「鬼滅の刃」と「嵐」
「鬼滅の刃」という漫画・アニメが流行っている。私はいくらなんでも流行りすぎじゃないかと思っている。
流行りすぎじゃないかというのは、あまりにも過大であるという意味だ。同じ事を例えば「嵐」というグループにも感じる。「嵐」のファンがいるという事はいい。そういう女性もいるだろう。しかし、あまりにも数が多すぎやしないかと感じている。
こういう風に言うと「お前は嫉妬しているんだろう」という意見が来るが、そんな現代価値観しか持っていない人間を相手にするつもりはない。自分の尺度で全てを測れると勘違いしているのが現代人の一番下劣なポイントであると思う。あらゆるものを定規で計れば、全てをセンチやメートルに還元できるので、全てを簡単に一元化できる。そうなると、この手の人間は全てが定規の価値観の範囲にあると短絡にも結論してしまう。当然だが、この世界の全てを定規で計っても、世界は豊かな有様で溢れる事を止めはしない。大衆は甘いかもしれないが、自然は厳しい。
さて、私が「嵐」のファンが多すぎるというのは、いくらなんでも多すぎる、という意味だ。「鬼滅の刃」の話と合わせると、要するに大衆というのはどこにも行く所がないのだと思う。それが大衆の真実なのだと思う。
普通の人と話していると、とかく物足りないというか、何を考えているのかわからない場合が多い。もちろん、これは私の行き過ぎで、実際には考えていないのであって、考えているけれど言わないわけではない。本当に考えていない。だから、私としてもそこで躓いてしまう。
私も職場で「〇〇さんは鬼滅の刃見ないんですか?」と聞かれたクチである。それも二回くらい。私は見ない、と答えた。しかし、そういう風に聞いている人達がさほど「鬼滅の刃」が好きにも見えない。結局、彼らには本当に好きなものはない。何一つない。そう結論せざるを得ない。だからこそ「鬼滅の刃」が流行れば、流行ったという理由だけで「鬼滅の刃」にはまり込む事ができる。
私はここには大衆の宗教というものがあると思う。シュティルナーを読んでいて勉強になったが、シュティルナーは「神」の代わりに「人間」という概念を置いても、宗教的な形態はたいして変わらないと言っている。これを読んで、なるほどと思った。
同じ事が大衆にも言える。「鬼滅の刃」は、作品の実質とか内容を評価されているわけではない。実質や内容は関与しているが、それ以上に人々にとって重要なのは、「みんなが流行って楽しんでいるものを自分も楽しんでいる(楽しめている)」という感覚だろう。「鬼滅の刃」という作品に人が見るのは作品の内容・実質よりも、人々が価値を付与した、その付加部分である。
ここで何が起こっているのだろうか。そもそも大衆というのは自己を持たないものであり、不安な存在である。不安な彼らが安心を求めるにはどうするか。かつては神という一元的価値観があった。大衆を規定する垂直的な価値観があった。それが現代にはない。民主主義という事で、大衆に権力を付与された。政治家もタレントも大衆に媚びなければ、舞台に上がる事ができない。
しかし往々にしてあるように大衆は、自分達の肩にかかった責任の重荷に疲れており、彼らは自分達の存在をその外側に外化して、それを崇めようとしている。要するに疎外関係がそこにある。
「鬼滅の刃」という作品が何故評価されるかと言えば、それが評価されているからである。そこにはトートロジーがある。もちろん、面白い作品だというのもあるだろう。よくできているという意見もあるだろう。しかしそれ以上に、そこに、人々は自分達の存在を投射して、対象化し、崇めるという、歴史上散々やった宗教現象を繰り返している。私にはそう思われる。
同じ事が「嵐」にも言える。嵐のファンが、もし実はこの地球上に嵐ファンが一人しかいないと知ったら(仮にそういう事があったら)その人は嵐ファンであえてあり続けるだろうか。そういう人もいるかもしれないが、多くの嵐ファンは、ただ自分が好きなだけではなく、嵐ファンが他に多くいるのを感じ続けているから、その価値観に参与する事に価値を見出すのだろう。自分一人だけが嵐好きだと、神か誰かに暴露されたら、多くの人がファンであるのをやめるだろう。「誰もいいと思わないかもしれないが、私はいいと思う」と人は驚くほど少ない。私は正直言って、人がこれほどまでに自主性がないとは思わなかった。はっきり言って空っぽである。
我々が今見ているのは、大衆が自分達の存在を外側に投射し、対象化して、それを崇めるという光景である。大衆はそれぞれが違ったひとりひとりである事を本能的に恐れている。それで「自分達」の塊を外側に投げ出し、それにひれ伏す事で、自分は間違っていない、自分は「普通だ」と安心しようとしている。「〇〇さんは鬼滅の刃見ないんですか?」とは暗に「自分達の仲間に入らないんですか?」という問いを含んでいる。
大衆が力を持った現代の世界であるが、この世界で、大衆は色々な責任を負っていく事に疲れている。それで自分達の力とか感情とかを外側に投射し、崇めて、重荷から解放されようとする。自分が何かを決めていくのは恐ろしいので、「自分達」が決めた事を後から決めていけば間違いなかろうというわけだ。ここに大衆というものの本質がある。大衆というのはそれぞれ違った人間の感情や理性、意志の寄せ集めではない。最初はそうだったかもしれないが、時間が経つにつれ、彼らは「大衆性」を外側に投げ出し、それを崇めて満足しようとする。彼らにおいて一人の人間であるというのは耐えられない事態である。
私は「鬼滅の刃」とか「嵐」というグループも、そういう過程で現れてくるものだと思っている。その帰結がどうなるかは知らないが、作品の内容や実質がさほど問題になっていないのは自明に思われる。しかし、どのみち、大衆社会そのものが浮ついたものであるので、どこかでそれ自体が挫折するだろうと私は予測している。その過程においては、大衆が自分達に疲れ、自分達の権力を移譲する何者かをつくり、それを最初は崇め奉るが、そのものによる被害があまりに高じてまた革命を起こす…そんな道筋になるのではないかと思っている。
もっとも、そんな事は考えすぎかもしれない。いずにしろ大衆は行き場がない。不安だが、どこにも行く所がない。それで「鬼滅の刃」のような作品でも、これほどまでに話題になる。この先も似たような作品は頻発するだろうが、その外化形式がただのエンタメ作品では満足できなくなる日も来るだろう。その時、我々は我々の全てを譲り渡せるお手製の神をでっち上げる。そんな気がする。それが、過去の神よりもよくできていると保証する事は、多分、誰にもできまい。