【3/5】自分を生きるのが忙しい
今年で53歳になる。想像もしていない年齢。昭和48年生まれの捻じ曲がった価値観からすると、53歳はおじいさんだ。子どもの頃そう思っていた。いざその年齢になると、「まだまだ若いもん!」なんて言いたくもなる。
30代ぐらいの頃、50歳を迎えた会社の先輩が「いざ50代になってもまだ若いよ」なんて酒を飲みながら言われても、まぁみっともないと言うか、負け惜しみというか、と性悪な僕の価値感が首をもたげる。
酒の力を言い訳にして、「いやぁー、だからって恋愛なんてすることもないでしょう。性欲もなくなるんでしょうし」なんて失礼なことを言った気がする。
ぶん殴られなかったのは、先輩の高貴な人格のおかげだと思う。平成のコンプラゆるゆる時代だったから、ぶん殴られても、まぁまぁ、ぐらいで済みそうだから。
いざ50代を3回目、つまり53歳に突入しようとしていると、これまたえらい状況だとわかる。これまでの煩悩にあたらしい煩悩が加わり、108を越えてくるのだ。
たとえば、食欲は少し落ち着くけれど、落ち着いた分1回の食事をおろそかにしたくないというか、「うまいもの」喰いたい!となってきた。
これは、なくなったわけではない「食欲」と新たに加わった「うまいもの欲」のコラボだ。なんと欲深きこと。
年齢を重ねると、欲がなくなってきて聖人のようになるはず、枯れていく様もいいな、なんて思っていたけれどそうではないということだ。
むしろ生きることに執着しているとも思える。やたらと健康について気になる。というこのnoteを、30代ぐらいの方が読んだとすると「そんな年になっても、まぁみっともない」と思うのだろうか。
人間というのは、どんどんみっともなくなりながらも、生き続けていく。それでも生きられるのは、「みっともない」と感じないようになるからかもしれない。きっとそうだ。
だから、「あの人、こう思うかな」とか「これをしたら、どう思われるかな」みたいな、他人の顔色を気にしていてはいけないと思うのだ。本当のこと言うと、それは50代だからと言う話でもなく。
生きていると、ジタバタしてしまうものだ。スカして、枯れてるよりも、「まぁコレでいいやん」ぐらいの開き直り感を装備していることって、とても大事だと思うのだ。
ふう、一筆書きみたなエッセイになったな。とりとめもなく、何を言うわけでもなく。
【もと同僚の話】20代女性(独身)とトラブルになっていた50代男性(既婚者)。噂では聞くが、詳細は誰もしらない。しばらくしてその50代男性は会社を去った。飲み会のゴシップになる。「セクハラだってさ」と。すると、同席していた別の女性(30代ぐらいかな)が「50代の男に、20代の女が好きになるわけないじゃん」と。すると、定年前ぐらいの女性上司が「そうかな。それは、一般化できる話でもないと思うよ」と。
そんな話も耳にしましたね
そんなことよりも、最悪の空気になった飲み会だった。だから覚えている。どっちでもいい。ゴシップの取り扱いが下手くそな人たちと飲んだと諦めた。ゴシップ取り扱いにも流儀や作法があるのだ。
だれかの価値感を、ほかの誰かの価値観で断罪すると、ウンコしか生まれないという話だ。30代の女性も、定年前の女性上司も、どっちも正しくてどっちも間違っている。
なぜなら、その価値観はあなただけのもので、あなただけの中にとどめて置けばいい話だからだ。もし口から出すのならば、家の中ぐらいがいいと思うのだ。
自分を生きるっていうのは、自分を責めたり・赦したりの繰り返しだと思う。だから、他人を責めたり・赦したりしているようなヒマはないのだ。どう思うのかは自由なのだけど、その想いを口から発すると「責めたり・赦したり」になってしまうから。自分を生きるがおろそかになっちまう。
僕は、自分を生きるのが忙しいのだ。




