序章 【いざない】
MARIGOLD -マリーゴールド-
人間が自己の未来について熟知してしまったら、その人の一生は、つねに限りない喜びと恐怖がまざりあって、一瞬といえども平和な時がなくなろう。
――ホーソン「ディヴィッド・スワン」
序章 【いざない】
全く同じ現象を体験したとしても、感じ方は人それぞれだと思う。
夢、現実、幻想、怪奇、色々な答えがある。少数派だろうと、多数派だろうと、とにかく、今、自分の身に訪れた現象は《死》なのだと思っていた。
だって、それも悪くないから。それに、とても適切だ。
けれどひとつだけ……、その死は、自らの手によって引き起こされた、いわゆる自業自得というものなのか、それとも不運にも偶然の渦に巻き込まれてしまったのか、それだけが気がかりだった。
恐らくは一瞬の出来事。
最初は眩い閃光を受け、視界が真っ白になる。
次の変化は音だった。
全て音にフィルターが被さり、曇っていく。元は声だったのか、物音だったのか、それすらも曖昧になってゆき、やがて消えてしまった。
きっとそれはどうでもいいこと。
たぶん、あまり意味の無いことだから。
音が完全に消えてしまうのと同時に、真っ白だった世界は、ゆっくりと、おぼろげな風景に変わりつつあった。
目が慣れるまでの間は何も動かせない。動かせないと言うよりも、動かしたくないと言った方が近いかもしれない。
ここは違う場所。どこをどう通ってここへ来たのか、それは分からない。分かるのはさっきまでいた空間から、何らかの力で身体を引き剥がされ、違う空間に貼られたという感覚だけ。そんな直後に身体を動かしたくなるわけが無い。
どれくらいの時間が経ったのか、自信など無いに等しいけれど、恐らく二十秒前後だったと思う。ようやく目が慣れてくると、そこは不自然なほどに鮮やかな――青と緑だけの世界だった。
驚いて辺りを見回すと、右も、左も、後ろでさえも、全てがあても無く、ただ、平原と空。
なんとなく両手を広げて見ると、そこには確かに両手があった。
少しだけホッとする。
きちんと両手があったからではない。その下に鮮やかな花が咲いていたからだ。
どうして花を見ただけでホッとしたのか。それは多分、ここは《意味のある場所》だと感じたからだと思う。わざわざあつらえたかのように自分を囲んでその花は咲いていた。何度か目にしたことのある鮮やかな黄色い花。小さい頃に育てた記憶がある。
三六〇度に延々と広がる緑の中に、ぽつんと存在した円状の花畑。
だから多分、ここは意味のある場所。そう思った。
ここが死の世界だろうと、別のどこかだろうと、全てが平原だけであったなら、今頃、心は恐怖に支配されていたことだろう。
「ようこそ……」
なんの前触れもなく背後から女性の声がして、驚く間もなく後ろを振り向いた。
そこには間違いなく、さっきまで存在していなかったはずの女の子が立っていた。
シンプルな白いワンピース。羽も輪っかも着けていない。銀色に輝く長い髪をもった、《恐らく》人間の女の子。
両手を下腹部の前で組み、かしこまった体勢で彼女はもう一度言った。
「ようこそ、リセットの世界へ」
その美しく透き通った声で発せられた言葉の意味を、理解することは出来なかった。
ただ理解できたのは、彼女が、大人びた声に不釣合いな小さな身体であることと、瞳の色が、頭上に広がる空と同じ、綺麗な青色だということだけだった。
頭の中で復唱する。
――リセットノ、セカイ?
「不思議そうな顔をするのね。でも、ここはあなたが望んで、自ら訪れたのよ」
自ら訪れた? 未だに頭がはっきりしないせいでよく分からない。
それでも、彼女が言うのだから、きっとそうなのだろう。
要するに、自ら望んで『リセットノセカイ』とやらへ訪れたのだ。
死後の世界ではないことに、少しだけ安堵している自分に気付く。
「あなたが望むなら、ここから連れて行ってあげるわ。あなたがやり直したいと願う場所まで」
彼女は一ミリも体制を崩すことなく言葉を繋いだ。銀色の髪だけが流れるように動いていて、この空間に風が吹いていることを知った。
やり直したいと願う場所。
後悔が生まれた場所。
悲しくて……、辛い。
それ以上深くは考えず、その言葉のまま、ゆっくりと頷いた。
「そう……、分かったわ」
彼女はそう言うと、身を反転させ、黄色い花の外側に向かって静かに歩き出した。
花畑から出ると、「その代わり――」と言いながらこちらを向き直す。
「ひとつだけ、私の願いを聞いて……」
両手を胸に当てている彼女の顔は、どこか悲しげに見えた。それは青い瞳のせいか、それとも本当に悲しいことがあったのか……。
とにかく、内容を聞く前から彼女の願いを叶えてあげたいと、そう思わずにはいられなかった。
「あなたの世界から、ここに咲いているものと同じ、黄色い花」
――マリーゴールドを摘んできて欲しいの……。