24.恥じらいのないパンチラで喜ぶのは、小学生まで
世の中にはストックホルム症候群というものがある。
それは誘拐や監禁事件などにおける加害者と被害者の繋がりを指すもので、己の安全を確保するための一種の生存戦略とも言える心理的メカニズムだ。
優しいだけの男よりも暴力的でたまに優しい男がモテるのも、似たような心理的論理があるのだろう。まぁ、ともあれ樽沢家の訪問を終えた翌日。授業の合間の小休憩。
トイレから出た俺は、そんなことを考えざるを得なかった。というのも、
(め、めっちゃ見られてるんだが……)
柱の影から樽沢がジッと俺を見守っているのだ。
怯えみたいなものは感じられない。しかし渡会先輩に向けていた眼差しや黄色い悲鳴があるわけでもなく、明らかにちょっと様子がおかしい人の雰囲気を漂わせていた。
気付いたのは学校に来る途中だったが、もっと前から見てたかも分からない。
別の意味で身の危険が危ない気がする。これも訴えてないからまだ女割無罪なのか?
そりゃあ法律なんて真面目に生きる弱者じゃなくて、知ってる奴の味方だけど……。
「あの、樽さ――」
「!」
声を掛けた瞬間、顔を赤らめて脱兎のごとく俺から逃げていく樽沢。
近づくと離れ、離れると近づいてくるのは……うん、立派なストーカーだな!
一応確認で手を振ってみたら、恋する乙女な感じで遠慮がちに応えてくれた。
(社会的に死なない代わり、物理的に死ぬ確率が上がったんじゃねぇか……これ)
しかも恐らく問答無用でついてくるであろうことを踏まえると、今後あらゆる身動きが取り辛くなる可能性が高い。これは流石に春乃先輩と要相談案件か。
勘違いでないなら、歪んだ好意が今度は俺に向かってしまったということになる。
(ど、どうするんだこれ? 今度こそぶん殴るか? いや、でもなぁ……)
それをやったらまず間違いなく。小夏は絶交だと言ってくるだろう。
思わずため息がこぼれ、俺は重い足取りで教室に戻るしかなかった。
*
「296280296280296280296280296280――――……」
「おぉー。悔しい、悔しいのぉ。だが無様にまんぐり返らず、潔く散るがよい!」
体育祭ムードもすっかり過ぎ去った昼休み。施錠された家庭科室。
いい歳した大人の女性ふたりは、あまりにも情けない姿をさらし続けていた。
「くぅううっ! せ、生徒からスフィンクス川島ってばかにされてるくせにぃい!」
「ほう、スフィンクス川島。しかし仮にそうだとして、イコール私が貴様より下だという理屈は成立せん。貴様はせいぜい、床ペロ佐々木がお似合いよ。おほっほっほっほッ!」
「きぃいいいいいっ! ぐやじいぃいいいッ! ゛ぬおぉおおおおおおンッッ!」
(……なんだこいつら。仲良しか?)
発せられる全ての言葉に濁点がついてる感じがする、A組担任の床ペロ佐々木。
それをエア無明逆流れみたいな姿勢で煽り散らかす、D組担任スフィンクス川島。
二クラス分の焼き肉を賭けた戦いは、知らず我らD組が勝利を収めていたらしい。
とはいえ家庭科部の顧問を買収したそうなので、実際は30万超えたとか何とか。
まぁ、どのみち焼き肉が食べられる俺たち生徒には関係ないことだろう。
結局のところ、この時間はA組とD組の交流会だった。
で、俺は利光とA組女子数名という謎の組み合わせで食べたが、結構楽しめた。
懸念点があるとすれば、A組女子からの視線がことごとく腐ってる気がしたことくらいだろうか。視野が狭い利光は、それに全然気づいていないようだったが……。
「――今日はA組のひとと色々話せて楽しかったね、しーちゃん」
「だな」
そんなこんなで放課後になり、俺は部活がなかった小夏と下校中である。
自分でも思ったより自然に会話ができて、正直なところ驚いた。
人は慣れるというが、同じように俺の脳も頑張ってるんだろう。もっと頑張れ!
まぁ、逆に言うと次に全壊する時は、恐らく生半可な現実でないに違いない。
「今日は夜ご飯、何食べようかなぁ」
「もう夕飯の話かよ。太るぞ」
「太らないからへーきだよ。じゃなくてっ、今日は私が作る番なの!」
「あー」
東雲家の料理はおばさんと小夏の当番制なのだ。母から聞いた話によると、おばさんは小夏が自立して生きていくのはたぶん不可能だと思っているらしい。
無関係な他人から時代錯誤なんて言われそうだが、要するに小夏はお嫁さん性能特化の子育てが施されているんだとか。それでも向き不向きはあり、料理は昔から下手だ。
まぁ、俺のお嫁さんだから下手でも俺が許せば何でもいいんだけどな……。
「ん? なら買い物はいいのか」
「あっ!」
「だと思った。じゃあ、寄ってから帰ろうぜ」
うんっ、と。小夏は笑顔で応えてくれる。嬉しい、可愛い。
「ちなみにちなみに。しーちゃんは今日、何食べたい?」
「俺? うーん。魚はこの前アジ食ったばっかだし、食べ足りないから……肉?」
「お魚! さーかーな……あっ、しーちゃん。今度のお休みに水族館行こうよ」
「ぅへっ!? ……な、なんで?」
嬉しさよりも先に疑問を口から出してしまう自分が、なんだか妙に悲しい。
「前から行ってみたいって思ってた!」
今日まで何ひとつ変わらない能天気さで、小夏は「えへん」と胸を張る。でかい。
確かに少なくとも、一緒に行ったことがなかったかもしれない。
本人が言うのだから家族三人で行く機会もこれまでなかったのだろう。
(だとしても、何故に今?)
これは完全におデートだ。向こうはそう思ってないかもしれんが、俺にはそうである。
なんにせよ、だ。まず先に渡会先輩を誘わないのは、おかしい。
いくら小夏が……お、俺を単なる幼馴染としか思ってないにしても、直近で樽沢の件があったばかり。一緒に行動するリスクがあるのは、流石に理解できているはず。
「あ、他のやつも誘うのか」
「え? ……ど、どうして?」
聞くと、少し困ったようにしょんぼり顔になる小夏。
(せ、先輩は誘ったが忙しくて行けそうもないって消去法……いや、違うな)
この感じはデートなんて頭にない顔! とすれば思考のロジックもかなり絞れるはず。
まず俺がアジを最近食った話をし、魚が頭をよぎったのだろう。アホだからな
で、連鎖的に前から自分は水族館へ行きたかったことを思い出した。
だから今、小夏の頭にあるのは純粋に水族館へ行きたいという気持ちだけで、そこには誰となんてこだわりがない。しかしそれも恐らくは、家に帰るまでの話。
(つまり、チャンスは今! 断るとこの話は丸ごと彼氏にスライドする!)
そんなことさせるものかよッ! これは明らかに奪還への大きな一手! 後日、小夏が渡会先輩に「幼馴染と水族館に行った」と告げる影響力を考えれば、これは必然の結論!
少なくとも嫉妬は確実に引き出せる。もしかしたら幻滅して別れるかもしれない。
俺と春乃先輩にとっては、控えめに言っても千載一遇の好機である。ぐへへっ。
「い、行く。水族館っ」
「えへへ。よかった、約束だよ」
で、そのまま他愛のない話を続けていれば、あっという間に帰宅となった。
楽しい時間はいつもそうだ。何かもう少し一緒にいられる言い訳はないだろうか……。
すると買い物に付き合っての別れ際。小夏は思い出したように言った。
「そうだ、しーちゃん。勉強で分かんないとこあるから教えて欲しいんだけど……」
「! しょ、しょうがねぇなぁ」
やったぜ。そのまま小夏の家へお邪魔し、そろって二階の部屋に上がる。
悟られないよう中を見渡して、気付いた。渡会先輩との写真なんかは特に増えてない。
(ふぅ……一安心)
落ち着いたところでとりあえず、深呼吸しとくか。
小夏成分を補給だ。
どうやらおばさんもいないらしいし、小夏もなんか横で平然とブレザー脱いだりしてるしな!
そうして、滞在時間はなんだかんだと小一時間を経過し――
「んー、ん~、ん~~~。あっ、そっか。えへへ、しーちゃんは頭いいよね」
「別に俺も良くはねぇんだがなぁ」
褒められた。嬉しい嬉しい! すき! ……とか思っておいてなんだが。なんかこれ、モノローグでデレまくってるツンデレヒロインみたいじゃねぇか? 俺ってば。
ふと、自分の女体化像を脳内に思い浮かべてみ――うん、ないな……やめよう。
「つーか、成績上げたいなら柚本とセットで飾森にでも教わってこいよ」
「ふふん。しーちゃんに言われなくても、とっくの昔からたまによく教わってるよ」
「どっちだよ」
ともあれ、ずっと同じ姿勢で肩が凝ったので伸びをしたり、肩や首を回しておく。
「休憩にしよっか。お菓子とか持ってくるね。わたっ、しっ。っ~~!」
小さなテーブルを挟んだ向こう側。立ち上がろうとし、ぺたんと。
小夏は身体をぷるぷる震わせながら、四つん這いに近い状態でうつ伏せに倒れた。
「し、しびれたよ……ちょ、ちょっと待っててね。しーちゃん」
「お、おう……まぁ、ゆっくりでいいから」
そのまま小夏はずるずると身体を引きずりつつ、一階まで下りて行く。
普通に下着が見えていたので正直、反応に困った。突然の幸せで心臓もうるさい。
(は、恥じらいのないパンチラ程度で……もう小学生じゃないんだぞ)
――ピロン!
「うわっ、びっくりした! 真田信二郎です」
床に置かれた小夏のスマホが鳴っていた。誰かからのLINEらし――
《彼氏:スタンプを送信しました》
「ん?」一応、目を限りなく細めてみる。
《彼氏:スタンプを送信しました》
「……ん?」一応、もう一度だけ目元を何度もこすってみる。
《彼氏:スタンプを送信しました》
「…………」彼氏って誰だ。俺か?
万が一ということもある。
一応、自分のスマホを確認してみた。
送信履歴はない。
「??????」
ひとまず冷静になろう、うん。
よく落ち着いた後で、俺は小夏のスマホを手に取った。
画面に触れる。
相変わらずロックは掛かっていない。
彼氏からスタンプが来ている。
だが、それ以上に――この端末から彼氏へ送信されていた画像に俺は目を疑った。
「は?」
小夏がベッドの上で、胸元のボタンを外した制服姿の小夏がピースしている。
「は?」
小夏がスタンドミラーの前で、シャツとスカートをずらした小夏が微笑んでいる。
「は? は? は?」
小夏が俺の部屋が見える窓を背にして、下着姿の小夏が目元を隠しながら頬を赤らませている。
ただ瞬きの回数だけが増え、やがて光速を超えたその時。視界が歪んで暗転した。
その後のことは、自分でも何が起こったのかてんで理解できていない。
――――次に気が付くと。俺は自分の家の、自分の部屋でひとり笑っていた。
床に小夏と過ごした懐かしい思い出のアルバムを広げ、小さい頃よく遊んだ巨大ロボの玩具を両手で握り締めていたようである。なんだ、よかった! 全ては幻か!
「ぶーんぶーん。じゅぼぼぼぼっ、キーンキーン! ぐぽぉおおっ!」
「あ、あんた…………ついに」
偶然にも部屋に入ってきた母が白い目を向けていたが、どーでもよかった。
わたくしめは何も見てない~。何も触ってない~。るる~らっら~らぁあ~。
そんな俺のもとへ一通のLINEが届いたのは、お夕食後のことだった。
メリークリスマス!




