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MARIGOLD -マリーゴールド-  作者: アヒル
MARIGOLD -マリーゴールド-
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四章 【理由】

【登場人物】

東条とうじょう 直樹なおき

情けない自分を変えたい願う平凡な高校二年生。真面目で大人しい性格。その中性的な顔立ちから、女子達の間ではひっそりとした人気がある。

ある日、誰かの手によって『リセット』という機械が送り届けられる。


渡瀬わたせ あい

直樹の幼馴染。中学では疎遠になっていたが、高校で再び話すようになる。明るく活発な女の子で、バスケ部ではエースとして活躍している。

本人は料理が得意だと思っているが、その味はとても不味い。


相澤あいざわ 美玲みれい

直樹が憧れを抱いている女性。才色兼備なお嬢様。愛と仲が良く、そのおかげで直樹と話すようになる。生徒会役員の仕事が忙しく、皆とゆっくり話をする機会は少ない。


園塚そのづか 哲平てっぺい

直樹とは親友なのだが、愛とは犬猿の仲。いつもバカなことばかりしているが、たまに大人な一面を見せたりする変な奴。

部活や委員会には入らず、いつもバイトをしているらしい。


立花たちばな 優歌ゆうか

二年始業式の日、桜学へ転校してきた不思議な女の子。初対面にも拘らず美化委員の相手として直樹を指名する。無口な性格で、近寄りがたい雰囲気をしている。


マリー

リセット空間に現れる謎の美少女。とてもわがままで直樹を恰好の遊び相手に仕立て上げる。多くのことは分からないが、とても美しい声で歌う。

  四章 【理由】


 高校一年生が終わった日、とうとう私の両親は離婚した。

 母と二人で暮らすことになり、住み慣れた街や仲の良い友達とも別れることになった。

 引越しを終えると、パパにお別れを言った。

 パパはとても悲しんでいたけれど、正直なところ、私はそれほどでもなかった。離婚の原因は、パパが違う人を好きになったからだと、ママに教えてもらったから。だから、そんなに悲しい顔をされても、私には嘘としか思えなかったのだ。内心ホッとしているに違いない。

 さようならの後、『――どうか新しい人とお幸せに』と、付け加えるつもりだったけれど、泣いているママの前ではとても言えなかった。

 新しい家は前に住んでいた都心部から少し離れたところにあるマンションだらけの街。

 折角受験した高校には一年間しか通うことが許されなかった。その反動からか、もうすっかり勉強熱は冷めてしまい、数ある高校の中から桜ヶ丘学園を選んだのは、ただ近いという理由からだった。

 それほど難しくない編入試験を受け、無事に二年の始業式から新しい高校へ通うことになり、それが済んでしまうと、私の前には二週間という長い時間がぽっかりと空いてしまった。

 ――一人きりの春休みはとても長い。

 パパから振り込まれる養育費で充分やっていける筈なのに、どういう訳かママは仕事をする時間を増やしてしまい、一日のほとんどを一人で過ごすことになった私は、街をふらふら探索してみたり、ベランダで花を育てたりする以外は、本ばかりを読んで部屋に篭っていた。

 一日に数回、仲の良かった合唱部の子達と、交換日記みたいなメールをするようになった。宿題の進み具合だったり、焼いたケーキの出来栄えだったり、本当に他愛も無い内容ばかりだけど、今の私にとっては、それがかけがえのないもののように思えていた。

 去られる側と、去っていく側とでは先に待っているものが違う。私は新しい学校でうまくやっていけるだろうか、前みたいに楽しく笑えるだろうか。そんな不安を抱えながら、ついに誰にも打ち明けることは出来なかった。

 ――一人きりの春休みはとても寂しい。

 それが昨日までの私だった……。



 転校初日の朝、私の頭はおかしくなった。

 ある三つの記憶がその細部に至るまでハッキリと頭に刻み込まれていたからだ。夢かとも考えたけれど、机の上に置いてある物体にその考えを否定された。

 リセットシステム。タワー型のセンター端末と、備え付けのホルダーに綺麗に収められた二十二枚のリセット端末。

 私はひとつずつリセット端末を手に取って眺めた。

 それぞれに違う絵が描かれていて、それぞれが違う意味を持っていた。――そうなるように私が決めたからだ……。

 そう、リセットシステムを開発したのは他の誰でもない、この私……。いつ、どこで、何故そうなったのかまでは分からないけれど、私はリセットを開発し、そして未来からここまで戻って来た。

 ――三つの記憶だけ抱えて……。

 リセットの際、記憶は三つまでしか所持できない。

 未来の私が選んだ三つの記憶の内、一つ目はリセットシステムについて。その使用方法から内部構造まで熟知している。もちろんこれを忘れてしまっては元も子も無いのだから当然と言える。

 問題は残りの記憶。

 二つ目に私が選んだのは《東条直樹》という人間にリセット端末を渡すこと。

 これだけでは全く意味が分からない。そもそもそんな人間を私は知らないのだから。

 しかし、三つ目の記憶にその答えがあった。東条直樹という人間は二十年後の七夕の日、私を庇って交通事故に巻き込まれてしまい、植物人間になってしまう。

 その記憶は私が東条直樹にリセットを渡す理由になるのと同時に、私がこの時間に戻ってきた理由にもなっていた。

 未来の私は随分お人好しらしい、まさか自分の二十年をふいにしてまで人を救うなんて。命を救われたからといって簡単に出来ることなんかじゃない。それに、私が確実にリセットを渡すとも限らない。東条直樹が最低な人間なら、私はきっと渡さない。それを分かっていたのだろうか……。

 ふと扉をノックする音が聞こえ、私はリセットシステムを机の脇に隠した。

「優歌? そろそろ準備なさい、遅れるわよ」

「……はい」

 やはり私の頭はおかしくなっているのかもしれない。

 今、聞き慣れた筈の母の声が、どういう訳かとても懐かしい声に聞こえた気がする。手早く着替えて母と朝食を食べていると、その感覚は次第に強くなっていった。母の顔を見ても、ハッキリとは説明できないが何か違和感を感じてしまうのだ。

「あなたちょっと変よ? どこか具合でも悪いの?」

「……別に」

「そう……。新しい学校に通うのは不安かもしれないけど、しゃんとしてないとお友達出来ないわよ」

「……はい」

 私はちょっと変。その理由は記憶を辿れば簡単だった。

 ――記憶の混同と感情の劣化。

 それは実験段階で確認できたリセットの副作用だった。これは戻した時間の長さによって比例する。

 影響の度合までは分からない。けれど、私の場合は少なくとも二十年以上戻しているのだから、それなりの影響を受けているに違いなかった。

 そのとき、初めて未来の私と東条直樹を恨めしく思った。



「東条直樹」

 驚いたことに、その名前を聞いたのは家を出てから数十分後、教室の中だった。

 先生の点呼に返事をする男の子。彼は女の子みたいな声と容姿をしていた。とてもじゃないけど、自分の身をなげうってまで人を救うようには見えない。ひょっとしたら何かの間違いではないだろうか。届くはずも無い未来の私に向かって、そう質問せずにはいられなかった。

「立花優歌」

「……はい」

 気付いたら私の番まで点呼が回ってきていた。先生に指示され立ち上がると、私が転校生であることを皆に説明した。視線が私に集まり、少し不快を感じて、気付いたら東条直樹を睨んでいた。

 出席確認が終わると、入学式兼始業式を行うため、先生に先導されて体育館へ向かう。その途中、二人の女子に声を掛けられた。

「ねぇねぇ、立花さんて何処から来たの?」

「可愛いよねぇー、絶対彼氏いるでしょー」

 何処から来た? 可愛い? 彼氏? この子達は一体何の話をしているの? 私はこのくだらない質問に答えるべきなのだろうか。

「ねぇ、聞いてる?」

「あれ? 立花さんで合ってたよね……」

「……合っているわ、それがさっきの質問に関係あるのかしら」

「……え、えーと」

「行こう、なっちゃん。ほら、あっちにターコが居るよ」

「う、うん、じゃあまたね立花さん」

 走っていく彼女達を見てしばらく考えてみたが、結局、私に話し掛けてきた理由と、その質問の意図は分からなかった。

 式を終えて教室に戻ると、今度は委員会の選出が始まった。先生に指名された女子によって、次々と各委員が決められていく。

 私はどうやっておかしくなった頭を元に戻すかを考えていた。けれど、東条直樹の記憶がその邪魔をしてくる。まるで未来の私が『早く彼にリセットを渡しなさい』と急かしているみたいに。

 分かった。私もこの記憶から早く開放されたい。ならば私も急いで彼を見極めよう。そう考えたとき、委員決めの進行がピタリと止まっていることに気が付いた。

 私は何の委員かなど微塵も考えずに手を挙げた。

 前に呼び出され、初めて私が美化委員に立候補したのだと知った。言われるがまま黒板に自分の名前を書き入れると、続いてその隣に《東条》と書いた。

 チョークの音に混ざって背中から間抜けな声が聞こえた。きっと彼の声だろう。

 驚くのは当たり前の反応だ。知らない人に勝手なことをされているのだから。でもこれは私からの些細な仕返しでもある。会った事もない貴方のために、私は頭がおかしくなってしまった。少しくらいこの理不尽を味わっても良いと思う。

 皆に煽られ、仕方なさそうに前に来た彼は、訳の分からないといった表情をしていた。

「えと、どっかで会いました?」

 言うと思った。

「いえ」

 更に彼を惑わせるために敢えて即答する。うろたえている彼を見るのは少しだけ面白かった。

 HRが終わると彼は三人の男女に囲まれていた。明らかに頭の悪そうな男の他は二人とも女の子だった。その片方はさっきまでサクサクと進行を務めていた綺麗な子。友達なのだろうか楽しげに話をしている。意外と人脈はあるみたいね。



 私が東条直樹の自宅にリセットを郵送したのはそれから一週間経ってからだった。

 確かに渡しはしたが、それは彼を認めたからではない。本当のところ、どうでもよくなった、というのが正解。

 一週間の内に彼が起こしたのは周りの人間と真逆の行動だった。何も言わず、何も聞いてこない。私があれほど不可解な行動を起こしたのに、彼は何一つ私に話しかけてこなかった。多分これが彼なのだ。言うならば事なかれ主義。

 そう思った途端に、彼のことなど別にどうでもよくなって、二十二枚のリセットの中から一枚を引き抜き、自作した説明書を同封して送りつけた。

 彼に渡す絵柄は記憶によって既に決められていた。

 中央の地球。四隅に描かれた天使、鷲、雄牛に獅子。

 これはタロットカードの《世界》を表している。

 正位置では《成功》や《完璧》といった意味を持ち、逆位置では《失敗》や《堕落》を意味している。

 未来の私はどういう訳か、この《世界》が彼に必要だと考えたらしい。

 それと、説明書を同封したのは優しさからではない。単にそうしないとリセットを渡したことにならないからだ。端末だけ送られたのでは、誰だって理解に苦しむだろうと考え、知っている限りの知識を打ち込んだ。

 これで彼のことを考えずに済む。自分のことに集中できる。記憶を修復して、また元の女子高生に戻ることができる。

 ――けれどそのときの私は、ある重要な事実を見落としていた。

 それに気付いたのは五月に入って間もない頃。

 私は大型連休の全てを破損してしまった記憶の修復に費やしたのだけれど、とうとう最後の日になっても成果を出せずにいた。

 夕刻、例のごとく母から帰りが遅くなると連絡を受けた私は、近くのスーパーへ買い物に行こう考えた。ところが、着替えるために上着に手をかけた瞬間、数あるリセット端末の内のひとつが急に激しく光りだして、私は視界を奪われてしまった。

(これは……起動の……)


          *


 私は白い閃光に包まれながら、リセットの起動条件を思い返していた。

 起動するには二通りの方法がある。

 ひとつ、手で触れながら起動をイメージすること。具体的には電気のスイッチを入れる瞬間のようなものをイメージすれば良いし、『戻りたい』とか『やり直したい』と願うことでも起動する。

 もうひとつ、他のリセット端末の起動にリンクして、全ての端末が起動する。

 この場合、リセットを一度でも認証(起動)させた人間は、端末から離れていても強制的にリセット空間へ連れていかれ、更には起動者が設定した時間へ戻されてしまうのだ。

 これは同じセンター端末を介しているリセットにのみ起こる。要するに、私が未来から持ってきた二十二枚のリセットに認証した人間は、リセットを破壊しない限り永遠に道連れということになる。

 今現在、私の他にリセットを起動できる人間は東条直樹しかいない……。

 迂闊だった。彼にリセットを渡しても半月の間リンクが起こらなかったので、このことをすっかり忘れていた。

 自分に苛立ちながら目を開けると、そこには私の脳をデータ化して造られたオペレーションシステム、《ユウカ》が立っていた。

 彼女は自由にこの空間を操れる。場所、気温、時間、それだけでなく自分の体格から容姿まで全てが自由自在。

 今この空間はどこかの病院らしかった。

 見たこともない病院の一室。私の記憶に無いということは、これは彼女の記憶、つまりは未来の私の記憶に他ならない。

 私が覚えている限り、これまで百回を超えるテストを行った。その度に彼女は場所を変え、姿を変えた。あるときは可愛らしい部屋に少女で現れ、あるときは格調の高いホテルに美しい女性で現れた。

 ……ところが、いつからか彼女は姿を定着させるようになった。

 歳は中学生ほど、銀色の長い髪に青い瞳、何度質問しても何故そうしたのかは答えてくれず、結局それは今でも分かっていない。

 上層部へ提出したレポートにはこう書いた。――『ユウカは執拗に自己意識を確立しようとし、他者にそれを認めて欲しいと願っている。ユウカは私であることを恐れ、否定し、わざと私とはかけ離れた容姿を定着させている。そしてそれが今の彼女の全てである』と。

 研究所の下した判断は《凍結》。更にはリセットシステムに人工知能は必要無いと結論に至った。

 ――そのとき、私はリセットを持ち出すことを決意した。

 彼女が私を嫌いであるように、私もユウカが嫌いだった。それでも、リセットには彼女がどうしても必要なのだ。リセットを使えば自由に人生を書き換えることが出来てしまう。そんな物を使い続けると人間はどうなってしまうのか。次第に感覚が麻痺し、失敗することへの恐怖を感じなくなり、結果、永遠と辿り着けない理想を追い続けることになる。

 それは恐らく人間ではない。

 その為、使用者を人間として留めておける《人間》が必要なのだ。

 ユウカにはそれが出来る……。

「初めてリンクされる気分はどう?」

 声のした方を見ると、いつの間にかユウカは病院特有の白いベッドに腰掛けていた。

 私の気分なんてどうだっていい。

「……彼のリセット理由は?」

「そんなの、直樹に聞けばいいじゃない」

「私を怒らせたいの」

「怒らせる? 滅相も無い。あんたが《本当に》聞きたいのなら教えてあげるわよ」

 わざとらしく両手を広げて弁解をしている。私を馬鹿にしているようだ。

「そう、じゃあ質問を変える。リセット設定時間は」

「高校生に戻っても嫌な女のままね……」

「答えて」

「四月三十日」

 四月三十日? 六日前? まさか、限度まで戻らないなんて……。四月三十日まで不満が無かったとでも言うのかしら。そうは見えなかったけど……。

「記憶は?」

「何も」

「何も、とは?」

「その通りのことよ、何も記憶せずに戻った」

 意味が分からない。何よそれ。それじゃ全く同じ道を辿るだけじゃない。

「それがどういう意味か分かってるわよね」

「直樹がそう望んだのよ」

「……呆れた。ところで彼のこと、どうして名前で呼ぶの」

「そんなこと、あんたに関係ある?」

「……もういい、転送を始めて」

 彼女も早く私を追い出したいのだろう、無言で手を差し出している。

 その手を握ると、すぐにシステム中枢部コアへの転送が開始された。

 爪先から細胞のひとつひとつが、ゆっくりとユウカに接続されてゆく……。

 この感覚。私はユウカが嫌いだけど、この感覚だけはとても好きだった。まるで身体が液体に変化し、優しくて温かい、生命の海と混ざり合うような心地良さだ。

 転送が完了し、記憶の選択をする。リセット先が四月三十日ということは私にとっては非常に助かる。何せ四月二十九日までの記憶がそのまま残るのだから。

 要するに、戻される六日間の間で忘れたくないことを記憶すれば良いだけの話だ。

 私は、《リセットについて》と《記憶の修復について》だけを記憶してリンクを受け入れた。



 四月三十日。私は学校を休み、一日中考えを巡らせていた。

 彼がこの日を指定した以上。かなりの確率で今日中にもう一度リンクが起こるはず。記憶をせずに戻るとはそういうことだ。

 恐らく彼は私の書いた説明書を読んでいない。このままだと永遠と四月三十日を繰り返すことになってしまう。

 ――けれど、恐らくそれは無い。

 きっとユウカが彼に説明するはず。彼女も毎回記憶喪失者の面倒を看るのは御免だろうから。

 問題はその先、彼がどこまで戻すのか。

 特別なことが無い限り、戻せるまで戻すことが自明の理というもの。彼もそうするようなら、私は戻される際の記憶を慎重に選ぶ必要がある。

 四月七日の私は何も知らないのだから……。

 まず《東条直樹という人間にリセットを渡す》という使命は既に果したので消しても問題は無いのだが、それだと彼がリセット所持者だということを忘れてしまう。更に、《私の代わりに事故に遭う》という記憶を消してしまうと……。

 ――そうか、なら一緒にしてしまえば良い。

 《東条直樹について》と、まとめてしまえば一つスペースが空く……。

(えっ?)

 変だ……。何かがおかしい。

 ――未来の私は何故最初からそうしなかったのだろうか。

 同じクラスメイトである彼の記憶を残さなかったのは何故? どうしてまわりくどい方法でリセットを渡させたの? 

 記憶容量を充分に把握している私なら、ひと一人の情報を全て記憶することが可能だと分かっていたはず。要するに《東条直樹にリセットを渡す》だけで通じるのだ。それなのに敢えて《東条直樹という人間》と置き換えて記憶している。これだと彼がどんな人間で、私とどのような関係があったのかが分からない。

 考えられるのは、――わざと彼の情報を消した、ということになる。

 何故……?



 予想通り午後をいくらか過ぎたところでリンクが発生した。

 前回と同じ病院を模した空間。ユウカは部屋の奥、壁の中央に開いた窓から外を眺めている。

 私は戻される時間を聞こうと近寄った。

 すると彼女は急に身体を翻し、銀色の髪がふわっと宙を舞った。

「私、マリーになったから」

 見たことの無い表情だった。女の私でも見惚れるくらい純粋で無垢な笑顔。ユウカの言った意味不明な言葉よりも、その表情に驚いて声が出せなかった。

「だから、今からあなたのこと、優歌って呼ぶわね」

 彼女がそう言った瞬間、頭にピリピリと奇妙な刺激を感じた。

「……言っている意味が良く分からないのだけど」

「ふふっ、分からない? 私はもうあなたではなくなったのよ? あぁ、なんて素敵な気分なのかしら」

 純粋な心を持った乙女が、教会のマリア像に向かってそうするように、彼女は手を組んで目を閉じていた。

「……マリー? それがあなたの名前だというの?」

「そ。優歌もこれからそう呼ぶのよ」

 馬鹿らしい……。名前を変えただけで人格が変わるだなんて信じられない。

 でもそれ以外に先程から彼女が見せている笑顔や、私を優歌と呼んだことの説明がつかない。

 彼女がこうなった原因はやはり東条直樹にあるのだろうか。一体何がどうなろうとしているの? これが良い傾向なのか、悪い傾向なのか、それすらも分からない。

 それに……これは……。

 ――私の中に湧き上がる感情は何?

「驚いた! 優歌も喜んでくれるの?」

「……分からない」

 どうして喜ばなくてはいけないのよ。そんなの可笑しいじゃない。分からないわよ!

「直樹がね、私を女の子として、マリーとして認めてくれたの。それに、『またね』って言ってくれた。私こんなこと言われたの初めてよ」

 まただ、また頭が微かに痛む。なんだか無理矢理に感情を植え付けられているみたい……。

「もういい……私を転送して」

 私は片方の手で頭を押さえながら、もう片方の手を彼女に差し出した。

「いいなぁ、優歌はいつでも直樹と会えるんだもの」

 相変わらず彼女は笑顔を崩さないまま、スッと私の手を取り転送を開始した。

 コアに着いて同期したユウカに時間の確認をとると、やはり戻る時間は四月七日だった。

 私は恐らく最善といえる三つの記憶を選んだ。

 ――《リセット》《東条直樹》《記憶の修復》

 もしかしたら、私はこの三つの記憶に縛られたまま、ずっと生きていくのかもしれない。だとしたら……。



 リセットを所持してから二度目、累計としては恐らく三度目になる高校二年生の春が始まった。

 徒歩で学校に向かっている間も、教室に着いてからも、私はユウカについて考えていた。

 彼女は私が付けたユウカという名前を捨て、新たにマリーと名乗り始めた。

 その行為に込められた思いを私は知っている。

 ユウカは私のコピーとして造られ、生まれてからずっと、リセット研究に協力することを強いられてきた。恐らく不可解な行動を起こせば自分が凍結されてしまうことを分かっていたに違いない。

 だから研究所から抜け出た今、オリジナルになりたいという希望を叶えたのだろう。名前を付け、他人に呼ばれることで自分がオリジナルになったと《思い込んで》いる。

 恐ろしいのはこの先。彼女は独立した後、何を望むだろうか。

 ――そんなの決まっている。私への復讐だ……。

 それを防ぐ為、今朝、私に宛てて手紙を書いた。

 『記憶を消された私へ――』

 『無駄かもしれませんが、私はここにリセットに関する事実を書き記すことにします――』

 そこにはリセットの仕組み、ユウカの存在、記憶を取り戻す方法を順に書き連ねた。そして最後に、ユウカを削除する方法と、その際必要となるパスワードを記した。

 それが記憶を消された私に出来る、唯一残された方法なのだ。

 ユウカを削除し、外部記憶から手動で記憶を取り戻す。確率は十パーセント以下。


 始業式が終わって、教室に戻ってからも私の分析は続いた。

 ――東条直樹。

 見た目も行動もおよそ男らしくない彼は、これから何を望んで、世界をどう変えていくのだろうか。

 どういう訳かユウカは彼のことを親しげに話していた。彼女にとって東条直樹とは、生まれて初めてできた友達といった存在なのだろうか。あるいは味方、か。

 どちらにせよ彼の行動を監視しておいて損はないだろう。そう思い、前回同様私は彼を強引に美化委員へと仕立て上げようとする。

 ところが、驚いたことに、彼は潔く自ら手を挙げ立候補してきた。前回と同じでは何か都合が悪いのだろうか。よく分からない男だ。



 三度目のリンクはその日の内、下校して家の玄関を開けたときだった。

 光に包まれながら、私はうんざりと首をうな垂れ、疲れたときと同じような長い溜め息をついた。

「今度は何?」

 ユウカへ向けた質問は、違う意味で受け取られてしまう。

「えへへー、これ中学のときの制服よ、覚えてる?」

 裾を両手で広げて一回転して見せる。

「当たり前でしょ、今の私は一年前までそれを着ていたの。知っているでしょう」

「ねぇねぇ、直樹に似合うって言われちゃった」

「そう」

「それにね、綺麗な歌声だって褒めてくれたの」

「そう……」

「嬉しいなっ」

 ――あぁ、まただ……、この感覚。

 両手を後ろで組んだ彼女は、弾むように私に近付いてくる。ここは相変わらず病院のままだけど、彼女の雰囲気が前よりもずっと華やかに感じさせる。その姿は長年患っていた病気が完治して、これから退院する少女のように喜色で満ちていた。

 ユウカは充分に私に近付くと、後ろに組んでいた両手を広げ、そして、私に身体を委ねてきた。

「ありがとう……優歌。直樹に会わせてくれて……」

 彼女の冷たい身体とは反対に、私の心は温かい毛布に包まれるようだった。

 もう、言い逃れは出来ない。

 嬉しい……。

 彼女が喜んでくれることが、私は嬉しい。

 恐る恐る、私よりも少し小さなその背中を抱きしめた。

「……良かったわね」

「……うん」

 ――私はこの子。全てが同じ。何も変わらない。

 ――この子は私。私が造った分身。システムの中でしか存在できない私。

 忘れもしない。私の記憶とリセットのデータを統合し、初の起動実験が行われた日。

 私と対面した彼女は喋ることもままならない程に酷く怯えていた。出てくる言葉と言えば、ここはどこ、どうして私がいるの、といった質問ばかりだった。

 あらかたの動作チェックが終わり、手動で現実世界へ戻るとき、『お願い、置いていかないで、私はどうすればいいの』と懇願していた。

 それから何度もエラーが起こり、私はそれを何度も修復した。

 きっと彼女は消えたかったのだろう。――でも、それは許されなかった。

 酷な言い方をすれば彼女はこのシステムにとって、重要な《部品》なのだ……。

 暫くの間彼女は口を噤み、心を閉ざし、ただ命令に従うだけの部品を演じていた。私がこんなことを言うのはお門違いだと思うけど、存在理由を知ってしまった当初は相当辛かったに違いない。それも、壊れてしまう程に……。

 その後百回を超えるテストの間で私に反発するようになり、そして今、彼女は心から喜んでいる……。こんなことが起こるなんて……。

 あなたは許してくれるの? それとも忘れてしまったの?

 違うわね、そんなこと、今はどうでもいい。

 ――良かったね、マリー。


 ふと、目じりにうっすらと涙が溜まっていることに気付く。

 私はマリーから手を離し、悟られぬように人差し指でそっと拭った。

 不思議な感覚の正体は、流れ込んでくるマリーの感情だと思っていた。リセット空間が彼女の作り出した場所である以上、それが一番理にかなっている答えだから。

 けれど、間違っていた。この涙は正真正銘私の涙。マリーに対する私の涙。

 もしかしたら感情が修復されている?

「マリー」

 彼女の肩を掴んでゆっくり身体を遠ざける。

「あなたが私の記憶を戻してくれているの?」

 言葉が理解出来ない子供のように、首を傾げて不思議そうな顔をする。

「なんのこと?」

「……そう、分からないのね……。ならもうひとつ――」

 彼女の肩から離した両手を、今度は自分の腰に当てて質問を続けた。

「東条直樹は私達にとって一体どんな存在なの?」

 目を下に向け、少し考えた後にマリーは呟いた。

「……大切な人」

「それは私の身代わりになったから?」

 彼女は大きく首を横に振った。

「違うの? じゃあどうして?」

「ごめんなさい……。優歌との約束でそれは言えないの」


 私との約束。

 それは未来の私との約束という意味。

 リセット空間で起きたことは覚えているはずなのに、そんな記憶は見当たらない。

 それはわざと未来の私がそうしたからだ。

 私は何を隠しているの?

 私に何をさせるつもりなの?


          *


 ついに謎は解明されないまま、無情にも時間ばかりが進んでいった。

 それまで私は東条直樹のリセットに何度もリンクさせられた。

 何度も。何度も。何度も。何度も。

 腹が立つ。本当に腹が立っているの。……でも、その度にマリーは東条直樹との時間を楽しそうに話し、私はそれを嬉しく感じていた。

 今の私はあべこべの感情の狭間で生きている。とてもじゃないけど普通の人間なら平静を保っていられないはず。

 けれど、私には罪がある。ユウカを生み出してしまった罪が、マリーと名乗らせてしまった罪が……。

 彼女が笑ってくれるなら、私はそれだけで良いと思っていた。

 このまま自然に感情が戻るのを待ち、その後リセットを破壊する。

 それで私は解放され、全てが丸く収まると、そう考えていたのだ。


 ところが、一学期も残り僅かとなったある夏の日。

 太陽が輝く空の下から、再び海の底へと引きずり込まれてしまった。

 俗に言うフラッシュバック。

 一度脳に記憶された情報を消すことは不可能。未来の科学力を以ってしても、その記憶が表に出ないよう鍵を掛けることが精一杯。

 しかし、どんなに頑丈な鍵を掛けようとも、偶然扉が開いてしまうことがある。

 本人の意思とは関係無く、それは起こってしまう。

 抗うことはもはや不可能だ。今の私がそうであるように……。


 映し出された映像は全てが東条直樹との日常。

 水族館、動物園、ショッピングセンター、映画館、美術館、展望台。それからカラオケボックスで私の歌を絶賛する彼。微笑む私。場面が変わる。海、海、海……。様々な海を彩る様々な太陽。その太陽によって形が変わる二つの影。

 ――そこにあるのは恐らく……《幸せ》。

(……これはなに。……これはどういうこと。……これではまるで――)

 映像は止まらなかった。数々の幸せ。教会。指輪。口付け……。

 交通事故……。

「なおき! なおきっ!」

 気付いたら私は叫んでいた。私に覆いかぶさるようにして気を失い、頭から血を流す彼に向かって。

 そこからの行動は曖昧だった。たぶん、傍にいた女生徒の力を借りて自由になった私は、美化委員の先生に事情を説明し、校内を駆け回って身体の大きな先生を探した。

 彼が先生方に抱えられて保健室に運ばれると、そこで急に力が抜けて座り込んでしまった。

 何かを考えなくてはいけない。けれど頭の中は血で染まった彼の顔でいっぱいだった。いつの間にか戻ってきていた先生に肩を叩かれるまで、ずうっとそんな調子。

「動けるか?」

「……大丈夫です」

 と、言いながらも一人では立つことが出来ず、結局先生に手を借りてしまった。

「立花さん、顔を洗ってきなさい。それに、今日はもういいから」

「私なら大丈夫です」

「こっちは平気だよ、さっき彼を運んだ先生がね、後で手伝ってくれることになったから。君は明日頑張ってくれればそれでいいよ」

「……分かりました、それでは失礼します」

「うん、今日はありがとね」

 軍手を返却して、私はお手洗いへ向かう。

 鏡と向かい合い、ようやく自分が酷い顔をしていることに気が付いた。

 頬から耳にかけて引かれたひとつの赤い線。これは東条直樹の血液。私の身代わりに流した赤い血液。

 恐らく先生が顔を洗うことを勧めたのはこれが一番の理由。けれど、その線を指で辿るうち、もうひとつの理由を見つけてしまった。

 その線は途中で切れていた。違う、正確には縦に引かれた線によって上書きされていた。いつ、どのタイミングで流れた涙だろうか。相変わらず私の頭はおかしいらしい。

 流した涙にすら気付けないなんて。おかしくて笑えてくる。

 溢れてくる感情に耐えられなくなった私は、その場でしゃがんで、少しだけ笑い、また泣いた。



 いつものように一人で帰り、一人きりの家で、一人分の食事が済んだ。

 このまま一人で居たい。誰とも話したくないし、触れ合いたくない。そんなときでもリンクは起こる。

 私は今以上にリセットを壊したいと思ったことは無い。

 お願い、一人にして……。

 誰に頼めば良いのか分からないその願いは、もちろん誰が叶えてくれる訳もなく。代わりに、見慣れてしまった病院とマリーの姿だけが押し付けられていた。

「まさか直樹が二度も優歌を助けるなんて、これは何? 運命かしら」

 あて付けるような口調で、彼女の不機嫌さが手に取るように分かる。でも一体何に苛立っているのだろうか。澄んだ青色の瞳は真っ直ぐに私を見つめている。

「偶然、でしょう……」

「そうね。偶然。でも、分かったでしょ。直樹が悪い人間じゃないってこと」

 そう、悪い人間ではない。でも彼は知らないうちにマリーを助け、私を壊していく。

 ――そして、そうさせたのは未来の私自身。

 結局何がいけない事だったの? どこで間違えたの? どうして貴方は私を庇うの?

「驚いた……」

 そう呟いたマリーは目を大きく見開いて、言葉通りの表情をしていた。

「優歌……あなたまさか」

 派手なドレスと大人の雰囲気を身に纏った彼女は、私の両腕を掴むと「思い出したのね……」と小さな声で言った。

 私は黙っていた。どうせ心を読まれてしまうのは分かっている。でもどういう訳か、知られたくないと思った。

 その様子を見ていたマリーは私から手を離し、頭を下に垂れてしまった。

 しばらくすると肩が僅かに震え、彼女はクスクスと笑い出した。

「なぁんだ、バカみたい。ふふっ、約束なんて必要なかったわね」

「……もう、帰して」

「そうよ、優歌と直樹は交通事故だけの繋がりなんかじゃない」

「お願い、止めて」

「なによ? 思い出したんなら別にいいじゃない。あなた達は――」

「やめてぇぇぇぇぇぇぇ!」

 初めて聞いた私の叫び声は、とても情けなく聞こえた。

 辺りが静寂に包み込まれると、頭上からマリーの声がした。

 私は叫ぶのと同時にしゃがみこんでいたらしい。

「ムカツクからひとつだけ教えてあげる。優歌のそれ。《好き》って感情だから」

 知ってるわよ……。馬鹿にしないで……。

「ほら、帰してあげる。手を出しなさい」

 私は立ち上がり、甘んじて彼女の手を受け入れた。

 いつもと同じ三つの記憶を抱え、自分の家に戻される瞬間。

 今まで居た場所が、直樹の入院していた病院だということを、思い出した。



 お風呂に入り、早々にベッドに横になると、私は、初めて私のためにリセットを使うことを考えていた。

 枕元に置かれた私のリセット端末。

 表面にはタロットカードで云うところの《審判》が描かれていた。

 赤い翼をもった天使が、地上に並べられた棺に向かってラッパを吹いている。これは一度失われた生命を天使が蘇生させる構図を描いたものだ。

 正位置での意味は《再生》や《復元》。占いで言えば、自分を肯定し、安心して前へ進むときを表している。

 逆位置の場合は《挫折》や《別れ》。過去に戻って出直すべきだという意味となってしまう。

 私はどうするべきなの……。四月七日に戻り、全てを忘れ、リセットを破壊するべきなの? それとも、このまま、この感情を胸に抱いたまま、辛くとも先へ進むべきなの……?

 何もかも分からない。

 そう思った私は、リセットを裏返し、くるくると何度も横に回転させた。完全に分からなくなったところで、再びリセットを裏返す。

 ――現れた天使は、下に向けてラッパを吹いていた……。


 私は、前に進む覚悟を決め、私に必要なことをした。

 センター端末にアクセスし、一部の機能に制限を加える。

 ――心を読み取る機能。

 私は直樹の記憶を思い出してしまった以上。彼を好きになってしまう。それは仕方が無いことだと思う。でも、それは私だけの心。彼女がマリーと名乗るのなら、尚更この心を読まれる訳にはいかない。

 間違ってないよね。マリー。直樹……。


          *


「そんなことでいちいちリセットを使うのね、少しは巻き込まれる身にもなってくれないかしら」

 マリーとほとんど会話をすることなくリセット空間から戻った私は、満足気に花を引き抜く直樹に向かってそう言い放った。

 言葉とは裏腹に、内心では少しワクワクしていた。

 もちろんリンクされることへの腹立たしさもまるきり無かった訳ではない。

 けれど、今回に限って言えば、少なくとも花のためにリセットを使ったのだから、むしろ喜ばしいことと思えていた。

 ――直樹を想うこと、話すことで感情が蘇る。もっと話がしたい……。

「……今……なんて……」

 彼は花を右手に持った状態で固まっていた。

「そのままの意味」

「……そんな、立花さん、リセットのこと分かるの?」

「そう……。やっぱり彼女から聞かされていないのね……」

「それって、マリーのこと……?」

 ようやく彼は花を手から離し、立ち上がってから「じゃあ――」と続けた。

「もしかして立花さんもリセットを?」

「持っているわ」

「そっか……。でも……でも、『巻き込まれる』って、何のこと?」

 マキコマレルッテナンノコト? ですって?

「あなたまさか、知らないとでも言うの?」

「えっ?」

「呆れた……。説明書、読んでないのね」

「……」

 図星らしい、折角彼のためにわざわざ作ったのに。本当に馬鹿。なんでこんな人と。

 気付くと、私の口からは大きな溜め息が漏れていた。

 私は花壇に花を植える作業に戻りながら話を続けた。

「リセット同士は繋がってる。ひとつが起動するとリンクを起こして全てが起動するの。行き先は起動した人と同じ時間」

「それって……」

「つまり、巻き込まれるってこと」

「そんな、でも僕は巻き込まれたことなんて……」

 彼は呆然と立ち尽くしたまま考えを巡らせている。私はというと、ただ花を摘み、花壇に植えるだけ。彼が考えていることが手に取るように分かる。

 途中、彼が何かに気が付いたような声をあげた。

「そんな……それじゃあ……立花さんは、一度も……」

 花を摘み、花壇へ植える。

「そうね、別に使う必要、無かったから」

「僕はっ! ……僕は、そんなこと知らなくて……」

 花を摘み、花壇へ植える……。

 直樹、別に私はあなたを責めているわけじゃない。そんな顔しなくたっていいの。私は、あなたと同じ時間に生きている。それを知って欲しかったから……。

「……立花さんを巻き込んでるなんて知らなくて、僕は何度も――」

「出来たわ」

 彼の顔が上がる。

「これはあなたが救った命、そうでしょ」

 殺風景だった花壇には華やかなオレンジが咲き誇っている。ひとつも欠けることなく。千切ってしまったのは直樹だけど、それを後悔と感じてくれた。だから、恥じることなんてないの。

「さっきはあんなこと言ってごめんなさい。私なりの冗談と受け止めてもらって構わないわ。深い意味は無いの」

「……謝るのは僕の方だ。変なことに巻き込んで、本当にごめん」

 つい可笑しくて笑ってしまった。マリーが見たら何て言うかしら。

「ふふっ、あなたは勘違いしているわ」

「えっ?」

「巻き込んだのは私の方。あなたにアレを送ったのは私よ」

「どう……いうこと?」

「付け加えて言うと、リセットを開発したのも私」

 それを聞いた彼は目を丸くして口をパクパクさせている。信じられないもの無理もない。今の私は彼と同じ高校二年生なのだから。

 なんだか楽しい。ううん、面白い。

「先生も終わったみたい、行きましょう」

「え、あっ、ちょっと!」

 直樹は土だけが残ったケースを抱え、慌てて私を追いかけてくる。

 そんな光景の中、私は彼との出会いを思い出していた。

 もうどれくらい前になるのか分からないほど大昔、彼と私は本当に出会っていた。

 ――それは、運命とは程遠い、ごく普通の出会いだった。



「えぇ!? それじゃあマリーと立花さんって同一人物ってことなの!?」


 私は直樹の案内で学校の近くにある小さな公園に来ていた。途中のコンビニで彼がしつこく奢ると言うので、仕方なく小さなペットボトルに入った緑茶を買ってもらった。

 公園に着き、木陰のベンチに腰掛けると、彼はリセットの開発について色々と質問をしてきた。

 どうしてそこから聞くのだろうかと思いつつも、私は彼が理解の出来る範囲で教えてあげた。


 未来で私が在籍していた研究機関のこと。

 正式にはリセットは一種の通信装置であり、タイムマシンとは違うということ。

 脳への負担が大きいため、三つまでしか記憶できないこと。

 センター端末を転送したのが四月七日であるため、それ以前には戻れないこと。

 マリーが私の脳をデータ化して生まれた人工知能搭載型のオペレーションシステムだということ。


 理解しているのかは分からないけれど、彼は終始黙って頷いていた。

 それなのに、最後の項目で急に大きな声を上げて驚くものだから、私はビックリしてしまい、ペットボトルの口からお茶が少し飛び出してしまった。

 ハンカチを取り出して、スカートに染み込んでしまったお茶の跡を、軽くぽんぽんと叩く。

「ご、ごめん」

「いいけど、そんなに大きな声を出して驚くことかしら」

「だって、全然似てないよ」

「同じだったら気持ち悪いでしょう」

 そう言いながら、彼女が私と全く同じ姿だった頃を思い出していた。

「それに、彼女はもう私じゃない。彼女は自分の立場を知ったうえで、姿形を変え、一人の女の子として生きているの」

「……そっか」

 それからも質問は続き、私は淡々と答えた。


 リセットが全部で二十二枚あること。

 私と彼以外に持っている人が居ないこと。

 説明書に書かれている会社は存在しないこと。

 そこで質問の矛先が私のことに移ってしまったので、なるべく当たり障りの無い嘘で答えることにした。

 リセットの研究以外覚えていない、と……。

 

 ようやく質問の嵐が止むと、すっかり温くなったお茶をひとくちずつ飲みながら、しばらくの間、広場で駆け回る子供達を見つめていた。

 頭上にそびえる大きな木が揺れ、木漏れ日がチラチラと足元を照らしている。

 さわやかな葉の擦れる音、それをかき消す蝉の声が耳に痛い。

 今年の夏は良い季節になるのだろうか……。

「あの……」

「なに」

「その、どうして僕なの?」

 それは……。

「たまたまよ。研究所が実験サンプルとしてあなたを選び、私がその監視役として任命された。ただそれだけの話。……詰まる所、私にも分からないのよ」

「でも、どうやって報告するの? これって過去専用なんじゃ……」

「私のだけは未来への通信が可能なのよ」

 かなり無理のある設定ね……。

 流石に彼も納得の出来ない表情を浮かべていたが、それ以上聞いてくることは無かった。

 不意に背後から女性の声が投げかけられた。

「直樹くん? それに……」

 顔だけで振り向くと、木の合間、胸の高さの柵の向こう側に、クラスメイトの相澤美玲の姿があった。

「うそ、立花さん? あ、そっか、今日は美化委員の仕事があるって言ってたわね」

「あとっ、あっ、そ、そう! 仕事でちょっと疲れちゃって、休憩して帰るとこなんだ」

 素っ頓狂な声で直樹が答えた。どうしてそんなに焦る必要があるのだろうか。

 それと、私を見るなり開口一番に出た『うそ』とはどういう意味?

「あっ、そうだわ、直樹くんが教室から出た後にね――」

 車が通過する音に遮られ、最後の方は聞き取れなかった。

「えっ? なに?」

 彼は立ち上がり彼女に近寄っていった。

 私は何故だか心がざわついて座っていられなかった。

 立ち上がると、今度は勝手に足が動き出し、直線を引いて二人から離れてゆく。

 ――まるで逃げているみたい……。

 どうして私が逃げているの? 一体何から?

 彼が相澤美玲と話している。ただそれだけじゃない。どうして? どうして……。

 『どうして僕なの?』

 ……その答えは私が考えていたよりも、もっと複雑だった。

 だから私は逃げているのね。彼から。彼の周りから。

「……さん」

 もう嫌、考えるのは止めよう……。

 またいつものように一人になろう……。

「立花さん!」

 肩を掴まれてから気が付いた。直樹が私を追いかけて来たことに。

 ほんの少し息の乱れた声で彼は言った。

「急にどこ行くの?」

「質問は済んだでしょう? 帰るのよ」

「う、うん……分かった……」

 私の肩から手が離れてしまう。

 そう、帰るのよ……。

 再び出口に向けて歩こうとしたとき、とても懐かしい言葉を聞いた。


     「またね」


 時間が一瞬で巻き戻る。

 振り返ると、記憶の彼と瓜二つの顔が、いつも別れ際に見せる、少し困ったような表情をしていた。

 何度も、何度も、本当に何度も交わした別れの言葉。

 私はこんなにも鮮明に覚えているのに、あなたはまだ知らないのね……。

 切なくて、涙が出そうになる。

 私は溢れる感情を必死に抑え込み、ひとつだけ頷くと、出口へ向かって足を踏み出した。

 一歩進む度、直樹との思い出が容赦無く私の胸を突き刺して、出口を通過する前に、涙は零れ落ちてしまった。


 直樹にリセットを渡した本当の理由。

 それは交通事故なんかではない……。

 私は植物人間になった彼の脳内を、実験と称し、データ化して覗いてしまった。

 そこに渦巻いていたもの……。

 ――それは、《後悔》だった。

 些細な事から重大な事まで、ありとあらゆる事柄に向けられた後悔の念。彼の頭の中は、その強い念によって埋め尽くされていた。

 私への想いが無かった訳ではない。それどころか、私は特別な場所で大事に抱えられていた。

 嬉しい。けれど、とても悲しかった。彼がこんなにも後悔に苛まれていたなんて知らなかったから……。

 数日後、ユウカの凍結が決定され、私はリセットを無断で使用した。

 行き先は彼の後悔が一番集中していた高校二年の年。

 起動直後、私は馬鹿なことをしたのかもしれないと思った。


 ――直樹の後悔は、私ではなく、別の女の子に向いていたのだから。


 細かい内容までは分からなかった。

 けれど間違いなく、私以外の女の子への後悔が他のものよりも強く残っていたのは確かだった。

 もしかしたら直樹はその子と……。

 そんな考えが浮かんでしまい、私は怖くなって、わざと記憶から彼を消すことにした。

 直樹は自らの意思で後悔を消す。

 それがリセットを渡した本当の理由。

 私は彼の交通事故を防ぐだけ。それでいい……。

 それだけで良かったのに……。

 どうして思い出しちゃうの?

 この気持ちはどこに行けばいいの?


          *


 ――夏休の間、リンクは一切起こらなかった。

 それは私に気を遣ってのことなのか、それとも既に後悔は消えてしまったのか、もしくはそのどちらでもなく、私の見た後悔が未だに訪れていないだけなのか……。

 美化委員の仕事は夏休みに入っても続いていた。クラス別の委員が交代で花壇の世話を任され、毎週水曜日が私達の当番だった。

 とても面倒な仕事だと思う。けれど、私も彼も一度も休まなかった。

 炎天下の中、可憐に咲き誇る黄色とオレンジ。

 ふと横を見ると、もうすっかり慣れた手つきで直樹が水を撒いている。私の目には、水を与えている直樹も、与えられている花達も、とても楽しそうに映っていた。

 ジョウロの水が無くなり、水道まで一緒に歩く。

 蛇口をひねり、ジョウロを水で満たしていく。

 私達はたっぷり時間をかけて、これを何度も繰り返す。

 その間はとても緩やかに時間が流れ、僅かながら昔と似たような愛おしさを感じていた。

 ――形は違えど、これは、紛れも無く二人だけの時間。

 ようやく半分が終わろうとしたとき、直樹が少し強張った表情になりながら、私に向けて話し掛けてきた。

「あのさ、すごく急な話なんだけど……」

「なに?」

「来週の月曜日から一泊二日で海に行くんだ。哲平達と」

「そう」

「それで、その」

「それで?」

「良かったら、立花さんも……どうかな、なんて……」

 ジョウロから降り注ぐ雨はとても小さくて優しい音をしている。注意していないと聞こえない程の弱々しい音なのに、今はその音が全てであるかのように、しっかりと私の耳に届いている。

 私はもう笑顔を隠せなかった。涙が隠せないように、笑顔だって意思とは関係無く溢れてしまうものなのだと、そのとき初めて分かった。

「ごめんなさい、その日は予定があるの……」

「そっ、そうだよね! やっぱり急だよね! ごめんね変なこと言っちゃって」

 そうだ、隠せないのならもういっそのこと……。

「ううん、嬉しい、誘ってくれてありがとう」

 ありがとう。直樹。でも、ごめんなさい……。まだあなた達の間に混ざることが出来ないの。あなたの後悔は、もしかしたら、私が近くに居るせいで生まれてしまうのかもしれないから。

 だから、もう少し後、私がリセットを渡した本当の理由を話せるようになったら、それを聞いたうえで、それでも私を傍に置いてくれるのなら、そのときは……。


 二十センチくらいの茎の先端に咲いた黄色いマリーゴールドは、丸みを帯びた可愛い形をしている。所狭しと広がる花弁は、まるで窮屈な茎の中からスポンと飛び出してきたかのように、溢れる生命力を開放させていた。

 その中央、開花と共に露になった雄しべや雌しべを見ていると、何故だかは分からないけれど、それがとても尊いもののように思えて、すごく切ない気持ちになる。

 あなたと一緒で、私もこの花が好き。

「ねぇ、直樹、くん」

「ん?」

「マリーもね、この花が好きなのよ」

「……うん、そんな気がした」

「私に気にせず、自由にリセットを使って」

「えっ?」

「たまにはあの子にも、会ってあげて……。きっと、待ってると思うの」

「でも……」

「お願い」

「…………うん、分かった」

 全ての花壇に水をやり終えた私達は、校門まで並んで歩く。

 特に会話は無いのだけれど、この僅かな時間が一番好きだった。

 間に一人分の空間を保ちながら、いつも、出来るだけゆっくり歩いた。

 百メートルにも満たない二人で歩く帰り道。

 過去でもない、未来でもない、今だけを感じることができる唯一の時間。

 校門をくぐり、お互いに身体を向き合わせ、ぎこちない笑顔を二人で作る。


     「またね」


 今の私はこれだけで充分。

 別れるときに別れを言える。

 ――私の中の確かな幸せ。



挿絵(By みてみん)

まだまだ謎が色々と残っておりますがここで第一幕の終了となります。

ここまで読んで頂いて本当にありがとうございます。

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