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勇者と魔王と新選組  作者: 舟太郎
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尊王攘夷

「今日はお前たち壬生浪士組に頼みたいことがあって参った。」


こちらの世界に転移して数日が過ぎた頃、いきなり八木邸を訪れた佐々木只三郎という武士がそう切り出した。


『壬生浪士組がバイト集団だとするなら、旗本である佐々木は言わば国家公務員だ。明確な上下関係が存在するこの時代では当然ながらバイト店長である近藤より立場は上のはずだぜ。浪士組のパトロンでもある会津藩って領地に生家あってな、何を隠そう浪士組と会津藩との間を取り持ったのが彼だ。普通に考えれば浪士組の面々は彼に頭が上がらないだろうな。』


ふむ、つまり彼はちょっと偉い人ということか。


「承知しました。話は終わりですか?ならばさっさとお帰りください。」


そう言ったのは副店長のトシさんだ。態度悪!そんな感じでいいのだろうか?

ちなみに今は近藤局長とトシさんが佐々木の対応をし、斎藤くんも同席している。私とソウジは隣の部屋から覗いている。


「いや終わりなわけなかろう!まだ何も言っておらぬぞ!いくらなんでも冷たすぎるぞ土方君!我らは清川に騙され、なおも徳川様のために働こうと一緒に奮起した仲ではないか!そもそもおぬし等を会津公に引き合わせたの私だぞ!もっと仲よくしろ!!」


佐々木はひとりで騒ぎ始める・・・さみしがり屋?


「先に玉しゃぶろうとか言ったか?なんなんだあの男は?」


『まさかとは思うが「佐々木只三郎」を「先に玉しゃぶろう」って言ったのか!?最低最悪の名前いじりだな!最悪過ぎて笑いにも出来ねえよ!!』


すんごい怒られた。流石にちょっと反省。


「・・・ごめんなさい」


はい、反省終わり!


『この国のトップである徳川幕府って組織に仕える旗本って呼ばれるエリート武士だよ。神道精武流の達人で小太刀日本一とまで言われる腕前だ。講武所っていう幕府の訓練機関で指南役までやるほどの実績の持ち主なんだぜ。ちなみに浪士組創設に関わったプロジェクトメンバーの一人だ。まあ本当に実績と呼ぶべき働きは件の清川八郎をはじめとする暗殺の数々なんだが、それほど優秀でありながら未来における創作物での扱いは微妙なのが多い。咬ませ犬だったり、嫌味エリートだったり、小物だったり、おカマだったりする。』


なんだコイツ、この世界の知識があるとは聞いていたが情報が不自然、というかまるで物語の設定であるかのようにこの人物を語っている。なんかもう音声ガイドみたいだ。


「強いってのは見ればわかる。騙されたって言うのは?」


先に・・・じゃない佐々木只三郎という男、言動の間抜けさとは裏腹に立ち振る舞いに隙が無い。


『ボクには強そうには見えないけどな。浪士組って最初は徳川家茂って幕府で一番偉い人が上洛、京都に来る際の警護を名目で幕府のための兵隊を集めるプロジェクトだったんだけど、発案者の清川八郎が人を集めるだけ集めて掌を返したんだ。集められた浪人たちは徳川幕府じゃなく、尊王攘夷のための兵隊だったんだよ。』


「弁当常備?」


『尊王攘夷!』


お腹空いた〜。


「で、結局その尊王攘夷って何なんだ?」


私がこの世界に来てから度々耳にする言葉だが、詳細は不明のままだ。イータは何故か詳しそうだ。


『簡単に説明すると尊王って言うのは「将軍じゃなく帝を中心に政治を行いましょう」って考え。帝、王様ね。うん分かるよ、ボクも以前はてっきり徳川が一番偉いんだって思ってた。そんで攘夷ってのは日本の外からやってきた外国人を追い出そうって考え。その二つをくっつけたのが尊王攘夷だ。I Habe a 尊王♪I Habe a 攘夷♪ンー…尊王攘夷!』


イータが謎の心地よいリズムに乗せて尊王と攘夷をくっつけた。ずっと口ずさんでいたくなるような素晴らしいリズムだ。


「いまいち繋がらないな。その説明だと尊王と攘夷は全然関係ない別物じゃないか?尊王が徳川と対立しそうな思想なのは分かるが。」


しそうな思想。(^ー^* )フフ♪


『ん~、ちゃんと説明しようとすると長くなるから、次は読み飛ばしてくれていいぜ。』


スルーしやがったな。

読み飛ばす、イータがまた訳の分からないことを言っているが、どうやらまた私のことを見くびっているようだ。まったく、剣のくせに失礼な奴だ。


「舐めてもらってはこまるな。この私が多少の事で根を上げるとでも?」


さあ、思う存分語るがいい!


『彼是200年以上前、この国は戦国時代ってよばれてて、数百にも及ぶ日本各地の大名が覇権をめぐって絶えず争いを繰り返していたんだ。大名たちは戦って、戦って、戦い抜いて、最後に勝ち残り大名ファイトを制したのが徳川家康だった。


徳川家康は朝廷って言う日本で一番偉い機関から征夷大将軍に任命され、幕府を開き政治を取り仕切るようになる。うん帝が一番偉い、それは間違いない。ただし直接的な武力は持ってない、建前上は全ての大名が帝の軍勢に当たるから。そんでそれらを束ねるのが征夷大将軍。そして徳川家は500にも及ぶ大名たちにそれぞれ後に藩って呼ばれる小国の統治を任せる幕藩体制って仕組みをつくり、各藩が幕府より強くならないようにコントロールしながら250年に渡って世の中を仕切っていく。250年ってすごくね?ゾウガメが2回死ぬぜ。


幕府が発足して割と初期の頃、鎖国政策を取って海外との交流を禁止するんだけど、日本がそうやって200年くらい引きこもってる間に欧米では産業革命が起こって科学技術が一気に発展したんだ。もちろん日本が知らない間にね。日本は海外との交流を禁止してるけど、外国は日本に興味がない訳じゃない。目の前に明らかに自分たちより遅れてる国があったらビジネスチャンスでしかないからね。だから19世紀に入った頃から外国船が日本の周りをチョロチョロし始める。


ただ日本からしたらそうやって外国船が日本に来るたびに大事件に発展するから迷惑だったわけ。そして今から約10年前、1853年に先進国であるアメリカの軍艦4隻が日本にやってきたんだ。「鎖国やめよ~、開国しようよ~。」って。せいぜい木製の帆船くらいしか知らなかった日本人はその蒸気エンジンで進む巨大な鉄の船をみて驚愕した。「ヤック、デカルチャー!」って。


幕府は最初マシュー、その船団の司令官からアメリカの大統領の国書を受け取った。内容はアメリカから日本への3つの要求。一つはアメリカの遭難者の保護。二つ目はアメリカ船への水、食料、燃料の補給。三つ目は、日本で商売させろって話。それに対する幕府の返答はこう、「将軍が病気だから返答は1年後で!」・・・えぇ~!?だよな。政治家って昔からそんなだったんだなって思うじゃん。でもこれホントの事だったんだよね。第12代将軍、徳川家慶はマジで病気で臥せってたんだ。しかもマシューがやってきたのと同じく6月に亡くなってる。ほぼ直後だよね。これはもはやマシューのせいと言っても過言じゃないよね。んで結局その半年後、結局幕府は押し切られる形でアメリカの要求をのんだ。救助、補給、あと商売は一旦置いといてとりあえず入港許可の計3つ。それが1854年の日米和親条約。


徳川家慶の次に将軍になったのは家慶の息子、第13代将軍徳川家定。ただこの定家、生まれつき病弱なうえ、かなり奇行が目立つ人物だったらしくて、家臣たちが思っちゃった訳よ、「こいつ無理じゃね?」って。だから家定が将軍になった後すぐに「今のうちにもう次の将軍決めとこうぜ、誰が良い?」って話になった。家定には子もいなかったからね。んで候補に挙がったのが水戸徳川家出身の一橋家当主、一橋慶喜と紀伊徳川家当主、徳川慶福。血筋で言えば家定の従弟にあたる徳川慶福に分があるんだけど、まだ若い上に病弱で日本の情勢を考えれば荷が重い。かたや一橋慶喜は遠縁になるものの文武に優れた優秀な人物だった。このそれぞれを推す一橋派と南紀派は対立することになる。


改めてアメリカのハリスって奴が通商条約って商売のための条約を結ぶために日本にやってきた。それで幕府は朝廷に条約を結ぶ許可を求めるんだけど、当時の帝である孝明天皇は異国が嫌いでそれを拒否った。


だから井伊直弼は朝廷の許可なしで条約を結んじゃったわけ。これが1858年の6月。その直後、将軍家定が亡くなった。なんかもうアメリカと条約を結ぶと将軍が死ぬルールかよっ思うよな。次の将軍は慶福に決まった。直弼が独断で決めた。そんで慶福は家茂に名前を変えた。それが今の将軍、第14代将軍徳川家茂。


もちろん対立していた一橋派の人たちは怒るよね。「なに勝手に決めてんの?」って。だから一橋派の人たちは朝廷に働きかける。水戸藩が幕府に内緒でこっそり孝明天皇から勅書を貰っちゃう。勅書の内容はアメリカとかってに条約を結んだこと幕府に追求し釈明させる、みたいな話。〈戊午の密勅〉とかいう事件だ。これが八月の事。


でもそのこっそりが直弼にバレちゃって直弼は激おこ。一橋派のメンバーは片っ端から処分され、更に日本各地の尊王攘夷の思想をもった人物も片っ端から処刑された。この弾圧は後に〈安政の大獄〉って呼ばれることになる。


それと並行して直弼主導で公武合体運動が進められる。これは単純に朝廷と幕府が再び手を取り合って政治を行おうって運動。珍しくなんか良い感じの運動だよね。ただ問題なのはこの公武合体で朝廷と幕府のタッグが成立しちゃうと尊王攘夷って思想はどこに行っちゃうの?ってことになる。だから尊王攘夷派の武士たちにとっては公武合体なんて絶対拒絶の対象だったわけ。だからそんなふうに好き勝手ばかりやってたら井伊直弼、襲撃されて命を落としっちゃった。1860年3月3日、桜田門外の変。襲ってきたのは水戸藩や薩摩藩の脱藩浪士たち十数人。これはもはや暗殺なんてレベルの事件じゃない、テロだよテロ。


この事件をきっかけに幕府の威厳は地に落ちて、日本各地の攘夷運動はさらに過激になっていく。どう過激になっていったかというと、単純に外国人が襲撃されるような事件が多発するようになる。何件か例に挙げたいところだけど多すぎてめんどくさいくらい、なにげにハリスも襲われてる。外国人相手に交渉を続けてる幕府からしたらたまったもんじゃないよな、事件が起きるたびに賠償しなきゃいけないし。


その一方で幕府は幕府で直弼亡き後も公武合体運動を継続していた。そのせいで老中安藤信正が尊王攘夷派の脱藩浪人に襲撃される。1862年1月15日、坂下門外の変。門外ばっかりだな。安藤は怪我をしたけど城内に逃げ込んで助かった。桜田門外の変の後、警備が強化されていたことも大きかったみたいだ。2月には将軍家茂と孝明天皇の妹である和宮さまの結婚によって名実ともに公武合体が実現した。ちなみに安藤はその後、ハリスとの収賄容疑で罷免される。いつの時代でも居るもんだな、こういう奴。


ここからは繰り返しになるけど、将軍家茂が上洛する際の護衛として集められた集団が、この壬生浪士組の前身である浪士組。けどさっきも言った通り発案者の清川八郎は攘夷論者で浪士組はそのまま攘夷志士として清川と一緒に京を離れていった。その時に清川に従わず京に残ったのが芹沢鴨や近藤勇と愉快な仲間たちが壬生浪士組だ。ただこの人たち、京に残ったは良いけど行く当てがなかった。身元の怪しい浪人集団が幕府で働きたいっつってすぐに働ける訳もないからね。

そこで雇われ先を紹介してくれたのが佐々木只三郎だ。壬生浪士組は会津藩に雇われて働くことになった。


そんな感じで今に至る。』


もちろん読み飛ばした。


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