三章 【巻き添え】
【登場人物】
東条 直樹
情けない自分を変えたい願う平凡な高校二年生。真面目で大人しい性格。その中性的な顔立ちから、女子達の間ではひっそりとした人気がある。
ある日、誰かの手によって『リセット』という機械が送り届けられる。
渡瀬 愛
直樹の幼馴染。中学では疎遠になっていたが、高校で再び話すようになる。明るく活発な女の子で、バスケ部ではエースとして活躍している。
本人は料理が得意だと思っているが、その味はとても不味い。
相澤 美玲
直樹が憧れを抱いている女性。才色兼備なお嬢様。愛と仲が良く、そのおかげで直樹と話すようになる。生徒会役員の仕事が忙しく、皆とゆっくり話をする機会は少ない。
園塚 哲平
直樹とは親友なのだが、愛とは犬猿の仲。いつもバカなことばかりしているが、たまに大人な一面を見せたりする変な奴。
部活や委員会には入らず、いつもバイトをしているらしい。
立花 優歌
二年始業式の日、桜学へ転校してきた不思議な女の子。初対面にも拘らず美化委員の相手として直樹を指名する。無口な性格で、近寄りがたい雰囲気をしている。
マリー
リセット空間に現れる謎の美少女。とてもわがままで直樹を恰好の遊び相手に仕立て上げる。多くのことは分からないが、とても美しい声で歌う。
三章 【巻き添え】
七月十三日、気温三十五度、晴れ。
「こぉんの暴力女がっ! ちったぁ加減しろ!」
「あんたが変な物見せるからでしょ!」
「お前が勝手に覗いたんじゃねぇか! このドスケ、ぐはっ!」
再び愛の鞄が哲平の顔面に突き刺さる。
「きゃあ! 園塚君、鼻血が!」
「ふん、いやらしいことばっか考えてるからよ、触るとうつるからやめときなさい美玲」
「お……おま……おまえなぁ……」
うだるような暑さの中、いつもの騒々しいやり取りが繰り広げられていた。
帰りのHR後、おもむろに僕の前にやって来た哲平は『夏休みのアバンチュールに向けて』という前置きの後、いきなり破廉恥な雑誌を広げだした。僕が目のやり場に困っていると、そこに愛と相澤さんが登場してこの事態になった訳だ。
「うらぁぁぁぁぁぁ!」
哲平が漢らしい怒号を上げるや否や、辺りはスローモーションに包まれた。
固く握られた右手拳が愛の顔面に近付いていく。哲平の表情は本気だ。
(まずい!)
その反撃に驚いた愛はギュッと目を瞑った。その刹那、拳がピタリと停止したかと思うと、愛の膝元に何かがものすごい速さで接近しているのを捉えた。速すぎてブレてしまい、はっきりと確認出来ないが、状況から見てそれはきっと哲平の左手だ。
(そんな……まさか! 止めろ哲平、死ぬつもりか!)
僕は止めることを哲平に目で訴えた。だが、そんな必死の制止も彼には届かず、無情にもその左手は愛のスカートを掴んでしまった。
(もう駄目だ、声を出してでも止めないと! 今の彼を救えるのは僕だけだ!)
そう思って口を開きかけた瞬間、哲平と目が合った。
……彼は優しい笑顔を僕に向けていた。
僕は何故か彼が遠くに行ってしまう気がして、途方も無く悲しい気持ちになっていた。いつも僕の一歩前を歩いていた哲平、バカだけど根は優しくて、いつもピンポイントで的確なアドバイスをしてくれた。僕は君が居たからここまで来れた、そんな気さえするよ。お姉さんには僕から伝える……。辛いけど、そのくらい親友としては当然だろ? だから……。
――さようなら、哲平……。
スローモーションが解かれ、愛のスカートが勢い良く捲れ上がった。僕は目を逸らすつもりが、思いの他ばっちりと彼女を守る神聖な布を拝観してしまった。
いやらしさを微塵も感じさせない純白の生地。可愛らしさを強調する小さな黄色いリボン。その神聖な布は、心なしか愛に履かれて幸せそうにも見えた。
次の瞬間、愛は女の子として当然の声を上げ、舞い踊るスカートを押さえつけてしまった。
数分後、僕はヒリヒリする頬を撫で付けながら、例によって自分が招いた余計な仕事を片付けるために、ジャージに着替えて昇降口へと向かっていた。
あの日、一番大事な物をリセットに頼らず自分の力で取り戻した。かといって相談事や雑用の依頼を無碍にする訳にはいかないので、登下校や休み時間を常に哲平達と一緒に過ごしていた頃のようには戻れていないのが現状だ。
けれど、僕が必死になって彼らを呼び止めたことで、一緒に居たいという気持ちは分かってもらえたと思う。相変わらずメールでの会話の方が多いが、今では忙しいときこそ、その確かな繋がりを嬉しく感じられるようになった。
それにしても……。
放課後の午後三時半とは、一日を通して一番暑い時間帯だ。こんな時間にこれからする作業のことを考えると途端に足が重くなる。
美化委員の仕事は、キツイ、汚い、臭いの三拍子が揃った仕事が多い。そしてそのどれもが強制参加となっている。その為、他の自由参加の仕事はほぼ全員がパスする次第だ。参加人数がゼロだと知った美化委員を担当する教師は、ご丁寧にもわざわざうちの教室に足を運んでまで僕を直接指名してきたのだ。
もちろん快く引き受けたが、正直なところ僕にだって嫌だという気持ちが無い訳ではない。しかし、僕を頼って毎日飛び込んでくる仕事は、僕がリセットを所持したスーパー高校生である以上当然の責務だと思っている。
仕事内容は中庭の修繕。差し当たり今日の作業は花壇の入れ替え準備だ。
『今日の――』というのは明日も、という意味だ。先生の話によれば、今日は枯れた花の除去と土の入れ替え。明日は届いた花の植え込みをするらしい。
靴に履き替えてから外へ出ると、既に先生と二名の生徒が作業をしていた。
レンガ敷きの立派な花壇。その上に乗った男の教師が古い土をスコップで取り出し、ゴミ袋の中に次々と入れている。
二人の生徒は華奢な体つきで両方ともすぐに女の子だと判る。きちんと軍手をはめているが、やっている作業はというと、一人はゴミ袋の口を広げていて、もう一人は立ってその光景を見ているだけだ。
パッと見たところ、花壇は昇降口を挟んで両脇に三つずつ配置されている。計六つ、それをこの四人でやるのか……。しかも半数は女の子ときたもんだ。これを終わらせるには結構な時間を要するな……。
そう思っていると、額の汗をタオルで拭った男の先生が僕の姿に気が付いた。
名前は思い出せないが三十代前半の若い先生で、確か三年の生物を教えている。なんだかのんびりした性格らしく、委員会でも生徒の方が進行を仕切っている程だ。
「おおー、来たか東条君。助かるよー、今日はよろしく頼むねー」
教師の声と共に二人の女生徒の顔が僕に向けられる。
(げっ!)
あろうことか二人の女生徒の内の片方、ゴミ袋の口を広げている方が僕の苦手な立花優歌だったのだ。
僕はなるべく平然とした表情を崩さないようにして三人に挨拶をした。
「よろしくお願いします」
「おいっすぅー」
「……」
ジャージの色から三年の先輩と思われるショートカットの女の子がフランクな挨拶を返してくれたのに対し、立花さんは僕に何か言うでもなく、黙ったまま頷いただけですぐにゴミ袋に視線を戻してしまった。
(ははは……相変わらずか……)
彼女は今、男子生徒の間で結構有名な存在だ。その端整な顔立ちと無口な性格から、黒髪の撫子や愁いの姫君といった異名で呼ばれ、一部のコアな層に人気があると耳にしたことがある。
確かに傍から眺めている分には害は無く、正直可愛いとさえ思える。けど美化委員で一緒に仕事をする立場からすれば、そんなのは彼女の良い面しか見ていない男子達による偶像の産物でしかない。
「それじゃあ星野ー、君は東条君と一緒に反対側の花壇をやってもらえるかな」
「あいよぉーティーチャー」
星野と呼ばれた先輩は元気良く敬礼をして僕に屈託の無い笑顔を向けた。
彼女はリンゴの形をしたヘアピンで茶色く染まった髪を留めていた。僕は露になったその可愛らしいおでこや言葉遣い、仕草から元気ハツラツ娘といった印象を受けていた。
「東条君、そこのスコップと軍手使っていいからね」
先生はのんびりとした口調でそう言いながら、花壇の脇を指差した。
「分かりました」
僕は軍手をはめてスコップを拾い上げると、星野先輩に準備が出来たことを目配せして知らせた。
「うしっ、そんじゃー行こっか東条氏」
「はい」
そう言って、僕達は昇降口を挟んで反対側の花壇へ歩き出した。途中、チラリと振り返り立花さんの様子を伺ってみたが、彼女は微動だせずに先生の作業を見ているだけだった。
花壇に着くと、僕らの他にも作業をしている生徒達がいることが分かった。
屋上から垂れ下がった『目指せ! 全国大会! 桜学水泳部』や『今年も夢の舞台へ! ブラスバンド部』等と書かれた垂れ幕を覚束ない手付きで外そうとしている二名の女生徒だ。まったく桜学の男子生徒達は一体何をしているのだろうか。なんだか少し腹が立ってくる。
「それじゃあ僕がやりますんで、先輩はゴミ袋を広げてて下さい」
「うむっ」
早速花壇の上に登り、スコップで土を掘って、その土を星野先輩が広げている袋にそっと入れていく。案外重い。僕は疲れないようにスローペースでその作業を繰り返した。
「いやぁー、噂に名高い東条氏と一緒に作業が出来るなんて、光栄の極みであります」
いきなりの変な褒め言葉に驚いて先輩を見ると、キラキラした瞳ともろに目が合ってしまい顔の温度がほんのりと上昇してしまう。
「そんな、よして下さい……よっと」
僕は手を動かしながら先輩の会話に付き合った。
「まったまたぁー、ご謙遜ご謙遜、君、三年生にもすごい人気だよん」
「先輩だって有名じゃないですか、星野って言ったらうちの水泳部のエースですよね。幾つかの大学から声が掛かってるとか、尊敬しますよ」
「やめてよぉ、照れるじゃないかぁー、にひひー」
「先に始めたのは先輩です。先輩が止めれば僕だって止めますよ」
先輩に対しては少し失礼だったかなと思い、チラリと彼女の様子を伺うと、唇を尖らせた拗ねたような表情になっていた。
「むむぅ、話と違うなぁ、もっと可愛い子って聞いていたのになぁー」
「すみませんね、ご期待に添えなくて」
「ちぇー」
それから黙々と作業をこなしているとようやく底が見えてきた。腰を伸ばして額に浮いた汗をジャージで拭っていると、パンパンに膨らんだゴミ袋を乗せた一輪台車を転がした立花さんが僕らの横を通り過ぎていった。
左右にブレることなく一直線に進んでいく彼女を見て、意外に力があるんだなと少し感心してしまった。
「ねねね」
ふと星野先輩が興味津々な顔をして声を掛けてきた。その表情は飼い主と遊びに出掛けた小型犬のそれとあまりにもそっくりなので、つい笑ってしまいそうになる。
「なんですか?」
「あの子ってさ、何ていったっけ」
「立花さんのことですか?」
「だっけ」
「ええ」
「あの子と東条氏って、何かあるの?」
「はぁ? なんですかいきなり」
本当にこの人は急に何を言い出すのだろう。思わず手を止めてしまった。何かってなんだ。
「どうなの?」
「別に何もありませんよ」
「本当にぃ? 彼女とかじゃないのぉ?」
「……? どうしたらそうなるんですか、どっからどう見たって仲良く見えないじゃないですか」
「ふぅーん……」
星野先輩は顎に手を当てて悩みこんでしまった。僕は深く追求することなく再び作業に戻ると、一つ目の花壇の土が無くなっていることを確認して花壇から飛び降りた。
ジャージの裾に付いた土を掃ってからゴミ袋の縁をきつく縛っていると、頭上で星野先輩がぼそりと喋る声がした。
「だって――」
「えっ?」
「私、さっきから睨まれてるんですけど」
その言葉の意味が分からず、彼女の視線を目で追ってみると、少し離れた先から空になった台車を押して帰ってくる立花さんの姿があった。
僕はそれほど目が良くないので星野先輩が言うようなことは確認出来ないが、確かにこちらを向いている気がした。
ふと星野先輩がしゃがんだかと思ったら、急に僕の腕に巻きついてきた。
「なっ!」
「モテ男は辛いねぇー、うりうりー」
星野先輩の小ぶりな胸がふにふにと腕に当たる感触がして、免疫の無い僕は驚く程の早さで頬が上気していった。
「ちょっと! 止めて下さいよぉ!」
「よいではないかー、よいではないかー」
「星野先輩っ!」
僕は必死になって腕を解こうとするが、案外強い力で巻き付いているせいでなかなか離れることが出来ない。そうこうしていると「あ」という彼女の声と同時に、加えられていた力が急に抜けて、ようやく僕は彼女の腕から開放された。
――恐る恐る顔を上げると、僕達を見下ろす格好で立花さんが立っていた。
彼女は間違いなく僕達に何かを言おうとしている。と言うのも、ご丁寧に台車が脇に退かされているからだ。真面目に作業しろとでも言われるのかと思い、僕は身構えて立花さんの口が開くのを待った。
立花さんがゆっくりと口を開き始めたその時、男とも女とも区別のつかない叫び声が辺り一帯にこだました。
「あぶなぁぁぁぁぁい!」
その声は立花さんよりも更に上から聞こえた。驚いて視線を向けると立花さんの頭に向かって何かが落下してきていた。(まずい!)と思った瞬間、『ごっ』という鈍い音が響き渡る。それに続いて鉄製の棒がアスファルトに落下したような、耳をつんざくような不快な音。
いつの間にかギュッと瞑っていた瞼をゆっくり開けると、ほんの数十センチ先に立花さんの白い顔があった。近くで見ると驚くほど端整な顔立ちだ。肌荒れのひとつも見つからない。そんなことを考えながら彼女の瞳に視線を移すと、ようやく彼女が僕に怯えていることに気が付いた。
それもそのはず、僕は彼女に覆いかぶさる格好をしているのだ。
「わっ! わっ! ごめんっ!」
慌てて彼女から離れようと上体を起こそうとしたとき、彼女のしっとりとした頬に赤い水滴が落下した。
「えっ?」
その刹那、頭頂部にズキンという激痛が走った。頭の上半分が異常に熱い。
(あぁ、そっか……)
落下してくる物を頭で受けたことを思い出して、次々と彼女の白い肌を汚していく赤い水滴の正体は血液であり、それは僕の頭から流れているということを理解した。
血管の脈打つ音が次第に大きくなっていき、ぐらりと世界が傾いたかと思うと、体を支えていた両手の力が抜けてしまった。
「東条……!? ちょっと! だ……ょうぶ!?」
立花さんの身体から、どこか懐かしい石鹸の良い香りがした。
(良い匂い……。それに、やわらかくて、温かい……)
急に痛みが和らぐ感覚を覚え、星野先輩が僕を心配する声も、ついには跡形も無く消え去ってしまった……。
(どうしよう……。立花さんに……。抱きつい、ちゃった……)
*
消毒液の匂いがする。つい最近プールの授業で嗅いだあの独特の匂いだ。
それに、これはページをめくる音?
少しだけ目を開けてみると、ここが真っ白なカーテンに囲まれた閉鎖的な空間であることが分かる。一瞬病院かとも思ったが、すぐに保健室だと気付いた。窓越しのくぐもった声で運動部らしき掛け声が聞こえているからだ。
そしてまたページをめくる音。
僕はその正体が気になって音のした方向に顔を向けると、ベッドの脇に腰掛けて何かの雑誌を読んでいる星野先輩の姿を見つけた。
「あの……」
「おっ? あ、東条氏が目覚めた」
彼女はすくっと立ち上がると「せんせー、東条氏が目覚めたー」とカーテンの向こう側に話し掛けた。するとキャスター付きの椅子から立ち上がる音が聞こえ、丁寧にカーテンの一角が開かれた。
現れたのは、普段着っぽいベージュのブラウスとタイトな黒いスカートの上に立派な白衣を羽織った、いかにもな感じの保健室の先生だった。初めて見るその先生は他の教師達と比べて見るからに若々しく感じた。うちの保険の先生がこんなに美人だなんて知らなかった。哲平のアンテナは年上には反応しないのだろうか。
僕は初対面の人に対して寝ながら挨拶をするのは失礼だと思い、なるべくゆっくりと上体を起こすと、薄い朱色の紅が引かれた艶やかな唇が僕の身を案じる声を上げた。
「あ、こら、まだ痛むでしょう」
その通りだった。頭頂部に一定間隔でズキズキと痛みが走っている。ふと頭が窮屈に感じて手を当ててみると、顔の側面が包帯でぐるぐる巻きにされているではないか。
「こ、これは」
「取ったら駄目よ」
「こんな大怪我なんですか、僕」
「傷口はそうでも無いから安心して頂戴、その大袈裟な包帯はガーゼを押さえるためのものよ、傷口さえ塞がれば取っても平気。でも今日一日は覚悟しなさいね」
「……はい」
「良かったじゃん、あんだけ盛大に血を流しておいて一日で済むんだよ? 東条氏は運が良いんだよぉー」
星野先輩の言葉を聞いて、血に汚された立花さんの顔が頭を過ぎった。彼女を助けるためとはいえ、少し後味の悪い場面だった。けれど、この場所に居ないとみると、どうやら彼女は無事らしい。それだけは救いだ。
そんなことを考えていると、おもむろに先生が僕の傍に来て上体を屈めた。
どうやらずれてしまった僕の包帯を直してくれるらしい。その様子を黙って見ていると、ブラウスの隙間に胸の谷間を発見してしまい、慌てて視線を他の場所へ移すが、心なしか頭の痛みが強くなった気がする。
僕が目のやり場に困っていることなど露知らず、先生は尚も細い指で丁寧に包帯を直しながらゆっくりとした口調で話し始めた。
「その通り、ぶつかったのが鉄とか重い物だったら今頃は病院、それも集中治療室のお世話になっているところよ」
「えっ?」
じゃあ僕の頭には一体何が当たったというのだ。かなりの衝撃を感じたし、それにあの耳をつんざくような音は確かに重い金属が落下したときの音だった。僕は訳が分からなくなって、あの出来事を終始見ていたであろう星野先輩にその答えを求めた。
「あれって、鉄じゃなかったんですか?」
「……安心しろ若いの、あれはステンレスぢゃ……。それも中身がスカスカのなっ」
星野先輩が目を瞑って弱々しい爺さんの口調で説明し出したかと思うと、『のなっ』のところで目をくわっと見開いた。その憎たらしい表情をもろに見てしまい、思わず笑ってしまった。
「ぷははっ、痛てて……」
「ふふっ、意識は大丈夫そうだけど、もう少し落ち着いてから帰りなさい。私も六時まではここにいるから」
「はい、ありがとうございます」
僕の返事を聞いた先生は大人の表情を崩さずニコリと微笑むと、来たときと同じように丁寧にカーテンを閉めて戻って行った。
少し待って、キャスター付きの椅子が転がる音が聞こえたのを確認してから、すかさず星野先輩に話し掛ける。
「先輩、もしかしてずっと居てくれたんですか」
「まぁねー」
「そんな、僕はどれくらい……」
彼女は携帯をパチリと開いて「えっとぉ」と考え始めた。
「まぁ、小一時間ってとこかなぁ。……あ、別に気にせんとってや、ウチも美化委員の仕事サボれた訳やし、それに何と言っても東条氏の可愛い寝顔を仰山見れたさかい、正直得したでほんまにー」
星野先輩が何故途中から関西弁らしきものになったのかは全く分からないが、僕に気を遣って言っていることは確かだ。人懐っこい喋り方のせいで忘がちになってしまうが、先輩とは今日初めて会った仲なのだ。僕はきちんとお礼を言わなくてはいけないと思い、上半身だけでもなるべく丁寧に見えるようにお辞儀をした。
「本当に、ありがとうございます」
「たははー、ええねんええねん」
星野先輩の照れ笑いを横目に、僕はポケットの中にきちんとリセットが入っていることを確認した。
「ところで、一体あのとき何が起きたんですか?」
「えっとね、降ってきたのは垂れ幕を押さえる金具ね、落としたのは気の弱そうな生徒会の女の子だったなぁ、結構可愛い子よ。ちょっと前まで居たんだけど、あまりに泣くもんだから帰しちゃった。多分後で謝りに来るんじゃないかな」
なるほど、確かに言われてみれば屋上から垂れ幕を外していた女子が居たな。顔までは分からないけど、生徒会の人だったのか。相澤さんなら知っているだろうか。
「あぁ! そうだ! 東条氏も人が悪いぞぉー、何も無いなんて言ってさぁー」
「何がですか?」
「びっくりしたよぉー、東条氏が気を失った直後にね、あの子、君の名前を何度も呼ぶんだもん、『なおきー、なおきー』って、それも泣きながらよ?」
「はぁぁぁあ!?」
僕はあまりにもあり得ない光景に、片方の眉が思い切り吊り上ってしまった。
「その後どっか走って行ったかと思ったらタオルをいっぱい持ってきてね、ついでに先生まで連れてきちゃって、手際良かったわよー、私なんてただ突っ立ってただけだもん」
「冗談、ですよね……」
「本当だってばぁ、もうなんて言うのかなぁ、愛の成せる業? みたいな」
そんなバカなことがあるか? 僕は立花さんとまともに会話なんてしたこともなければ、下の名前で呼ばれたことなんて一度たりとも無かったはずだ。むしろ苗字すら呼ばれた記憶も無い。
――立花優歌。
僕は彼女が桜学に転校してきて初めてその顔と名を知った。以前に会った記憶などは一ミリも無い。けれど彼女は転校初日に僕を美化委員に指名した。かと思えば以降は僕に対してずっと冷たい態度だった。そして今回、どういう訳か僕を下の名前で呼び、挙句の果てには僕を心配して涙を流したという。
訳が分からない。けど、何か引っ掛かる。
僕には彼女が単に変わった子で、今までも突拍子の無いことをし続けて生きてきたようにはどうしても思えないのだ。
先輩の説明を聞く前に、事と次第によってはリセットを使おうかとも考えていたのだが、ここでリセットするわけにはいかなくなってしまった。折角彼女の片鱗が見えてきたんだ。僕は、これを機会に立花優歌の全てをハッキリさせようと考えた。もし逆に嫌われてしまってもリセットがある限り何度でも好きなところからやり直せる。
ふと星野先輩の声が聞こえて考えるのを止めた。
「それとも、東条氏にとっては何でもない女の子に下の名前で呼ばれたり、泣かれたりするのって日常茶飯事なのかい」
「違いますって、ていうかその『東条氏』っていう方がよっぽど珍しいですよ。なんですかそれ」
「えー、おかしいかなぁー、じゃあ私も『なおきー』って呼んでいい?」
「勘弁して下さい」
「ほれみろー、じゃあ東条氏しかないでしょうにー」
この人が変わった子であることは誰の目から見ても歴然だ。
その後星野先輩が奢ってくれたパックのお茶を飲みながら、三十分くらい他愛もない会話をしながら保健室で休んでいると、うっかり屋上から金具を落としてしまった生徒会の女の子がやって来て、僕に泣きながら謝っていった。
あまりにもしつこく謝るので、途中からは彼女が傷付かぬようにうまく会話を選びながら、如何に早く帰ってもらうかを考えていた。なんだか気を遣う立場が逆の気がする。星野先輩の判断は正しかったようだ。
結局リミットの六時きっかりまで保健室で休んでしまった。
先生が車で送ると言い出したが、近いから大丈夫だと断り、途中まで星野先輩と一緒に帰ることになった。
昇降口を出て花壇を見渡すと、既に作業は終わっているらしかった。星野先輩の話によると、立花さんは僕が教師達に運ばれるのを見届けるとすぐに仕事に戻ったとのことだった。保健室までついてこないあたり立花さんらしいとも言えるが、この量を教師と二人で片付けたのは大変だったに違いない。明日はきちんと最後まで働こう。
校門を出たところで僕らは別れた。星野先輩は電車通学なので、僕とは正反対の方向だったのだ。近くまで送るという申し出もあったが、遅くなってしまうからと僕はそれを丁重にお断りした。
僕は一人になると、セミの鳴く夏の夕暮れの中を、頭が痛まないよう、滑るようにゆっくり歩いた。仰々しい包帯を巻いているおかげで通行人の視線が痛い。
ようやく最後の角を曲がると、僕の家の前に誰かが立っていた。
――ジャージ姿のポニーテール。愛だ。
何の用事かと思いながら近くまで辿り着くと、丁度振り返った彼女と目が合った。
「……え? 直樹? ちょっとそれどうしたの!?」
「どれ?」
僕は知っていながらわざと気付かないふりをした。なんだか久しぶりに愛に会った気がして、彼女のまともな反応が嬉しくて、そしてそう感じたことが恥ずかしかったのだ。
「どれ……って、頭のそれに決まってるじゃない」
「あぁ、うん、なんか美化委員の仕事してたらステンレスが降ってきてさ」
「はぁ?」
愛には悪いが、僕は心の中で笑っていた。
「大袈裟な包帯だけど軽傷だから大丈夫。それより、僕に何か用だったの?」
「えぇ? あ、えっと、今日お父さんの帰りが遅くなるらしくて、茹でたそうめんが残っちゃうのよ。それで、直樹一緒に食べるかなって、お母さんが……」
「うーん」
今日は夕食を作る気になれなかったのでインスタントで済ませようと考えていた。愛のお母さんとも暫く会っていないし、丁度良い機会かもしれない。
「うん、それじゃあご馳走になろっかな」
断られると思っていたのだろうか、僕の返答を聞いて愛の顔にパッと花が咲くのが分かった。
「ほんとっ!? やったぁ! お母さん喜ぶよぉー」
(うっ……)
「あ、ねぇ、どうする? このまま食べてく?」
久しぶりに会うのにこんな頭じゃ色々と心配を掛けてしまう。それに、このままでは顔が蒸れて仕方ない。先生には今日一日外すなと言われたが、血も出ていないようなので一旦家に帰って外してしまおう。
「えっと、着替えてから行くよ、これも外したいし」
「外して大丈夫なの? なんかそうは見えないけど……」
「大丈夫、もう血は止まってるって先生が言ってたから」
「そう……じゃあ用意して待ってるね」
そう言うと、軽く手を振ってから十メートルも離れていない自分の家へ戻っていった。愛の歩調に合わせて、いつの間にか少し長くなっているポニーテールが元気に揺れている。僕はその様子が見えなくなるまで見送ってから帰宅した。
今が夕方で助かった。僕の顔は赤く染まっていたに違いない。夕焼けの眩しいオレンジ色にうまく照らされていたので、なんとか平然を装うことができた。
ここのとこ愛の顔が急に大人っぽくなった気がする。けれど言葉遣いや仕草などは相変わらず子供のままだ。そんなギャップが余計に彼女の魅力を引き立てているのかもしれない。
それにしても、あの『やったぁ』はどちらに掛かっているのだろうか……。
僕はそれからも色々とおかしなことを考えながら、普段着のTシャツとハーフパンツに着替え、手洗いうがいをし、鏡を見ながら慎重に包帯を解いていった。
するすると包帯が床に落ちていくと、代わりに僕の頭に現れたのは意外にも小さなガーゼだった。頭のてっぺんよりも少し右にずれたところにそれは乗せられていた。恐る恐るその部分を手で押さえてみると少しだけ痛むのが分かる。
意を決してそのガーゼを引っ張ると、一瞬嫌な音がしたが簡単に剥がすことが出来た。ガーゼの中央には一センチ大の赤黒い血がくっきりと染み付いていたが、ガーゼを裏返してもう一度傷口に当ててみると新しい血が出ている様子は無かった。今更だけど、落ちてきたのが鉄じゃなくて本当に良かったと、心底そう思った。
僕は巻かれていた包帯のせいで変な形になってしまった髪を適当に直すと、少し緊張しながら愛の家へと向かった。
インターホンのボタンを押すと、そこからの応答ではなく直接ドアが開かれた。
「もうできてるよっ、あがってあがって」
愛も黄色いボーダー柄のキャミソールと白いミニスカートに着替えていた。ジャージ姿よりも何十倍も女の子らしく見える。それにこの笑顔、哲平を前にしているときとはえらい違いだ。そんなことを考えて、ふとHR後の映像を思い出してしまった。
僕は勝手にうろたえながらそそくさと玄関に入り、サンダルを脱ぐと「お邪魔します」と言い放ち愛の後を追った。
愛の家は僕の家と同じ建売住宅だ。家具や装飾が違うだけで、構造自体は僕の家と変わらない。けれど、全体的に愛の家の方が明るく華やかに見える。これは住んでいる人間のセンスが違うからなのだろうか、それとも住人そのものの雰囲気がそうさせているのだろうか、だとしたら立花さんの家は一体どうなっているのだろう……。ふと無意識にそんなことを考えていた。
ダイニングに入るとキッチンの前に立つ愛のお母さんと目が合った。丁度洗い物を終えたところらしく両手をエプロンで拭っている。
「お久しぶりね、直樹さん」
「ご無沙汰しております、初恵おばさん」
今日に至るまでに、何度か食事を断ってしまった経緯があるので、僕は失礼の無いよう丁寧にお辞儀をした。
「あらあら、そんな畏まらないで頂戴。大した物じゃないけど、良かったらたくさん食べていってね、天ぷらも頑張って揚げてみたのよ」
数ヶ月ぶりに耳にする初恵おばさんの声は、以前とちっとも変わっていなかった。母親の理想とも言えるような、優しくて、とても落ち着いた声。いつも忙しそうに喋る僕の母とは真逆の性格らしい。
「愛ちゃんたら、ぼーっとしてないで椅子を引いてあげなさいな」
「はぁーい」
「大丈夫ですって、そのくらい自分でやりますから」
椅子を引こうとした愛の手を遮ってそう言うと、僕は急ぐようにしてその椅子に腰掛けた。いつものように僕の隣に愛、その正面に初恵おばさんという位置関係だ。
ふとテーブルを見ると、半ば予想はついていたが、その光景にはやっぱり驚いてしまう。
渡瀬家に食事をご馳走になる人間は、たとえそうめんと聞いていても普通の物を想像してはいけない。ここに並んでいるものは確かにそうめんであることに間違いは無い。それは断言できる。ただ一般家庭とは明らかな違いがあり、それは、初恵おばさんのこだわりから生まれる豪華さにある。
テーブルの中央には涼しそうな色のガラス皿と陶器の皿が並んでいた。両方とも巨大なサイズなので、決してそんなことは無いのだけれど、どことなくテーブルが小さく見えてしまう。
ガラス皿の上には色や太さの若干違う二種類のそうめんが取り易いよう小さく丸められていて、その下には氷が敷き詰められていた。陶器の皿には海老、キス、大葉、茄子、椎茸などの天ぷらが綺麗に並べられていて、なんだか料亭で見るような緑色の塩まで添えられている。その他にも小鉢やらお新香やらが各席に置かれているのだ。これは本当に一般家庭なのか、と疑いたくなるような光景だ。
もちろん今日が特別というわけではない、むしろ遅くなる父親の代打として招かれたこともあり、いつもよりも控えめな部類だ。これが客用ともなると更に恐ろしいことになる。渡瀬家に例外は無いのだ。
僕が食事の誘いを断っていた理由は二つあり、その片方がそれだった。
普段からおかず一品という質素な食事をしている僕にとっては、こういう手の込んだ料理は結構キツイものがある。絶対に残してはいけないと、勝手にプレッシャーを背負ってしまうからだ。
それにしてもこんな料理上手な母が居て、どうして愛は料理が下手なのだろうか。初恵おばさんのようにとはいかないまでも、同じ血を引いていることだし、練習すれば結構良い線までいくような気がするけど。
あぁ、それにはまず『毎回難しい料理に挑戦する』とか『同じ料理は作らない』などという変なこだわりを無くさないと駄目か……。
「直樹、麦茶と緑茶、どっちがいい?」
「ええと、これ麦茶だよね、これでいいよ」
僕がテーブルの上に置かれていた麦茶を取ろうとすると、今度はその手を初恵おばさんに遮られてしまった。そして麦茶は愛の手に渡される。
「駄目よう、愛にやらせてあげて頂戴」
「はぁ……」
右隣で愛がこぽこぽと小気味好い音を立てて麦茶を注ぎだす。僕はその様子をこそばゆい気持ちになりながらずっと見上げていた。
注ぎ終わると「はい」と僕の前にコップを置いて、今度は自分の分を注ぐ。よく見ると初恵おばさんの前には既に緑茶が置いてあった。
全員が席につき、手を合わせてから食事が始まった。
「こっちが揖保乃糸で、こっちが三輪素麺よ、直樹さんはどっちがお好みかしら」
揖保乃糸はテレビCMなんかでよく耳にするが、もう片方のは何処だろうか? よく分からなかったが、とりあえず両方を食べ比べてみることにした。
(……どうしよう、違いが分からない……)
初枝おばさんはジッと僕を見つめている。どうやら感想を待っているようだ……。
「多分、こっちの方が好みです。弾力が強くて、えーと……み、みわ?」
「三輪素麺ね、愛もそっちが好きなのよー、あなた達って本当に気が合うのねぇ」
「……はぁ」
「お母さんっ、変なこと言わないでよっ! 直樹困ってるじゃない」
(うわぁ……。愛、そこで赤くならないでくれ……。そっちの方が困るよ……)
そんなときに限って視線が合ってしまうのだから堪らない。
真っ赤になってしまった顔はこの場所では隠しようが無く、僕らは食事に集中する以外に方法は残されていなかった。
そんな光景を見てか、初恵おばさんはくすくすと楽しそうに笑っていた。
……食事を断る理由の二つ目。
初恵おばさんは何かとつけて僕と愛をくっつけようとしてくる。これについては細かい説明はいらないだろう。
このままだと無言になりそうなので、他の話題を振ることにした。
「準くんはいつ頃戻ってこれそうなんですか?」
準くんとは歳の離れた愛の弟のことで、確か今年で小学校高学年に上がるくらいだった気がする。話をするようになったのは高校に入学して愛に話し掛けられたのとほぼ同時期だ。壊れた弟のラジコンを直してくれないかと愛に頼まれたのがきっかけだった。
それからは渡瀬家で一緒に食事をしたり、稀にだが、食後に三人でテレビゲームをして遊ぶこともあった。素直な良い子で、末っ子らしくいつも愛に甘えていた。
その準くんが体調を崩して入院したのは、丁度僕がリセットを乱用していた頃だった。愛から聞いた話によると《貧血の酷い版》とのことだった。もともと丈夫では無い方だと知ってはいたが、もう入院して一ヵ月近くになる。そろそろ退院してもいい頃ではないだろうか。
その疑問に答えたのは初恵おばさんだった。
「そうねぇ、うまくいけば夏休み中には退院できるんじゃないかしら、良かったら今度愛と一緒にお見舞いに行ってあげて頂戴、あの子きっと喜ぶわ。……あ、ついでに二人で遊んできちゃいなさいよ、デートっぽく映画とかっ」
ははは……そこで話を戻しますか……。
すかさず愛がつっこみを入れる。
「もぉ! どうしてそうなるのよっ」
過剰に反応した愛は肘をテーブルにぶつけてしまい、麦茶の入ったビンが倒れてしまった。倒れた先には運悪くそうめんの入ったガラスのお皿が置いてあり。大きな音を立ててその両方が砕けてしまった。テーブルいっぱいに広がった麦茶とガラスの破片。
「やだっ、ごめんなさい!」
「大丈夫よ、落ち着きなさい」
慌てふためく愛の顔がみるみるうちに泣きそうな表情に変わっていくのを見て、僕はいたたまれない気持ちになってしまい、リセットを起動させた。
*
――今回は初めての場所だ。
ここまで何度もリセットを起動させてきた僕は、あることに気付いていた。
毎回マリーの気まぐれでリセット空間の場所が変わるのだが、彼女にも好みというものがあるらしく、何度か同じ場所になることがある。カラオケや海なんて軽く十回を超えている。他にも展望台、美術館、映画館、ショッピングセンター、動物園に水族館など様々な場所をそれぞれ何度か経験した。中には学校とか僕の部屋なんてのもあった。
どの場所にも共通して言えるのは人が全く居ないことと、毎回マリーの遊びに付き合わされることだ。
たった一度だけ例外があったが、あれはきっと特別な事情があったからだろう。あれから数日経った今でも僕はその事情を聞くことは出来なかった。
そして今回は初めて見る場所だが、いつも通り遊びの方だと思う。ただ、少し雰囲気がおかしい。
真っ白いクロスが二重に敷かれた正方形のテーブルに、これまた立派な二つの椅子が向かい合って置かれている。そしてそのセットが幾つも一定間隔で並べられていた。照明は薄暗く設定されていて、各テーブルの上にはガラス細工のキャンドルが灯っていた。
驚いたのは壁一面がガラスで出来ていて、とんでもなく高い場所から展望できるようになっていたこと、そして何よりその風景が都市中央部の美しい夜景だったことだ。
僕の安い頭では《高級レストラン》と表現するのが精一杯だった。
「おまたせ、直樹」
嫌な予感がする……。
振り向いた先には、胸の位置までの黒いドレスに身を包んだマリーの姿があった。
「どうよ?」
「どうって……」
その胸の上には小さな黒いバラのフリルが幾つも咲いていて、くっきりとした綺麗な鎖骨をより美しく彩っていた。その他にも、胸部の可愛らしいギャザー加工、胸の下に巻かれた光沢のある細いリボン、幾重にも折り重ねられ波の形を思わせるようなデザインのスカート部分。手にはドレスと同じデザインの小さなバッグまで持っている。悔しいことに、そのどれもがマリーのためにあつらえたと思う程、とても良く似合っていた。
銀色の美しい髪も健在だ。今日は何も施していないせいで、腰の位置まで伸びた長い髪が、その髪質の良さを強調していて、いつもよりひとまわり上品に見えた。
もう分かった……もう勘弁してくれ……。
マリーは絶世の美少女だ。その格好も並の人間では似合わないはずだ。きっと今の彼女を見て惚れない奴なんてどこを探したっていないだろう、それも認める。
けど、その美少女の前に立たされる僕の身にもなってくれ……。部屋着だぞ? 髪型もぼさぼさだぞ? 何と言っても裸足だぞ? もうやだ帰りたい……。
「どうって聞いてんの! 落ち込む前に答えなさい!」
「あーはいはい、超可愛いです、ええ、それはもう直視出来ないくらいに」
(そしてこの場から逃げ出したいくらいに)
「あああああ! もうっ、分かったわよ……はい」
マリーがそう言い終わると、急に身体が重くなったと思いきや、次の瞬間には全身が窮屈になっていた。
さっきまで着ていた白いプリントシャツはシルク製のグレーのシャツと黒いベストに、一年前の夏に母が買ってきたハーフパンツは縦のラインが入った黒いスリムパンツに変わっていた。先の尖った革靴を履き、腕には高級そうな時計が巻かれ、いつの間にか髪型はオールバックになっていた。
「うわっ、うわわっ」
僕はそのひとつひとつを何度も触って確かめる。
「うわっ、うわわっ、じゃないでしょ!」
「ふぇ?」
「か・ん・そ・う! ちゃんともう一度言え!」
「は、はい! えーと……」
もう一度マリーの姿を上から下まで眺める。けど、頭に思い浮かぶ感想はさっきと同じだったので、少し言葉を変えて言うことにする。
「その、すごく可愛いし、とても良く似合ってる……と、思う、よ?」
「……………………」
僕は正直に言ったつもりだが、マリーは俯いたまま黙っている。むしろなんか怒ってる? また怒鳴られるのかと思い、身構えてマリーの口が開かれるのを待っていると、彼女は意外な言葉を呟いた。
「……食べるか」
「…………はぁ? え、何を?」
なんだかさっぱり彼女のことを理解出来ない。
(食べる? マリーを褒めたら? 食べるの?)
「ばっ、ばかっ! 違う! わっ、わた、わたしをとか、そそそそういうのじゃ――」
(えっえっえっ? なんで勝手にデレてるの! 僕なんかしたー!?)
「ないんだからねっっっ!!」
「………………………………えと、ごちそうさまでした」
その後、きちんと言葉の意味を説明し出したマリーによれば、さっきの『食べるか』とは、『衣装も揃ったし、折角だからレストランでフレンチでも食べていくか?』であることが判明した。
まったくゆとりにも程があるだろう。主語が無いどころか原始時代の言葉じゃないか。
兎にも角にも、そこからはいつもの展開だった。
僕がお腹が減っていないことを伝えると、「ワインでも飲みながら付き合え」と言い。
僕は未成年なのでお酒が飲めないことを伝えると、「じゃあお前水な」と言った。
そして今に至る。マリーは自分で出したフルコースを時間を掛けて食べていた。既に三十分が経過している。その間僕はノンアルコールのシャンパン(おねだりして出してもらった)を飲みながら、マリーの他愛もない会話の相手をしているだけだった。今回の会話は犬派とか猫派とか、映画の好き嫌いとか、そんな感じのことだった。
リセットの世界とはいえ、こんな美少女とこんな場所で食事をしていると、まるで天国に居るような気分になってしまい、帰りたくないなどと考えてしまわないよう、途中で何度も自分を戒める必要があった。
「それにしてもこんな場所よく知ってたな、ここ確か有名な会員制のレストランだろ? テレビで見たことあるよ」
「そんなの来たことあるからに決まってるでしょ」
「へぇー、こんなとこ誰と来たの?」
「別に誰だっていいでしょ」
「……」
前に教えてもらったことがある。
マリーは自分か、もしくは僕が一度訪れたことのある空間しか出現させることが出来ないらしい。要するに、僕はこんな場所に来たことなんて無いのだから、このレストランはマリー側の記憶、ということになるのだ。
そして何よりその事実は、マリーが元々は人間であったことを証明している。これも前に質問したのだけど、例の如く訳の分からない用語ばっかり飛び出してきて、僕には何が何だかちんぷんかんぷんだった。でもまあ、その説明は少なくとも否定ではなかった気がする。
とにかく、僕の頭で理解できるのは彼女は元々人間であり、色々な経験をしてきたということだ。
色々と謎は残るが、僕にはそれ以上訊くことは出来ない。マリーのことを細かく聞こうとすると、さっきのように、どういうわけか不機嫌になってしまうのだ。
気まずい沈黙を打開するべく、僕は当り障りの無い話をすることにした。
「ところでさ、立花優歌ってどこか普通の人と変わってるよね、おかしいと思わない?」
マリーの手がピタリと止まる。
僕の記憶を把握しているマリーは、立花さんの意味不明な行動に賛同してくれるはずだと考えていた。けれど、そんな僕の意に反して、彼女の口から返ってきたのは酷く冷たい声だった。
「……どうして急にそんなこと言うの」
「いや、だってほら、僕の名前を黒板に書いたり……」
「ちがう」
「え?」
「どうして私との食事中に訳の分からない女の話をするのかって聞いてんの!」
テーブルを叩く音がして、グラスの中のシャンパンが小さく揺れた。
「そんな、別に怒ることじゃないでしょ」
「もういい」
「何が」
質問に答えぬまま、マリーは僕の手を掴むと設定空間への転送を開始した。
「ちょっと!」
僕の訴えは無視された。次にマリーが口に出したのは、暗闇の世界になってからだ。
――それも「時間設定」という業務用の言葉だった。
夢のような食事風景が終わり、今度は愛との平凡な食事が再開される。
――僕は初恵おばさんの話をよそに、そっと麦茶のビンを愛の前から遠ざけた。
頑張って食べたおかげで、なんとか二種類のそうめんが無くなりかけた頃、電話の音に呼ばれて初恵おばさんが席を立った。あれからマリーのことが頭から離れない。どうしてあんなに怒ったのだろうか。
「ねぇ、愛」
「ん?」
「立花優歌ってどこか変だよね、何考えてるんだろう?」
「……」
「どう思う?」
「……そんなこと私に訊かないで」
「…………ごめん」
愛はスッと立ち上がり、空いた皿を下げて洗い物を始めてしまった。
僕が招いた沈黙の中、初恵おばさんが戻るのを待ちながら、きっと間違っているのは僕なのだと、そう考えることにした。
*
翌日の放課後、哲平とのバカ話も早々に切り上げ、立花さんの身辺調査を兼ねて美化委員の仕事に向かうことにした。
僕が教室を出る頃には既に立花さんの姿は無かった。もしかしたら先生よりも先に花壇に着いているのではないだろうか。
今日一日見ていて気付いたのだが、どうやら彼女には『間』という概念が存在しないらしい。どんな場合でも次の予定があるのならば、迷うことなくそれを実行する。
授業が終わった途端に次の授業の準備に移り、それが終わると鞄から文庫本を取り出して黙々と読み始める。誰とも話をしないし、誰とも遊ばない。昼休みは一人でどこかへ行ってしまった。さすがに後を追うなんてことはしなかったが、きっと誰も来ない静かな場所で昼を過ごしているのだろう。
似たような性格の人間を何人か知っているが、立花さんの場合は特殊すぎる。
友達になろうと近付いてきた人をことごとく突き放してしまうのだ。いくら一人が好きな暗い性格の持ち主でも、そこまでする人間を少なくとも僕は見たことが無い。
それに、たまに見せる哀しげな表情。最初の頃は気のせいかと思っていたが、あれは間違いなく素の表情なんかじゃない。涙こそ流れてはいないが、僕から見ればそれは泣き顔と言っても何らおかしくない表情だ。
それらを総合すると、彼女には何か大きな悩みがあり、それを人に悟られたくないがために、他の人間の接近を拒んでいる。そんなふうに思えてしまう。もちろんそんなのは僕の勝手な憶測でしかないため、これからそれを確かめてみようと考えていた。
昇降口を出ると、立花さんと先生が作業を開始するところだった。
「先生、昨日はすみませんでした」
なるべく元気な声でそう言うと二人の視線が僕に集まった。立花さんは表情を崩さなかったが、先生は驚いたような顔をしている。
「今日はちゃんと最後まで働きますよ」
「傷は大丈夫なの? 手伝ってもらえるのはありがたいけど無理はしないでくれよ? 君はこの学校の期待の星なんだから」
僕は少し後ろめたい気持ちになりながら「大丈夫です」と答えた。
「ええと、それじゃあ今日はこの花を花壇に植えてもらうね。今から見本を作るから同じようにやってくれればいいよ」
相変わらずのんびりした口調でそう言うと、おもむろに作業を始めた。
先生はプラスチックケースに植わったたくさんの花から、丁寧に一束だけを引き抜いて花壇の端に植えた。再び花を引き抜くと、今度は手のひら分の間隔を空けてまた植える。それをたっぷり時間を掛けて繰り返し、ようやくひとつの花壇が完成した。こんなのでよく昨日の重労働が終わったものだ。
しかし、時間を掛けただけあってその出来栄えは見事なものだった。黄色い花束が等間隔に四本植えられ、それが綺麗に二列並んでいた。何を当然な事をと思うかもしれないが、花が植わるために花壇があるということを、僕はその光景を見て改めて認識していた。
それでもまぁ、難しい作業ではないので安心した。花の扱いなど微塵も知らない僕にも、一度見ただけで簡単に真似できそうだ。
「こんな感じかなぁー、出来そう?」
「はい、大丈夫です」
立花さんも僕と同時に小さな声で「はい」と返事をしていた。
「植える苗は花壇の前に置いてあるから、東条君と立花さんはあっち側を頼むよ」
「あれ、今日は星野先輩は来ないんですか?」
「大会も間近に迫ってるからねー、今日はさすがに抜けられないみたいだよ」
(あれ? そういえば……)
昨日水泳部を応援する垂れ幕が外されていたことを思い出して、ふと視線を上に向けた。よく見ると『目指せ! 全国大会! 桜学水泳部』だった文字が『通算四度目! 全国大会出場決定! 桜学水泳部』に変わっていた。
知らなかった。いつの間に予選を突破していたのだろう。僕は垂れ幕が外されていたのを見て、てっきり予選敗退したものだと思っていた。今度会ったらきちんと応援の言葉を掛けてあげよう。
「分かりました、それじゃあ反対側やってますね」
「頼むねー」
振り向くと、いつの間にか立花さんの姿が消えていた。慣れているので驚きはしない。早足で立花さんの後を追うと、すぐに反対側の花壇に到着した。
足元には先生の言った通り、花の植わったケースが置かれていた。よく見るとさっきの花と種類は同じみたいだが色が違う、今度の花はオレンジ色だ。
気になって隣の花壇に目をやると黄色い花が見える。どうやら黄色とオレンジを交互に植えるらしい。
立花さんが早速作業を開始したのを見て、僕も慌ててケースに手を伸ばす。
(ん? なんだこれ、見ていたのと違う?)
おかしい。さっき先生は一束を取り出していたが、実際に見ると、どこからどこまでが一束なのかよく分からない。立花さんはというと、特に困った様子もなく先生と同じ手つきで淡々と花の束を引き抜いている。とうとう僕がもたついている間に既に一束植え終えてしまった。
焦った僕は、大体八分の一と見切りを付けて束を引き抜こうとすると、『ブチッ』と嫌な音が響き渡った。どうやら枝分かれした根っこのうちいくつかが千切れてしまったようだ。
(あ……)
無意識に立花さんを見ると、彼女も僕に目を向けていた。
「あ、あれだね、意外と難しいねこれ……」
「……」
(なんか言ってくれよ……)
無言の訴えが続く。責めるような冷たい目だ。僕はバツが悪くなり、逃げるように立ち上がると、辛うじて残った根を花壇に植え込んだ。
恐る恐る振り返ると、立花さんは花と花の間に腕を潜り込ませて、ケース奥側の土に人差し指を突き立てていた。すると今度はそのまま指を手前に引いて一本の線を書いた。
僕が呆気にとられている間に、彼女はそれを何度か繰り返し土を八等分させた。もしやと思い、そのひとつを引き抜いてみると、意外な程あっさりと抜けてしまった。
「えっ、うそ」
これは話し掛ける良い口実だと思い、色々訊いてみることにした。
「すごいね、なんで分かるの?」
既に作業を再開していた立花さんは、その手を止めはしないものの、きちんと僕の質問に答えてくれた。
「……なんとなく」
そうくるだろうと思って次の質問も用意してある。
「花が好きなんだ?」
「……好き」
思わずドキッとしてしまう言葉だ。
僕は折角始まった会話が途切れてしまわぬように、あたふたと作業をしながら次々と質問を投げかけた。
「これなんていう花?」
「マリーゴールド」
「あぁ、聞いたことある。そういえば小学校とかにもよく植えられてるよね」
「……」
「えと、こ、この花ってどのくらいもつの?」
「……十月の終わりまで」
「へぇ……そう……」
(あ、駄目だ、会話が続かない)
普段受身の会話しかしていない僕にとって、立花さんは強大すぎる相手だった。付け焼刃でどうにかしようという考えが甘かったのだ。なんとか話題を見つけなくてはと考えてみるが、どうも立花さんの興味を惹くような話が思い浮かばない。終には話を探し当てる前に、花の苗が尽きてしまった。
まばらに土だけが残ったケースと一緒に、虚しい気持ちになりながら、次の花壇へと向かう立花さんの後ろを歩く。
二つ目の花壇に着くと、立花さんは何も言わずマリーゴールドのケースを八分割してくれた。僕はその様子をジッと観察するが、やはりどういう理屈でそのように分かれるのか理解出来なかった。
少しだけこの作業に慣れてしまったせいで、さっきよりも数段早く、花壇は黄色いマリーゴールドで埋め尽くされていった。未だに会話の糸口が見出せないままだ。
――けれど、どういう訳か悪い気分じゃなかった。
立花さんが教えてくれたこの花、僕は花を愛でたことなど無いに等しいのだけれど、この花を見ていると心の奥がぼんやりと暖かな感情に包まれるようだった。
二十センチくらいの茎の先端に咲いた黄色いマリーゴールドは、丸みを帯びた可愛い形をしている。所狭しと広がる花弁は、まるで窮屈な茎の中からスポンと飛び出してきたかのように、溢れる生命力を開放させていた。
その中央、開花と共に露になった雄しべや雌しべを見ていると、何故だかは分からないが、それがとても尊いもののように思えて、すごく切ない気持ちになる。
僕はこの花が好きなのかもしれない、そう思った。確かにこいつのおかげで立花さんが花を好きだという事実が判明した。けれどそういうのじゃない、ただ純粋に、マリーゴールドがもつ魅力に惹かれていたのだ。自分でも不思議に思う。
「立花さん」
「……なに」
彼女は返事をすると、二つ目の花壇を完成させたところで僕に顔を向けた。
「僕、この花が好きかもしれない」
「……そう」
僕の唐突な宣言に驚かされたのは、立花さんではなく、僕の方だった。
本当に一瞬のこと、僕に向かって返事をする間際、立花さんは目を細め、口角を僅かに上げた。それは僕の知っている《笑顔》という表情だ。
恐らくは数秒、僕の機能は停止していた。視界から立花さんの姿が完全に消えるまで、その微笑があった空間から視線を動かすことが出来なかったのだ。
立花さんの足音が聞こえた次の瞬間、僕の頭は思い出したかのように疑問だらけになった。どうして僕は意味不明な宣言をしたのだろうか。どうして彼女は僕に微笑みを向けたのだろうか。どうしてこんなにも胸が高鳴っているのだろうか。
考えたところで答えなど見つかる筈も無かった。僕の思考回路は立花さんの笑顔が焼き付いてしまって、うまくその役割を果たせなくなっていたのだ。
――可愛かった。美しかった。いや違う、儚かったんだ……。
彼女の笑顔は形容のし難い儚さを感じさせた。それは、マリーゴールドの中央に存在する雌しべ達と同様に、大切に保管され続けた果てに生み出されるものだと、そう思わせていた。
気付いたら僕は駆け出していた。相変わらず自分の行動が理解出来ない。最近自分自身のコントロールが下手になっていると思うのは気のせいだろうか。
僕は勢い良く立花さんを追い抜くと、最後の花壇の前で腰を下ろし、遅れてやって来る立花さんに向かって頼みごとをした。
「僕にやらせて」
少し息の上がった声でそう言うと、彼女の答えを待たずに行動に移った。
彼女を真似て花の間に腕を入れると、次々と土の上に線を書き込んでいった。根拠などは全く無い。全て感で書いたのだから。僕が線を書いている間、立花さんは黙ったまま、オレンジの花を見つめていたようだった。
「よしっ」
無理矢理自信を持たせるような掛け声を発してから、恐る恐る一束引き抜いてみると、拍子抜けするほど花の束はあっさりと抜けてしまった。
「おぉ」
その束を戻して隣の束を持ち上げる。と、それも簡単に抜けてしまった。僕は飛び上がる程の嬉しさを必死に抑えて次々にその行動を繰り返した。
本当に些細なことだけど、花の束を引き抜く度に少しずつ立花さんに近付ける気がして、本当に嬉しかったのだ。
が、調子に乗った僕は良い結果で終わった例が無い。
……残念ながら今回もそうだった。
五つ目の束を勢い良く引き抜いた途端、一際大きな音を立てて茎が根元から千切れてしまった。最初の失態とは違って、今度はほぼ全ての根が土の中だ。どう見ても再生不可能であることは明らかだ。
見なくても立花さんがどういう顔をしているのか想像がついてしまう。きっとこのマリーゴールドと同じ気持ちなのだから……。
(折角……たのに……)
僕は左手をポケットへ静かに潜り込ませると、指先に触れた長方形の塊に向かって、胸の中で渦巻いている感情を注ぎ込んだ。
*
「そんなに怒らなくてもいいじゃないか」
さっきからずっと黙ったままの背中に向かってそう言った。
「頼むから話を聞いてよ、ねぇ、マリー」
「……」
ここはリセット空間に出現した僕の部屋だ。何度か話し掛けてみても、机に座っているマリーは頬杖をついたまま動こうとしない。
昨日のことをまだ怒っているようだ……。
「その、僕が悪かったよ」
「……なにが」
「昨日のこと」
「……ふぅん」
「僕が無神経だったよ、謝るから……その、許して欲しい……」
「……」
マリーはそのままの体勢でありったけの空気を吸い込むと、何かを表現するように大袈裟な溜め息をついた。固唾を呑んで見守っていると、彼女は何かぽつりと呟いた気がしたが、よく聞き取れなかった。
「えっ? なに?」
僕の問いかけに答えは返ってくることはなかったが、ゆっくりと椅子が回転して、ようやくマリーの顔がこちらを向いた。
「まぁいいわ、許してあげる」
彼女のデフォルトである、上から物を言う態度に戻ったマリーは、何かに気付いたように不思議そうな顔になる。
「なによそれ、花? まさか私のために持ってきたとでも言うつもり?」
「ん? あぁ……違うよ、これは……って、そんなのいつもみたいに記憶を読めば分かるんじゃないの?」
「別に、いいじゃない……私の勝手でしょ、それより違うってどういうことよ」
マリーが疑問形で話をしてくることはとても珍しい、全く無い訳ではないが、あるとすればわざと口に出して言わせようとするときだ。そしてその大半が恥ずかしい言葉であることは言うまでも無い。
今回はそういう類の話ではないのに、どういう訳か本当に記憶を読むつもりが無いみたいだ。何故マリーがそうしないのかは分からないが、深くは考えずにここへ来た理由を説明してあげた。もちろん立花さんの名前は出していない。
「ふぅん、随分と命を大事にするのね。今までそんな素振り見せたことないのに。その花、マリーゴールドよね。ちょっと貸して」
「へぇ、よく知ってるね、もしかして花のこと好きなの」
差し出された手に、そっとマリーゴールドの束を乗せてやった。
「もしかしなくても花は好きよ」
すると彼女は椅子を回転させて机の方を向き、いつの間にか出現していたシンプルなガラスの花瓶にそれを活けた。
しばらくの間、彼女は僕のことなど忘れてしまったかのように、机に両肘を突き、指を交差させ、その上に顎を乗せてマリーゴールドを愛でていた。
僕もベッドに腰を下ろして、その様子をぼーっと眺めていた。
同じ花好きでも、立花さんとマリーは何かが違う。二人とも花がとても似合う点は同じなのだけど、何故だろうか、立花さんは育てる側、マリーは楽しむ側、そう感じてしまうのだ。
それは単に今の状況下がそうというだけではなく、どんなに想像しても、二人の立場を逆にすることが出来なかったからだと思う。
きっと立花さんは花瓶の花を愛でることが出来ない。きっとマリーは花を育てることが出来ない。おかしな話だけど、そう考えてしまう程、二人の雰囲気は対極して見えていた。
――心の中で何かがざわつく……。
《自ら望んで一人になろうとする女の子》
《リセット空間でいつも一人きりの女の子》
《死と再生を繰り返す生命》
《枯れゆく定めの儚い生命》
僅かの時間にこれら全てを目にしたことは、果たして偶然なのだろうか。
何かを暗示しているようで、僕は一抹の不安を覚えていた……。
「マリー」
「なぁに」
「マリーは居なくなったりしないよね」
「どうかしらね、私にも分からないわ」
少しセンチメンタルな声でそう答えた彼女は、マリーゴールドを眺めたまま、ひとつ、小さな溜め息をついた。
「この花は直樹が元の世界に戻ったら消えてしまう。私もそうならないとは限らない。私は人間の都合によって造られた物だもの。きっと、人間の都合で消されてしまうわ」
僕は質問しておきながら、それ以上マリーに何も言えなかった。
リセットの世界から戻ったのはそれから数分後。半ば追い出すように、マリーは僕を元の世界へ送り届けた。
戻った先の僕は、千切れる前のマリーゴールドに手を伸ばしているところだ。今度は千切ってしまわぬよう、慎重に根の周りの土を掘り返していく。
――マリーは人の手によって造られた存在。
考えたことが無かった訳ではない。彼女の生まれた理由、不自然なまでの人間らしさ、自由に創り出せる不思議な空間、目的、誰の、何故、……リセット。
――どうして僕なのか……。
聞いても教えてもらえないと思っていた。いつしかリセットの世界では深い詮索などせず、マリーとの時間を楽しむだけになっていた。
動機の無い創造物など在りはしない。きっと誰かが、何かのために、僕にリセットを寄越した。それは善意だろうか、それとも悪意だろうか。
もう何もかもが分からない。
――どうして僕なのか……。
今度は無傷でマリーゴールドを引き抜くことができた。
これでまた元の完璧な世界だ。恐れや不安と関係の無い虚空の世界。
今までも……。
これからも……。
そんな自虐的とも言える考えを巡らせていると、意味不明な言葉が飛び込んできて、僕を更なる闇へと突き落とした。
「そんなことでいちいちリセットを使うのね、少しは巻き込まれる身にもなってくれないかしら」
僕は何を思っただろうか。きちんと思考は働いていただろうか。
ただ分かるのは、目の前の人物が立花優歌であることだけだった――。