青だけが咲く場所
「なんだ? このハガキ」
十八年間住んだ町を離れ、大阪の大学へ進学する準備に追われていた。
部屋の隅には段ボールが積み上がり、制服や教科書はまとめて紐で縛ってある。
そんな中で、一枚のハガキが届いた。
差出人の欄は空白。
印刷ではなく、ボールペンの字だった。
元気か。
もう成人したんだな。
お前に渡したいものがある。
待っている。
心当たりはない。
裏返しても、名前はなかった。
台所で夕飯の支度をしていた母に見せる。
「これ、誰からだと思う?」
母は一度だけハガキを受け取り、表と裏を続けて見た。
ほんの一瞬、指の動きが止まる。
「……知らないわ。間違いじゃない?」
「でも、俺宛みたいだけど」
「気味悪い。放っときなさい」
それきりだった。
引っ越し準備に追われているうちに、ハガキのことは頭から抜けた。
明後日にはこの町を出る。
玄関で靴を履いていると、机の上のそれが目に入った。
「……どうするか」
捨てる気にはなれず、裏をもう一度見る。
そこに
住所があった。
覚えがない。
地図アプリに打ち込む。
「……トランクルーム?」
聞き慣れない単語に眉をひそめる。
検索してみると、月額で借りられる収納スペースらしい。
「そこが……住所?」
画面を拡大する。
家から歩いて十五分ほどの距離だった。
思ったより近い。
気にならないと言えば嘘になる。
春先の空気はまだ冷たいが、歩くにはちょうどいい。
住宅街を抜け、国道を横断し、滅多に行かない方向へ進む。
途中、歩道脇に青い花が咲いているのに気づいた。
小さな花弁。名前は分からない。
なぜか、昔の記憶が浮かんだ。
母は青い花が好きだった。
父がプロポーズのときに、青い花束を渡した。そんな話を、何度か聞いた気がする。
結婚記念日になると、必ずテーブルに花を飾っていた。
今はもう、そんなこともしていない。
離婚してから、ずいぶん経つ。
父の顔も、声も、ぼんやりとしか思い出せない。
歩いているうちに、フェンスに囲まれた更地が見えてきた。
その奥に、金属製の箱が整然と並んでいる。
仮設倉庫のような外観だ。
入口の看板には、
《レンタル収納スペース》
と書かれていた。
ここか。
敷地の奥。
一角だけ、目を引く場所がある。
周囲より草が濃く、
何種類もの青い花が、不自然なほど固まって咲いていた。
甘い匂いが、かすかに漂っている。
風とは関係なく。
さっき見た道端の花とは、明らかに密度が違った。
胸の奥が、わずかに冷える。
俺は、知らないうちに足を進めていた。
◇ ◇ ◇
周りのコンテナは水色で綺麗に塗り直されている。
でも青い花が囲っているものは、所々ペンキが剥がれ落ちていたり、錆が所々に滲んでいるように見える。
勝手に入ってしまったのに、止まれなかった。
俺は何を期待しているんだ。
そう考える余裕すらなく、足が前に出ていた。
扉を開けてほしい、と誰かに頼まれている気分だった。
なぜか懐かしく、指先が扉に伸びた。
「そこから離れてください!」
意識を引き戻される感覚。
息が少しとまった。
俺は何をしようとしていたんだ。
◇ ◇ ◇
「失礼しました。見学の方ですか」
作業着の男が、数歩離れた場所に立っていた。
「ここ……住所に書いてあって」
ハガキを見せる。
男は受け取らず、視線だけを走らせた。
「番号は」
「番号?」
見下ろすと、端に小さな数字が増えている。
「……これ」
男の口元が固まる。
「あなたが契約者ですか」
「違います」
男は無線に短く何かを告げ、軽バンへ戻った。
戻ってくるまでのあいだ、花の匂いが消えなかった。
「今日はお帰りください」
「開かないんですか」
一瞬、迷ってからうなずく。
「触らないほうがいい」
それだけだった。
足が、すぐには動かなかった。
「分かりました。すみません。勝手に入って。」
作業着の男は軽く会釈をし、俺は敷地内から出ようとした。
その時、足元の砂利が鳴った。
作業着の男がよろめき、コンテナの縁に手をついた。
「……すみません」
顔色が白い。
俺が声をかける前に、男は数歩下がった。
「今日は、もう本当に帰ってください」
さっきより強い口調だった。
最後にもう一度コンテナを見てみたくなった。
足元を見ると雑草の隙間に、青い花が咲いている。
よく見ると、形が全部違う。
丸い花弁のもの。
細い星形のもの。
紫に近い青。
なのに、まとまっている。
ここだけ。
意図的に植えたみたいに。
俺は、なぜかポケットの中のハガキを握りしめていた。
◇ ◇ ◇
帰ろう……
いつの間にか景色に色がなくなってきていた。
きた道を戻ろうと、トランクルームの区画から出ようとした瞬間
風はないのにむせかえるような強い匂いがした。
めまいがして一瞬、倒れそうになった。
「……なんだ!?」
振り返ると、開かないと言われていたコンテナの扉がわずかに空いていた。
匂いはなくなった。
なのに、頭の奥がぼんやりしている。
「これは……やばくないか……?」
地図アプリで調べた管理会社の番号に電話をかけた。
すぐ向かうから、絶対中に入らないようにと念を押された。
◇ ◇ ◇
十五分ほどして、先ほどの作業着の男と、スーツ姿の女、それに数名の作業員が現れた。
「君、体の具合は大丈夫か?」
「あ……はい。」
まさか自分の体を心配されるとは思わなかったので、拍子抜けした。
「本社判断で中を確認します」
「君には一度家に帰ってもらって、後ほど連絡を入れさせて欲しい」
「俺はいなくても大丈夫な感じですか?」
「進学前でしょう。今日はもう帰ったほうがいい。」
作業着の男の本当に心配している表情と声のトーン。
コンテナに向かっていく、職員たちの強張った表情。
「俺たち……大丈夫かな」
今から死地に赴くような、ビリッとした空気を感じた。
「分かりました。必ず連絡ください」
自分でも意外なほど、声は落ち着いていた。
「ありがとう」
作業着の男は安堵の表情をし、深くうなずいた。
帰り間際、トランクルームの方を少しだけ見た。
周囲の青い花が、異様なほど鮮やかだった。
俺じゃない、誰かを呼んでいる気がした。
俺はくしゃくしゃにしたハガキを見下ろす。
ここに来るつもりはなかった。
ただの散歩のはずだった。
なのに
金属製の少しだけ空いた扉。
他と変わらないはずなのに、あそこだけ空気が重い。
甘い匂いが、鼻の奥に残る。
帰り道、スマホが震えた。
母からだった。
《どこ?》
《そろそろ帰ってきなさい》
俺は振り返らずに歩いた。
◇ ◇ ◇
翌朝、母を見送った後に、もう一度その場所へ行った。
昨日と同じ空。
だが、敷地の空気は明らかに違っていた。
出入口にはパトカーが一台止まり、規制用のコーンが置かれている。
制服姿の警官と、昨日のスーツ姿の女がいた。
「あの……おはようございます」
作業着の男は難しい顔をしていたが、何かあったのだろうか。
「実はまだ中を確認できてなくてね」
「え?昨日少し開いてたから、もう中を見たと思って……」
俺に気づいた、スーツ姿の女と、警官がこちらにやってきた。
「確認しますが、こちらのトランクルームに心当たりは?」
「ありません」
正直に答える。
スーツ姿の女はうなずき、目線を少しずらす。
「……多分、契約者はお父さまかと思われます」
言われて、少し間が空いた。
「父……?」
響きだけが、浮いている。
実感がない。
「俺が小さい頃に親が離婚して。もう何年も会っていません」
「承知しています。先ほど、お母様にも確認を取らせていただきました。」
「……え?母さんにあったんですか?」
「先ほど、出勤前に。」
「いつ母さんに連絡してたんですか?」
「長期契約の期限が切れて三ヶ月あたりからでしょうか……時々確認のため、こちらから連絡をとらせていただいておりました」
「昨日のハガキ持ってきていますか?」
警官が口を挟む。
「はい……」
「こちら預からせていただいても?」
「いいですが、俺は明日から進学で大阪の方に行くので」
「分かりました。確認取らせていただいたら、お母様にお返ししますね。」
奥のトランクルームを見る。
扉の周りでは作業員があの手この手で扉を開けようとしている。
昨日と違うのは、周囲に人がいることだけだ。
それでも――
周囲の青い花は、昨日より増えている気がした。
風が吹く。
甘い匂い。
これは俺だけなのか、他の人に匂いは感じているのだろうか。
扉の表面は試行錯誤した結果なのか、凸凹になっている。
コンテナのネジの部分を回そうとしたり、油を刺したりしている。
専用の工具を差し込む。
動かない。
二人がかりで力を入れる。
嫌な音がした。
軋む金属。
だが、開かない。
警官が後ろに下がる。
「切りますか」
「……最終手段です」
ディスクグラインダーが持ち出される。
花の色が視界の端で滲んだ。
火花が散る。
鉄と焦げた塗料。
そこに、甘さが混じる。
急に頭痛と吐き気に襲われた。
立っていられなくなって、意識を失いそうになった。
霞んだ視界にはある人物の影が浮かび上がる。
『あんたは……父さんなのか…?』
胃に響く音と匂いが止まり、切断が終わる。
ゆっくりと、扉が持ち上げられた。
暗い。
中は、影の塊みたいだった。
警官が懐中電灯の光を灯し、中に入る。
段ボール。
木箱。
ブルーシート。
「……普通だな」
誰かが言う。
警官が一歩、踏み込む。
足元で、音がした。
ぬちゃ、と。
全員の動きが止まる。
光が床を照らす。
コンクリートに、黒い染み。
乾いているはずなのに、濡れたみたいに光っている。
その奥。
ブルーシートの下。
人の形。
輪郭だけが、はっきりしている。
誰も声を出さなかった。
◇ ◇ ◇
警官が無線で何かを伝えた。
俺はその場から動けずにいた。
ブルーシートの端を、ゆっくりとめくられる。
中から現れたのは――
骨だった。
白く乾いた頭蓋。
肋骨。
折り重なる腕。
衣服は形を留めているが、中身だけが抜け落ちたみたいだった。
腐敗臭は、ない。
代わりに、あの甘い匂いがした。
警官が屈み、ポケットを確認する。
「身分証が……あります」
透明なパスケース。
中に免許証。
名前を読み上げられた瞬間、
胸の奥で何かが、わずかにずれた。
父の名前だった。
驚くはずなのに、胸は静かだった。
昔のニュースを聞いているみたいだった。
父はこういう顔だったのか。
警官は続けて、別の紙片を取り出した。
折り畳まれた、色あせた紙。
クレヨンの線。
幼い字。
《おとなになったら おとうさんに あいにいく》
視界が、妙に遠くなる。
ああ。
こんなの、描いていたのか。
涙は出なかった。
泣くと思っていた自分がいた。
作業着の男は、こちらを気にするように何度も視線を向けていた。
「……大丈夫ですか」
「……はい」
ただ、ここが寒いと思った。
待ってたんだな。俺を。
母親に連絡して迎えにきてもらうよう促され、俺はスマホを取り出した。
指は、震えていない。
通話を終え、ポケットに戻す。
そのとき
コートの袖に、何かが付いているのが見えた。
小さな、青い花びら。
指で払おうとして、止まる。
いつから付いていたのか、まったく分からなかった。
視線を落とす。
靴の裏。
踏み潰された同じ色が、ゴム底に貼りついていた。
……いつからだ。
俺は、何も言わなかった。
誰にも。
ただ、それを擦り落とした。
地面に落ちた花びらは、
いつの間にか見えなくなっていた。
風が吹く。
甘い匂いが、また一瞬だけ強くなる。
俺は顔を上げた。
トランクルームの列は、何事もなかったみたいに並んでいる。
青い花だけが、こちらを見ているみたいに揺れていた。




