1.か、彼氏ができたんだ……へ、へぇ……
東雲小夏は、昔から慌ただしい女の子だった。
何もないところでいきなり転ぶようなドジだし、空気の読めない発言で雰囲気をヘンにするような天然だし、忘れ物は当たり前で、料理はマンガみたいにド下手。
よーするにどっか頭のネジが抜けてポワポワしてる、およそ普通ではないヤツなのだ。
「しーちゃん、しーちゃん! 見て見てしーちゃん! あのね、あのね――」
そんなヤツが誰かの手助けなしで子供社会を平穏に生きられるわけもなく。
ぶたれようが、髪を引っ張られようが、常にへらへらしているもんだから男女を問わずいじめ……とすら認識できていない嫌がらせに巻き込まれることも多かった。
今にして思えば容姿だけは困ったことにいいので、たぶん女子はともかく男子の場合は〝好きな子にいじわるしてしまう〟っていう例のあれだったんだろう。
だから本当は「守ってやらないと」とか、「俺がいないとダメなんだな」とか。
余計なお節介を焼かずに見て見ぬふりをしてもそこまで問題もなかった気がする。
「しーちゃん、いつも守ってくれてありがと! 私、しーちゃんのこと大好きだよ!」
ただ偶然にも家が隣で、生まれた病院や誕生日も、あげく母親の病室ですら同じで……ともかくそれがきっかけで親同士が仲良くなったってだけの話。
同じ時間を重ねる必要もなくて、なのにあいつは俺にくっついてきてばかりだった。
走って逃げると追いかけて転んで泣いて、本当にずっと泣き止まない。面倒くさいヤツだと思った。両親からほぼ兄妹扱いを受け、何をするにしても一緒に過ごすハメに。
なにかしら思い出を振り返ると必ず「しーちゃん、しーちゃん」言ってるあいつの顔がオマケでついてくる。高校一年まで同じクラスなのもうんざりポイントの一つだ。
中学の時に俺を好きだったらしいひとも、小夏が彼女だと思っていた程らしい。
彼氏と仲睦まじくいる当人から言われた衝撃は、忘れられるものではなかった。
まぁ、俺の話はどうでもいいか。とにかく東雲小夏はやたらのんびりしたマイペースな女の子で、それが俺――真田信二郎の幼馴染なのだ。
いい加減、独り立ちをすべきだろう。いつまでも一緒にいてやれるわけでもないし。
だから今日こそ心を鬼にして言おう。そう、思っていたはずだった……。
――五月上旬。
俺はいつものように小夏を叩き起こして飯を食い、着替えてちゃんと「いってきます」を言って家を出た。実に退屈で代わり映えしない朝だ。
登校中、というかいつも。小夏はおしゃべりで、うざいくらい本当に何でも楽しそうに話してくる。昨日は何食べたおいしかったからはじまり、身体を洗う順番だとか、ブラのサイズがどうとか。普通は話しづらいようなあれこれも平気で話してくるのだ。
まぁ、そんなこと話すのも俺にだけだろうし。こいつのうっとおしい会話に付き合えるのも俺だけだろう。そんなんだからいつまで経っても浮ついた話が一つも――
「あっ、そういえば私」
「いいよ。どうせまたかっこいい石見つけたとかそんな話だろ? すごいすごーい」
「むぅ、しーちゃんのいじわる! 全然くだらなくないもんっ」
小さく頬を膨らませ、栗色の髪先を揺らしながらカバンを振り回してくる。
とはいえ華奢でパワーがないので、大したこともない。可愛げがあるだけだ。
「じゃあ言ってみろって、くだらなかったら帰りにラーメンおごりな」
「ふふんっ、いいよ!」
小夏がえらそうに胸を張る。なんというか制服が苦しそうではあった。
毎度のごとく無駄に自信たっぷりなのは結構だが、中身がともなってなきゃ。
さて、なんてばかにしてや――
「私ね。昨日、彼氏できたんだよねー」
「え」
「えへへ。どう、すごい? ね、くだらなくないでしょー」
そ、そうか。かっ、彼氏ができたのか。めでたいことじゃないか。なぁ?
彼氏……か、れし。ヨシ! これで俺の役目は終わりおしまい、ハッピーエンド!
「それでなんとキスもしちゃったの!」
「へ、へぇ……」
痛い。なにが痛い? 胸が痛い。なんで、なんでなんでホワイ?
病気だろうか……いいや、きっと間違いなく絶対そうに違いないっ! そうだ、帰りに病院へ行こうそうしよう。ひとりで……ひとりでっ!?
「家族以外で顔があーんなに近くにあるなんて、なんかヘンな感じだったなぁー」
「………………」
「先輩の息がね? こう、ふーってかかってちょっとくすぐったかったっ! でもなんかむぎゅ~ってされてると。あぁもう幸せ~、って感じでね! えへへっ」
笑顔が苦しい。こ、こんなこと一度もなかったのに。小夏の顔が直視できない。
「――――っ」
「……って。あっ! もう、しーちゃん聞いてるっ?」
「えっ、あっ……そ、そうなんだな……キスして、むぎゅで、幸せ……し、あ、わ、せ」
「しーちゃんも早く彼女つくった方がいいよ!」
「あっあっ、あ」
おかしい。人生でこんなどもった記憶なんてないぞ? も、もしや突発的な吃音障がいなのでは? いいいやいや、この程度でそんなこと言ったら失礼だろうそうだろう。
これはど、どど動揺してるだけ。えっ……な、なんで俺は動揺してるんだ?
理解不能! 理解不能! ヤバいヤババあっ、あうあうあああ、あ、あっ。
「そーだよ! そしたら一緒にデートしよーよ、デートっ! ダブルデートだよ。きっと楽しいだろ~な~。楽しみだな~、しーちゃんも絶対そう思うよね?」
焼ける溶ける壊れる痺れる苦しい脳が割れる。締め付けられりゅ、ううぅ、う……。
「あっ、真人先輩だ~。おーい」
「えっ」
小夏がぶんぶんと手を振って呼ぶ。やめてくれ。誰か助けて。タシュケテ……。
もちろん、真人と呼ばれた男が振り返る。
瞬間、神々しい青春オーラみたいなものが飛んできて、俺含め周囲のモブたちが空気に気圧されていた。い、痛い……頭痛で頭が痛い。
どうせブサイクなんだろ、小夏が優柔不断でチョロそうだし俺でもいけるだろみたいな勘違い男なんだろ? そうなんだろ? 自信のなさの裏返しみたいな選択なんだろ?
「しーちゃん、あの人がね、私の――彼氏っ!」
「うわぁあああああああああああっっっ!!」
「し、しーちゃんどこ行くのぉおおっ!?」
女子たちの黄色い声と絶望が入り乱れた中をかき分け、校門を駆け抜けていく。
真人とかいう男は、受け入れがたいことにとても爽やかイケメンだった。
あまりの眩しさに涙が止まらない。
ぅううっ……お、俺って! 俺ってヤツは……なんて、なんてッ!
いや、本当は真人って名前を聞いた時点で理解っていたのだ。学校でその名前の人物はひとりなうえ、完璧超人ともてはやされているからな! パッと思いつくあらゆる要素で俺に勝ち目がねぇってことだよくそ! 優しさなら勝てるかもぉ……あ、はっはは!
……なんていうのはまぁ、強がっているだけの苦し紛れな冗談だった。
認めたくないことだけど。認めたくないことだけれど、イヤだけど!
胸と心と脳みそが痛むってことの意味は、どうしたってわかってしまうつもりだ。
――きっと俺は、なんだかんだ小夏のことが異性として好きだったのだろう。
しかしこうしてようやく自覚した、自覚しなければよかった恋心は。
突然襲い掛かって来た現実によって、粉々に砕け散ったのだった。