30.Nの意志を継ぐ者
評価が入っていると分かると、やっぱり自然と筆が少し早くなりますね……。
ありがとうございます。
「ぁ、ぱぁ…………」
湯船に浸かりながら俺は、あぱぁと思った。
口もずっと開けっ放しで、表情筋が死んでいくのがなんとなく分かる。
衝撃の真実を告げられて、かれこれ数時間この調子だった。まるで他人事のように自己評価してしまうのは、たぶん実感なり現実感がないからなんだろう。
父親の不倫――というか、ほぼ二重生活の発覚。
小夏に彼氏ができた時に受けたものとは、明らかに別種のダメージが心にあった。
結論から言えば、米良茉莉――中等部一年で父と同じくサーフィンが好きらしい彼女は正真正銘、俺の腹違いの妹ということになるようだった。
ご丁寧にDNAの鑑定書まで用意しており、99.8パーセントお義兄ちゃんである。
彼女の母は生まれつきの持病から入退院を繰り返すほど身体が弱かったが、ここ最近で悪化してしまい一年ほど入院しているという。
具体的なところは息子の俺の前だとぼかしていたが、察するに道端で倒れたその相手を介抱してどうこうみたいな感じなのだろうと思う。
そして茉莉ちゃんのお母さんは、もうあまり長くないそうだ。
これは彼女も承知だったようで、とても大人びた様子で淡々と聞いていた。
今までどうにか十年以上も騙し騙しやってきたものの、これ以上は不可能と判断しての自白だそうな。まぁ、そうだよな。できるはずがない、物理的にも心情的にも。
確かに出張多いなぁと小さい頃、思った気はするが……にしても、事実婚不倫とは。
「ぴゅっ、ぴゅっ、ぴゅるるるるるぅっ」
とりあえず、俺は両手で筒を作ってお湯を発射して遊ぶ。
話の整合性から考えれば、茉莉ちゃんの母親とその唯一の肉親である祖母は、父さんが既婚者だと途中から気付いていたのだろう、と俺は思う。
黙っていた理由は、年齢……あるいは不安や孤独だったりするのかもしれない。
つまり父さんは、まだ中学生である茉莉ちゃんの将来のためにこの選択肢を取らざるを得なかったのだ。具体的にはウチで一緒に暮らしたい、と。そんなお願いだった。
曇った天井を見上げて「はぁ」と白いため息をつく。
「真っ当な土下座なんて、人生で初めて見たよな……」
それから風呂を出た俺は、自室の窓を開けて夜空を見上げてまた黄昏る。
昔はよく窓越しで小夏と会話することもあったけど、思い返してみれば高校入ってから一度もやっていない気がする。やっぱり今のトレンドは彼氏と夜の寝落ち通話か?
「二重苦だ……」
適当にティッシュを一枚取り、くしゃくしゃに丸めて小夏の部屋の窓に投げる。
結果としてたぶんそれは、とんでもない偶然を呼び込んだ。
「あいたっ」
タイミング良く窓を開けた小夏のおでこに直撃したのである。
三角コーンを上下で逆さに置いたような顔で幼馴染は小さく唸る。可愛い。
「い、いきなりひどいよ。しーちゃん! み、見てたの?」
「お前が急にカーテンと窓をいっぺんに開ける、なんて変なことするからだろ……」
まぁ……気付かないかな、って期待はちょっとあったけど。
はっ、そうかこれが波長とか周波数が合うってこと! なんだそうか、やっぱりな!
「と、ところでしーちゃん?」
「ん?」
「どうして裸なの……?」
「? ただの風呂上がりだぞ。それに裸じゃない。靴下は履いてる、パンツも」
「ふぇ? あっ、そ、そうなんだ…………どうして?」
どうしてだろう。真相はこの夜の帳の中。
とりあえずクソ寒いのでさっさと着替え、俺は改めて小夏と窓越しに対面する。
途端、小夏は俺の顔をまじまじと見つめて花が咲くみたいに笑った。
「えへへ。なんかすごく久し振りだね、こーいうの」
「そーだな。久し振りだ」
「ね、しーちゃん。なにかあった?」
「ん。あぁー、まぁ。なんで?」
「ママがちょっと気にしてたのもあるけど……しーちゃんの顔にそう書いてあるもん」
そう書いてあるらしい。意外と顔に出やすい……いや、今のは思わせぶりだったか。
それにそうだよな、昼間に怒鳴ってたなら近所に聞こえた可能性もあるわけだ。
「どうせ母さん、おばさんには話しそうだよな……でも、なんて――あ、小夏。LINE送るからそれ見ろ。正直、外でぺらぺら話すような内容じゃねぇんだ」
「そうなの? でもうん、分かった」
俺はスマホを取りにいったん離れ、父さんの不倫と茉莉ちゃんについて要点をまとめて送信する。ひと通り目を通した小夏の反応は、まさに目が点だった。
「これは……そう、だね。な、なんて言えば、いいのかな……私」
「えへへ、大変だね。とかでいいんじゃねーの」
「しーちゃん……だいじょぶ?」
「どうだろ。微妙かも」
でも小夏の顔を見て、少しは元気が出てきたかもしれない。好きな人の声を聴くだけで――とか言ってると、本格的に恋愛脳のメンヘラ感出てくるな。まずいまずい。
「なんてーのかな、自信なくすって感じでさ……」
「自信?」
「そ、自信。全然そんな風に見えなかったというか……いや、違うな。そういうの、頭の片隅にもなかったから。まだちょっと……驚いてる」
「そうなんだ……」
「そうなの。ずっと昔から知ってる身近な人が予想外の実は……なんてされたらもう驚くしかなかったわ。少なくとも俺は。それこそ小夏が――――」
裏で俺の陰口を叩いてた、とかの事実が発覚したら発狂する自信しかない。
思わずそんなあり得ないはずのことを言いかけて、咄嗟に唇を強く結ぶ。
「……私が?」
「実は、サンタさんをまだ信じてるとか」
「さ、さすがにもう信じてないよ!」
「じゃあ、耳たぶが大きいと金持ちになれるとか」
「えっ! …………な、なれないの?」
途端、小夏が両手で耳たぶに触れながら露骨なしょんぼり顔になった。
「寝る前に耳たぶ、こねこねしてるのに……最近」
「アホだなー、やっぱ」
「むぅ」
悔しいけど反論ができません! と小夏の顔に書いてあった。
なんだ読めるじゃん。大したことないな。できて当然だろ、幼馴染なんだしさ!
「しかしあれだな、今日は。いまいち寝れる気がしねぇ……話してた方が気楽だ」
「でも寝ないとダメだよ? ――あっ、そうだ。じゃあ私が子守唄、歌うよ!」
「おぉ、でも下手なんだよな……音楽の成績〝もっと頑張りましょう〟だろ?」
「ふふんっ、残念でした。ちゃんと数字はもらえてるんだよっ!」
本当なら泣いて喜びたいイベントなのに、今はそれほどテンションが上がらなかった。
それから小夏は静まり返った夜の中で、俺のために歌ってくれる。
すごく音痴で下手だった。けどその気持ちだけでやっぱり、幸せな気持ちになれた。
「下手だなぁ……超下手。ネズミが聴いたら発狂してるぞ」
「……私にも褒められてないってことくらい分かるんだからねっ」
「くっくっくっく!」
「よーし。絶対、寝かしつけるもん。絶対だよ、最後まで聴いててよ、しーちゃん!」
無駄に服の袖をまくり、気合を入れていた。まぁ、それはそれとして、だ。
「いいけど。ちゃんと最後まで聴いてたら寝てないだろ」
「……あっ」
「ばーか」
言って窓のレールに体重を預け、だらりと身体を外に投げ出す。
結局、この日。どうしようもなく下手な子守唄の中で、俺は寝落ちした。
*
目が覚めると肩に毛布が掛けられており、窓も閉まっていた。
ありがとう、母さん。しかしそれはそれ、これはこれ。
同じ空気を吸うのが気まず過ぎるので、俺は逃げるように登校する。
現に昨日。父さんは母さんが締め出し、茉莉ちゃんと共に戻ったため、夕食の雰囲気はまさに地の獄と言ったところだったのだ。お、思い出すだけで胸が苦しい……。
気が逸っていたのか早足になり、気付くと俺はもう校門をくぐってしまっていた。
すると、外周を走っていた坊主の男が遠くから陽気に話しかけてくる。
「おぉ、朝早くに会うのは珍しいな兄弟!」
「兄妹だぁあ? 誰だお前ッ、その話題は今、感じやすいお年頃なんだよ!」
「誰だとはひどいぞ、オレだ。伊佐利光だ、兄弟」
「……利光? 言われてみればその坊主頭……何となく見覚えがある。切ったのか?」
伊佐利光。先日の体育祭で俺を〝自分が振られた原因〟にしてきたものの、公開論破を経てどういうわけか今度は、俺を兄弟認定してきたよく分からない同級生だ。
「応さ。オレに坊主が寝取り属性だと教えてくれたのは兄弟、お前だぜ」
「それはそうなんだが……」
目安箱の投書といい、馬鹿正直に受け取られても困りものだ。
利光の振られ方は例外で、ダサくて普通に振られる可能性の方が高いと俺は思う。
坊主だと寝取れるんじゃない。寝取れるやつが坊主なだけ。残念、それが現実!
あれだ。女騎士の尻が弱いのか、尻が弱いと女騎士になるのかという話に近い。
「つかあれ、お前パントマイム部とか言ってなかったか? なんで走ってんの?」
「あぁ、実はモテる人間に近づくのが早いと思ってテニス部に入り直したぞ」
その行動力はちょっと見習うべきかもしれない。恐らく人生においては何もせず、何の積み重ねもないやつは本当に何も得られないのだ。苦しいが、これも現実!
受け身な性格の価値はたぶん、義務教育を境に落ちていくんじゃないかと俺は思う。
「そうなのか。まぁ、頑張れよ。で、兄弟ついでに聞くんだが利光って弟か妹いる?」
「中一の妹がいるぞ。それが?」
「いや、いるとどんな感じなのかなって」
「゛ん゛んッ、が゛わ゛い゛いッッ!!」
キンタマハゲが卑猥な顔で小刻みに震えながら、力強く拳を握って唸り声をあげた。
「そ、そんな可愛いのか……良かったな」
「応さ! 自慢だが、オレはアニメもゲームも妹キャラが出るのしかやらねぇのよ」
「へぇ、ドラマは?」
「観ねぇっ! あんなのは出来の悪いCGだろ、コスプレおばさんが〝お兄ちゃん〟とか言ってくるところを想像したら、オレはビックリしちゃうよ」
「俺はお前にビックリだよ」
三次元の妹は実妹だけで足りているらしい。でも俺の場合、義妹なんだよな……。
「しかしすげぇな、利光。そういうの、リアル妹がいると複雑ってよく言わね?」
「奥さんがいるから人妻ものは無理、となるオッサンもいないと思うぞ」
「そりゃ、妹は近親的な倫理観の話なんだから関係ないだろ」
「イッツ・ア・ノープロブレム! オレは兄であって〝お兄ちゃん〟ではないッッ!」
おっ、なんかこの話、広げると面倒なことになりそうだからスルーしよう、スルー。
とりあえず同意はしておくがな。これぞ、円滑なコミュニケーションってやつ。
その後。キメ顔で講釈を垂れ流していた利光は、部の先輩に連れ去られていった。
*
「あ、春乃先輩。どこ行くんです?」
放課後。同好会の部室へ向かう途中、廊下で鞄を持った先輩とすれ違った。
用事でもあるのだろうか。精神的に幼児ではあるんだけど……。
「今日あたし自治会の方、手伝うことになっちゃったから。あとよろしく」
「え、てことは会長もいないですよね? 俺と茉莉ちゃんだけですか?」
「そうなるわね」
「まじかー……」
昨日の今日で二人きりは、かなり気まずいものがある。けど反応を見る限り、向こうはそうでもないんだろうが、まだちょっと心の整理がついていないのが本音だ。
「何、昨日の帰りに茉莉ちゃんとなんかあったの?」
「昨日あったというか……昨日までずっとあったというか……」
言葉で説明するより早いので、俺は諸々の出来事について思考する。
「――ふーん、なるほど。不倫の義妹ね……つまり、Nの意志を継いでいるわけだ」
「茶化すなら怒りますよ」
「どう思おうと勝手だけど、あたしはいつだって大真面目よ。うだうだ考えるだけ時間の無駄って思うし。だからポジティブな要素だけ抽出して考えるべきだと思うわけ」
そんなのあるか? つか、Nってなんだよ……もうNTRの他に何も浮かばないぞ。
俺が困惑した態度でいると、春乃先輩はいつも通りの言動でつらつらと言葉を並べる。
「いえす、正解よ。世の中には三種類の人間がいるの。寝取れる人間、寝取れない人間、蚊帳の外な人間。少なくとも寝取れる遺伝子は継いでる。これは充分ポジれるでしょ」
「ポジれますかねぇ。てか、別に相手の方は聞いた感じ浮気じゃな――――……」
「薄幸美人だったら、僕が先に好きだったのにくらいあるでしょ」
「それありなのかよ」
しかも今の理屈で言うと、寝取られ遺伝子も継いでることになるわけなんだが。
「そっちの遺伝子はもう使ったじゃない」
「回数制なんだ……」
「現実問題、これから家族になるわけでしょ? だったら妙な距離感で変な壁を作る前に二人で会話する時間は、少しでもあった方がいいとあたしは思うけど」
「……まぁ、確かに」
そこだけは一理ある。知ってしまった以上、少なくとも俺は完全な他人のようには振る舞えない。で、大体言い終えたのか、春乃先輩は「ま、頑張れー」と行ってしまった。
あんなんでも一応、先輩なりに励ましてくれたのだろうか……でも意識的に人の嫌がることをするには、好かれることを理解してないと無理だものな。
どうせ手のひらは返すので見直す必要もないだろうが、ありがとうございます、先輩。
(そう考えると、恋愛相談って共通の目的があるのは助かるかもな……でも、何を話せばいいんだろうか。休日は何を……って、婚活かよ)
俺は教室の前でぶんぶんとかぶりを振り、深呼吸をキメてからドアを開く。そして、
「…………は?」
豊満な胸――のような、尻と目が合った。しかも制服が悖徳高校のものではない。
どう見ても別の学校……もっと言えば昨日散々、意識させられた当人だった。
「ふぅ……まさか顔を突き合わせて、ちゃんとお互いの目を見て話し合わないといけない時期にまず、お山さんみたいなお尻を見るとはね。ヤッホーってか、ははっ!」
じゃあ、ストレッチをしようか。俺は鞄を床に置き、上半身を重点的に伸ばしていく。
いちにっ、いちにっ、いちにっ、いち――――……。
(いや絶対ェ、あのクズの仕業じゃねぇかよぉおおおおっ!?)
無反応さに耐え兼ね、堪らずその場でしゃがみ込んで頭を抱えた。
幾何学的とでも言うべきか、教室中の机や椅子が絶妙な噛み合いを見せる配置がされており、茉莉ちゃん本人は机の上で四つん這いに固定されている。
さらに尻が目線の高さに来る〝おもてなし〟の心まで備わり、完全に終わっていた。
身体のぐったり具合からして、恐らく奇襲を受けて気絶した結果がコレだろう。
(さすが、先輩の可愛がり……ラインを越えてるようで絶妙に越えてない気がする)
まぁ、何はともあれ。片付けつつ、茉莉ちゃん起こさないと相談どころじゃない。
誰か人を呼ぶべきだろうか。どうせ暇してるだろうし、飾森に手伝ってもらうか。
たぶんこの惨状は、同じタイプの人間がいないとどうにもならない気がする。
それが最善だと信じ、俺はポケットからスマホを取り出す――その、瞬間だった。
「し、失礼しまーす。これ、真田君の生徒手帳、そこで拾……って、き……」
クラスメイトの女子――朝霧さんが、何故か教室へやって来た。
この前、飾森から送られたトイレ自撮りを目撃された、後ろの席の朝霧さんだ。
「「…………」」
ウェイト! アイアム・シンキング。脳みそがぎちぎちに詰まった俺は考える。
異様な室内でまず、視界に飛び込んでくるイルカの下着とスマホを片手に立つ俺。
これはそう……客観的に見てつまり、しんじゃったってこと! ばいばい。
当然、朝霧さんは状況を視認した途端。おぞましいものを見たように一歩、後ずさる。
「――気持ちは察するに余りある。だが待ってくれ、朝霧さん。誤解だ」
「ご、五回も何を……」
「さらに待ってくれ、朝霧さん。イントネーションが違う。誤解だ」
「豪快、イマジネーション……」
すると感情が振り切ったのか。生徒手帳を握りつぶし、その場で大きく振りかぶる。
「…………ほんッと。最っ悪、だッッ!」
「ちょ、待っ――ぐへぇっ!?」
渾身の投擲は見事、俺の顔面にクリティカルヒットした。




