女は己のなすべきを見誤らず、命と引き換えにしても成し遂げるだろうと、そう思える説得力のようなものが、彼女の纏う研ぎ澄まされた空気には存在している。
あるいは独善や冷徹とも成り得るのかもしれないが――――、瞳に込められた澱みない真っ直ぐな力に象徴される彼女の意志の力は、人間の力量として特筆と称賛に値する要素だろう。
……さて、と少女は状況観察から思考を切り替えながら歩を踏み出そうとした。既に数は少ないかも知れないが、おそらく“奴ら”は自分が討伐したもので全てではない。残りの連中も残らず燻り出し殲滅するため歩き始めた、――――その、……刹那。
ずド、ォォォン――ッッッ!!!
下腹に響くような轟音と強振動。
朝靄に切り取られた視界の一部で再び土煙が舞い、より濃密に視界を遮る。街路に立ち並ぶ廃ビル、その一つの壁が、内側から人一人余裕を持って通れる円を描くように、ある種器用に崩壊させられていた。
瓦礫と共にビルの中から飛び出してきたのは一面に死に絶えているギグモと同じ姿の化け物たち。壁を破壊した衝撃をまともに受けたのか痙攣している。
――――そして。
「あーあァったく、雑魚もいいとこの癖に数が多すぎらァ。けけっ、俺の戦り方じゃちィと効率が悪すぎるなァ?」
独特の反響をもつ、奈落の底から聞こえてくるかの如き錯覚を呼ぶ低い声。
ギグモを追って悠々と穴から出てきたのは、白く長い髪のような飾りと、鮮血のような色合いが特徴的な、鬼を想起させる紅い鎧の男だった。
体から溢れるように立ち昇る殺気は、陽炎のように空気を焼き尽くし、撓め、歪める。
狩人と呼ぶには残忍で、戦士と言うには悪辣な、昏い殺意が。
「ハ、しかもまったく旨くねえ。ま、アレだ。腹が膨れるだけ良しとしろ。そういうことかァ?」
理解し難い独り言をのたまって、至極ゆっくりした歩みで男は瀕死のギグモに近寄り、その上に片足を乗せた。
「なァ、害虫?」
仮面の下から滴り落ちるような悪意の……嘲りの感情と同調して、足にかけられた圧力が増す。
「随分とまァ不味いんだぜ?お前ら。」
地にめり込まされそうな圧迫に、瀕死の化け物は弱々しい悲鳴をあげている。
男は片手に提げていた大太刀をまるで小枝か何かのように軽々と回転させて逆手に持ちかえ、ギグモの上に持ってくる、次に起こることは推して知るべし、だ。
男が振り下ろした切っ先は、どっ、と甲殻を木の皮であるかのように突き抜け、胴に突き刺さり、明らかに致命傷と思われる傷を与えた。
「さあ寄越せ、てめえの下らねえ命、俺が餌にしてやるからよ……!」
―――――光。火花。―――――輝く羅列。
先刻垣間見た少女の雷撃の方術の時とはまた、違った陣が輝きを放つ。
制御され、秩序を持ち、一定の力を引き出すための彼女の方陣とはまったく異なる、それはいわば――――――粗暴な、陣。
主たる男にまで影響を及ぼそうとその光を伸ばし、過負荷の火花を猛り立つように荒々しく散らし、抵抗する対象を無理やりに飲み込んでいく、成長する陣。紅い光を眩く放つそれは、まるでそれ自身が意志を持ち、生きているかのようだった。
ギグモは方陣の中で分解され、徐々に虹彩のような独特の色彩の光へと姿を変えていく。
が、しかし、その術式は完了を迎える前に中断という形で終わりを告げた。
空を裂く音と共に男へと伸びた白い線が、男の腕を絡め取る。集中を断ち切るその刺激で、ギグモを半分ほど分解した光が四散する。
男の腕を機械のような強い力で引く真っ白なそれは、しなやかで、かつ鋼のように強靭な糸の束だった。
緩やかに湧き上がる怒りの予兆と共に、男が踏みしめていたギグモから、己の腕を引く力の発生源へと視線を移す。
「……ハァ……?まだ居やがったのか……?」
その方向は男の頭上後方。男が現れた廃ビルの二階。壁が崩れ、建物の中まで見える、その内部と外部の境目だ。
ギグモがその位置から糸を吐き出しているのを確認して、男は呟いた。
引く力を増す糸に絡め捕られた腕に、じわじわと弄るように力を込めつつ、こう続けた。
「人の食事の最中にうろちょろしやがってよぉ、ああ鬱陶しい糞虫どもだぜ……!!」
殺気と狂喜の匂いを滲ませた唸り。動かぬはずのその面は、やはり楽しげに笑っているように見える。
「一丁前にお仲間を見殺しにでもしなかったつもりかねえ?……カカッ」
それは、未だ祭宴の終わらぬことへ打ち震える哄笑。そして同時に、己より遥か虚弱な生命への、隠すこともない嘲笑だった。
「わざわざ駆除されに出てきた手前ェの馬鹿さ加減、己の血だまりの海の中で存分に教えてやろう」
ひび割れのような面の隙間から朧気に見える男の紅い眼光。
――――それが、はっきりと輝きを増した。






