7.密室の秘め事
「信二郎~、一緒に帰りましょ~」
放課後になり、HRが終わる頃。
春乃先輩が俺を一年D組の教室まで迎えに来てくれた。
「あ、はい。帰りましょ、春乃先輩」
席を立つ。なるべく小夏の方を気にしないようにして、教室を後にする。
もちろん先輩と身体の距離を近づけて、だ。程良く肉のついたやわらかい感触に加えて明らかに男子のそれとは違う、女子の甘い匂いを感じる。
クラス内での反応も様々で「部活もやってないのに、いきなりあんな美人な先輩と付き合えるとかさどういうことだよっ」「いやでもあれ、前にテニスコートの芝生食べてたの見たよ」「えー、私てっきり柚本さんと飾森さんの二股かと思ってた」って感じだ。
柚本はママだから付き合うとかそういうんじゃないし、飾森に関しては柚本と仲が良いだけで俺を友達と思ってるかすら怪しい気がする……悲しいから考えるのを止めよう。
「か、か、か、か、か――……」
柚本に関しては今日ずっとうわの空で、何故か「か」しか話せなくなっており、なんか新鮮で面白かった。なんかあったんだろうか?
そう思って「どしたん、俺でよかったら話聞くぞ」って日頃の恩返しをしようとしたらとんでもない速度で逃げられた挙句、飾森にしこたま引っぱたかれた。
いや、なんでひどくない? 理不尽じゃない?
飾森はもしかしたら、俺に彼女ができて羨ましいのかもしれないなっ!
とはいえ調子に乗って「お前も早く彼氏作った方がいい」とか言いながら肩をぽんぽん叩けば、たぶん俺は確実に灰となっていたことだろう。
「やっぱ、目立ちますね……学年違う人が同じ階にいると」
「そこはあたしってばホラ。すらりとしてるのに意外と胸もおっきくて、全身がえちぃし……さらに元チア部だから上級生としての色気がもう爆発よね~。顔も良いし」
「その分、知能デバフが……ってか、先輩。チア部だったんですか」
「応援する相手が……いきなり彼女できたって言うから、ね……?」
「あぁ……」
確かに黙っていれば美人だとは思うから、春乃先輩と歩いていると同級生男子の視線はそこそこ熱かった。まぁ、皆知らないだろうけどこの人頭おかしいんだぜ?
(……って、いやなんで〝俺だけが知ってる感〟なんぞ出してんだ、あほくさ)
「あっ、そういえば。あたしこの後、放課後デートなんだってちゃんとアピってきたからそこんとこよろしくね? どうせ暇でしょ、そんな顔している」
「あっ、俺もそれ言っとけばよかったです……」
「ふっふっふ。まだまだね~、真田後輩」
……俺もまだまだか。なんて思っているうちに一階へ下りて靴に履き替え、外に出る。
そうしてわざわざ遠回りして向かうのは、裏門に近いテニスコート方面だった。
我が校には正門と裏門があるのだが、俺と先輩は普段、正門を使っている。
けれど今日から遠回りで帰宅してダメージを与えたい、とは春乃先輩の提案だ。
するとちょうど部室で着替えてコートへ行く途中の渡会先輩と、その部活仲間たちが正面遠くに見える。向こうもこっちに気づいただろうか?
――と俺が疑問に思ったタイミングで。春乃先輩が「あたしを見て」と言わんばかりに俺の両頬に手を添え、見つめ合う姿勢を取った。
中々に意地悪な先輩だと思う。俺がこんなのに遭遇したらきっと即死しているはずだ。
遠近感のせいもあって、もしかしたらキスしてるように見えてもおかしくはない。
「言ったでしょ、反応は見ようとしないで。男子から胸をガン見されてる視線にも余裕で気づけるのよ? 用心するに越したことはないじゃない」
ぺたぺたと先輩が俺に触れながら、清々しいほどの嘘くさい笑顔を作り続ける。
けれど意図を知っているからそう見えるだけで、これがもしも小夏だったなら俺は疑うということをしないだろう。つまり、先輩の幼馴染にとっては確実にクる笑みだ。
やがて渡会先輩たちが俺たちを通りすぎていく。今ここで振り返ったらきっとあの人が俺たちを見ている気がした。いや、たぶんそうだ。間違いない。
だって俺も男である。こういう時に出くわす、苦しい気持ちはわかるつもりでいる。
そして隣でいつの間にか俺と手をつなぐ春乃先輩は、もう表情が緩みきっていた。
想像の中で渡会先輩が悔しくて号泣しているところを思い浮かべ、歓喜に震えているのかもしれない。めちゃめちゃサイテーだ。俺の言えたことではないが……。
「うふふふ。とりあえずは今日からこんな調子でガンガンいくわよ! あ、わかってると思うけど。ちゃんと踏み込んでいいラインを見極めてね?」
「はい、今の状況が逆に〝当たり前〟になったら本末転倒ですから。認めるって選択肢を与えることになって、感情そのものを死滅させちゃいますし」
「いえす。でも彼氏や彼女って防御壁に守られてる脳は、一度では絶対に壊せない」
「だから壊したら、少しだけ回復させる。まぁ、アメとムチ」
「えぇ。少しずつ、しかし確実に削っていきましょう!」
「はい! 春乃先輩!」
とりあえず放課後は、初戦突破くらいの感覚で先輩とラ○ワンでボウリングして帰り、快眠から目覚めた翌日。俺は今までしてきたように東雲家のインターホンを鳴らした。
昨日の今日で気が引けるという思いが、まったくないと言ったら嘘になる。
けれど小夏が一晩経ってどういう態度を示すのか、それを知らなければならない。
向こうの出方次第で、こちらの出方もやっぱり変えるべきだからだ。
「…………?」
鳴らしたものの、しばらく反応がなかった。
なにか取り込み中なのだろうか? さすがに起きてないということはないだろう。
無駄に何度も鳴らすこともなく、大人しく待っているとやがておばさんが出てきた。
「――信ちゃん、ごめんなさいね。小夏、ちょっと熱出しちゃったみたいで」
「えっ。あ、大丈夫ですか?」
「だと思うけどねぇ……突然どうしちゃったのかしら。だから今日はお休みするって、ちょうど学校に連絡してたところなの。ごめんなさいね」
「そうだったんですか……」
「えぇ。なんだか昨日も元気なかったから、学校に馴染めてなかったりするの? ほら、信ちゃんも知ってるでしょう。意外とそういうこと言ってくる子じゃないから……」
訊かれ、一瞬ドキリとした。冷や汗が頬を伝い、緊張に言葉が少しだけ詰まる。
「ないと思いますけど。あ、あがってもいいですか?」
「もちろんよ、声掛けてあげて。小夏も喜ぶと思うから」
おばさんは快く了承し、俺はひとり二階へと上がる。
そこには〝こなつの部屋〟なんて書かれた子どもっぽいドアがあって、ほとんど自分の部屋なんじゃないかってくらい昔から通い慣れた場所だった。
「――けほけほっ」
ドア越しに彼女の咳が聞こえ、ノックしようとした手が思わず止まる。
しかし階段をのぼる足音で気づいたのだろう。先に呼ばれてしまった。
「……しー、ちゃん?」
「あ、あぁ。悪い……寝てたか? ごめん」
「ううん、平気」
反射的にドアノブを捻ろうとして、その寸前で改めて中に入るべきか悩んでしまう。
俺のやったことのせいで、小夏が体調を崩した――かもしれない。
そう考えるとやっぱり胸が痛んだ。
わかっている。そんなのはひどい矛盾であまりに身勝手な言い分だ。けれど大事なものだったと気づけたからこそ、胸を絞めつける想いがあって。ふと我に返りそうだった。
でも。我に返ったところで俺のいた場所は、小夏の隣は俺に返ってきてはくれない。
その時。ドアの向こうで何か大きな物音が鳴り、気づいた時にはもう俺はベッドの前で倒れているパジャマ姿の小夏を目にしていた。
胸を浅く上下させ、とろんとした熱っぽい視線で俺を上目づかいに見上げる小夏。
水玉みたいにたくさん配置されたクマパジャマは、もう小夏の身体にはあまりサイズが合っていなくて、息苦しさに拍車をかけているようにも見えた。
すぐに小夏をお姫様だっこのかたちで抱きかかえ、ベッドに寝かしつける。
布団をかけ直し、小夏は焦点の合わない曖昧さで「ごめんね……」と小さく言った。
「素直にありがとうでいいだろ、そこは」
「うん……そうだね、ご――ありがとね……しーちゃん」
それから俺は小夏の目にかかった長い栗色の前髪をそっと払い、おでこに触れる。
色っぽく艶めいた頬を見れば一目瞭然。確実に熱を出していた。38℃はあると思う。
「これはまぁ、大人しく寝とくべきだろ」
「うん……」
「朝飯は食えたのか?」
「……ちょっとだけ」
「ならよかった。おばさん、学校で浮いたりしてんじゃないかって心配してたぞ」
「う、ううん。そういうのじゃ、ないよ……たぶん。わか、んない……けど」
「……そっか。まぁ、一回くらい平気だろ。休んでもノートの板書は――俺のだと汚ねぇから……飾森あたりに借りとくしさ。今日はゆっくり休んどけ、な?」
小夏は弱々しく遠慮がちに頷く。そういう仕草や表情を正直……愛らしいと思った。
きっとそれは、これまで家族以外では俺だけに見せてくれたものだったからだ。
つい、小夏の細い指先に触れる。すると彼女も軽く握り返してくれた。
この身近過ぎて気づけなかった尊さを今になってようやく理解できたからこそ、俺にはやっぱり小夏が付き合っているらしい事実がどうしても悔しくて、受け入れ難い。
なによりみっともなく、手遅れの瀬戸際になってから気づいた自分が許せなかった。
「帰ったらまた寄るから。ホント寝とけよ?」
「うん……ありがと、ごめんね……しーちゃん」
だから謝るなよ、と。そう言いかけたが、なにやらホッとしたように小夏はすぅすぅと寝息を立てて眠りに落ちていった。音を立てず立ち上がり、ふと小夏の部屋を見渡す。
机の上には一緒に撮った写真が何枚もあった。
そのうちのひとつは小学生の時に川でバーベキューをやった時のもので、他にも入園、入学卒業……と。過ごした時間の長さの証明がいくつもある。
いつしか先輩に塗り替わっていくだなんて思いたくなくて、俺は部屋の電気を消した。
*
「――さて。現状のあたしたちに足りていないものは、一体何でしょう?」
昼休みの屋上。俺と春乃先輩は連日で屋上の一角に陣取っていた。
他には自分たちの世界に入り込んでいる何とも言えない見た目のカップルしかおらず、多少は大きな声で内緒話をしても問題はなかった。
「え? あー……いちゃラブ度合いとかですか?」
「のん。それも大事だけど、より必要なのは校内での認知と好感度よっ!」
「認知と好感度?」
春乃先輩が「まだまだね」とでも言いたげな表情で小さく笑う。
「キミは学年に一組はいるような痛々しいだけのカップル! つまりはアレを羨ましいと思う人間が果たしてどういう人たちかわかる?」
視線を促される先には、俺たちとは対称的ないちゃいちゃカップルがいる。
なんというかまぁ……申しわけないが、控えめに言ってブスだ。
あれが羨ましいか? って訊かれるとかなり悩ましいところがある。
確かに女子と手をつないだことも、キスもしたこともない俺だけれど――
「……あっ、なるほど。それはあれです、付き合いたいけど相手がいない人たちです」
「そう。でもあたしたちが破壊しなきゃいけないのは付き合ってる人たち」
「しかも渡会先輩、校内に漫画みたいなファンクラブとかまであるんですよね?」
「そうなのよ~。すごいでしょ~」
まるで自分が褒められたかのように春乃先輩は、にへらっと笑う。
やっぱり恋する女子は、きれいで可愛く見えるような補正が掛かるのだと確信した。
「だからちゃんと周りから認められて、自分たちだけじゃなく周りもまとめて幸せにするような、付き合っていても羨ましく思える素敵カップルを演じなければ意味がな――」
キィイイ、と。立て付けの悪いドアがやかましい音を響かせる。団体のご到着だ。
「……みたいな話を毎回、屋上でするわけにもいかないのも困りものねぇ」
「どこか空き教室を使うようにします?」
お互い二回りほど声のトーンが落ちる。少なくとも周りも幸せにできる素敵なカップルからは程遠い感じだ。そもそも付き合ってる認識さえ持たれていないから論外である。
「そうしよっか。ついでに密室パゥワァの恩恵も得たいし!」
「密室の恩恵?」
繰り返すと先輩は、なにやら呪詛のようにぶつぶつと唱えはじめた。
「目隠し……マスクの輪郭補正……意地でも斜めから写真を撮る女……ピースのあご添え……仮面をつけた女性アーティスト……ネット上での印象とかけ離れた実物……笑ったら歯並び悪いやつ……ロングコート着たデブとぽっちゃりの間くらいな女の脱衣――……」
「あぁあっ!!」
く、くそぅ……こんな説明で納得してしまう自分が悔しい。
どれもこれも第一印象を乱高下させるほどのパワーを内に秘めているのだ。
「いえす。見えてないがゆえの期待感を煽るのよ」
「つまり学校中の大半が認めて、好感を抱いているいちゃラブカップルがっ」
「ふたりきりの密室で一体、どんなことを致してるのか。みたいに捗らせるのが理想ね」
なるほど……まぁ、言うは易く行うは難しだろう。恋人を作るだけでもハードルは高く感じるのに理想まで求めると、やはり中々に厳しい。もちろん、諦めるつもりはないが。
「じゃそういうことだし、同好会でも作って教室いただいちゃいましょうか!」
「そんなとこですかね……ちなみになんて申請するんです?」
「ふっふっふ、わからん」
「えぇ……」
「はい、そこ落胆しないっ! こういう時こそ頼るべきは権力者の友達でしょうにっ!」
というのも〝自立〟と〝自由〟を掲げる悖徳高校は学生自治を率先しているだけあり、あらゆる学校行事は自治会主導で企画・実行される。
教師の口出しもよほどの限りなく、つまり同好会などを設立するにあたっては自治会の承認さえあればいいらしい。意外と教師の労働環境改善に一役買っているそうだ。
で。これまで会長を務めた生徒は数多くいれど、三年間務め上げた生徒はかつてただのひとりもいない。しかし二年続けて上級生との自治選挙で圧倒的勝利を収め、前人未到を達成するのではと言われているのが、春乃先輩の腐れ縁だという周防冬毬会長であった。
「――ふむ。つまり合法的に空き教室を使用する為に同好会を設立したいが、どういったものなら申請が通るか。一から私に考えてくれ、と?」
「「よろしくお願いいたしますっ!」」
そんなこんなで俺たちは授業が終わり次第。こうして学生自治会室へ遥々やって来て、周防会長から知恵を授かるべく空っぽな軽い頭を下げているところだ。
「なんでもしますから! ――真田後輩が」
「後輩を真っ先に売ろうとするなよっ!?」
「ふむ。何でもするなら丁度いい。どうとでもしよう」
「そこをなんとか――……って、え? どうとでもなるの? トマりん」
予想外の展開の早さに俺も春乃先輩もきょとんとしてしまう。
一方の周防会長は自然体で姿勢を保ち、キリっとした表情のまま自治会所属の生徒――通称〝監督生〟という役職のひとりを呼びつけた。
「例の箱を持って来てもらえるかな」
「わかりました、会長」
そう答え、数秒ほどで持ってきた箱のうち一つは俺にも見覚えがあった。
学生たちからの投書で中身があふれかけているそれは、目安箱と呼ばれている。
「目安箱がどうしたのよ、トマりん」
「知っての通り。目安箱とは学校へのあらゆる要望・相談を受け、監督生たちが分担してそれらの検討・実行・解決に取り組んでいるものだ」
周防会長は「だが――」と前置きし、もう一つの見慣れない箱をドンと机に置いた。
ハートマークが描かれたその箱は、目安箱よりもさらに多い投書であふれている。
ほんのわずかだけ困ったように眉をひそめ、会長が続けた。
「不徳箱と言ってな。目安箱の投書の中でもとりわけ、恋愛相談だけを仕分けている」
「れ、恋愛相談……?」
「……不徳なんですか」
「不徳だとも。学生の本分は勉学だと言うのに」
「恋愛も長い人生で見れば十分、勉学の範疇なのでは?」
勉強できても恋愛下手なひと。恋愛上手でも頭が悪いひと。
どちらも一長一短である――と言いたいところだが、正直。今の俺には後者の方が幸せそうな人が多いんじゃないか? と思えてしまったりする。これが恋愛脳か?
けれど世の中には、教科書が教えてくれないことなんてたくさんあるのだ。幼馴染との付き合い方や、彼氏から幼馴染を奪う方法なんて絶対に教えてくれやしないだろうし。
「うむ。私も最近そう考えたが故、もう少々まともに対処すべきかと思ってね」
「え。じゃあ学校の恋愛お悩み相談室をやれば、認可してもらえるってことトマりん?」
周防会長が頷き、俺と春乃先輩は互いを見やった。どうやら意見は合致したらしい。
俺たちの目的が校内の誰もが認める、周りを幸せにできるカップルだ。
そしてそういう存在になることで幼馴染の脳を嫉妬破壊し、なんやかんや別れてうまいこと居場所を取り戻すこと! であれば――この話は願ってもない棚ぼただろう。
「あ、でも顧問とかどうするの?」
「ひとまず当面の間は私自ら監督すれば問題なかろう」
「そんなことできちゃうもんなんですか?」
「トマりん、教師陣からの信頼厚いからねぇ。まぁ、こういう堅物の女傑っぽいのが一番ホストに沼ったり、嫉妬と独占欲で破滅するタイプだと思うけど。お尻弱そうな顔だし」
「? そこに何の因果関係があるんだ、春乃」
なんかすごく納得できる。つーか、この三人のうち誰一人としてまともに恋愛したことなさそうなんだが、恋愛相談なんて本当に上手くいくんだろうか……不安だ。
それに予想外に人数も増えたが、会長なら忙しくて常にいるってこともないはず。
春乃先輩が特にツッコまなかったあたりそういう判断だと思う。
ともあれこうして偏った恋愛感覚を持つ三人による、恋愛同好会(仮)が設立された。
「――ただいまー」
「おかえりなさい」
夕方。少し遅くなってしまったが、ようやく帰宅する。
さてとりあえず小夏のとこに行こう。弱ってる今が〝当たり前〟を実感させるチャンスとか関係なく、シンプルに俺がすぐにでも行ってあげたいと思えるからだ。
「荷物置いたら、ちょっと小夏のとこ行ってくる」
「あ、お母さん。今から買い物行ってくるから鍵持っていってー」
「へーい」
階段をのぼり、自分の部屋に向かって荷物を放り投げる。
さっさと自室を出ようととしたが、約束していた忘れ物に気づいてカバンを漁った。
「あったあった、飾森に借りたノート三冊。持ってってやらねぇ、と――……」
わずかに開いたカーテンの先。隣り合う位置に小夏の部屋が見える。
最近はもうずっと完全にシャットアウトされていたはずだが、今日は何故かほんの少しだけ様子がうかがえた。いや、違う――うかがえてしまった。
「…………え?」
網膜に焼き付く光景で、脳が捻じ切れそうなほど痛い。
苦しい。吐きそうだ。でも目が離せない……ダメだダだダメだメメだ逃げににろろっ。
春乃先輩いわく。観測しなければ、事実にはならないらしい。
だが、もしもそれが本当ならば――窓の向こう。見知ったベッドの上で渡会先輩の胸に力なくもたれかかる小夏の姿は、俺にとって裏返りようもない現実となった。