幕間 好きなひとが彼女じゃない子と楽しそうだった
「せふせふ、セーフ!」
予鈴が鳴って少し後。バスケ部の朝練を終えたウチは、なんとか教室に滑り込んだ。
走って乱れちゃった髪と呼吸を急いで整えながら、いつものように笑顔で後ろの席――信二くんに声をかける。中学時代からずっと好きな男の子だった。
「おはようっ、信二くん」
「ん。あぁ、おはよう柚本。今日はギリギリだったな、いつもより」
「ちょっと長引いちゃった。一年は片付けあるし、なおさらね」
席替えをして前後になってからというものの、前みたいに何か理由を付けて声をかけに行かなくても自然と会話ができるようになってとても嬉しいのです。えへえへ。
(で、でも今日はホントに急いでたからちょっと……)
汗が大丈夫なのか気になる。匂ったり……す、透けたりしてないよね? 特に背中!
知らないとこで嗅がれたり見られたりされると思うと、さすがにとっても恥ずかしい。
……瑞希ちゃんだったら、むしろ咽させればいいじゃないとか言いそうだケド。
「――呼んだかしら」
「うおぁっ!? 急に死角の下から飛び出してくるなよ、飾森。びっくりしたぁ……」
よ、ヨンデナイヨ。一応、心の中で返事だけはしておこうと思います。
そんな弁明をしていると、瑞希ちゃんは鼻をすんすんと鳴らしてウチの匂いを嗅いだ。
「ところで秋那、少し汗臭くないかしら。ねぇ、試しにダーリンも嗅いでみてくれる?」
「「――――ッ!?」」
ダメだよ、瑞希ちゃん。それは仮に受け入れられても、断られてもなんか気まずくなるやつだよ! ほら見て、信二くんも困ってる! ウチも困る! 共倒れなんだよ!
「……い、いやそれは……ママに悪いだろ。な、なぁ?」
「そう? せっかく秋那がいいと言っているのだし、嗅いだ方がいいんじゃないかしら」
「み、瑞希ちゃんっ!? べつに言ってはないよっ!?」
「あら、嫌なの?」
「ぅえっ、い……嫌とか。そ、そういう話じゃなくて……ね、ねぇっ?」
きょ、教室だし。皆いるし。嗅いだり嗅がせたりって………え、えっちだと思うっ。
そもそもウチと信二くんは、彼氏彼女じゃないんだよ。残念ながら……残念ながらっ!
「…………まぁ、それもそうか」
「へっ?」
信二くんの返事に、ついきょとんとしたその瞬間。
なんと、まさか、予想外にも、ウチは嗅がれていた。信二くんに、頭の匂いを。
「……はわわ」
頬が熱い。全身が緊張だったり興奮だったりで、ぶわぁってなるのが分かっちゃう。
信二くんの後ろで気だるそうに頬杖をついてた姫子ちゃんも、明らかに「うわ、こいつマジかぁ……」って言いたそうな顔でドン引きしてた。
あぁっ、ごめんね。ウチのせいでまた信二くんの評判が落ちていく音がするよ……。
と、いきなりのことにぼうっとしてたら、ガラガラと音が鳴って担任がやって来た。
「そら、何を立っている。疾く席につくがいい、貴様たち」
偉そうなのに偉く感じない声に促され、皆は自分の席に戻っていく。
スフィンクスの被り物も含めて、川島先生は本当に不思議だと思うウチです。
ハッとした頃には信二くんも離れ、瑞希ちゃんに至っては窓際の席まで一瞬で移動していた。やっぱり忍者の末裔か何かなんじゃないかと思う。
「こほん。では早速ホームルームを……と言いたいところだが、まず初めに自治会からのアンケートがあってだな。内容は今月の〝全校レク〟についてと聞いている」
全校レクリエーション。それは月に一回程度、学生自治会の人たちが開く催しであり、生徒全体の結束を深めるためとかの理由で行われるものらしい。
前回と前々回は〝自己紹介インディアンポーカー〟と〝全力ドミノ倒し〟をやった。
「…………え?」
そして、配られた記名制のアンケート用紙には、はっきりとこう書かれていた。
――今現在、あなたには付き合っている相手がいますか、と。
*
「あぁむっ、むしゃむしゃ。んぐっ、んぐっ」
昼休みの学生食堂で聞こえてくる、何とも反応しづらい咀嚼音。
音の発生源はウチの隣。最近、友達になった前園詩乃羽――詩乃羽ちゃんである。
今、ウチは瑞希ちゃん、小夏ちゃん、詩乃羽ちゃんとご飯を食べている最中だった。
「……前園さん、あなた。本当に絶望的なまでのクチャラーなのね」
「えっ……あ、あれ? だ、ダメでしたか?」
瑞希ちゃんがストレートな指摘をすると、目に見えて萎れていく。それから、ちらりとウチと小夏ちゃんの反応を見てくる詩乃羽ちゃん。な、なんて言えばいいんだろう。
「ま、まぁ。でも意識すれば割と治るって聞いた気がしないでもないし。ねっ!」
「私、ママに聞いたことあるけど確かねぇ……不規則で一定の高さじゃない音をイヤって感じるらしいよ? だから同じ高さでクチャクチャすればいいんじゃないかなぁ」
「! そうなんですか。いいですね、それ。今度、練習しようと思います」
その時間を物理的な矯正に当てた方がいいんじゃないかな、とウチは思った。
「でもやっぱり周りを不快にさせるならやめるべきですよね……――このキャラ付け」
「キャラ付けだったのっ!? 何故にそんなことをっ!?」
気にしてたら悪いと思ったのに、とんだ思い違いだったらしい。
詩乃羽ちゃんは人差し指をすり合わせながら、沈んじゃうような重さで続ける。
「だっ、だってわたし……キャ、キャラが薄いじゃないです、か……薄いというか、最早虚無……だから、何か一つこ、個性をと思ったんですけど……」
「そ、それでクチャラー……(なんで?)」
「自分探しは悪いことではないけれど現状、ただのアホという印象ね。髪を切って目隠れというビジュアル面の個性を、自分で半分捨ててしまったわけなのだし」
「んー? 私、分からないけど。そもそも詩乃ちゃんのキャラ? って薄――」
「とんでもなく薄いんですよ! じゃあ、誰か答えてください! わたしについてを!」
小夏ちゃんが小首を傾げると、彼女はそれを食い気味に否定する。でも、
「えっとねぇ。中学校では手芸部で文芸部に入るつもり、男の子の同士の友情が好きで、飲食店のアルバイトに応募するのが目標。嫌いなものは……幸せそうなひと、だよね?」
「なんでっ、わたしなんかの四月の自己紹介ちゃんと覚えてるんですかぁああッッ!」
そうそう。なんかそれで不幸オーラというか、誰にも触れさせないみたいな独特な壁を皆感じちゃって、詩乃羽ちゃんは……その、ちょっと浮遊してる感じだったのである。
「え~。私、勉強は苦手だけど、ひとの話はちゃんと聞いてるほうだよー」
「そうね。少なくとも秋那よりは確実に教えたことを覚えているわね」
「ゴメンナサイネ!」
「…………しゅきぃ」
かつてないほど澄んだ瞳で両手を合わせ、詩乃羽ちゃんは逆ギレ風味に拝んでいた。
たぶん「しゅき」とかも内心、無理して使ってるんだと思うとこっちも心苦しい。
「そ、それにしても。こ、ここ数日でいきなり情緒不安定になったよね、詩乃羽ちゃん」
「安心してください、家に帰ったら押し入れでちゃんと発狂してますからっ!」
「うん、早く一緒にキャラ見つけて落ち着こうねぇっ!?」
このままだと〝キャラを見失って迷走してるキャラ〟になってしまう気がする。
と、そんなことを思っていれば、ウチたちに声をかけてくる女の子がいた。
「――ね。他に空いてないんだけど、ここ一緒していい?」
「あっ、姫ちゃんだ~。混んでるもんね、もちろん。座って座って~」
小夏ちゃんが笑顔で場所を詰めると、姫子ちゃんは「ありがとう」と言って席につく。
朝霧姫御子。この子の自己紹介はさすがのウチも印象に残っている。
とてつもない圧を放ち、〝絶対に本名で呼ぶな〟と全身で訴えかけていたからだ。
「姫ちゃん、ひとり?」
「うん。今日は私、ひとりで学食の気分だったから」
「そうなんだぁ、自由だねぇ」
小夏ちゃんがぽやぽやした感じで楽しそうに笑う。
確かに姫子ちゃんは自由というか、ちゃんと自我を持ってるというか……女の子特有の周りに合わせる性質みたいなのはあんまり持っていないと思う。
そういう意味では一人の時間が長くても、詩乃羽ちゃんとはまるで違うタイプだ。
「あ、柚本さん。今、わたしを見ましたね。でも残念、わたしと朝霧さんは他人です!」
「んー、最初からそうなんじゃないかなぁ……」
「そうね。前園さんはただ〝孤独〟で、朝霧さんの場合は〝孤高の人〟だから」
「あっ、あっ、ちょっとわたし、引きこもってきますね。雪山に」
「なんで雪山?」
「うッ――――……」
姫子ちゃんが平坦に聞き返すと、ボケに説明を求められた詩乃羽ちゃんが凍死した。
*
すっかり日も落ちた放課後。気品が感じられなくもない校門付近。
部活を終えたウチは、女バスの友達と楽しく歩いている――はずだった。
全ての始まりはそう、それを見つけてしまった子の一言が原因である。
「あれ? 秋那のあれじゃない?」
「どれ? ……あ、ほんとだ。ん、でも隣にいるのって……うちの制服じゃないよね」
「そうだね、遠目でよく見えないけど。てか、真田くんだっけ? 彼女いるんじゃ」
そこまで言ってからハッとし、揃ってウチを見た。なにさ! えぇ、そうですとも。
皆がウチより信二くんを早く見つけられるわけないじゃんよ! ぬわァアアアあっ!
「…………」
「どうする、皆でちょっと後ついてってみる?」
「え。いやわたし、この後塾だから……」
「私も……」
「提案しといてなんだけど、実はあたしも寄りたいとこあるんだよね」
なんだよ、というツッコミの後。沈黙が流れ、視線が改めてウチに集まる。
そうして自然と道の真ん中で集まってしゃがみ込み、声をひそめながら続けた。
「……ぶっちゃけさ、まだ好きなの?」
「わっ、単刀直入」
「でも大事だよ。次の恋愛を見れてるのか、未練たらったらのタラちゃんなのか」
「まぁね。高校生活三年間、ずっと彼女がいる男を眺めてるだけでいいの、とは思う」
皆の指摘は本当にその通りだと思う。それでも、中学生時代ずっと好きだった気持ちにさよならを言えるようになるには、まだ時間が足りないような気がする。
もしかしたら時間の問題じゃないのかもしれないけど。でも、そうだとしてもウチは、好きなひとに彼女がいる。それを知ってもまだ言える。言えちゃう女の子なんだよ。
「まだ好き。大好き……タラちゃん、です」
「「「ぅ、ひぃあ…………」」」
皆が揃いも揃って顔を赤くして手で顔を隠しながら、にやけた感情は隠してくれない。
は、恥ずかしすぎる。殴り飛ばしてやりたい、と思わずにはいられないよ!
「でもさ、あれ……浮気ってこと?」
「いや、帰り道が一緒なくらいでそれは束縛系の発想じゃない?」
「えっ、でも真田くんって確か。秋那と同じで電車通学でしょ?」
「う、うん……」
ごくり、と唾を飲み込む音が耳に届く。
「個人的におすすめはしないけど……つまり」
「今見た光景から得られる情報だけで判断すると、つまり」
「三股愛人枠からの昇格路線だけは、ある……」
「あ、愛人……」
三人がこくりと頷く。愛人という言い回しは大げさだと思うけど、実際のところウチが選べる道は三つしかない。諦めるか、待つか、奪って成り上がるか――――だ。
けど正直、ウチに第三の選択肢へ進む度胸は、ない……。
倫理的にダメだって思うのもそうだし、仮に奪えたとしても、じゃあ今度は奪われない保証がどこにあるのと考えてしまう。一度浮気するひとは、またすると思ってしまう。
(でも、だけど……信二くんからそう求められたら、ウチは。たぶん――――……)
妄想の世界に入りかけ、思わず頭をぶんぶんと振った。
その後。用事のある三人は帰宅し、ウチはひとり取り残される。
「……今から追いつけるかな」
ダメもとで二人が消えた方角へ走り出す。するとあんまりペースが早くなかったのか、奇跡的に追いつくことができた。それからウチはこそこそと後をつける。
何を話してるんだろう。楽しそう……なんか最近、自分以外の女の子と話してるとこを見ると、やっぱり全部楽しそうに見えちゃう。嫉妬……嫉妬だよなぁ、うぅう……。
「――――ね、何してるの?」
「ワォンッ!」
「うわぁっ!?」
びっくりして振り返ると、そこには私服姿の姫子ちゃんと大型犬がいた。
「ひ、姫子ちゃん……と、でっかい犬」
「ショーグンっていうの、この子。散歩中毒だから散歩中」
「そ、そうなんだ。よ、よろしくねショーグン」
人馴れしているみたいで、ショーグンは元気よくワォンと返事をしてくれる。
可愛い。うん、やっぱりストレスには甘いものと癒してくれる動物だよ! えへえへ。
「そういうあんたは、こんなとこで何して―――げっ、真田」
げっ、真田って。どうやら姫子ちゃんの中で信二くんの評価はかなり低いみたいだ。
「それで隣は……あれ、あの子……」
「知ってるの、姫子ちゃん」
「うん。こっちの方じゃ割と有名だよ、めちゃ大きい小学生……あ、今年で中一かな」
「ちゅ、中一いぇえっ!?」
大学生だと思った……えっ? う、ウチより圧倒的に大人の色気が……。
で、でもなんだ。中学生だったんだ……じゃあ、変な関係とかじゃないんだろうなぁ。
そっか、そうなんだ……だよね。ウチの好きなひとはそんな不誠実じゃないもんね。
「……ねぇ、柚本さん。もしかして――がっかりしてる?」
「が――――っ、がっかりなんてしてない! ないないっ、あり得ないよ!」
誤魔化しながらウチは、歩道橋に上がっていく二人の背中を追いかける。
その時だ。少し強い風が吹き、スカートが見事にめくれ上がった。
「……またイルカ見ちゃったよ」
「イルカ?」
「変な期待してるなら悪いけどさ、なんか真田の恋愛同好会……? で一時的にあの子の面倒を見ることになったんだってさ。本人がそう言ってた」
「面倒……え? つ、つまり単なる部活の……後輩の、見送り?」
「そゆことじゃないの」
な、なるほど。中一だし、女の子だし……そういうこと、だよね。
「ほら、がっかりしてる」
「! そ、そんなことないっ」
「ふぅん。ま、恋愛の価値観なんて人それぞれだし、否定はしないけどさ。私からするとあんな変態、ショートケーキに付いてる葉っぱ以下だ」
姫子ちゃんは小悪魔っぽい顔で笑い、信二くんへの不満をこぼす。
それからついウチの好きなひと悪く言わないで! なんて口を滑らせたら案の定、呆れられてしまった。




