4.俺は失恋したような気分にさせられただけ
五月下旬にあった中間テストが爆死した。平均点から考えるとそう言わざるを得ない。
中学のおさらいを交えた部分もあったのに、あまりにもひどい点数だった。
特にひどかったのは日本史や世界史など、人の名前を書く機会が多い科目だ。
ふとした時には東雲小夏と書いていたり、猿人や原人、旧人や新人といった部分を全て渡会真人で埋めている答案が返ってきた時はさすがに俺も驚いたものである。
「真田ぁ。貴様、あとで生徒指導室に来るように」
「はい……」
日本史担当のクセにスフィンクスな担任に呼ばれ、柚本に付き添ってもらいながら生徒指導室へ向かうと、そこには先生と保健医がいた。
てっきり叱られるのかと思っていたので驚いたが、ひとまずは机を挟んで対面のパイプ椅子に座る。柚本も心配そうな顔でこっちを見て、言ってくれた。
「ひとりでだいじょうぶ?」
「うん」
「そっか。じゃあウチ、女バスの集まりあるから行くね。またあとでね、信二くん」
柚本は先生たちにぺこりと頭を下げ、生徒指導室から出ていった。悲しい……。
最近やたら一緒にいることが多く、なんとなく近くにいないと寂しさを覚えてしまう。
単純接触効果からくる勘違いなんだろうけど、心神喪失……は誇張し過ぎか。
とにかく傷心の俺には心地良い距離感だった。ありがとう、ママぁ。
「ふむ、柚本はまるで貴様の母親だな」
「はい。最近は段ボールのベビーカーで遊ぶのがエクスタシーです」
「えぇ……これは、聞いた通り相当に重症のようですね……」
「のようで。では単刀直入に訊くが、貴様は東雲小夏のことを好いていたが失恋したと。そういう可哀想な失恋男子の前提で話を進めてよいな?」
その言葉は弱い俺の心を傷つけたが、事実は事実。いつか物理で抵抗する。
という衝動を抑え、歯を食いしばりながら反抗的な首をどうにか縦にうなずかせた。
「せ、先生。生徒に貴様はあまり適切ではないと思いますがっ」
「貴方様と書いて貴様と読むこと、ご存知ではありませんかな?」
「そ、そういう話ではなく……」
「いいんです、気にしないでください。俺はゾウリム信二郎とかでも構いませんし」
「……はぁ。ともあれ真田くん、でしたか。何だかここ最近、保健室によく来るのでもう覚えちゃいましたよ……まずはお茶でも飲んで落ち着いてください」
促されるまま急須のお茶を注がれ、茶碗に口をつける。
温かさが全身へと行き渡り、心までもが満たされる――わけない。そんなにお茶が万能ならもっと人類皆ハッピーのはずだ。そうじゃないってことは、そういうことだ。
「ではまず、先生から。失恋エピソードをおひとつどうぞ」
「ふむ。私は日本史一筋ゆえ、浮ついた話など……ふっ、そんなもの一つもありません」
「「ど、どの頭が……」」
少なくともスフィンクス頭な人間の台詞ではなかった。確かにうちの高校は〝自由〟と〝自立〟を重んじる校風だと校長が言っていたはずだが、ちょっと自由過ぎると思う。
「仕方がありませんね……ここは、私のとっておきエピソードを披露する時のようです。気絶する覚悟の準備をしておいてくださいね」
「か、覚悟が必要なんですか」
「大丈夫、じきによくなります」
「ふっ、私は経験が皆無ですから。自分語りなどに負けるはずがありません」
「あの、これ一応。おば――じゃなくてカウンセリングのていなんですよね……?」
「では、いきますよ。あれは、私がまだ。全身脱毛を決意する前のことでした――……」
保健医が語りはじめると、時間が流れるのはあっという間だった。
それでまぁ、カウンセリングのような何かを受けてその結果わかったことは、保健医の脳みそがすでにボロボロだってことだけである。
なにせ出だしから〝あるところに仲良しの幼馴染が三人いました〟なんてワードだ。
予想される結末はあまりに非情なので、脳が理解を拒むのは当然だし、そもそもそんな話は壊れ切った脳みそにはあまりに刺激が強すぎるだろう。
ともあれ保健医いわく、小学生くらいまで自分の方がカレと仲が良かったらしい。
何をするにしても常に三人一緒だったけど、カレはいつもカノジョより自分を優先してくれたという。あぁ、何という負けフラグ。この時点で目がチカチカしてきた。
中学時代も仲良くやっていた――つもりだったそうだ。
保健医は中二からカレを異性として認識しはじめて、高校も一緒になれたら告白をするつもりで勉強や部活を頑張っていたらしい。
何と言うかもう、聞いてるだけで頭蓋が割れそうだった。
そして、三人とも同じ高校へ推薦での入学が無事決まった二月の冬。
義理チョコをカレに渡した後。改めて呼び出して本命チョコを渡そうと思ったはずの、雪の降る公園で――カレとカノジョは、キスをしていたそうだ。
やめてくれ、それは死ぬ……。
「わたしたち、一年前から付き合ってるんだよね……ごめん、ごめんね」
「ずっと言えなかったけどお前さ、毛深くて汗っかきで。だからす……その、な……?」
その日から大学に進学するまでの三年間は本当に地獄だったらしい。
二人とギクシャクして自然と距離が生まれ、生徒会長な吹奏楽部部長とバスケ部主将で全国大会まで行った、校内ベストカップルを見上げる日々だったそうな――おしまい。
その結果が御覧の有り様らしく。現在、独身38歳。キス未経験らしい。
こんなにかわいそうな生き物ってこの世にいたんだ……って感じだ。生きてたって辛いだけだろうに。南無。誰か介錯してやってくれよ。言うまでもなく、俺は嫌だけど……。
「ぶくぶくぶぶ、ぶっ」
スフィンクス先生は想像力が豊からしく、泡吹いて気絶していた。
失恋経験ないとか言ってたけど、やっぱりそんなことないらしい。脳は正直だ。
もちろん俺も意識を失い、保健医も思い出し失神したようで。五時間目の途中で柚本が探しに来るまでその状態を維持。学年主任にめちゃくちゃ怒られるハメになった。
*
放課後。説教とテスト赤点組の居残り補習を終え、俺は途方に暮れていた。
同じ補習を受けていた柚本は元気よくバスケ部へ向かい、成績上位のくせに柚本に付き合っていた飾森も美術部に消えていってしまったのだ。
淡い夕暮れが情けない顔を照らす。と、四階の教室を出た廊下からは別校舎一階にある家庭科室がよく見えた。ふと瞳の奥に小夏の微笑む顔が映り込む。
友達と楽しそうなにかを作っていた。いつも通りの姿に思わず俺の頬も緩んだ。
「――――っ!」
反射的にしゃがみ込んで隠れる。今、一瞬……小夏と目が合ったような気がしたのだ。
まぁさすがに勘違いか気のせいで、俺の自意識過剰なのだろうけど!
でも、なんだか嬉しくてひとりで気味悪くニヤケてしまった。
そして帰り道。俺はまるで吸い寄せられるように、体育館の奥側にあるテニスコートに来ていた。遠目に幼馴染の彼氏を眺める俺は、たぶん相当キモい存在だろう。
最近はいつもこうだった。俺は実はドMだったのかもしれない。
自分でも最低だと思うが、渡会先輩のミスを見るのが楽しみな自分がいた。
内心では人間的格差に絶望しておしっこを漏らしそうになるうえ、現実は先輩へ向けた黄色い声援が大量で気が滅入る。彼女の有無なんて関係ないらしい。
――で。肝心の小夏とは、あれから結局。縁が切れたってことにはならなかった。
話の内容は毎度のごとく記憶が飛ぶので不明だが、やっぱりあいつの中に存在している〝仲良しの幼馴染〟っていう俺のポジションは揺らいでいなかったらしい。
でも、朝の登校に関しては。俺は逃げるように時間を早朝にズラした。
「はぁ……」
思わず今日で何十回目かのため息が出て、日が当たる場所から視線を外す。
それから悪い意味で興味を惹く存在へ、つい誘惑に負けて目を向けてしまった。
(つーか、さっきからマジで何やってんだあの人は……いや、見たままなんだけど……)
女が体育館裏に生えてる雑草を泣きながら食っていた。
名前は知らない。立ち寄ると頻繁に見かける一つ上の先輩である。
興奮気味にアヘってたり、無表情だったり、白目を剥いてたり、よだれを垂らしながら指をちゅぱっていたりで。基本、人前に出しちゃいけない表情をしていた。
一見ヤバそうで本当にヤバいひとで、可能な限り関わりたくないタイプである。
(けど、うまそうに草を食うひとだなぁ……)
もしやあの先輩だけが知ってる珍味なのかもしれない。
ちくしょう、俺も食ってみよ~……――むしゃむしゃ。あ、うめぇ~。どおりでいつも食ってるわけだぁ。なるほどなぁ、こっちのはどんな味すんだろぉ~なぁー。
そのまま一本、二本と食べ続け、止まらなくなった時。突然、誰かに手を掴まれた。
振り返ると自治会所属の証明である腕章――しかも【会長】をつけた上級生の女子が立っており、彼女は言動から恐らく親切でアドバイスをくれた。
「ふむ。雑草を抜くこと自体は良い心掛けだが、捨てるのが面倒だからと食べるのは感心しないな。一年D組、出席番号14――真田信二郎」
どこか無機質というか無垢? な印象の人だった。語彙力のなさが悔やまれる……。
たとえば飾森が情緒豊かなのに、あえて感情を抑えている成熟機械ならば。
この先輩は長く生きているのに、情緒が発達していない無垢の知性を感じると言うか、平然ととんでもないことをしそうというか……そんな感じである。
「あ、お恥ずかしいところ……すみません、す、す、す……――会長!」
「失礼、こちらは一方的に知っていて名乗っていなかった。悖徳高校二年、学生自治会の会長をしている周防冬毬だ。冬に毬と書いてトマリだぞ。ふふ、どうだ。可愛いだろう。それにしても君は食事に恥を覚えるのか? 変わっているんだな」
「え、いえ……あ、はい」
会長の方がよほど変わっていると思う。自覚はなさそうだけど。
しかし何度聞いてもひどい校名だ。背の文字を変えるとか、道徳に反さない精神を育むとか色々こじつけても、創立者が生徒と不倫をしている時点で説得力は皆無だ。
それから周防会長は薄い銀髪ポニーテールを一切揺らさず、凛とした表情を崩ないままウマい草を一口かじってペッと吐き出した。まずかったようだ。味音痴なんだなぁ。
「えぇと、会長はここへは何を……も、もももしかしてわ……渡会先輩目当てですか?」
「? 何故そう思う。私はただ、アレを回収しに来ただけだ」
「アレ?」
「アレだ」
目線で促された先。腹いっぱいになったらしいアレは、投げやりにぶっ倒れていた。
靴は片方だけ脱げ、スカートはめくれて、へそがわずかに見えている。およそ女らしい部分は感じられない。アレは人間だ、と思う。たぶんおそらくきっと一応……。
流れに身を任せ、俺は会長の後に続いてピンク頭の推定人間のところへやって来た。
「起きろ、春乃。風邪を引くぞ」
「……風邪引いたら、真人。看病しにうちに来てくれると思う?」
「それは来るだろう。もちろん、彼女より手厚くはない」
即答だった。春乃と呼ばれた先輩も「うぅうう」と涙目になってうなだれている。
あ、なんかすごいデジャブ。俺も風邪引いたら小夏、看病に来てくれるかなぁ……。
「ていうか隣の誰よそれ? 新しいペット?」
「いやペットはおかしいでしょ」
「彼が君の会いたがっていた真田信二郎君だ」
「――――っ! 同志よ!」
俺の名前を聞いた途端。先輩は起き上がって両手をがっしり掴み、握手してきた。
なんで俺の知らない人が俺に会いたいんだよ! つーかさっきまで指しゃぶってたよなこいつ……なんて思った時にはとっくに指先が妙にヌルヌルしていた。
「あたしは久住。久住春乃よ。以後よろしくするわね、真田後輩!」
「あぁ……クズなんですね、やっぱり」
「せめてクズミーとか愛称で呼んでくれないかなぁっ! ていうか初対面でもブッ込んで来るわね、キミ! じゃなくてやっぱりってなにぃいいいいいいいっ!?」
(う、うるせぇ……)
無駄にハイテンションな感じの性格だったらしい。小夏とは似ても似つかない女子だ。
品性の欠片もない。こういう人を好きになるヤツなんて絶対同類だろうなぁ、こわー。
「え。だって……先輩、明らかに頭おかしい人じゃないですか。異常ですよ」
「最近はよく言われる、言われるけどぉ! おかしい即バレは絶対おかしい!」
自覚がない時点で手遅れだと思う。こういう人こそ反面教師にしないとな。道徳大事。
「幼馴染相手に失恋した者同士での争いとは楽しそうだな。良かったじゃないか、春乃」
「「失恋はしてない(です)っっ!!」」
「息もぴったりだな」
ははは、と。無機質な愉快さで周防会長が笑う。
反射的に否定をしたが、完膚なきまでに失恋だと思う。虚しい。
いや、けどそっか……先輩も渡会先輩が好きで、傷ついたからあんな奇行に。
「あたしは……そう、失恋してないっ! あくまで失恋した気分になっただけ! もっと言えば失恋したような気分にさせられたの! ひき逃げに遭ったようなものっ!」
「――――ッ! そう、か……俺は、俺はまだ振られてはいない? 勝手に振られた気分になっていただけ……言われてみれば告白もしないで振られるとか、失恋とか……えっ、あれ。なんで気づかなかった……先輩これ、100年に一度の世紀の大発見ですよ!」
そうだよ! 俺はまだ好きって伝えたわけじゃないんだ。
ただ小夏に、か……彼氏ができただけで! 俺が振られたって事実は、なんとまだ確定していない。告白するまで俺はまだ失恋していない! 全ては未確定!
胸がすくような爽快感だった。脳内を駆け巡る充足が脳を回復させていく気がする。
「ふふん、でしょぉ~。どう、あたしを崇め奉りたくなった?」
「はいっ! 久住先輩! よっ、選ばれし者っ!」
「ん、失礼。疑問だが今、話しているのは日本語か? それに君達は選ばれなか――」
「だまらっしゃい! とにかく失恋してないッ! 振られてないッ! さんはいっ!」
「俺はまだ振られてないッ、まだ失恋してないッ!!」
「あたしはまだ振られてないッ、まだ失恋してないッ!!」
何度も繰り返し叫んだ。人目も気にせず、力の限り声を振り絞る。
言葉にしていると段々、それが事実のような気がしてきた。言霊ってすげー。
てことはやっぱり、俺は振られてもなければ失恋してもなかった……っ! 俺はなんて馬鹿なんだ……! まぁ、それはさておき濡れた指は先輩の制服で拭かせてもらうけど。
「「うぉおおおおおおおおおおおおっっっ!!」」
「???????」
俺と久住先輩はすぐに意気投合し、【SOS同盟】を結成! 盟友になった!
そして、翌朝。一ヶ月ぶりによく眠れ、目が覚めた俺はこの世の全てを理解した。
「――んなわけあるかッ。失恋したし、振られたんだよこの……バカ野郎ッッッ!!」
危ない危ない。危うく騙されるところだった。あの人やっぱヤバいひとだ。
もうとっくに脳が破壊されて思考が支離滅裂になっている。かわいそうに……。
俺は失恋したのだ。幼馴染の東雲小夏には渡会真人っていう彼氏ができた。
それが事実。その事実だけは何があってもひっくり返っ……てくれたりしないかなぁ。
情けない思考をしながらも支度をし、物音を立てず、隠れるようにこそこそ家を出る。
隣の東雲家を一度見上げ、泣きたくなるのを堪えてひとり、いつもの通学路を進んだ。
けれど、少し行って角をいくつか曲がった先。
いるはずのない彼女が――うつむき加減の小夏がいた。いてしまった。
思わず「おはよ」と言いかけ、やめる。わざわざ時間をズラしているのに小夏が先回りしてここにいる。どういう話になるか、ある程度想像力が働いて当然だった。だから、
「――先輩と、行けばいいだろ」
「え……」
「え、ってお前……ほら、俺といて勘違いさせたら申しわけないだろ。付き合ってる人が自分以外のヤツと歩いてるなんて……可能な限り見たくも知りたくもないだろ」
「そ、それは……でも――……」
何か言いたそうだとすぐにわかる。幼馴染なんだから。ずっと一緒にいたんだから。
「それは、でも……なんだよ?」
「う、ううん。なんでもない……ごめんね、しーちゃん」
謝ることはねぇだろ、と口に出さなかった。
それっきり小夏は黙り込んでしまい、気まずい空気が流れる。走って逃げだそうかとも思った。逃げ出したかった。でもそしたら追いかけようとして、たぶん転ぶだろうから。
それを見て見ぬフリして先を行くことなんて今の俺にはできない。
だから俺は一定の距離を保ったまま通学路を歩き続けた。
校門の前まで来ると、聞こえていた足音が止まる。
思わず俺も足を止め、振り返った。小夏はなにか迷ったような表情を浮かべ、言った。
「あっ、あのねっ! しーちゃん、私――――……」
「今度はなん――」
結局、この時。小夏が本当は何を言おうとしたのか。
それを知ったのは、ずいぶん後のことになる。
やがて紡がれる言葉が音に成ろうという瞬間。彼女は――俺の前に現れたのだ。
「こんのっぉおおっ、裏切りもんがぁああああああああッッッッ!!」
「なッ! だ、誰っ……ク、クズ――うゴがバなッ!?」
フシュウウウウッ! という謎の音と蒸気を連れて突っ込んできているのは、辛うじて人間。しかも先日、共に涙を流して【先に好きだった幼馴染が付き合って失恋した気分にさせられた同盟】を結成した久住先輩だ。間違いない。
先輩は真正面から俺の下半身へ。容赦無用の殺人タックルを仕掛けてきた。
とっさに頭をカバンで保護しなければ、たぶんヤラれてたんじゃなかろうか?
まぁ。そんなことを思った頃には、当然のように俺は気絶していたわけだが――……。
けど今では思う。もしこの日、先輩が弩級の殺人タックルなんて凶行に走らなければ、俺はあんな不純極まりない選択をすることもなかったのかもしれない、と。