一章 【リセット】
一章 【リセット】
『…………ッ、ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ、ピピピッ』
僕は眠りから引きずり出された怒りを、けたたましく鳴り続けている目覚まし時計にぶつけた。
『ピピピッ、ピピ……』
アラーム音が止まったのを確認すると、身体が冷えていることに気付き、いつものように足元に追いやられている布団をたぐり寄せて体を温め始める。
布団の温もりを感じていると、まだ頭の中でアラームの残響が鳴っていた。身体は眠りたがっているのに、頭が起きろと言わんばかりに僕をまくし立てているようだ。
仕方なく片目だけをゆっくり開けて、さっき叩いた時計に注目した。
デジタル時計には大きな文字で『AM7:32』と表示されていた。両目が開くようになってようやく思い出す。この時間にアラームをセットした理由。
四月七日、今日から新学期の始まりだった。
「面倒臭いなぁ……」
それが高校二年生として初めて口にした言葉だった。
なんとか重い身体を起こすと、サイドテーブルの上にペットボトルが置いてあるのが目に入る。僕はそれを手に取ると、半分だけ入っていたバナナオレを一気に飲み干した。
少しでも多く寝ようと遅めにセットした昨日の自分のせいで、あまり時間に余裕が無い。それを確認すると、約一ヶ月前まで毎日こなしていた一連の行動に移った。
シャワーを浴び、歯を磨き、制服に着替え、髪型をセットし、市販のバターロール二個とコップ一杯の牛乳を胃に流し込み、昨日準備しておいたカバンを持って颯爽と玄関を飛び出した。
身体に染み付いた習慣というのは、一ヶ月の間が空いても実に正確だった。目覚ましを止めてから動き出すまでの二分も計算していたかのように、家を出た瞬間に見た腕時計は八時ぴったりを指していた。
体内時計が狂っていないことに安心していると、二軒隣の家からブレザー姿の愛が勢いよく飛び出してきたのが見えた。
トレードマークのポニーテールが今日も元気に揺れている。
彼女も僕に気付いたようで、大きく手を振りながら「おはよー」と声を掛けてきた。
僕は愛のように大きな声で挨拶する気力も無いので、立ち止まってこちらを見ている彼女に充分近付いてから、朝だというのにぱっちりと元気に開かれたまあるい瞳に向かって声を掛けた。
「おはよう。今日は遅いんだね」
「始業式の日から朝練があるわけないでしょー」
僕は適当に「ふぅん」と相槌をうつと、学校に向かって歩き出した。
愛とは幼稚園の頃からの幼馴染で、今でこそ無くなったが、中学にあがるくらいまでは何をするにも一緒だった。遊ぶときはもちろん、家族同士仲が良かったせいもあり、食事の招き合いや、旅行まで一緒になることもざらだった。
それが中学にあがるとぱったり途絶えてしまった。はっきりとした原因はなんだったか忘れてしまったが、きっと思春期にありがちな異性を避ける習性を、お互いにとり合った結果なのだろう。
「クラス分けどうなるかなぁ、また一緒だったりしてー」
そう言って愛は『あははー』といたずらっぽく笑っている。
「それはちょっと……」
心とは裏腹な言葉で返すと、愛は「なによもう」と少しムッとした表情に変わってしまった。僕なりの照れ隠しは彼女を少し怒らせてしまったようだ。「冗談だよ」とフォローを加えると、肘で小突きはしたものの、彼女は満足そうな表情に戻ってくれた。
今年も一緒のクラスになれたらいいな。本当はそう思った。
丁度一年前のこの日、彼女は高校一年のクラスで僕を発見すると、真っ先に話しかけてくれた。それからほとんど毎日話しかけてくれるようになったのだ。
――救われた。と言っても過言ではないかもしれない。
僕は人付き合いが苦手なため、自分からはほとんど他人に話しかけることはない。彼女がいなかったら孤独な一年を過ごしていたに違いない。――少なくとも彼女を見つけても、僕からは声を掛けなかっただろう。
一緒のクラスを願った理由はそれだけではない。
単純に彼女が可愛いからだ。一緒に遊んでいた頃は男の子のような格好で年中走り回っていたせいもあって、女の子らしさとはかけ離れた印象だった。男の僕よりも絆創膏が似合う子供だったのを今でも覚えている。
それがたった数年でこうも変わるとは、つくづく女とは不思議な生き物だ。
愛がこれほど女らしく見えるのは、単に僕が彼女の成長する過程を見逃したからなのだろうか、それとも他の要因があってそう見えているのだろうか……。
学校に近付くにつれて、同じ制服の学生がぽつぽつと増えてきた。うちの高校は僕らのような徒歩か自転車通学が三割程度で、残りの七割は電車で通っている。次の角を曲がると、その七割の生徒で賑わっているはずだ。
「あーあ、うちの桜、もう散り始めてるね」
「そうみたいだね」
僕達の通う私立桜ヶ丘学園高等学校、通称桜学は、その名の通り正面の塀に沿って二十本の桜が植えられている。
桜の木そのものはまだ見えないけれど、ひとつ、ふたつと、春の穏やかな風に吹かれて桜の花びらが宙に舞い、僕達の足元にひらひらと落下していた。
一歩ずつ学校に近付くにつれて、徐々に空とアスファルトを彩る花びらの数が増えてゆく。
僕にはその光景が、新学期を憂鬱と考える生徒のために学校が用意した一種の高揚剤のように感じられた。
角を曲がると、案の定、六メートルの公道は桜の花びらと生徒の姿であふれていた。
ピンク色の絨毯の上で一ヶ月ぶりに交わす挨拶の声がところどころで聞こえている。
「みれーい! おーい!」
隣を歩く愛が急に叫ぶので、心臓がドキリと大きく跳ね上がった。
どうやら愛が親友の相澤美玲を見つけたらしく、僕にしたように大きく手を振っている。僕も目を凝らして愛の視線を追ってみると、ずいぶん離れたところに相澤さんの姿を見つけた。その瞬間、さっきとは違う種類の痛みが胸を襲うのが分かった。
相澤さんは既に校門をくぐるところで、愛の大袈裟なアクションにも気付くことなく門の中に消えてしまった。
「ごめん、先行くね!」
そう言うと、僕の返事も待たずに、愛は走って相澤さんの後を追って行ってしまった。
飛び跳ねる身体に合わせてポニーテールがゆらゆらと揺れている。
その姿が消えるまで無意識に目で追っていると、今度は校門に目が留まる。そこには大きなアーチが立てられていた。僕らが高校生になる日、最初に見た光景と全く同じだった。アーチはピンク色の造花で飾られていて、大きく『入学おめでとう』と書かれていた。
その光景を見た僕は、あの日のことを思い出さずにはいられなかった。
桜学に入学したその日、僕は生まれて初めて一目惚れというものを経験した。
あの日も今日と同じように、満開の桜が僕の憂鬱な心を無理やり励まそうとしていた。ほとんどの新入生が新しい生活に胸を躍らせている中、僕はただ不安でしかなかった。小、中と九年間一緒だった友達と違い、今から顔を合わせる大半の人間は僕のことを何一つ知らない。
一から僕という人間を説明してまで友達を作るなんて、僕にとっては単に億劫な行為でしかなかった。当然つまらない三年間の始まりだと決め付けていたのだ。
そんな高校生活初日に光を与えてくれたのは桜の木なんかではなく、二人の女の子だった。一人は幼馴染の愛。そしてもう一人は現在愛の友達であり、僕の一目惚れの相手でもある相澤さんだった。
体育館で延々と続く校長の挨拶やPTAの祝辞、先輩の歓迎の言葉を聞き流していると『新入生代表、宣誓』とアナウンスが流れた。僕の知らないところで新入生の代表が決まっていたことに少し驚いて壇上に顔を向けると、そこに立っていた一人の女性の姿に僕は目を奪われた。
彼女は、本当に僕と同じ一年なのかすら疑うほど端整な姿をしていて、遠目から見ても圧倒的な存在感を放っていた。
今でこそ入試成績トップの人間が新入生代表を務めるものだと知っているが、当時の僕はそんな仕組みを知らず、彼女はその綺麗な顔立ちで選ばれたのかと思っていた。馬鹿な話に聞こえるかもしれないが、そのくらい綺麗に見えたのだ。
よく通る声で粛々と宣誓を終えると、彼女は最後に『新入生代表、相澤美玲』と言ってお辞儀をした。式場に拍手が沸きあがる中、僕は相澤さんから目を離すことが出来なかった。
紙を畳む仕草も、階段を降りる姿も、全てが凛としていて格好良かった。僕達よりもひとつ高いところがとても似合っていて、同時にそれは手の届かない場所であることを教えてくれた。
きっと僕と同じように、この宣誓で彼女の魅力に気付いた男子も多いはずだ。拍手が鳴り止んだ後も、ざわついている声がそれを物語っていた。
その日から僕は相澤さんに憧れを抱き、そしてそれは当然のように恋へと変わっていった。
相澤さんと初めて声を交わしたのは、それからたった一ヵ月後の昼休みだった。
購買のパンを買って教室に戻ってくると、どういうわけか愛と相澤さんが楽しげにお弁当を食べていたのだ。
僕と愛は一組で相澤さんは八組。クラスが違うばかりか、階もひとつ離れている。僕の知っている限り、共通の接点は無いはずの二人が何故一緒にお昼を食べているのかをドキドキしながら考えていると、事もあろうに愛が僕を見つけて呼びつけたのだ。
おそらく僕は気持ちの悪い笑顔だったと思う。愛に紹介され、いくつか相澤さんと会話をしたはずなのだが、持病である赤面症を抑え込むのに必死になっていたため、どんな会話だったかは全く覚えていない。
その滑稽な様子から、愛には一瞬で見抜かれてしまったようで、相澤さんが自分の教室に戻ったあとに、笑いながら『やめときなさい、直樹じゃ無理よ』と言ってきた。一瞬腹が立って愛を睨もうとしたが、確かにその通りだと思い、『そんなんじゃないよ』と軽くあしらった。
相澤さんは入学式から一ヶ月で、既に三人から告白されていた。――その内の一人はなんと三年の現生徒会長らしい。
生徒会長が相手でも駄目だった彼女を、あまつさえ何のとり得も無い僕にどうにかできるわけが無い。そう思ったのは僕だけではなかったらしく、生徒会長の次に告白する輩が現われるのはずっと後のことだった。
それからも度々昼休みにうちの教室で顔を合わせているうちに、少しずつ話すようになっていった。未だに他人の域を出てはいないのだが、少なくとも、遠くからずっと見ているだけの人間と比べれば随分と優位な立場にいるはずだ。
いつかは告白する日が来るのだろうか。一年経ってもこのペースではまず無理だろう。どこかで流れを変える。そんなこと、僕には……。
そんなことを考えていると不意に背中を叩かれた。
「おす、直樹ィ」
その声の主を分かりきっていたので、僕は振り返らずに『おす』とだけ応えた。
「相変わらず辛気臭ぇなぁ、新学期だっつーのに、よっ!」
そう言い終るのと同時に馴れ馴れしく肩を組んできたので、仕方なく視線を向けると、僕より頭半分程高いところに哲平の顔があった。もう、いい加減見飽きた顔だ。僕はこの顔を見ると悪態を付かずにはいられない。
「哲平は相変わらずバカそうな顔してるよね」
僕らは体をくっつけたまま、いつものように気持ちの悪い笑みを交わした。視線を前方に戻すと、そこには人だかりが出来ていた。哲平もそれに気付いたらしく「行こうぜ」と言って、組んでいた肩を解いて歩き出した。
人だかりの先には大きな掲示板があり、新しいクラス名簿が貼られていた。二年の名簿の前までたどり着くと一組から順に目を走らせた。
そのとき僕は不思議な見方をしていた。二列に別けられている各クラス名簿の片側を、上と下だけ確認しては次のクラスへ、そして再び上を下を確認する。その繰り返し。
その作業が止んだのは四組に移ったときだった。まず始めに上を見て『相澤美玲』という名前を見つけ、次に一番下に移す。僕の思った通り、そこに『渡瀬愛』を見つけた。そこから隣の列の中央に向けて、恐る恐る視線を動かすと、最後に自分の名前を見つけることができて、僕は心の中で派手なガッツポーズを繰り出した。
「おい直樹。喜んでるところ悪いが、お前、俺を忘れてねぇか?」
たまに哲平は鋭いことを言う。その声を聞いてから、『東条直樹』の少し上にきちんと『園塚哲平』と書かれているのを見つけて、彼に向けて親指を立ててやった。
「ったく、親友は女より後かよ。悲しいねぇ」
哲平は拗ねているようで、首の後ろを掻きながらそっぽを向いている。どうせ、違うクラスになったってしょっちゅう遊びに来るくせに、とも思ったが、素直に嬉しかったので、僕は哲平の機嫌を取ることにした。
「また一年間よろしく、哲平」
僕がそう言うと、単純な彼はすぐに「あぁ、こちらこそ頼むぜ」と笑顔になった。
早速僕らは昇降口に向かい、新しく割り当てられた出席番号の下駄箱探しに取り掛かった。
「あっ、直樹」
愛の声がした方に顔を向けると、予期せぬ人物の姿に一瞬息が詰まってしまい、思わず手に持った革靴を落としそうになってしまう。
目の前に居る人物は愛ではなく相澤さんだった。
「今年も同じクラスになった以上、体育祭と文化祭、勝ちにいくわよ!」
相澤さんの背後から顔だけを出して愛が喋っていた。それに合わせて相澤さんも微笑みながら「頑張りましょうね、よろしくお願いします」と挨拶してくれた。
「こ、こちらこそ……よろし――」
「あああ!? マジかよ! また渡瀬と同じクラス?」
哲平が元気良く被せてきたせいで、僕の決死の挨拶は無情にもかき消されてしまった。
「あら、それは、どういう意味かし……らぁ?」
言い終わるのと同時に愛の目が猫科動物の様にキラリと光る。
(やれやれ、高二最初のゴングは教室に入る前だったか……)
この二人はどうやら心底相性が悪いらしく、去年の夏頃から事あるごとにいがみ合っている。僕にとっては日常茶飯事の光景なので、特に気にすることは無いのだが、飛び交う罵声の真ん中に立たされている相澤さんは困っているようだ。少し気の毒に思えたが、僕としては悪くない高校二年生の始まりだった。
二年四組の教室に入ると、席に名前を割り当てたものが黒板に書かれていた。それは出席番号順らしく、丁度教室の中央から右が男子の一番から十五番まで。左が女子の一番から十五番までといったふうに割り振られていた。
僕の番号は十番。右から二列目の一番後ろだった。他の三人とは結構離れてしまったが、同じ教室というだけで、今朝感じていた面倒臭さはいつの間にか消えていた。
今年初めの頃だったか、二年の選択授業を提出する日、聞いてもいないのに愛が相澤さんと全く同じ授業を選択したことを告げに来た。二年以降のクラス分けは、なるべく同じ授業を選択した生徒が一緒になると聞いていたので、特に受けたい授業の無かった僕は、愛と全く同じ授業を受けることにした。必然的に、僕と仲の良かった哲平もそうしたのは言うまでもない。
しかし、こうもうまく四人が一緒になるとは想像していなかった。先程からこのクラスの女子について熱弁を振るう哲平に対し、適当に相槌を打ちながら、きっと楽しい学園生活が待っているに違いないと、そう思っていた。
チャイムが鳴るのと同時に担任が入ってきた。掲示板のクラス表で確認するのを忘れていた僕は、そのとき初めて《マリ夫》が担任だと知った。
彼は保健と体育の両方を受け持っている中年の男性教師で、何故マリ夫なのかと言うと、小柄な体格である彼の髭が、言わずと知れた某有名ゲームのキャラクターにそっくりだからだ。女子は遠慮なくその愛称で呼んでいるが、不公平にも男子が言うと怒るので、僕らは遺憾ながら直接話しかけるときだけきちんと岡崎先生と呼んでいる。
小柄とはいえ、きちんと体育教師特有のオーラを纏っており、たまに涙目になった生徒の髪の毛を引っ張っているのを目にすることがある。教師に対していつも生意気な口調の哲平でさえ、マリ夫の前では途端に良い子になるから面白い。
教壇に立ったマリ夫は軽い自己紹介を始め、それが終わると出席を取り始めた。
マリ夫の点呼と生徒の返事が教室内にテンポ良く交互に響き渡る。
ところが、ある生徒のところでマリ夫が止まった。
「立花、ちょっと立ってくれ」
立花と呼ばれた女の子は「はい」と小さな声で返事をし、ゆっくりと椅子を引いて立ち上がった。そこへ全員の目が集まるのが分かる。
見たことの無い子だった。
長い黒髪の大人しそうな女の子。遠めから見ても美しい顔立ちだということが分かる。けれど、そのたたずまいはどこか哀しそうに見えて、何故か切ない印象を受けた。
「春休み中にこっちに越してきた立花優歌さんだ。今日から転入ということになる。勝手が分からないだろうから、皆よろしく頼む」
まばらに返事が聞こえ、所々でひそひそと会話がこぼれ始める。それを制するようにマリ夫が「立花、座っていいぞ」と言って、再び出席を取り始めた。
彼女が座る間際、ほんの一瞬目が合った。恐ろしく冷たい目。どうしてかは分からないが、僕は彼女に睨まれたのだ。言い表せない焦りを感じたが、すぐに気のせいだろうと思いなおした。
点呼が終わるまで、僕は彼女の美しい黒髪から目が離せなかった。
さっき哀しそうだったのも、睨んだように見えたのも、きっと転校初日による彼女の不安が僕の目にそう映させたのだと勝手に考えていた。
新入生の入学式を終え、再び教室に戻るとHRが始まった。マリ夫に指名されたそれぞれ出席番号一番の男女が進行を行い、各実行委員が次々に決められてゆく。普通なら詰まるところではあるが、進行役の片方が相澤さんというのもあってスムーズに進んでいる。
予想通り、文化祭実行委員のところで愛が元気良く手を挙げた。彼女は小さい頃からお祭りが大好きで、去年も文化祭実行委員をやっていた。
男子を募るところで、黒板に名前を書き終えた愛に目で催促されたが、面倒臭いので首を横に振って答えた。しばらくして適当な男子が手を挙げ、前に出た二人の挨拶が終って最後の委員選出に移る。
しかし、さすがの相澤さんによる名進行もここで止まってしまう。
――美化委員。面倒臭い仕事ばかりで一番目立たない委員会だ。確か主な仕事はゴミ拾いや花壇の世話、それから使っていない教室や部室の整理とかだった気がする。
案の定誰も手を挙げないでいると、相澤さんの表情が徐々に陰っていくのが分かった。責任感の強い相澤さんなら、損な役割をかって出るところだが、彼女は生徒会役員であるため他の委員会に属することが出来ない。静かな教室に『カチッ』という時計の音だけが痛々しく響き渡った。
助けてあげたい……。そう思ったとき、ふと彼女の顔に光が差した。なんと、転校生の立花さんが手を挙げているのだ。教室全体が「おぉ~」と唸りをあげた。
「それでは、立花さん。よろしくお願いします」
ホッとした表情で相澤さんがそう言うと、先程と同じように静かに席を立った立花さんは、チョークを受け取り美化委員の下に小気味良く自分の名前を書き込んだ。……と思った矢先。彼女はとんでもない行動に出た。
「え?」と思わず声が漏れてしまった。教室全体がひっくり返る程の衝撃を受けたに違いない。一番驚いたのはもちろん僕だ。――彼女は勝手に、自分の名前の横に『東条』と書いていたのだ。
振り返った彼女の無表情な顔と、あっけにとられた僕の顔を皆の視線が行ったり来たりしている。相澤さんまで驚いた表情で僕を見ていた。
誰もが言葉を失っている中、マリ夫だけが落ち着いていた。
「東条。指名だ、頑張れよ」
「……はあ。――あ、いや、え? なんで?」
断れなくするためだろう、男子を中心にわざとらしい拍手が起こる。口笛まで吹いて楽しく盛り上げているバカまでいた。(この場合のバカとは言うまでもなく哲平のことを指す。)
相変わらず頭の中は困惑のままだが、相澤さんの可憐な笑顔による催促に逆らえず、僕は仕方なく前へ出て立花さんからチョークを受け取った。
近くで見ると、彼女は思いのほか綺麗な顔をしていて、押し付けられた美化委員もまんざらでもなく思えてきた。相変わらず哀しげな印象のままだけど、彼女の白い肌や肩まで伸びた漆黒の髪は、純正の日本といった感じで、きっと和服がものすごく似合うのだろうな、と思った。
「えと、どっかで会いました?」
「いえ」
あまりにもきっぱりと答えが返ってきたので、それ以上は聞けなかった。仕方なく『東条』の下に『直樹』と書き加えて振り返ると、無表情の立花さん、笑顔の相澤さん、含み笑いの哲平、それから少し怒っているような愛と順に目が合った。
楽しそうだと考えていた一年間を、僕はとんでもない方向にスタートを切ったのだった。――正しくは、切らされたのだった。
当然何か起こると思っていた放課後、僕の予想は外れ、重要参考人である立花さんはあっさり帰ってしまった。(というか、気付いたらいなくなっていた。)代わりに僕を待ち受けていたのは友達三人による質問責めだった。
「ちょっと直樹。あれは一体どういうこと?」
「さぁ……」
「直樹くんのお知り合いだったの?」
「違う……」
「転校初日に食パンを咥えた立花と曲がり角でぶつかったのか? 縞パンだったのか? も、もしかして――水色と白だったのか!」
「知らないってば!」
「そんなわけないじゃなーい、どっかで会ったのを忘れてるんじゃないのぉ?」
(そんなわけあるよ、僕は彼女を知らないし、ぶつかってもいなければ縞パンも見ていない。)
「もう……放っといてくれ……」
進行を務めていた相澤さんが責任を感じたのか、幼馴染に責められている僕に助け舟を出した。
「明日、彼女に訳を聞いてみましょう?」
寝る前に記憶の隅々まで徹底して探してみたが、僕にはどうしても立花優歌という人間を見つけることは出来なかった。もちろん美化委員に指名される理由も全く思い当たらない。一体彼女は何を考えて僕の名前を書き込んだのだろうか……。
*
それから数日、初日の事件以来、取り立てて大きな問題は起こらなかった。結局三人の質問にも「別に」やら「なんとなく」といった返答しか得られず、その度に僕が責められる羽目になった。三人の気が済んだのか、ようやくあの事件は単なる彼女の気まぐれということで落ち着いたが、指名された張本人である僕はそう簡単に納得できなかった。
それに、三人のように納得してくれる人間よりも、そうでない人間の方が圧倒的に多く、僕と立花さんの噂がどんどん尾ひれを付けて拡散していった。
今日哲平が教えてくれた話によると、どうやら僕は国家秘密組織の偉い人の息子のようで、立花さんはその組織で僕の父親によって作られたクローン人間であり、作ってくれた父親とダブらせて僕のことを好きになるよう仕組まれているのだとか……。残念なことに、どうやらバカは哲平だけでは無いらしい。
今日は初の美化委員会が放課後に行われる。彼女から理由を聞き出す絶好の機会。……のはずだった。
あろう事か、僕らは一言も声を交わすことなく、あっという間に委員会は終了してしまった。
委員会の開かれる教室に入ると、既に立花さんは着席して配られた資料に目を通していた。隣に座った僕は、委員会が始まる前に何度か声を掛けようと試みたものの、なんというか、話しかけるなオーラが全開に展開されていて、とてもじゃないけど指名理由を聞き出すどころか挨拶すら出来なかったのだ。我ながら本当に情けないと思う。
いつも通り、終わりの挨拶が済んだところで立花さんはさっさと帰ってしまった。
待っていてくれた哲平と校門を出ようとすると、役目を終えた新入生のためのアーチを数人の生徒が片付けていた。その中に相澤さんの姿を見つけ、僕らは簡単な挨拶をした。
「じゃあなー、相澤ー、頑張れよー」
哲平の声に続いて僕もなるべく普通に「じゃあね」とだけ言った。
「――あっ、直樹くーん」
校門を出たところで相澤さんに名指しで呼び止められ、胸が急に高鳴った。
小走りで駆け寄ってくる相澤さんは、アーチから外れてしまったピンク色の造花を両手で持っていた。安っぽい造花も相澤さんが持つと、なんだか清楚な物に見えてくる。その姿はまるでロマンス映画のワンシーンのようで、哲平に背中を小突かれるまでその姿に思わず見惚れてしまっていた。
「美化委員会、どうだった?」
ウェーブのかかったやわらかそうな髪から、女の子の良い匂いがふわりと遅れてやってくる。
それを嗅いでしまった僕は軽くパニックになってしまった。
「あー、うん……えーと。あ、なんだか校内清掃とか部室とか、えと、なんか、色々やることになっちゃった」
喋りながら既に後悔を感じていた……。
相澤さんは口元を隠して小さく肩を震わせている。
ボッと顔に火が点くのが分かった。恥ずかしいのもそうだけど、彼女の笑顔が可愛い過ぎるせいだ。
「そっかぁ、ふふっ、大変でしょうけど頑張ってね」
「うん……」
最後にもう一度別れの挨拶をすると、彼女はアーチの解体作業に戻っていった。
帰りの途中、僕達はコンビニで飲み物を買ってから、すぐ隣にある小さな公園のベンチに腰掛け、何をするでもなく、ただ時間を潰していた。
もう一度さっきの会話を思い返してみる。相澤さんはきっと僕のことではなく、立花さんとどうだったかを聞きたかったに違いない。けれど彼女は問い直すことなどしなかった。そんな些細なやさしさが、僕にとってはマリア様の慈愛のように感じられ、彼女に対する思いを、より一層強いものへと変えてゆくのだった。
あるいは本当に僕のことを気にかけてくれたのかもしれない。そんな期待を膨らませながら、バナナオレに刺さったストローを歯で弄んでいると、哲平の呆れた声が邪魔をした。
「お前さぁ、小学生じゃねぇんだからよぉ……」
ペットボトルのお茶をひとくち飲んでから哲平は続けた。
「いつになったら告んのよ?」
思わずバナナオレが器官に入り、僕はしばらく大袈裟に咳き込んでしまう。
「乙女だねぇ~」
尚もバカにする哲平にいい加減腹が立った。
「バカには分からないよ、デリケートなの、僕は」
「意気地なし、と呼ぶ方が一般的じゃねぇか?」
「……そうかもね」
デリケート、と弁解したものの哲平の言う通り、それには無理があった。僕は自分で言うのもなんだけど、男らしさとは遠く離れた体格と性格を持って育ってしまった。今でこそ無くなったが、小さい頃は女みたいだと、よくいじめられる程だった。
なよなよしているからという理由で『なよ助』とネーミングされ、何かとつけてネタにされていた。ときには誰かの悪戯で、上履きやランドセルなどの私物が勝手に可愛くデコレーションされたりもした。情けないことに、それを庇ってくれたのも女子だった。愛なんていじめっ子のリーダーに平手打ちをお見舞いして、逆に泣かせてしまうこともあった。
そんな僕が女の子と付き合ったことなどあるはずも無く、むしろ異性に興味が沸いたのだって中学も後半に差し掛かってからだった。誤解しないで欲しいのだが、同性に興味があったわけでは決して無い。
それまでは、どちらも嫌い、という感情が強かったからだと思う。いじめられて以来の僕は、低脳な男子も、僕にやさしくする女子も、両方嫌いだったのだ。
そんな経緯もあって、僕は恋愛に関しては低学年なのだ。好きな異性に告白するどころか、どう接していいのかすら分からない。何人も女の子と付き合ったことがある哲平がバカにするのも無理はない。
「ま、折角同じクラスになれたんだ。チャンスはいくらでもあるさ」
「うん……」
そう弱々しく答えると、僕は、ピンク色の造花を大事そうに抱える彼女を、もう一度思い浮かべてみた。
日の落ちかけた公園に吹く風は春でも少し肌寒く、遠くに聞こえるカラスの鳴き声と一緒に、僕の切なさをじわじわと煽っていた。
家に着くと、郵便受けから封筒を取り出し、手を洗い、うがいをし、帰りに買った食材を冷蔵庫に入れ、部屋に戻って私服に着替える。それからベッドに横になり、オーディオの電源を入れ、綺麗なピアノのメロディを聴きながら読みかけの恋愛小説を開いた。朝と同じく、これも毎日欠かさず行う一連の行動だ。
今読んでいる小説は、主人公の男の子がいとこの女の子の家にお世話になるところから始まり、久しぶりに目にした年上のいとこが物凄い美人に変貌を遂げていて、更には自分の通う高校の先生になっているという、あり得ない設定だった。当然二人は恋に落ちていき、一年後には付き合うことになる。そこから様々な障害や、浮気心と戦っていくストーリーだった。
僕が恋愛小説から学びたいのは付き合うきっかけだ。特に、何とも思われていない女の子と付き合う方法が知りたかった。けれど、どんなに本を読んでもそんな話は見つからなかった。どれも告白する頃にはお互いを好き合っていて、必然的に付き合うのだ。確率で言うと100パーセント。
今の僕が相澤さんに告白すると、成功率は一体何パーセントなのだろうか。そんな事を考えていたら、口から大きな溜め息が勝手に漏れていた。
しばらく本に集中していると、オーディオから流れるメロディの間を縫って「ピンポーン」とチャイムの音が聞こえた。
玄関を開けると、作業服を着た運送屋の男性が、小さなダンボールを抱えて立っていた。サインをして受け取ると、その箱は空のように軽く、振っても音がしなかった。
上部に貼られた紙を見ると、差出人にどこかの会社らしき名前と、宛先に僕の名前。それから品名に精密機械とだけ書かれていた。思い当たる節も無いので、振って大丈夫だったかと心配しながら、とりあえず箱を開けてみる。
するとそこには、ぎゅうぎゅうに詰められたエアーキャップと一枚の封筒が入っていた。僕は先にエアーキャップを引っ張り出し、丁寧にテープを剥がして中身を取り出した。
これはなんだろう。最新式の携帯電話かと思ったが、スイッチらしきものが見当たらない。表には(表と呼べるのか分からないが)液晶画面ではなく、変わったデザインの絵が描かれていた。
地球らしき球体に土星みたいな帯が付いていて、四隅には天使、鷲、雄牛、獅子がそれぞれ可愛らしく描かれていた。なんとも形容し難い不思議な感じの絵だったが、少なくとも悪い感じはしなかった。
それにしても精密機械にしては軽いと思ったので、他に何か入っていないかもう一度エアーキャップとダンボールを確認してみるが、何度見ても結果は同じだった。
そこでようやく封筒を開けて、中から二枚の紙を取り出した。
一枚目の見出しに、『リセットのテスター様へ』と飾り気の無い文字で書かれていた。(リセット? テスター?)と思いながら続きを読むと、どうやらこの軽くて四角い物体がリセットと呼ばれる物であることと、それをテスターとして使用し、感想を送って欲しいとのことが分かった。その下には送り先と連絡先しか書いておらず、肝心の『リセット』についての説明が無かった。
僕は二枚目の紙に目を通すと、肩の力が一気に抜けた。
そこには確かにこう書かれていた――
『リセットを使用すると、あなたが後悔を抱いている時間から人生をやり直すことができます』
『使用方法はとても簡単。リセットを手に持ち、やり直したいと願うだけ』
その下にも色々書かれていたが、そこまで読むと馬鹿らしくなり、僕はその紙を無造作に封筒へ戻した。もう一度機械を手にとって眺めてみると地球に巻かれている帯は、小さなハートが重なって出来ていることに気付いた。
すぐに捨ててもよかったのだが、もしかしたら請求とか来るかもと思い、とりあえず箱に戻して玄関の脇に置いておくことにした。
ふと時計を見ると既に七時を過ぎていて、同時にお腹が空いていることに気が付いた。
僕はいそいそと夕食の支度をして、テレビを見ながらそれを食べ始めると、さっきの悪戯のことなどすっかり忘れてしまった。
僕は今、半強制的に一人で暮らしている。
家族構成は母と僕の二人だけ。その母は長年務めていた大学の講師を辞め、二年前に友人と貿易関係の会社を立ち上げた。それからは日本と海外を行ったり来たりしている。そのサイクルは様々で、短ければ一週間、長ければ三ヵ月も帰ってこない。
春休みの間に「今度のは今までよりも長くなりそうなの」と言って出掛けて行ったので、次に帰ってくるのはきっと夏を過ぎてからだろう。
半強制的というのは、出掛ける数日前に「渡瀬さんのご両親にお願いしてあるから、しばらくお世話になりなさい」と勝手に決められていたのを、それだけは絶対に嫌だと抵抗し続けた結果、前日になってなんとか認めてもらえたからだ。要するに半分は母親の都合による強制、もう半分は自分の意思、というわけだ。
一人で暮らす間は身のまわりのことを全てやる代わりに、銀行のお金を好きに使って良いことになっている。
夕食を作るのは確かに面倒ではあるが、毎日愛と顔を合わせて食事をするよりは遥かにマシだ。
ちなみにこのことは僕と愛だけしか知らない。口外しないと約束まで取り付けた。何故口外してはいけないのかと言うと、哲平の耳に届くようなことは絶対にあってはならないからだ。もし彼がこのことを知ってしまうと、ほぼ確実に毎日泊まりに来るだろう。
それは、水槽で優雅に暮らしている熱帯魚を、回っている洗濯機に放り込むのと同じくらいに酷いことだ。愛もその辺は理解してくれているらしく、今のところは誰かに言った様子は無かった。
*
翌日、これといって何か起きるでもなく一日が終わった。愛は朝と放課後に部活のバスケ。相澤さんは生徒会の仕事。哲平はラーメン屋のバイト。皆それぞれ忙しく毎日を動いている。僕はというと勉強の他には家事くらいしかやることが無いのだった。
けれど、これでいい。少し寂しい気もするけど、今までだってずっとこうして生きてきた。これが僕なんだ。悪くない。
何事も無く一日が過ぎてゆく。
きっと楽しい毎日を送る生活なんて、どこにもありはしないのだから。あるとすれば、そう、ずっと先の話。今はただ、大人になるまで我慢していればいいだけ。何も無かった一日が終わるとき、決まって僕はそう自分に言い聞かせていた。
毎晩のように恋愛小説を読んでいたせいもあるかもしれない。これらは大抵三十ページ毎に物語が隆起する。僕とは正反対の物語。小説なんて娯楽のための単なる作り話でしかない。それは分かっている。けれど、どうしても寝る前に自分と比較してしまい、悲しい気分に浸りながら目を閉じるのだ。
朝になると、よせばいいのに、今日こそは自分を変える何かが降ってくることを、願ってしまうのだった。
そうしてまた、何事も無く一日が過ぎてゆく……。
「自分を変えるにはどうしたら良い?」
そう哲平に相談したのは四月も残り僅かになってからだった。
「そんなの、動けばいいんじゃね? 動けば周りも動く、そのうち自分が変わって、最後は全てが変わるんじゃねぇの」
哲平はそう言うと残りの肉まんを口の中に放り込んだ。もごもごと口を動かしながら「よくわかんねぇけど――」と続けた。
「少なくとも、お前がそう思ってるってことは、動いてないからなんじゃねぇの」
驚いた。いつものように茶化すかと思っていたのに、まさかあの哲平の口からもっともらしい答えが返ってくるなんて。それほど今の僕は弱っているように見えるのだろうか。いつものバナナオレをひとくち飲むと、その心地良い甘さに溜め息が漏れた。
「相澤のことだろ?」
それを聞いて僕は返事を出来ずにいた。哲平の言う通り、相澤さんのことが一番大きい。けど、それだけじゃない……。
僕は今まで何もしてこなかった。哲平の言葉を借りて言うならば、何一つとして自分から動いていない。周りが動くのを、ただひたすら受け入れてきただけだ。愛に話しかけられて、相澤さんと話せるようになって、哲平に話しかけられて、一人で下校することが無くなった。
居心地は悪くないけど、なんか、進んでいる気がしない。
「よしっ! じゃあ明日告っちまおうぜ」
「ばっ! ばかじゃないの! そんなこと、出来ないよ……いっ!」
肩を思い切り叩かれたので、抗議しようと哲平を睨みつけた。案の定、彼は面白そうに顔を歪ませて笑っていた。
「もういいよ、そうやって一生ふざけてろ」
僕が怒りを口にした後も、彼はしばらく笑い続け、『ふぅ』とひと息ついてから再び口を開いた。
「ふざけたわけじゃない。変わりたいなら、そうするしか無ぇんだよ」
「だからって、明日は無理だよっ」
「そうか? 明日も明後日も、来月でも再来月でも、どっちだって一緒だと思うぜー、俺は」
そこまで言うと、哲平はペットボトルの蓋を開け、中身のお茶をぐびぐび飲み始めた。
半分は残っていたであろうお茶が、みるみるうちに哲平の中へ消えていく。なんとなく気持ちの良い光景だ。
全部飲み干すと、まるで仕事の後の一杯を飲んだ大人の様に、大袈裟な息を漏らしてから再び僕を見る。
「だったら、残り時間が多い方がいいだろ」
「そんな簡単なことじゃないよ……」
哲平はスッと立ち上がったかと思うと、五メートル先の鉄でできたゴミ箱に向かって空になったペットボトルを投げつけた。
宙を舞う半透明の緑色が、回転しながら弧を描く。
派手な音を立てて見事にゴミ箱へ収まると、彼は自信に満ちた表情を僕に向けた。
「まっ、お前が決めることだしな。……でもさぁ、お前が考えているよりもずうっと簡単だと思うんだよなぁ、俺」
自ら動いた者は、皆哲平みたいになるのだろうか、だとすればきっと彼は正しい。けど、やっぱり少し哲平の場合は極端すぎる気がしてならない。相澤さんや愛はどうなのだろうか。僕は彼女達の行動をひとつひとつ思い返そうとして、すぐにそれを止めた。
いつの間にか視線が下に落ちていて、両手で抱えたパックを見つめていた。
ちびちび飲んでいたせいで、僕のバナナオレはまだ半分以上も残っている。
――よし、僕だって。
パックからストローを引き抜いて、上部の三角に折り畳まれた口を開ける。
哲平の不思議そうな顔に一瞥をくれてから、勢いをつけて胃の中にバナナオレを流し込む。
甘いバナナが喉を駆け抜けて、ごくごくと勇ましい音を鳴らした……のもつかの間。すぐに苦しくなって減速してしまう。
……あ、駄目、これキツイ。
パックから口を離すと、勝手に『ぷぁー』と息が漏れる。
かなり減らしたつもりなのに、中身はまだ三分の一も残っていた。
やっぱり、簡単にはいかないな。
少し上がってしまった息を、充分に落ち着かせてから哲平を見上げる。
「僕なりに決めてみるよ」
そうしてまた二人で気持ちの悪い笑みを交わした。
きっと、これから僕は変わっていける。
四月最後の日、新緑に色づいた大きなケヤキが微かに揺れる校舎裏で、相澤さんと向かい合うことができたのは、間違いなく僕が動いた結果なのだから。
そうして相澤さんが変わり、僕が変わってゆく。それまでの僅かな時間は、潰れそうな喉の痛みと、酷く騒がしい心臓の音。それだけが僕だった。
今までどれくらい彼女を想ってきただろうか。登校、午前の授業、昼休み、午後の授業、下校、夕食、部屋、そして登校。多くの時間相澤さんのことを想ってきたはずなのだけど、その僅かな時間以上に苦しいことは無かった。それは、僕が動かなければ知ることの無かった感情だ。僕は変わり始めたんだ。
だから相澤さんに『ごめんなさい』と言われたときも、僕は決して後悔などしなかった。いや、本当は必死でそう思い込んでいただけなのかもしれない。
噂は一日を待たずに校内に広まっていた。
僕が動いた結果、確かに変化が訪れ、それは悪い方向へ進んでいった。相澤さんとは話すことが無くなり、間に立たされている愛までもが元気を無くしていった。哲平は相変わらずの調子だったけど、僕の方からしばらく放っておいてくれと頼んでしまった。
自ら招いた数年ぶりの孤独。皆とまともに会話をしないまま、無情にも五月の大型連休に入ってしまった。
僕はその連休を、買い置きしておいたインスタント食品を食べ、何度も読んだ漫画を読み、見たくもないテレビを見つめて過ごしていた。
三日目の夕方。何度もチャイムが鳴るので仕方なくドアを開けると、そこには大きく膨らんだビニール袋を持った愛の姿があった。久しぶりに見る愛の私服はどことなく新鮮で、そのなんでもないプリントシャツも、膝まであるデニムのスカートも、彼女の可愛さを充分に引き立てていた。
「遅い! 重たいんだから早く開けてよねー」
それだけ言うと僕をすり抜けて勝手に家に入っていった。彼女が起した風からふんわりと柑橘系の良い香りがして、僕は少しだけうろたえた。
「ちょっ、なに?」
愛を追いかけてキッチンに入ると、丁度テーブルに袋を置いたところだった。
「ごはん、作りに来たよ」
「い、いいよそんなの、いつも自分でやってるの知ってるだろ」
「これが?」
片付けるのを忘れていた即席ラーメンの袋を、指でつまんでひらひらさせていた。
「こんなの食べてるなんて知ったら、私が叔母様に怒られちゃうじゃない。いいから直樹は座ってて」
そう言って彼女はトレードカラーの黄色いエプロンに首を通した。諦めた僕はダイニングチェアに座り、黙って愛を観察した。エプロンの紐を結び終えた彼女は、次にポケットからヘアゴムを取り出して口に咥え、両手で髪の毛を後ろに集め、それをゴムで一本に纏めた。本人は知らないだろうが、こうするときの愛が一番可愛い。
小さい頃から見てきた仕草。愛は結び終わった後に、首を左右に振る癖がある。そうすると、文字通り馬の尻尾のように髪が揺れて、それは可愛くて元気な愛の象徴だった。自然に目を細めて見つめてしまう。
「なによぉ」
「べつに」
愛が手を洗い始めたところで、僕は袋に目をやった。ごつごつしたいくつかの野菜と調味料が入った袋、そしてパックにきれいに並べられた車えび。(車えび?)
「あ、あの、愛?」
「んー?」
「何を……お作りになられるのでしょうか?」
「えびぐらたん」
「へ、へぇ~」
「……」
「……」
「作ったこと……あるの?」
「ないよ?」
「ですよね~……」
愛の手料理を食べる機会は、およそ一年に三回程度訪れる。僕の誕生日や、風邪で休んだ日なんかがそうだ。そしてそのほとんどが悲惨な思い出となっている。
彼女は料理に対して歪んだこだわりを持っている。それは『一度挑戦した料理は二度と作らない』というものだった。曰く、家で作らせてもらえない分、料理を作る数少ない機会を、同じものを作って無駄にしたくないから、だそうだ。
愛にとっての料理とは、レパートリーが全てであり、質より量なのだ。更に付け加えると、いつもやたらと難しい料理に挑戦する。そんな彼女の料理が美味しいわけがなく、数時間後の僕は新鮮な車えびと共に悲しい運命を辿ることだろう。
(なんとかしないと……)
僕は丹田呼吸法を数回繰り返し、覚悟を決め、とびきりの笑顔を作り上げた。
「愛、ありがとう。僕のために料理を作ってくれるなんて、とっても嬉しいよ。よかったら僕も一緒に……」
「やーだ。邪魔だからあっち行ってて」
(終わった……さようなら、車えび……)
僕はよろよろと居間にたどり着くと、ちから無くソファに倒れこんだ。
およそ二時間後。いつの間にか眠ってしまっていた僕は、愛に揺さぶられて目が覚めた。
――またあの夢を見てしまったせいで、体中に嫌な汗を掻いていた。僕の顔を心配そうに覗き込んでいる愛に気付いて、僕はわざと明るく振舞った。
「やっと出来たの? もうお腹減って死にそうだよ」
「う、うん。でも直樹、平気なの?」
「なにが? あ、ごめん、ちょっと着替えてくるね」
そう言い残して僕は二階の部屋へ急いで戻った。
(最悪だ、こんなときにあの夢を見るなんて、本当に最悪だ……)
驚く程の速さで弾む鼓動を無理やり抑えながら、新しいシャツに着替え、鏡の中の僕と対峙した。
酷い顔だった。元々白かった顔は、更に青みが増し、まるで死人のように映っている。こんな顔で戻ったら愛を余計に心配させてしまう。どうして良いか分からなくなった僕は、ひとまずベッドに腰掛けた。
「直樹のせいじゃないよ」
驚いて顔を上げると、ドアの前に愛が立っていた。
「絶対、直樹のせいなんかじゃない」
愛はやさしく呟くと、僕の隣に座った。
「直樹は頑張ったよ、だから、堂々としてていいんだよ」
愛の切ない声で、僕の心に絡み付いていた何かが砕けてしまう。同時に今まで塞き止めていたものが、濁流となって体中を駆け巡った。
気が付くと、僕は愛をきつく抱きしめていた。次々と溢れてくる涙を見せないように、これ以上格好悪いところを見られないように。
驚いた彼女は一瞬身悶えたが、すぐに諦めたように動かなくなり、それからやさしく頭を撫でてくれた。愛が僕の頭を撫でる間隔は昔と全く同じだった。それはとても心地よくて、辛いことや悲しいことが少しずつ拭われていく感じがした。
けれど昔とは明らかに違う部分がひとつだけあった。僕らはもう子供ではない、男と女だ。それに今の僕は前と違い、自分で決めて動くことができる。
――腕を解いた僕は、欠けてしまった心を埋めるように、愛を見つめ、震える唇に向かってゆっくりと顔を近付けた。
愛はすぐに体を離し、驚きと哀れみが混ざったような複雑な表情で僕を睨みつけた。
その目はうっすらと潤んでいて、いつもの元気な丸い目ではなくなっていた。何故だか分からないが、それは数日前に相澤さんに与えられた苦しい感情を僕に思い出させた。
「どうして……」
愛は蚊の鳴くような声でそう言うと、僕が口を開くのを待たずに家を飛び出していった。
その後の僕は自身の重い体に耐えられず、座ってさえいられなかった。体を横にしても尚、自責の念に押し潰されそうになり、泣き声なのか呻き声なのかよく分からない音が口から漏れ出してくる。その音が誰にも聞こえないように、布団に顔を押し付け、ただ収まるのを待ち続けるしかなかった。
――また失敗してしまった。
そう思った瞬間、苦痛に歪んだ父さんの顔が脳裏を過ぎる。さっき見た夢と同じ顔だ。途端に激しい痛みが頭を襲った。
(もう、嫌だ……)
ふらふらになりながら一階へ降りると、いつもの薬を取り出し、キッチンで水を汲んで、それを飲んだ。振り返るとテーブルの上には冷めきったグラタンが二つ置かれていた。
『どうして』と愛は言った。もう一度考えてみるが、僕にはその答えが思い浮かばなかった。
(どうしてあんなこと……)
この間まであんなに相澤さんを好きだったのに、慰めに来てくれた愛に、僕はなんてことを……。
(最低だ)
寂しそうに並ぶ二つのグラタンを見つめていると、再び涙が溢れ、頬を伝い、床に落ちた。
そこで僕は思い出してしまう。
――『リセットを使用すると、あなたが後悔を抱いている時間から人生をやり直すことができます』
僕は無心で玄関に行き、隅に置いてあるダンボールからリセットを取り出した。
――『使用方法はとても簡単。リセットを手に持ち、やり直したいと願うだけ』
もう一度リセットに描かれた不思議な地球の絵を見て、そして願った。
(やり直したい……)
次の瞬間、リセットが光りだしたかと思うのと同時に、家の中がが真っ白になり、体が硬直した。何が起きたのか分からずにいると、やがて白い世界がゆっくりと暗闇に変わってゆく。
*
気が動転した。
ここは、ここは家の中じゃない。どこか別の場所。
慌てて辺りを見回すと、かなり広い空間に手すりの付いた椅子が規則的に並んでいて、その先にはえんじ色の幕が降ろされた舞台らしきものがあった。
(どこかの、劇場……?)
もう一度全体を見渡し、誰もいないことを確認すると、僕は舞台に向かって緩やかな階段を下り始めた。
最前列までたどり着くと、今度は出口を探した。すると視界の端で何かが動いたのが見え、再び体が硬直する。恐る恐るその方向に目を向けると、そこには銀色の綺麗な髪を背中まで伸ばした僕と同じ年頃か、いくつか年下と思われる女の子が立っていた。
彼女はこの劇場の客なのだろうか、黒いシックなワンピースドレスに身を包み、腰には白いリボンを合わせ、肘まであるロンググローブまで付けていた。慌てて自分の服装に視線を向けると、相変わらず僕はダサい部屋着のままだった。当然彼女も僕の存在に気付いており、目が合うと、落ち着いた足取りでゆっくりと僕に向かって歩き始めた。
(うわっ! ど、どうしよう!)
彼女は微かに銀色の長い髪を揺らしながら、緩やかな歩調を狂わすことなく近付いてきている。僕はどうしていいか分からず、慌てふためきながら彼女を待つことしか出来なかった。
目の前まで来ると、僕の顔を見て微笑んだ気がした。その瞳は吸い込まれそうな深い青色をしていて、ずっと見ていると自分が汚い存在に思えて逃げ出したくなってしまう。
沈黙と恐怖に耐えかねて、思わず情けない声が口をついて出ていた。
「あ、あの、ここは」
言葉が通じていないのか、彼女はやさしい表情のまま、僅かに顔だけを傾けた。
「僕は、その……死んだ……の?」
すると今度は軽く握った手を口元に当てて、楽しそうにクスクスと笑い始めた。
(外国人なのかな……)
笑い終えると再び僕を見つめ、そして、両手を広げて丁寧なお辞儀をした。
「ようこそ、リセットの世界へ」
人形のような外見とは裏腹に、とても瑞々しい透き通った声で、はっきりと、確かにそう言った。
「さぁ、あなたのやり直したいと願う場所へ、お連れ致しましょう」
そう言うと彼女はゆっくりと小さな手を差し出した。
「ちょ、ちょっと待って。いったい君は……、それに僕は」
「難しく考えることではありませんわ。あなたが考えるよりも、ずっと簡単なことなのです」
(難しくない?)
「さぁ、お手を」
(簡単?)
考えても考えても答えが出ないことばかりだ。どれが正解でどれが間違いかなんて、どうせ今の僕にはどんなに時間があっても分からないんだ。そして何よりこの女の子はきっとその答えを持っている。
(それなら……)
僕は考えるのを諦め、差し伸べられた手に答えを求めた。
(え?)
彼女の手はグローブ越しにも分かるほどヒンヤリと冷えていて、それはひとつの恐ろしい考えを僕の頭にもたらした。彼女は怖がっている僕を諭すように、にっこりと無邪気な笑みを浮かべていたが、急に魂の抜けたような表情に変わってしまった。
その刹那、世界が一瞬震えたかと思うと、足元の床から光の輪が現れ、僕を筒状に包みながら浮き上がってきた。そしてその光が通過するのと同時に僕の足が消えていった。気が動転し、腕を引いて彼女の手から離れようとすると、僕の手を握る力が急に強くなった。
「怖がらないで」
「で、でもっ! これ!」
既に光は腹部まで到達しており、気のせいか、ぬるま湯に浸かっているかのような、徐々に体温が奪われていく感覚がしていた。
(あっ……)
光が胸を飲み込んだとき、頬に冷たい物を感じて顔をあげると、彼女がもう片方の手で僕の頬をやさしく撫でていた。
その手のひらは確かに冷たく、相変わらず人間のように思えなかったが、不思議と彼女の温もりを感じた気がして、とても安らいだ気持ちになった。
(もう、なんかどうでもいいや)
光の輪が顔を飲み込む前に、自ら目を閉じて、何もかもを受け入れるつもりで全身の力を抜いた。
「戻りたい時間を思い浮かべください」
その声を聞いて目を開けると、そこは光の無い世界で、身体の感覚は有れど目で捉えることは出来なかった。本当に目を開いているのかすら怪しく感じる程に、全てが闇そのものだった。
戻りたい時間。そう思った瞬間、目の前にぽうっと丸い窓が現れた。縁がぼんやりと曖昧なその窓の先には、部屋で愛が僕に哀れむような目を向けている光景が映っていた。
(違う、もっと前だ)
そう願うと、映像は巻き戻り、部屋でのことを飛び越えて、愛が料理を作っている場面で停止した。
(もっと……)
再び映像が動き出すと、今度は物凄い速さで巻き戻る。
(あの日の最初に……)
映像は音も無くピタリと止まり、登校している僕を映し出した。
「この時間でよろしいのですか?」
「……はい」
相澤さんへの告白。あれさえ無ければまたいつもの平凡な日常に戻ることが出来る。それが僕の願いだった。
「それでは次に、残したい記憶を三つ、お選びください」
「残したい、記憶、ですか?」
「はい、残さない記憶は全て消去されます」
「そう……」
しばらく考えてから、彼女が居るであろう方向に言った。
「残さなくていいです」
「……」
「むしろ、消してもらった方が……と言うか……その」
「よろしいのですね」
「は、はい」
「それではお連れ致します」
彼女がそう言い終わると、『ブゥン』と機械の唸るような音が耳元で聞こえ、さっきも感じた、ぬるま湯に浸かるような感覚を足先に感じた。
両脚、お腹、胸と、徐々に這い上がってくる感覚に少しだけ恐怖を感じていると、再び彼女の声が聞こえた。
「また、お会いしましょう」
「え?」
「……頑張ってね」
そこまで聞こえると、ぬるま湯は頭まで完全に包み込んでしまい、最後に聞こえた彼女の不可解な応援だけを残して、僕は考える力を失った。