【10/29】義父と二人、酌み交わす
義理の父が亡くなった。義理の母が亡くなって二年半ほど経った頃だった。僕の父は15年ほど前にに亡くなったし、親の類で生き残っているのは実母ぐらいだ。
義理の父、つまり、妻の父。妻を躾けてきた父とあらば、尊敬の眼差し、どのようにすればアノつわものに、父たる威厳を振りかざしてきたのか気になるが、義父は優しい人だった。
妻と結婚して、2年ほど経った頃、義理の両親が同居しないかと提案してきた。妻が育った家でもあったが、三人暮らしの彼らの家に僕がお邪魔するみたいな気まずさはあった。義理の両親なりに、多忙な新婚夫婦を気遣ってくれたのだろう。今思えば感謝だ。
皆で節約してお金を貯めようなんてことを言ってたが、狭い家で同居は難しかった。妻の子供時代に使っていた部屋を寝室にして、棚を置いてテレビもセットした。週末は家族みんなそろって、夕食で宴会みたいで毎週楽しかった。
義母が家のこと担当で、食事洗濯まわりはホントに助かった。妻も僕も若手だったあの頃、今から思えば理不尽な仕事を押し付けられ、それを喜々としてやり遂げていた。だから、家を護る人がいることに、とてもメリットがあったのだ。
だが、ほどなくして、この生活は解消した。
小さく拗れた、ねじれみたいなものが、どんどん大きくなっていった。さらに、真夜中0時に夕食が始まる僕と妻の異常な残業生活は、限界を迎えていた。些細なことで、義理の両親と言い争うようになったと思う。言葉は怖い。実の親でも、兄弟でも、妻でも子でも、親友でも、そして義理の両親でも。言ってはいけないことがある。その壁を越えてしまうと、取り返しがつかない。
僕は仕事を変えることにした、妻は仕事を少し休むことにした。その転機が僕の地元京都へのUターン転職だった。東京暮らしをやめて、京都。それから20年以上経った。
コロナが蔓延するなか、義母が普通に亡くなり、そこから二年半後、義父が亡くなった。
斎場は狭く、火葬される火の熱を感じるほど。義父の斎場は、義母と同じ斎場だった。
義父との思い出はほとんどない。二人で酒を酌み交わしたことも、政治について討論したことも、車でどこかに連れて行ってもらったことも、何もホントにない。ただ、いつも優しかった。元ラーメン屋だった義父は、土曜日に遅く起きてきた僕によくラーメンを作ってくれた。(妻は土曜日出社)
タンメンを生まれて初めて食べた。野菜炒めがラーメンに乗っているだけといえばそうだが。ラーメンも市販の生めん。スープも同じく市販品。「この味噌としょうゆが隠し味なんだよな、若旦那」と言われたのを、義父が火葬されているときに思い出していた。
僕は義父に若旦那と呼ばれていた。名前を呼ぶのは恥ずかしかったのだろう。最初が「あなた」次が「きみ」、そのあとが「若旦那」だから進化したのだと思う。
同居を解消し、大切な娘を京都なんぞに連れて行った義理の息子。義父からは連絡もなかったが、僕のことを「若旦那」とは呼ばなくなっていただろう。火葬場には、たくさんの火葬スケジュールが組み込まれていた。30分置きに火葬される斎場のスケジュールはシビアで、次々と焼かれ弔われていく。淡々と、正確に。悲しさを思い出させないぐらいの、テキパキさは涙腺のゲートが開くまで待ってはくれない。
火葬中に支払いや、今後のことなどを葬儀会社コーディネータと打合せするが、僕の頭の中は「あの、タンメン、また食いたかったなぁ」で一杯だった。不謹慎だったが、義父と言えば土曜日のおそがけ午前10時の背徳のタンメンなのだ。
生きているときは、野球で言うとずっと五回の裏が続いているような。サッカーだと終わらない前半のような。(野球もサッカーもほとんど観ないけど)
その先には死ぬってことがしっかりと待っていて、その終わりについては僕たちは考えないようにしている。考えないようにプログラムされているのかもしれない。唯一、大切な人が亡くなるたびに、生きていることと死ぬことがとても近しい関係にあることに気づかされる。それは50にもなったオッサンが今更、いつものごとく、気づかされるのだ。いずれ、自分も死ぬが、まだまだ大切な誰かを失うことに、出会うだろう。火葬場の燃えるにおいは、その人がこの世の中にいた証のようでもあり、ただの物質のようでもあり。
熱く、暑く、ふだん嗅ぐことのない、臭いが充満する収骨室に連れていかれる。骨の種類の説明、のどぼとけの謂れなんかを聴く。大腿骨がデカかったこと、下あごが立派だったこと、亡くなった姿はずいぶん痩せていた。
長いこと会っていなかった、会おうとしなかったことが悔やまれるようにも感じた。だが、義父があと十年、たとえ元気で生きていたとしても、「タンメン食べさせてよお義父さん」と図々しく義父に言えなかったと思う。
失った時間がつもり重なって、溝になり、それはいつしか深い深い谷になる。その底まで目を凝らしても、何も見えない。叫んでも、声が還ってくることはない。誰かを失うと言うことは、大切な人を失うと言うことは、死んで失うばかりではないのだ。
生きているこの時から、失うことばかりなのだ。
だからといって、「周りの人を大切に・後悔のないように」なんて、ちゃんちゃらおかしい・詭弁にして茶番にしておマジメなことを言うつもりも学ぶつもりもない。失うというよりも、削ぐ、人生は削いで削いでの繰り返しだからだ。失うというのは、意図しないもの。削ぐというのは、意図するもの。その決意の繰り返しで、自分は大切な何かを、削いで捨てて身軽になったような気がして生きていく。そうでなければ、生きていることが辛いからだ。
収骨が終わり、義父がちいさな壺に一通り入りきった。小さな粉も手元の小さな箒でかき集めて、壺に入れられていく。全部そろわないと大変だよ、と言われているかのようだった。
骨壺を骨箱に入れられた。骨になった義父を抱えて、妻と東京を後にした。帰りの新幹線で妻に、
「お義父さん、京都に来るの初めてなんじゃない?」
「いや、二度あるよ」と、妻は続けた。「一度は私が京都に就職した時に、車で東京から。研修中の娘を見に夫婦で着たんだって」
「もう一回は?」
「忘れたの?子ども、産まれてしばらくして呼んだじゃん」
そうだった。すっかり忘れていた。妻のことを気にかけていた優しい義理の両親だった。思い出した、初孫を見た義父が僕に言っていた。
「これから、お父さんだな。若旦那」
すっかり忘れていた。帰りの新幹線で思い出した。膝の上、葬儀場でもらった不織布に入れた義父の骨壺。抱えて帰った。火葬前は、ずいぶん痩せたと思っていた義父。骨だけになったはずなのに、随分重かった。そのまま、京都の我が家に連れ帰った。
翌日、ダイニングテーブルでいつものように仕事を始める。骨箱に入った骨壺は、まだ葬儀場でもらった不織布の手提げ袋に入ったままだ。せめて不織布をはずせばいいのだが、なんだか気恥ずかしくもある。
不織布のチャックを開け、昼間から義父の前に盃を置いて、とっておきの日本酒を開けた。妻には内緒だ。初めての二人で酒盛りだ。積もる話はない。ゆっくりと時間が過ぎればいい。
「若旦那、あとはよろしくな」
義父は、僕にそう言っていた。義父の分の盃も飲み干して、少し気持ちよくこのお話を書いている。




