6.破壊は続くよ、どこまでも……
たとえば、地味で大人しかった〝俺だけがわかっていたはず〟の女子がクラスにおけるヒエラルキー高めの男子と付き合ったとしたら。
ある日突然。生まれ変わったような変身を遂げて、俺の知ってる○○さんが……なんて気分を味わえるというのは想像に難くないと思う。俗に言う垢抜けだ。
もちろん逆の場合も同じことが言える。
情けなくて頼りなかった男子が、彼女のために変わろうと努力した結果。自信や社交性であったりを身につけていき、まるで別人のような性格になって一皮剥けるのだ。
この、付き合うことで変化があるという事実を念頭に置いて考えると、俺が春乃先輩と偽物の恋人になったことで、小夏が持つ俺の印象への影響も少なくない……と思いたい。
「すぅうう、はぁあああ」
深呼吸の後。意を決して俺は、東雲家のインターホンを押した。
いなければ明日また出直すつもりだが、その可能性は限りなく低いと見ている。
今朝、春乃先輩から来た連絡によると向こうは首尾よく朝練の先輩と合流し、ばっちり〝歳下彼氏ができた宣言〟を決めたらしい。しかも上々な反応とのこと。めでたいな!
小夏を見たという話を聞いておらず、つまり今日は普通に登校する可能性が高い。
全ては〝小夏の脳を破壊し、実は俺のことが好きだった……な感情を呼び起こさせて、渡会先輩から取り戻す〟という目標のためッ!
そんな風にひとり意気込んでいれば、やがて玄関口からおばさんが出てくる。
「あら、信ちゃん。こなつーっ、信ちゃんよー……ってなんだか久しぶりな気がするわ」
「そうかもですね……」
「でも仲直りできたんでしょう? ひとまずよかったわ~」
母親に色々聞かれたので適当に喧嘩したと説明したが、たぶん小夏も同じようなことを言ったのだろう。長い喧嘩が終わった程度の認識で間違いないはずだ。
「しーちゃん……」
「おはよう、小夏」
「うん、おはよ……」
「行こうぜ」
叱られた子どものような態度の小夏は小さく頷いた。
おばさんに見送られながら俺たちはいつもの通学路を行く。
長い沈黙があり、俺はどうにか言葉を選びつつもゆっくりと続けた。
「ごめんな、なんかずっと避けてて」
「う、ううん。しーちゃんは悪くないよ……悪くないの」
「んなことねーよ。いくら彼氏ができたからって、今まで当たり前だったことをいきなりやめる必要ないもんな。そういやあの時なんの話してたっけか」
「え、あ。ラーメン……かな? わかんない、色々ありすぎて覚えてないよ……」
「あー、おごるおごらない。じゃあ今度いこうぜ、前みたいに普通に。おごるからさ」
多少はいつもの元気を取り戻し、小夏が「うん」と笑った……はず。たぶん。可愛い。
中々に順調の滑り出しだと思うが、表情をうかがいたい気持ちはグッと堪える。
それから俺は昨日、布団の中で何度も反復練習した台詞を記憶から呼び起こす。
先輩はああ言ったけれど客観的に行動を見れば、俺は小夏を傷つけようとしている。
でも好きだと気づいてしまったから。一緒にいたいと思ってしまったから。できることなら傷ついて欲しい。悲しそうに魚の骨がつっかえたみたいな苦い顔をして欲しい。
春乃先輩とも話したことだが、〝もしふたりにとって俺たちの存在が大きくなければ〟という前提はハナから考えないことにしている。そんなこと考えたくないからなッ!
などと内心、昂っていると小夏が「よし……」と何かを決心したような気がした。
「し、しーちゃん。あのね、私ね――……」
「あと俺、彼女できた。昨日」
「……え」
「だから一緒に登校できた。だってお互いに相手がいるんだし、気にすることないよな」
「え。あっ……そ、そう……だね。うん……」
お、おぉっ……おおっ!? き、効いてる~ぅ! なら言うよ。言っちゃうよッ?
どうせ守ったところで脳みそはあっけなく砕け散るだけだ! それならとことん攻めて小夏の泣き顔が性癖になっちゃうくらいの気概でやるしかないだろ!
だってもう、それが俺に……俺たちに唯一残された生存戦略なんだからっ!
「しっかし、ほんとお前の言った通りだったわ」
「え?」
「キスだよ、キス。確かに家族以外であんなに顔が近くにあるのって、ヘンな感じした」
「へ、へぇ……」
「息もくすぐったかったし、ぎゅってするの温かくていいな。幸せってのもわかるわ」
「………………」
涙が出そうだった。もちろん感激の涙だ。そうだ……やっぱりそうなんだよ。
俺にとって小夏が離れていくと悲しくなった存在であったように、小夏にとっての俺もそうなんだ。そういうもんだろ。近過ぎて、当たり前過ぎて気づけないんだ。
しかし慌てない。いったん落ち着こう。喜んでいることを悟られてはいけない。
「って、小夏。聞いてるか?」
「えっ、あっ……だよね。すっごくわかるよ! ……キスしてむぎゅってされるの幸せで……すご、く。しあわせ……だよ。うん……そう、なんだよ」
表情なんて見なくてもわかる。小夏はどう考えても落ち込んでいた。
つまり――よっしゃぁあああっ! うぉおおおおおおっっ!
まだ神様は俺を見捨てていない! よかった。あのクズ信じてよかった!
もしも先輩にだけチャンスあって俺がノーチャンスだったら、確実にハートがブレイクしていたに違いない。ありがとうありがとう! とてもありがとうっ!!
やがて校舎が見えてきた。そしていつかの俺と同様、小夏は明らかに取り乱して言う。
「あ、ぁ……わ、私……用事あったんだっ。ご、ごめんね……しーちゃん、先行くねっ」
駆け出していった背中に思わず手を伸ばしかける。けれどここは我慢の時だ。
小夏には、より俺という存在を惜しんでもらう必要があるだろう。
だから俺のすべきことは、彼女のおかげで小夏の知らない俺に変わっていくところ――もしくは、今まで自分がいた場所にいる春乃先輩を見せつけていくことだ。
その時だった。すれ違うかたちで、不敵な春乃先輩が手ぶらで校門から出てきた。
「ふっふっふ。朗報よ、真田後輩。あたしはたった今、観測したわ」
「え?」
「小夏ちゃんだっけ? あの子、うっすら泣いてたの」
――――っ、俺と春乃先輩はニヤニヤとお互いを見合う。
校門をくぐっていく生徒たちからは、蔑み混じりの視線を向けられるが気にしない。
充足が脳を満たし、脳が回復していく実感を得りゅ!
それから俺たちは腕を組みつつ、わざわざ遠回りしてテニスコートの傍を通っていた。
もちろん渡会先輩の視界に入るためで、結果は春乃先輩の期待通りのものだった。
まるでミスをせず、空振りなんてもってのほかな先輩が連続で失敗していたのだ。
「――ひとつ、ルールを決めましょう」
「ルール?」
「そ、あたしたちの中では〝この目で観測したものだけが事実〟。そして〝あたしの目はキミの目、キミの目はあたしの目〟。最後に〝ふたりに隠し事はしない〟――いい?」
「……まぁ、はい。問題はないですけど、つまりどういう意図なんですか?」
それは春乃先輩の持論というか、自分勝手な解釈そのものだった。
たとえば好きな子が彼氏と初夜を迎えちゃった話を聞いても、シテる場面をその両目で観測するまでは処女だということらしい。なんなら彼氏も存在は不確定だそうだ。
とんでもねぇ理屈だと思う。だが、あまりの説得力の強さに心から唸ってしまった。
さすが春乃先輩! さすがだ! ――そうして俺は心晴れやかに教室へと向かった。
あっという間に時計の針も進み、毎度のごとく昼休み突入のチャイムが鳴り響く。
「なんか信二くん、今日は機嫌いいね。なにかあったの?」
「ついに頭もおかしくなったのよ。かわいそうに……」
「み、瑞希ちゃんっ」
「ふふ、いいんだ柚本。今の俺にその程度の火力ではな」
心に余裕があるってこんなにも清々しいことだったのか。知らなかった。
最近は昼休みになるとよく柚本と飾森が弁当を持ってやって来るが、今日は春乃先輩が教室にやって来て俺を屋上へ誘うイベントが起きる予定なので断らないといけない。
「あらそ……すんすんっ。なんだかこの辺り、野良犬みたいなにおいがしない?」
「あっ、あ……寝る前とかに思い出してじわじわ効くタイプは……やめてください」
「ところで。あなた日曜日、暇でしょう?」
「え? あぁ、まぁ。帰宅部だし今のところは」
曖昧に返事をすれば飾森が柚本に視線を促す。
彼女は驚き、目が合うと視線をそらされた。
「あ、あのねっ。その日、バスケ部午前練だけでねっ、だからえっとその――」
もじもじとした様子で何かを言おうとしているらしい時だった。
勢いよく教室のドアが開かれ、クラス中の視線がその先へ向く。春乃先輩がいた。
「ちょっと失礼するね。あ、いたいた――信二郎、お昼屋上で一緒に食べよー」
「し、ん……えっ?」
「誰?」
飾森が睨むように威圧しながら訊いてきた。こ、怖いよぉ……。
ともあれ教室に小夏の存在は確認済み。先輩が愛想よく俺たちのところへやって来る。
「紹介するわ、こちら久住春乃先輩。で――俺の彼女」
「え」
柚本がポカンとした声を出し、飾森がごく自然に財布を取り出して中を確認する。
「…………ふぅん。で、いくら?」
「ひどくね?」
「? だってあなたに彼女なんてできるわけないじゃない」
なんだか知らんが、今日は珍しく攻撃的……いやまぁ、それはいつもなんだけども。
こいつ普段は基本的に無表情だけど、付き合いもそこそこあるせいか微妙な抑揚の変化みたいなものがちょっとだけわかってしまい、今回はいつもと違ったので珍しいやつだ。
「あはは。仲良いんだねぇ、ふたりは信二郎のお友達?」
「……っ」
春乃先輩の「あはは」はこれ、クラスの女子からの扱いに笑ってるだろ……ひでぇ。
それにしても先輩がまともで恐怖を覚えた。普段は擬態して生きてんのかな、この人。
「はい。クラスの皆さんには内緒でしたが、都合がいい身体だけの関係なんです」
「……わざわざ否定するのもばからしいですけど冗談ですからね、こいつ冗談が――」
「嫌いよ」
「えぇ……?」
つまりいつもの顔批判は本気で言ってたってコトっ!?
今、調子に乗って「俺に彼女ができて動揺してんのぉ? かわいいー」みたいなことを口走ったら指の一本くらい折られそうな予感がある。
いやホント何に不満持ってんだ、意味わからんなこいつ……。
「とにかくそういうことだから。行きましょう、春乃先輩」
「えぇ、行きましょ。信二郎」
そう言って俺に腕を絡ませ、自然な感じで密着してくる春乃先輩。
この人も中々に演技派……というか女子って全員そうなんじゃないかと思えてきた。
しかしこの突発的なイベントでも小夏に相当のダメージが入ったはずっ! 入っていて欲しい! そんな期待を胸に満面の笑みを浮かべ、春乃先輩と屋上へ向かう俺だった。




