二章 【正解】
【登場人物】
東条 直樹
情けない自分を変えたい願う平凡な高校二年生。真面目で大人しい性格。その中性的な顔立ちから、女子達の間ではひっそりとした人気がある。
ある日、誰かの手によって『リセット』という機械が送り届けられる。
渡瀬 愛
直樹の幼馴染。中学では疎遠になっていたが、高校で再び話すようになる。明るく活発な女の子で、バスケ部ではエースとして活躍している。
本人は料理が得意だと思っているが、その味はとても不味い。
相澤 美玲
直樹が憧れを抱いている女性。才色兼備なお嬢様。愛と仲が良く、そのおかげで直樹と話すようになる。生徒会役員の仕事が忙しく、皆とゆっくり話をする機会は少ない。
園塚 哲平
直樹とは親友なのだが、愛とは犬猿の仲。いつもバカなことばかりしているが、たまに大人な一面を見せたりする変な奴。
部活や委員会には入らず、いつもバイトをしているらしい。
立花 優歌
二年始業式の日、桜学へ転校してきた不思議な女の子。初対面にも拘らず美化委員の相手として直樹を指名する。無口な性格で、近寄りがたい雰囲気をしている。
二章 【正解】
ふと、校門の脇で桜の枝を眺めていた。
四月最後の日、桜の花はとっくに散っていて、その代わりに茶色と緑が混ざったような新芽がちらほらと見て取れた。
「なおき~」
朝だというのに哲平の声は疲れているようだった。哲平が傍まで来ると、僕らは並んで門をくぐり昇降口へと向かった。
心配してくれと言わんばかりに哲平が大袈裟な溜め息をつくので、仕方なく心配してあげることにした。
「なに、どうかしたの?」
「聞いてくれよぉ、昨日珍しく姉貴が家に帰ってきてさ、彼氏と別れたから慰めろとか言って、俺の部屋で酒盛りを始めやがったんだよぉ」
確か哲平のお姉さんは自分の借りたアパートで彼氏と同棲中だったはずだ。つい最近知ったからどれくらい続いた仲なのかは知らないけど、同棲するぐらいだ、きっと長年付き合っていたに違いない。
「それでもう泣くわ絡むわ暴れるわで、結局五時ぐらいまで付き合わさて全然寝れてねぇんだよぉ」
「うわぁ、それはご愁傷様、今日一時間目から体育だったよね」
「うぉ~い、まじかよぉ~、ぜってぇ何か買ってもらわないと浮かばれねぇよおれ~」
確かに哲平が可哀想に思うけど、きっとお姉さんも、思い出のたくさん詰まった部屋に昨日だけは帰りたくなかったんだろう。そう考えると、哲平と一緒に僕もその場で慰めてあげたかったと思った。
教室に着き出席確認が始まると、立花さんが病欠だとマリ夫が言った。彼女が学校を休むのは初めてだ。あの一件以来、取り立てて彼女とは何も起きていないのだが、何故だか少しだけ心配になっていた。
体育の時間、僕らは砂場に伸びた高い鉄棒で、ひたすら懸垂を続けるクラスメイトの呻き声を聞きながら、遠くのコートで行われている女子のぎこちないバスケを眺めていた。
すぐに周りと違う動きの二人に気付く。相澤さんと愛だ。愛はそもそもバスケ部員なので上手なのは分かるが、相澤さんも愛に負けないほど華麗にボールを操っている。勉強だけでなく運動も得意だとは聞いていたが、改めて見ると本当に非の打ち所が無い人間だと認識させられる。
丁度相澤さんが放ったシュートが決まり、愛とハイタッチを交わしているのが見えた。
「いいなぁ、あっちは遊びかよぉ」
そう言って、砂の上に寝転がる哲平に、昨夜散々考えて決めたことを宣言した。
「――今日、告白するよ」
「……まじ?」
「マジ」
ただ哲平にそう告げただけなのに、僕の胸は窮屈になっていた。僕が冗談で言っているわけじゃないと分かると、哲平はそれ以上何も聞かずに、僕の背中を強く叩いた。
「頑張れよ」
「うん」
昼休みがやってきて、相澤さんと愛が弁当を食べ終えたのを確認すると、僕は覚悟を決めて近付き、二人の視線を浴びて固まった。
「どうかした?」
愛のもっともな疑問に答えるべく、やっとの思いで喉から声を搾り出した。
「あ、相澤さん」
「わたし?」
不意を突かれた相澤さんは、切れ長で美しい目を何度も瞬きさせながら僕の顔を見上げていた。
「少し話があるんだけど、いい、かな」
「えっ?」
二人は座ったまま驚いた顔をお互いに見合わせて、それから愛だけがひとつ、こくりと頷いた。それを見た相澤さんは再び僕に顔を向けて返事をし、ゆっくりと立ち上がった。
教室を抜けてから、相澤さんに確認をとる。
「静かな所でも構わないかな?」
彼女は少しだけ考えた後に、「いいよ」と言った。
僕は相澤さんがついてきているか不安になり、彼女の姿を何度も確認しながら、昨日言おうと決めた台詞を頭の中で繰り返していた。
しばらく歩いて目的地に到達すると、大きく深呼吸してから、勢い良く振り返った。
ここは哲平サボりスポットの中でも一押しの場所。
滅多に人の訪れない校舎裏、通称『裏ケヤキ』だ。
その名の通り、二階まで高く育ったケヤキが誰に見せるでもなく等間隔に植えられていて、新緑に染まったケヤキの葉が、春の終わりを告げるさわやかな風に吹かれて歌っている。
哲平のサボりスポットの中で僕が一番好きな場所だ。
きっと振られてしまっても、良い思い出として残ってくれるはずだ。
だからこの場所を選んだ。
「相澤さん」
「はい」
きっと、彼女は既に気付いている。なのに、どうしてこんなに落ち着いていられるのだろうか。僕の手はひどく汗ばんでいて、緊張で足が震え、今朝から続いている胸の高鳴りは、たった今頂点を迎えているというのに、相澤さんは全く姿勢を崩すことなく、ただ、僕をじっと見据えて次の言葉を待っていた。
(言わなくちゃ……)
「僕……」
(もう待っているだけの人生なんて嫌だ……)
「相澤さんが」
(自分の力で変えるんだ!)
「好きですっ」
僕と相澤さんの間を一陣の風が通り抜け、ケヤキの葉がひとしきり大きな音をたてて揺らめいた。
瞑っていた目をゆっくり開けると、相澤さんは先程と寸分違わぬ凛とした表情で僕を見続けていた。変わっているのは彼女のウェーブのかかったやわらかそうな髪が、ゆらゆらと揺れていること、それだけだった。
その途端、情けなく震えてしまった声や、瞑ってしまった目、手に掻いている汗、それから、勇気を出して口にした言葉でさえも、とても恥ずかしく思えて、この場から消え去りたい衝動に駆られてしまう。今更ながら、僕と相澤さんが不釣合いだということを認識してしまったのだ。
(喉が痛い……、胸が苦しい……)
二つの痛みに手を当ててしまわぬよう、必死に堪えていると、相澤さんの口がゆっくりと開き始めた。もう答えなんて聞きたくない。そんなの分かりきっている。きっとそんな想いが彼女の動きをスローモーションに変えてしまっているのだろう。
「ごめんなさい」
相澤さんは濁すことなく、はっきりと僕にそう返事をした。
「今は男の人とお付き合いするとか、そういうの考えられないの」
僕はもう彼女の強い眼差しに耐えられず、自分の靴だけを見るしかなかった。
「本当に、ごめんなさい」
そう言うと彼女は僕に頭を下げ、この場所から離れていった。
残された僕は、収束していく胸の鼓動と共に全身の力が抜けていくのを感じて、ケヤキの根元に腰を下ろし、葉っぱの合間から射す木漏れ日を追って視線を彷徨わせていた。
(これで変わるのかな……、こんなんで、変わるのかな……)
しばらくそうしていた僕は、立ち上がろうと腕に力を加えかけて、それを止めた。
(五時間目が終わるまでこうしていよう。)
十分が過ぎ、五時間目を知らせるチャイムが鳴り、さらに十分が過ぎた頃、胸ポケットの携帯が震えた。
きっと哲平か愛だろう。そう思って上着の内ポケットに手を入れると、携帯の他に、もうひとつ硬いものが指に当たった。僕はつっかえながらその二つを取り出し、両手に持って見比べた。
いつの間に入れたのだろうか、折りたたみ携帯の半分ほどの厚さしかない白い物体。それは数日前に、誰かのいたずらで届けられた『リセット』と呼ばれる機械だった。
(どうしてこれが、ここに……?)
得体の知れない気持ち悪さを感じ、僕は、携帯を開いて受信したメールを読むことにした。
『件名:ちょっと』
『今どこにいるの? 早退? 美玲に聞いても何も答えないんだけど、一体何の話したの? 何か落ち込んでるっぽいよ?』
愛から送られたハテナマークばっかりのメールは、相澤さんが何も言わなかったことと、彼女が落ち込んでいることを教えてくれた。
どうして相澤さんが落ち込む必要があるのだろうか。悲しいのは僕だ、相澤さんじゃない。相澤さんはさっきまでそうしていたように、凛としていればいいんだ。生徒会長を振ったときも平然としていたじゃないか。
僕は、傷つけてしまったのだ。きっと、相澤さんは全てを自分のせいに感じているに違いない。僕に告白されたことも、僕が落ち込んで授業をサボっていることも、明日から訪れる気まずい空間も、全部自分のせいだと思っているんだ。
違う、相澤さんのせいじゃない、相澤さんから笑顔を奪ったのは僕だ、悪いのは全部僕だ。そんなふうに変わって欲しくなんかない。
――こんなことなら……。
その瞬間、手元が急に激しい閃光を放った。思わず目を閉じるが、薄い瞼では強烈な光を遮ることはできず、僕は白い世界に引きずり込まれてしまった。
*
しばらくして、恐る恐る目を開いてみるが、白以外何も見えず、僕は瞬きを繰り返したが、果たして本当に瞼を閉じているのかすらもあやふやなほど、内も外も、全てが白だった。
そのうち僕は諦めて、視力が回復するのを少しでも早めようと、目を閉じてそのときを待つことにした。
どのくらい経っただろうか、次第に光が弱くなり、瞼の裏に赤黒い色が戻ってきたのを充分に確認すると、ゆっくりと時間をかけて目を開けた。
目の前に現れた光景を見て、元々混乱していた頭は、更に混乱していった。見渡しては考え、また見渡しては考えを繰り返すが、どうしても答えが見つからない。
延々と広がる白い砂浜と水平線、遠くの空に浮かぶ入道雲、そしてその方向から絶え間なく吹きすさぶ強い風、更にその風が運ぶ潮の香り、海水の動きに合わせて聞こえる穏やかな波の音。
――そこは紛れも無く、海だった。
それをやっと認識すると、海と反対の方向を見て、僕がどうやってここに来たのか、どうやって帰ればいいのかを交互に考えた。
ふと背後で砂が鳴り、気配を感じて振り返ると、およそ海には似つかわしくないヒラヒラのレースがついた純白のブラウスに、裾の広がったボリューム感のある紺色の派手なスカートを合わせた小さな女の子が立っていた。足元を見ると白いニーソックスにキラキラ光るエナメルの靴まで履いている。その風貌よりも更に驚いたのは少女の髪だ。彼女のそれは僕達とは明らかに違う鮮やかな銀色をしていたのだ。
歳は小学生か中学生か、そのどちらとも見えた。どこかの国のお姫様のように、他の人間の手によって結われたのであろう仰々しい複雑な髪型が幼さを強調する一方、微動だせずにこちらの様子を伺う様子はひどく落ち着いた雰囲気をかもし出していて、それは成熟した大人のそれに近いものを感じさせた。
不思議の国のアリス。物語の内容にはそぐわないかもしれないけど、言葉として表すのなら、それが一番合っている気がした。
「あ、あの、ここは」
僕はその少女に頼るしかなく、思い切って通じるか分からない僕の言葉を投げかけた。すると少女は海と同じ青色の澄んだ目を僅かに細め、にこやかな笑顔になって答えた。
「お帰りなさい、直樹」
「……は?」
予期せぬ挨拶に全身が硬直し、唯一動くことのできる頭でなんとか少女の言葉の意味を理解しようとすると、考えるなと言わんばかりに僕の頭は警鐘を鳴らし始めた。
少女はそんな僕の状態を知ってか知らずか、お構いなしに次々と言葉を並べ始めた。
「直樹がここに来るのは二度目、そうね、前にここへ来たのは経過時間で言うと五時間と十七分前ね」
ぽかんと口を開けている僕を、面白がるように無邪気に笑った。
「ふふふっ、ごめんね、こうなるのは分かってたんだけど、つい意地悪しちゃった。でも、きちんと説明書を読まない直樹が悪いのよ?」
「一体、君はさっきから何のこと……それに、何で僕のこと……」
「リセット」
「りせっと?」
そう言われてようやく僕は両手に携帯とリセットと呼ばれる物体を握り締めていることを思い出した。
「これのこと?」
「そ」
「……」
僕の顔を覗き込んでいる満足気な表情と、手に持ったリセットを交互に見て再び記憶を探り始めると、少女は『もぉ』と呆れたような溜め息を吐いた。
「はいはい、なんにも覚えて無いんだもんね、しょうがないからお姉さんが説明してあげるわ」
(子供じゃん……)
「そこ、うるさい」
「え?」
ひとつ咳払いをしてから偉そうに腕を組んで、少女は説明らしき言葉の羅列を並べ始めた。
「リセットとは、記憶を電子化し、外部記憶媒体への転送、そして更に超光速による外部間の転送を繰り返すことによって、過去への通信を可能とさせるシステムの総称であり、直樹が今持っている記憶変換と外部転送機能を持った小型端末の名称でもあるわ」
「……はぁ」
「まぁ、言ってみれば簡単なタイムマシンのことよ、過去限定のね」
「過去限定の、タイムマシン……」
「そーゆーこと、分かった?」
「あぁ、まぁ……なんとなく?」
再び大きな溜め息をつかれてしまった。
「それと、直樹がそんなふうになっている理由だけど――」
人差し指を立てて少し怒ったような顔になる。
「一度のリセットで持って帰れる記憶は三つまで、そして前回のリセットで直樹は何も持って帰らなかった。だからリセットのことや、自分が過去へ戻ったことすらも忘れてしまったってこと、そして全ては安易な直樹の考えと、説明書を最後まで読まない横着な性格がそうさせたのよ」
そう言い放つと、再び腕を組んでフンと鼻を鳴らした。まず間違いなく怒りを表しているのだろうけど、なんだか拗ねた子供のようで、僕から見たら可愛いだけだった。
僕はその可愛らしい少女を見つめながら話をまとめてみた。以前僕はここを訪れ過去へ戻った、しかしどういう考えがあってか何も記憶に残さないまま戻ったおかげで、リセットのことや少女のことを忘れ、ひいてはまた同じ理由でここに来ることになってしまったに違いない。
そして彼女は僕の名前を知っているのに、僕は名前どころか会ったことすら何一つ覚えていないのだ。この少女が怒るのも当然だ。
「あの……」
「なに」
「なんか、ごめんなさい……」
「うむ、よろしい、他に何か質問は」
「えーと、もしかしたら前に一度聞いてるかもしれないんだけど……、君の名前は?」
「はぁ? なんで最初にそこ?」
「だって、なんて呼んだらいいのか」
少女は何故か『うーん』と唸りを上げてから、知らない漢字を読み上げるように、ぼそっと名前らしき言葉を呟いた。
「……マリ?」
「まり?」
「あー、違うわね……マリー……うん、マリーって呼ぶといいわ」
なんだか今決めたような口ぶりだ。
「外国人なの?」
「そうね」
「日本語ペラペラなのに?」
「そうよ」
「どこの国?」
「彩の国」
「え?」
「……っさいなぁ! どこだっていいでしょ! 他に質問無いのっ? バカ!」
マリーのこと以外で、という事だろう。それにしてもなんだか理不尽な怒り方にも感じたが、これ以上機嫌を損ねても良いことは無いと思い、素直に質問を変えることにした。
「じゃあ、ここは一体何処なの?」
「海よ」
なんだか少し疲れてきた。
「えーと……なんで僕は海にいるの?」
「リセットを使ったからでしょうがー、なんなのあんた、バカなの? 死ぬの?」
(そんなに言わなくても……)
「ちょ、そこなんだけど、リセットを使うとどうして海に来ちゃうのさっ」
「あぁ、なんだ、そういうことか。それはね、ここがリセットの設定空間であって、リセットを使用した人間は必ずここで設定をして過去へ行くの、そしてこの空間は私の意のままに変えることができる。今、ここが海なのは私がそうしたからよ」
「ふぅん、なんで海?」
「なんだって良いでしょ」
面倒臭そうに僕の質問を切り捨てると、マリーは腕を組んだままの体勢で、僕とは反対方向の海を向いて黙ってしまった。
(なんだかヒドイよこの子……)
「最後に、ひとつ聞いても良い?」
「なに」
「夢、じゃないんだよね……」
「……そう、夢なんかじゃない。直樹は人生を間違えた。やり直したい、無かったことにしたい、元に戻りたい、そう考えたからここに来た……。そして今からそれを直しに行くのよ」
「そっか……」
それを聞いても、もう驚きはしなかった。むしろ少し喜んでいる自分がいた。もしこれが夢なら、どこからが夢だったのか、考えるのが怖かったからだと思う。相澤さんに振られたところなのか、二年の初日に皆と同じクラスになれたところなのか、『なよ助』とバカにされているところなのか、それとももっと前から夢を見続けていたのか……。
そうじゃないと分かっただけで、すんなりこの不思議な世界を信じてしまう自分がとても情けなく思えて、ひとりでに笑いが込み上げてくる。
(もういいや、ならとことん楽しんでみよう。僕が考えるよりも、もっと世界は簡単なんだから)
「分かった、じゃあ、後はどうすれば良い?」
マリーは勢い良く振り向くと、少し意外なものを見るような顔をしてから、最初に見たときと同じ、とても可愛らしい笑顔になった。
「じゃあ、セットアップを始めるわね」
そう言うと、ずいっと僕の傍に来て、『はい』と無邪気に手を差し出した。
「ん?」
「掴んで」
わけも分からず、手に持った携帯とリセットをポケットにしまってから、マリーの手を握る。
(冷たっ)
彼女の手は驚くほど冷たく、それは、寒い季節に付ける銀の腕時計を連想させた。
「いくわよ」
「う、うん」
僕が答えると、彼女の目の雰囲気が変わった。光を失った、とか、生気を失った、という表現の方が近いかもしれない。しばらくその様子を心配そうに見つめていると、世界が一瞬震え、足先に違和感を感じた。
見ると、足元から光の輪が現れ、筒状に僕を包んで昇って来ていた。
「わっ!」
よく見ると、光の輪が通過した後には僕の足が残っておらず、代わりに、ぬるま湯に浸かっていく感覚だけが残っていた。
「大丈夫、直樹はこれが二度目なのよ、怖いなら目を閉じてなさい」
「う、うん……」
それに従い、固く目を閉じてこれが終わるのを待つことにした。ぬるま湯はそのまま両脚を飲み込み、腹部、胸部と上がってきて、首のところまで来ると僕は息を止めた。
頭をすっぽり包み込まれたところでマリーの笑い声が聞こえた。――聞こえたというよりも、さっきまでの会話と違い、頭に直接響いている感じがした。
「バカね、大丈夫よ、息してごらんなさい」
その声に安心して目を開けると、さっきまであった砂浜や海、それから空までもが消え、代わりに闇だけが広がっていた。周りを見渡してみるがもちろんマリーの姿も見つからず、急に心細くなってしまう。
「そのまま息しないつもり? 死にたいの?」
そうだった、あまりにも世界が急変していたので息をするのを忘れてしまっていた。僕は恐る恐る空気を吸ってみると、きちんと空気が存在していることに安心し、思い切り深く呼吸をした。
「じゃあ、まず戻りたい時間を思い浮かべて」
相変わらずマリーの姿は無く、声だけが聞こえるのだけど、さっきよりもずっと近くに彼女がいるような気がした。なんと言うか、彼女と身体を重ねているような感じがして、なんだか無性に恥ずかしくなる。
「バカ! 何考えてんのよ!」
「え? あ、ごめんっ」
反射的に謝ってから、僕がもといた世界を思い浮かべると、目の前にぼんやりとその思いが映像になって現れた。丁度相澤さんに告白しようとしている場面だったので、再び恥ずかしくなってしまう。僕はその恥ずかしさを誤魔化すために、しどろもどろになりながらマリーに話し掛けた。
「あ、あのっ! どこまで戻れるのっ?」
「それも説明書に書いてある」
「ごめんなさい……」
「今年の四月七日」
「えらく中途半端だね」
「そう制限されているのよ、でも四月七日までだったら何度でも戻れるわ」
僕は少し考えた。何故四月七日なのかはこの際置いといて、何度も戻れるのなら限度まで戻った方が多くのことをやり直せるんだ。
(なら……)
そう思うのと同時に、目の前の映像は逆再生を始めたかと思うと、一気に加速し、あっという間に四月七日の朝らしき僕の姿を映して停止した。
「いいのね?」
「うん」
「じゃあ次、持って帰る記憶を三つ選んで」
「えっと、そこがいまいちよく分からないんだけど」
「っとにしょうがないわねぇ」
溜め息までしっかり頭に響いてくるので、少し笑いそうになってしまう。
「いい? 一回で覚えるのよ?」
「はい」
「持ち帰る記憶とは、あるひとつの事柄に対する知識でも良いし、物事を経験した記憶から、それを避けるための行動意識でも良い。各定義や範囲等は自己の決定に任されているわ」
「うん……え?」
「ばかっ! 要は何でも良いってこと、今日の天気のことだって良いし、テストの回答でも良い。それに行動意識を付け足して『あの日は午後から雨が降るから傘を持っていこう』とか『テストの答えを紙に書いてカンニングしよう』っていうのも有りよ」
マリーはそこで一旦説明を区切り、ひとつ息をついてから「その代わり――」と説明を続けた。
「記憶容量の制限があったり、持ち帰るのが禁止されている記憶なんていうのもあるの。記憶容量については詳しく言っても分からないだろうから、容量を超えそうになったら私が言うわ。禁止記憶とは犯罪行為、またはそれに準ずる行為のこと、道徳とも言うわ。そのあたりは全て私が審査することになってる」
「犯罪に準ずるって?」
「例えば女の子に乱暴してからリセットしたいとか、賭け事の結果を知って大金持ちになるとかそういう類のことよ。そういうことを目的としてのリセットは禁止されてるの、あくまで道徳的に人生をやり直してちょうだい」
「よく分かったよ」
道徳的に人生をやり直す、という言葉に物凄い違和感を感じたが、マリーの性格を少し理解してきた僕は、それについて深く追求しないことにした。
「それと」
「ん?」
「あんたバカだから、ひとつ助言しておいてあげる」
「はぁ……」
「これからは毎回、一つ目の記憶は『リセットに関する知識』にしなさい。また一から説明するのなんてぜぇっ…………ったいに嫌だからね!」
「分かりました……って、これも考えるだけで良いの? マリーに言うの?」
「考えるだけで良いわ」
「分かった、じゃあいくよ?」
「いちいち聞くな」
「……」
「はい、次」
マリーの心無い催促に少し躊躇いつつも、相澤さんに告白することで、彼女を傷つけてしまったことを思い浮かべた。
「次、最後」
最後の記憶が思い浮かばなかったので、空いた記憶を使い、ある二つのことを試すことにした。多分それは、今後リセットの世界で生きていくにあたり、とても重要なことだと思う。
「……へぇ、直樹って結構強欲なのねぇ。――この三つで良いの?」
「え、今の、良いの?」
「うーん、まぁギリってとこかな。駄目なら駄目って言うわよ」
「分かった。じゃあその三つで頼むよ」
「じゃ、転送するね。――あ、さっきと同じ感覚になるけど、うるさいからいちいち驚かないでね」
「はい、すいませんでした……」
彼女の言うとおり、一瞬機械の起動音みたいなものが聞こえると、ぬるま湯が這い上がってくる感覚を足に感じた。僕はさっきと同じように、その感覚が通り過ぎるのを目を瞑って待つことにした。
頭が飲み込まれる間際、少し寂しそうな声で「またね」と聞こえ、銀色の美しい髪と青い瞳が特徴的なマリーの姿が思い浮かび、僕も心の中で「またね」と言った。
ぬるま湯が頭まで到達すると、彼女が頭から抜けていくのを感じ、そこで急激な眠気に襲われ、僕は意識を失った。
*
朝、目覚ましの音で目が覚めると、鮮明すぎる記憶が頭の中で騒ぎ立てていた。日付を確認するために携帯を探して辺りを見回すと、サイドテーブルの上にその姿を捉え、さっきまで僕が居た世界が夢でないことを悟った。隣にはリセットも一緒だったのだ。
それから携帯を手に取り開いてみるが、確認するまでもなく液晶の画面は今日が四月七日であることを示していた。
間違いない、僕は数分前までリセットの世界でマリーと話をしていた。きちんとマリーの話を一言一句を思い出せる。それは、『リセットに関する知識』とはリセットの使用方法や原則のみならず、あの世界の中で起きたこと全てが含まれているということだ。
(それにしても……)
僕はマリーとの会話を思い出して頬を緩ませていた。少女と言えども愛以外の女の子(それもとても可愛い子)とあんなに会話をしたことなんて久しぶりだった。そんな小さなことで心を弾ませながら、いつものように登校するまでの一連の行動をとった。
八時丁度、狙った通りに玄関を出ると愛が飛び出してきた。早速僕に気付いて大きく手を振りながら「おはよー」と言っている。僕は記憶を辿り、あの日と寸分違わぬ動きで彼女に近付き、同じ語句で話しかけた。
「おはよう。今日は遅いんだね」
もちろん返ってくるのも同じ言葉であるはずだ。
「始業式の日から朝練があるわけないでしょー」
(うん、これでいい)
そして学校へ向かって歩き出し、次に愛から発せられるはずの言葉を待った。
「クラス分けどうなるかなぁ、また一緒だったりしてー」
そう言って、記憶の中の彼女と全く同じ表情で笑い始めた。
僕はそうなることを知っていたので、自信満々の表情で彼女に言った。
「きっと一緒だよ」
「えっ」
元々丸い目を更に丸くしてきょとんとしたかと思うと、慌てるように前を向き直した。
「なっ、直樹らしくないよそれ、……へんなのー」
(う……、なんかこれはこれで……)
やや視線を落として歩く愛は、少し照れているように見えるのだが、そんな表情をされてはこちらの方が恥ずかしくなってしまう。変な沈黙に耐えられず、僕は慌てて口を開いた。
「えっとほら、選択授業一緒だからさ、哲平も相澤さんも、きっと一緒になれるよ。なんてね、あははー」
「そ、そうね……。そうよね! あ、でもあのバカだけは嫌、死んでも嫌」
(はは……哲平のせいで死人が……)
その後の愛は哲平との喧嘩の話や、冬休みの間に起きた出来事の話を楽しげに話してくれた。そして校門まで来ると新入生のためのアーチを一緒にくぐり、新しいクラス表も一緒に眺めた。期待通りの結果に分かりやすく飛び跳ねて喜ぶ愛の姿を見ていると、僕まで胸が躍るような気分になった。しばらくして掲示板に群がる生徒の中に相澤さんの姿を見つけた愛は、勢いよく相澤さんに抱き付くと、今度は二人で喜び始めた。
――僕はこのとき、三つ目の記憶を使った実験の結果を分析していた。
僕が三つ目に記憶したもの、それは《四月七日の出来事》だった。それを記憶したのには二つの理由がある。
一つ目は記憶容量の制限を調べるためだ。僕が三つ目の記憶を思い浮かべたとき、断られるかと思っていたのだけど結果は大丈夫だった。更にそのとき『ギリギリ』だとマリーは言ってくれた。それで充分、要は一日丸ごとを記憶できるのだ。
制限と言うからどんなものかと思えば、僕の予想を軽く上回る大容量だった。
二つ目の理由は僕の行動に対する他人の反応が、一体どのようにして変わるのかを試すためだ。変えたいこともあれば、変えたくないこともある。それをどう調整すれば良いのかを知っておくことはとても重要だ。
さっき家を出たとき愛と挨拶を交わしたが、僕はそのとき記憶と全く同じ行動をとった。そうして返ってきた愛の行動も記憶と同じ。そこまでは予想通りだ。
――問題はその後のこと。
愛がクラス分けの話を振ってきたとき、僕はあえて記憶とは正反対の返答をした。もちろん愛も違う反応をする。それはあたりまえなのだけど、その会話以降の彼女は記憶と合致しない点が多々見受けられた。会話の内容から行動までそのほとんどが僕の知らない愛の姿。
たった一言違う言葉を掛けただけで、この世界は大きく変わってしまう。更に言うと、僕が変えてしまった愛が記憶とは違う行動をとる事によって、彼女に関わる人間の行動までもが変わってしまうのだ。
これでは四月七日の出来事を全て記憶してもあまり意味が無いということだ。自分の思い通りに人生を変えるには、案外慎重に考えて行動しなくてはならないのかもしれない……。
それからの僕は教室に着くまで色々と考え、この記憶と少しズレが生じた世界を、あまり深く考えず普段通りに過ごすことに決めた。と言うのも、四月七日を記憶したのは実験がしたかっただけで、特に変えたいと思うことなど無かったからだ。
哲平も合流し、四人で教室に入ると、ある人物が目に入り急に胸がざわついた。
――綺麗な黒髪の哀しげな表情をした女の子、立花優歌だ。
(立花さん……そうだ! 美化委員!)
およそ一時間後に身に降りかかる災厄を思い出し、どうにか回避しなくてはと考えた。マリ夫が教室に現れ出席を取り始めると、やはり彼女のところで止まる。
「立花、ちょっと立ってくれ」
「はい」
静かに彼女は立ち上がる。
「春休み中にこっちに越してきた立花優歌さんだ。今日から転入ということになる。勝手が分からないだろうから、皆よろしく頼む」
ひそひそと会話が漏れ始め、マリ夫が座ることを許可し再び点呼に戻る。
――そのときだった。
立花さんは立ったときと同じように静かな動作で座った。
(あれ……?)
起こるべきことが起こらなかった。彼女は僕を睨むどころかチラリともこちらを向かなかったのだ。注視していたから間違いない。
これは一体どういうことだろうか。僕は彼女に変化を与えていないし、あの日とズレてしまった愛や相澤さん、それに哲平だってずっと僕の近くにいたから立花さんに話し掛けてなどいないはずだ。
もしかしたら直接話し掛けなくても世界が変わってしまうのかも……。しかし、それにしてはマリ夫の言動や行動が記憶と一致し過ぎている。これはいよいよ訳が分からなくなってきた。もっとこの世界の理を理解しなくては……。
新入生の入学式を終えて再び教室に戻ると、やはり同じタイミングで各委員決めが、相澤さんを進行に迎えて始まった。
文化祭実行委員で愛が元気良く立候補し、黒板に名前を書くとチラチラと僕を見て相方にと指名している。美化委員を逃れるためならここで手を挙げても良いのだが、変化の加わった立花さんは僕の名前を書かないかもしれない、それにやっぱり委員会など面倒臭い。どちらかというとそっちが本音だ。僕は再び首を横に振った。
そして問題のとき。予想通り美化委員で進行はピタリと止まるが、記憶よりも若干早く立花さんが立候補した。彼女は立ち上がり黒板に名前を書き始める。僕は意識を集中してその様子を眺めていた。
『立花優歌』と書き終えたとき、チョークの動きが止んだ……のもつかの間、すぐに次の文字を書こうとした。(まずい! どうにかしないと!)
「はい!」
気付いたら大声で立候補していた。
立花さんを除く全ての視線が僕に集まってくれたおかげで、彼女が既に『東』を書き終えていることはバレていないようだ。急いで立ち上がり教壇に駆け込むと彼女は黙ってチョークを渡してくれた。黒板には既に『東条』と書かれていた。
「ありがとう、直樹くん」
相澤さんは可憐な笑顔で僕にお礼をした。立花さんの不思議行動を阻止しただけではなく、相澤さんの好感度まで上げてしまったようだ。美化委員に立候補してしまったのは不本意だが、これはある意味正解かもしれないと思った。
それにしても立花さんは一体頭の中で何を考えているのだろうか。彼女と一緒に皆の拍手を浴びながら、いよいよそれを確かめてみたいと考えていた。
HRが終わると、いつもの三人が僕の机に集まった。
「直樹、おまえ何? どういう風の吹き回し? もしかして転校生のことが気に入ったのか?」
「いや別に、ただなんとなく」
言って後悔した……。
愛が『バン』と机に片手をついて、見下すような視線を僕に向けた。
「ふぅん、なんとなくで幼馴染よりも知らない子を選ぶんだぁ、そうよね、あの子可愛いものねぇ」
「ち、違っ」
「こぉら、愛、直樹くんが困ってるじゃない。直樹くんだって悪気があってそうしたわけじゃないくらい分かるでしょう?」
「むー、だってぇー」
「そ、そうだよ! 僕はほら、相澤さんが困ってたから、助けようと……」
「えっ?」と声を揃えて女性二人が言う。
しまった……。二人ともそれぞれ複雑な表情を浮かべ、居心地の悪い雰囲気が流れ始めてしまう。それもそうだ、相澤さんが困っているからといって、誰もやりたがらない美化委員に立候補するだなんて好意を抱いている人間でないと普通はしない。それも人一倍面倒なことを避けてきたこの僕が、だ。
反射的に哲平に助けを求めると、彼は微笑ましいというような表情で僕を見ていた。
(助けて)(任せとけ)的な視線を交わすと、哲平は急に「あぁ!」と何かに気付いたような声を上げた。
「やっべ! 今日えりんぎの特売日だ! 急ぐぞ直樹!」
哲平は僕の襟を掴むと「そんじゃ、こいつ借りてくぜ!」と言って外に連れ出してくれた。
「じゃ、じゃあまた明日っ」
引っ張られながら慌てて二人に挨拶をすると、彼女達はぽかんとしたままひらひらと手を振ってくれた。
(哲平……。えりんぎの特売は無理があるよ……)
昇降口まで来ると僕らは一息ついてから、靴に履き替えて下校した。
「直樹ー、ありゃ駄目だ。あそこはもっとこう、目をキラキラさせてだな――」
そう言いながら哲平は鞄を地面に置くと、おもむろに片手を胸に当て、もう片方の手を空中に彷徨わせながら実演を始めた。
「僕が何故美化委員に立候補したかだって? 学校を美しくするために決まっているじゃないか! 君達はもっと美しい場所に居なくてはいけない、だから僕はそうするんだ……美しい花は、美しい大地に咲くものなんだぜっ(エコー効果)」
最後にひと際大袈裟なアクションを織り交ぜて哲平劇場は幕を降ろした。気付くと僕らを囲むように生徒達が群がってきている。
「ご、ごめん哲平……。母さんが哲平と遊んじゃ駄目って言うから……またっ!」
そう言い残し、痛い視線から逃げ出すと、背後から「あぁっ! 僕の美しい花よ!」という声が聞こえたので更にスピードを上げた。本当に哲平はまずい状態なのかもしれない、そう考えると彼の両親が不憫に思えてならなかった。
帰りの途中、僕は遠回りをしてスーパーに夕食の材料を買いに来ていた。ひとつずつ食材を丹念に選び、買い物かごへと入れていく。ふとエリンギが目に入って仰天した。
値札の横に黄色いポップが加えられており、そこには間違いなく『今日の特売!』と書かれていたからだ。哲平は日頃から嘘を嫌う性格だと知っていたけど、まさかここまで徹底していたとは……。疑ってしまったことに少し申し訳ない気持ちになり、僕は野菜炒めの材料にエリンギを追加した。
あらかた食材を選び終わって適当なレジに並び、待っている間に今日一日のことを思い返してみた。
やっぱり相澤さんは綺麗で優しかった。でもどんなに願ったって彼女と付き合うことは叶わない。自分の予想ではなく、現に一度振られているのだから……。
それにしても、今朝の愛はいつもと違う可愛さがあったなぁ、なんだかああいう愛も悪くない。それと放課後のあの態度、あれはひょっとして僕が立花さんに近付いたことへのやきもちだろうか、もしそうだったら……。
レジが進み、僕の番が来てもその考えは止まらなかった。
思い返せば愛と僕は小さい頃本当に仲良しだった。四六時中彼女の無茶な提案に引きずり回されて迷惑していたが、他に友達のいない僕のことを、可愛らしいくりくりした目でずっと見ていてくれた。いつしか彼女のことが好きになっていて、僕の方から好んで彼女の後を付いてまわるようになっていたなぁ……。
(あれ、愛と遊ばなくなったのって何でだっけ?)
「二千五十二円になります」
「あ、はい」
慌てて財布からお金を取り出そうとしてハッとした。
(足りない……)
財布の中には千円札が二枚と、一円玉が数枚入っていただけだった。
「あ、あの、すみません」
「はい?」
頭に三角巾を巻いた不機嫌そうなおばさんの顔が、みるみるうちに怪訝そうな表情に変わってゆく。
「やっぱりそのエリンギいいです……」
決死の覚悟でそう言うと、おばさんは面倒臭そうに無言でレジ金額を修正し始めた。後ろに並んでいる客の視線が背中に痛い。僕は恥ずかしくてたまらなくなり、瞬時に顔が赤くなってしまった。少しでもその様子を誤魔化すために携帯を取り出して眺めることにした。
(あっ!)
ポケットから取り出したのは携帯ではなくリセットだった。考えたときには遅く、既にリセットは眩しく光りだしていた。
(僕のばかぁぁぁぁぁぁああああ!)
*
しばらくして目を開けると今度はずいぶん狭い空間だった。というより部屋だった。
ぎゅうぎゅうに敷き詰められた固そうなソファと無駄に大きなテーブル、隅には大きな液晶テレビが置いてあり、部屋全体が黄色電球によってぼんやり照らされていた。何度か見たような光景だ。
(カラオケボックス?)
「ご名答っ!」
驚いて振り向くと、見たことのない学校の制服を着たマリーが、ソファとは別の丸椅子に座って僕を指差していた。
「歌ってく?」
「い、いや、遠慮します」
「なーによー、折角用意したのにぃ」
マリーはがっかりしたように肩を落とした。
「マリーって中学生だったの?」
「へ?」
彼女は相変わらず日本人らしからぬ銀色の髪と青色の瞳をしていたが、体格から言葉遣いに仕草、それになんといっても中学っぽい制服を着ている。これはもう間違いないだろう。僕は今まで中学生に馬鹿にされていたのだ。マリーがどんなにこの世界で特別な存在だとしても、もう敬語を使う必要は無いと思った。
「へ、じゃなくて、それ、中学校の制服だろ?」
「あ、本当だー、うっわぁー、懐かしいなぁー」
立ち上がって自分の背中を見たり、スカートの裾を広げたりしている。
「ねぇ! どぉ? 似合う?」
「お前なぁ……そんなことより……」
「に・あ・う・か! って聞いてんの!」
「は、はいっ、とても」
(あれ……?)
僕はとことんこういう性格らしい。嬉しそうに一通り自分の制服姿を眺めた後、もう一度丸椅子に座ってから彼女はこう言った。
「私だって詳細まで自分で考えてるわけじゃないの、なんてゆーか場面を想像するっていう感じかな、あとのことはなんか適当に決まってんのよねぇ」
「ふぅん」
「それにしても――」
「ん?」
「随分しょうもないことでリセットを使ったわね」
目を半開きにして僕を見る。まるで汚い物でも見るような目だ。
「げ、何で知ってんの」
「ったりまえでしょー、私はこの世界の……えーと、アレよ」
「どれ?」
「ん~……管理する人? 違うなぁ……あ、分かった、番人! そうよ記憶の番人! 英語でなんて言うんだっけ」
「ガーディアン? だったような」
「ひょわー、格好良い! 決まり、メモリーズガーディアン!」
「あはは……」
(なんだか前にも見たようなやり取りだな……名前を聞いたときだっけ)
「私はメモリーズガーディアンだから直樹のことは全て分かるのです。今あなたは『名前を聞いたときと同じだ』と思いましたね」
マリーに指をさされるのと同時に声を失ってしまった。
「……」
度々心の中を読まれている気がしていたけど、本当に読めるのか……。これはかなり怖いことだ。ここにいるときはなるべく変なことを考えないようにしなくては……。
「そゆこと、だから直樹がここに来た理由も全部お見通しなわけよ」
お得意の腕組スタイルで『ふふん』と鼻を鳴らす。
「まぁ、確かにあれは恥ずかしいから直樹の気持ちも分かるけど、携帯とっ、間違えるとかっ……ぷふっ! っくはははははっ!」
急に噴出したかと思うと「あー、だめ! これツボる!」とか言いながらお腹を抱えて笑い転げている。そんな中学生の姿を見ていると、自分が惨めに思えて泣きそうになってくる。
散々笑った挙句の果てに、目じりに溜まった涙を拭ってようやくマリーが話を再開した。
「ふぅ……ま、そういうことだから別にどんな使い方しても良いのよ、好きに使って恥ずかしくない自分になりなさい」
そう言うとまたケラケラ笑い出した。もう嫌だ、とにかく話題を変えないと本当に泣いてしまいそうだ。
「あの、マリー」
「ん?」
「ちょっと聞きたいんだけど、僕が干渉してない人も、前と違う行動をとることってあるの?」
「んー、基本的には無い、かなぁ? でもまぁ、干渉してないかなんて分からないわよ? 極端に言うと、空気や雰囲気ですら物事を変える要因になり得るものね」
「そっかぁ」
てことはやっぱり、いつの間にか僕は立花さんに干渉していたんだ……。
「色々試してみることね、私でも分からないことだってたくさんあるもの」
「うん、分かった。……ところでさぁ」
「なぁに?」
「何度も僕がリセットを使って……その……」
「何よ? ハッキリ言いなさいよ」
「えと、マリーは迷惑じゃない、かな?」
「なぁんだ、そんなこと? 別にそんなの気にしなくていいわよ。むしろ私はちょこちょこ直樹が来てくれた方が……」
「え?」
喋っている途中で固まったかと思ったら、急に立ち上がってテレビの前まで歩きだした。
「いい……、暇つぶしになるのよ」
そう小さな声でそう言うと、なにやらカラオケのリモコンらしき物を持って戻って来る。
「え、歌うの?」
「なによ、ここを何処だと思ってんの?」
「はぁ……」
しばらくリモコンを操作した後にカラオケ本体に向かって曲を転送した。テーブルの上に置いてあったマイクを取ると、スピーカーから少し前に流行った女性シンガーのバラードが流れ始めた。
僕は黙ってマリーの歌声を聴くことにしたのだけれど、次の瞬間驚いて言葉を失っていた。およそ彼女の憎まれ口からは想像も出来ない程にその歌声は美しく、歌詞に沿って彼女の心が伝わってくるようだった。大人が書いた恋愛の詩を、中学生の格好をしたマリーがこんなにも切なく表現できるなんて、凄いを通り越して尊敬してしまう。
僕は、曲が終わっても感動して言葉が出なかった。
(…………すごい)
「えへへー、ありがとっ」
「あっ、うん、本当にすごいよ、感動しちゃった! 綺麗な歌声だねぇ」
言ってから顔が熱くなる。褒められてマリーまでもが赤くなり、少し甘酸っぱい沈黙が流れてしまった。
自分でも不気味な程すらすらと褒め言葉が出てきたことに少々驚いたが、隠したって無駄なのだからこれでいいんだと思い、これからもマリーの前では思ったことを素直に話すことに決めた。
ちらっとマリーを見ると、いつの間にかグラスに入った茶色いドリンクをストローで飲んでいた。よく見ると僕の前にも同じ液体の入ったグラスが、ストロー付きで置かれている。
「私のおごり」
「これ、マリーが出したの?」
「そう、意のままにできるって言ったでしょ」
リモコンで曲を探しながら、彼女はそれが当たり前のことのように平坦な口調でそう言った。
「へぇー、すごい、じゃあ、いただきます……」
グラスを手に取りひとくち飲んでみると、それが正真正銘僕の知っている世界のウーロン茶だということが分かった。
「あれ……? じゃあ……」
「何よ、ウーロン茶嫌いなの?」
「そうじゃなくて、何でいちいちリモコン使ったりするの? 思いのまま動かすことが出来るんでしょ?」
「気分よ」
「気分って……」
「別になんだっていいじゃない、次、入れないなら私歌うからね」
「うん、歌って」
マリーは立て続けに四曲歌い、僕は一曲終わる毎に素直な感想を伝えた。
楽しかった。こんなに楽しいと感じたのは何年振りだろうか。ふと子供の頃に愛と遊んでいた記憶が脳裏を過ぎり、ハッとなった。
――そうか、これはあのときにそっくりだ。
楽しいと素直に思う気持ち、もっと居たいと願う気持ち、きっとこの感情もマリーに読まれてしまっているのだろうけども、もう恥ずかしくは思わなかった。けれどいつまでもここに居るわけにはいかない。僕には僕の世界がある。それに、これからはいつでも好きなときにここへ来ることができる。
そんなことを考えながらウーロン茶を飲み干し、僕は元の世界へ戻ることを彼女に伝えた。マリーは笑っていたが、設定空間に入るときに彼女の手の冷たさを感じて、なんだかとても寂しい気持ちになってしまう。
別れ際、今度はきちんと口に出して「またね」と言った。
*
あれからの僕は、事あるごとにリセットを使用した。
あるときは女の子に気に入られるため、あるときは成績を上げるため、あるときは軽い怪我をしたとき、またあるときは特売商品を買い逃したとき。リセットを使う理由がどんどん低レベルになっていき、その度にマリーと楽しい時間を過ごしていた。
五月の半ばに差し掛かった頃、ここまで全てを完璧にこなしてきた僕は、とんでもない事をしてしまう。
あろう事か、全国一斉学力テストで満点を叩き出してしまったのだ。教科は国語、数学、英語の三つ。その全てが八万人中トップという結果だった。これにはさすがに教員を含め桜学全体が驚いたらしく、僕の名前は一気に有名になってしまった。
数日後に僕だけ問題を変えたテストをやらされる羽目になってしまったが、調子に乗った僕はもちろん満点をとってやった。その結果を知った校長は、僕に特別授業を受けることを勧めたが、僕はそれをあっさり断った。
その頃から僕の世界は急転してしまった。一年生から三年生、様々な女性に交際を申し込まれるようになったのだ。中には相澤さんと同等とも思える女の子も居たが、僕は敢えてその全てを丁重にお断りした。
普通なら同性に嫌われるところだが、僕は男子にも気に入られる振る舞いをとっていたため、むしろその硬派な姿勢が素晴らしいと尊敬の眼差しを向けられていた。
ただ一人、立花さんだけは絶対に自分から話し掛けてくれることは無かった。むしろ前よりも冷たくなっている気がする。美化委員の仕事のときですら、たまに無視される程だ。相変わらず彼女は何を考えているのか分からないが、今の僕にとっては些細なことでしかない。
立花さんがどうあれ、夢に描いていた生活を実際に手にしているのだ。何も怖くない、失敗してもすぐに正解へと導き出すことができる。――僕にはリセットがあり、マリーがいつも待っていてくれる。
今なら……。
五月が終わろうとしたとき、僕は再び『裏ケヤキ』で相澤さんに告白をした。
「相澤さん、僕は君が居たからここまで頑張ることができたんだ。ずっと前から好きでした」
僕は本当のことを言ったつもりだ。嘘はついていない。全ては相澤さんに気に入られるためにそうしてきたのだ。
けれど返ってきた答えは以前と全く同じだった。僕はリセットを使い、違う方法で何度も告白を試してみたが、どんな言い回しで告白しても全ては同じ。
――『今は男の人とお付き合いすることが出来ない』、その一点張りだ。
食い下がってその理由を問いただしてみたが、彼女はその胸の内を一切語ってくれなかった。一体彼女はいつになったら付き合うことを許すのだろうか、そして何を隠しているのだろうか……。
僕は告白すること自体を諦め、再び自分の株を上げる作業へと戻っていった。いや、むしろそれからの僕は前よりも貪欲に正解だけを選ぶようになった。成績や性格だけでなく、容姿にも人一倍気を使った。お陰で僕の名前は他校にまで届くようになり、交際の話も次第に多くなっていった。
相澤さんが振り向いてくれるまで、僕はずっと続けるつもりだ。今では皆が僕を慕ってくれている。どんどんやらなくてはいけない仕事が増え、毎日のように誰かの相談が舞い込んでくる。いつしか愛や哲平、相澤さんとも話す機会が減っていき、僕らのやり取りはメールが主流になっていった。
そして梅雨の長雨が降る頃にはそれすらも少なくなり、七月に入ると遠慮のない夏の太陽が、重苦しい雲と一緒に、僕らを繋いでいた線までをも消し去ってしまった。
そんな夏休み前のある日のこと。
僕はいつものようにリセットを多用した一日を終え、一人で昇降口から出たところを名前も知らない女の子に呼び止められ、恋愛相談を持ちかけられた。
普段通り、僕は女の子の喜ぶ答えを探し当てるために、ポケットの中のリセットを握り締めた。
そのときだった。愛と哲平、そして相澤さんが談笑しながら僕と女の子の脇を通り過ぎてゆく……。そのまま三人は僕に脇目も振らず外へ出て行ってしまう。
(僕に気付いていないのだろうか……)
――そう思った瞬間、愛と目が合った。そしてすぐに逸らされてしまう。
他の二人はともかく、間違いなく愛は僕に気付いていたのだ。そして敢えて僕に声を掛けなかった……。
これは一体なんだろう。僕は完璧な世界が欲しかっただけだ。こんな、こんな世界が欲しかったわけじゃない。僕はどこかで何かを間違えてしまったのだろうか。だったら何で誰も教えてくれないんだ? 哲平はいつだって僕を助けてくれたじゃないか! 愛はいつでも僕を守ってくれたじゃないか! 完璧な相澤さんは今の僕の気持ちが分かるんじゃないのか?
――誰か……教えてよ……。
頭を垂れ下げた僕を、目の前の女の子が心配そうに覗き込んできた。
次の瞬間、その顔は真っ白な光に遮られ、どこかに消えてしまった。
*
もう何度訪れたか分からないリセットの世界。僕は無意識にその扉を叩いてしまったらしい。いつものように辺りを見渡すと、すぐに今までとは違う雰囲気だと気が付いた。
平原、全てが平原。それは地平線から僕を通って反対側の地平線まで、あてもなく広がっていた。他には太陽の無い不思議な青空だけ。こんな不気味な空間は初めてだ。マリーの身に何かあったのだろうか? 僕は心配になって声を出した。
「マリー? ねぇ、どこ?」
返ってくるマリーの声は無く、いよいよ心細くなり始めたとき、ようやく背後に声が聞こえた。
「ここよ」
「マリー、これは……」
そう言って振り返ると、そこにマリーの姿は無かった。
代わりに僕と同じか、いくつか年上に見える女性が静かに立っていた。彼女はとてもシンプルな純白のワンピースだけを身に付けており、足にすら何も履いていなかった。そしてマリーと同じ銀色の髪は腰まで伸びていて、澄んだ青色の瞳はマリーと同じだった。
「マリー、なの……?」
彼女は弱々しい微笑みを浮かべ、現れたときと同じように静かに頷いた。
「その姿、どうしたの?」
僕の質問に答えようと口を開くが、音は出てこなかった。それから彼女は顔を歪ませたかと思うと、そのまま首を下に垂れて黙り込んでしまった。
(何か哀しいことでもあったのだろうか?)
そう思った瞬間、彼女は肩を震わせて顔から一粒の雫を地面に落下させた。
「えっ……ちょっと」
どういうわけか大人の姿になったマリーは、次々と涙を落としていき、仕舞いには両手で顔を拭いながら少女のように泣き出してしまった。
「どうしたっていうの? ねぇマリー」
「……なさい……っ」
「えっ……? なに?」
「ごめん……なさいっ……ぅぅ……」
……どうして謝るんだ? ……どうして泣く? それに、その姿は……。
僕はどうすれば良い? くそっ! 何も分からない! なんでそのくらい自分で考えられない! 何が完璧だ! これのどこが完璧なんだよ!
「ごめん、なさい……ごめ、んなさい……」
「謝らないでよっ!」
尚も泣き続けながら、尚も謝り続けるマリーを、僕はただ困惑しながら見守ることしか出来なかった。意味不明の悔しさと哀しさと苛立ちが一度にやってきて、それを抑え込むのがやっとだ。
もういっそのこと目と耳を塞いで、抗うことを止めてしまおうか……、そんなふうに考え始めた頃、ひとつの思いが涙と一緒に流れ落ちた。
――この世界でだけは絶対に後悔したくない。
僕はいつから固まっていたのか分からない身体を奮い立たせ、泣き続けているマリーに一歩ずつ慎重に近付き、そして――
本当は抱きしめてあげたかった……けれど一度も女性を抱きしめたことのない僕にそれは無理なことだ……。僕にできることは、唯一触れたことのある彼女の手に、僕の手を合わせてあげることだった。涙を拭う両手を僕の両手で包んであげると、彼女は少しだけ泣き止み、そして再び泣き出した。
彼女の涙の理由ばかりか、自分の涙の理由すらも分からないまま、ただ僕らは感情を吐き出し続けた。
僕の世界も彼女の世界も本当に分からないことだらけだ。けれど、ただひとつ、彼女の酷く冷たい手も、握り続ければ温かくなることが、分かった……。
しばらくして僕が泣き止むと、マリーも泣き止んだ。
手を離そうとすると、逆に彼女の方が僕の手を掴んできた。驚いて顔を覗くと、彼女は最初と同じ弱々しい笑顔をしていた。
「このまま、送るね」
「………………うん」
光の輪に包まれ設定空間に入った僕は、すぐに戻るべき時間を決めた。
「本当に、この時間で良いの?」
「うん、この時間で良い」
「そう……分かったわ」
それから三つの記憶を選び、自分の世界へ転送してもらった。
結局マリーが何故大人の姿だったのか、何故泣きながら謝っていたのか、それを聞くことは出来なかった。……違う、聞かなかったんだ。自分のことも分かっていない僕に、人の気持ちなんて分かってあげることなんか出来やしない。それならば、きちんと分かってあげられるようになってから改めて聞こうと思う。だから、まず自分と正面から向き合うことに決めたのだ。
そしてそれはこの時間からでないと駄目だ。そうじゃないと本当の意味で自分のことを分かったとは言えない。
(マリーの世界で出来たんだ……。僕の世界で出来ないはずが無い……)
僕は意を決して口を開くと、三人に届くように大きな声で言った。
「愛! 哲平! 相澤さん!」
一度離れてしまった視線が、再び僕の方を向いてくれた。
「――僕も、一緒に……、一緒に帰りたい!」