オレンヂの樹、やまいぬの月
大学を卒業して一年。なんとなく生きているわたし。頑張ってきたはずなのに、なにかちがう。もやもやした日常、鬱になる毎日。すこし昔に戻れたら、自分らしさを取り戻せるかも知れない。
存在を否定される者、存在を与えられるもの。オレンヂは樹に、やまいぬは月に。そこにはやさしい葛藤と、つらい愛情があるのです。
久しぶりに渋谷に来ていた。
去年まで4年間、渋谷にある大学に通っていた。その頃はラッシュの酷さに辟易し、しかも毎夜のサークルの飲み会などで、まともに睡眠をとったことなど無かった。健康を切り売りしていたような気がする。
佐伯千恵が勤める業界中堅の『あかさ商事』は、昨今の国際的な政治不安定化要因と相俟って、先走る政府の目論見政策が予想以上にリスキーだったことを受け、稼ぎ頭だった海外事業分野は大幅に事業縮小を余儀なくされ、かわりに国内向けの投資に目を向けざる負えない状況にあった。
営業部も国内投資向けの部署が増設され、実質的に利益をたたき出し始めるとそれは当然社内の耳目が集まり、やがて係課長クラスは目まぐるしく異動する。今日会社に出ると、知らない人が上司、ということも何べんもあった。
千恵が所属する第二営業部は今日、渋谷にある貸し会議室を借りきって、有力投資家を集めての情報交換会を行うのだ。情報交換会といってもユーザー向けに金融商品を押しつける、ただの商談会なのだが、常に来る客はいっぱいで、世の中金持ちがたくさんいるんだと、最初のころ驚いた。
東口を出て、学生のころはそのまま警察署を横目に真っ直ぐに進んでいたのだが、今日は宮益坂の方へ向かう。秋口にしてはまだ暑く、夏の余韻は続いていて黒のスーツが鬱陶しかった。ふと、顔に当たる風に秋の匂いのようなものを感じた。商談会が終われば有楽町にある本社には寄らずに直帰できるので、帰りにショップ――といっても山専門の――へ寄って行こうと思った。
千恵は学生の頃、ワンダーフォーゲル部に入っていた。千恵はそのドイツ語の響きに、従来の泥臭いアウトドアとは違う、なにか洗練されたスタイルがそこにあると思っていた。しかし実際そのサークルは野外のレクリエーションみたいなもので、週末に関東近隣の山に登山またキャンプなどをし、ときおり無人島探検と称して岩礁のような小島に行ったりと、特別かっこいいわけでもなく当然、感動することもなく終わってしまった。
「今日はクライアントが17時までに来れないと言ってきたんで、ちょっと遅くなるかもよ」同僚の田辺が言った。田辺は係長副代理補佐、というわけのわからない役職でもって、あたしの上司気取りでいる。
客のことをクライアントというこの男は、まあ、可もなく不可もない、といった程度の認識しかないが、田辺の方ではしょっちゅう千恵を飲みに誘って来る。ほとんど単独では断っていたし、恋愛感情をどうこうする相手ではないと思っている。
「資料はファンドをいくつか揃えてきたんですが、他に必要なものは?」千恵は不快感を与えないギリギリで、意識をこちらに向けないでほしいという言い方をした。
「そうね、不動産関係が欲しいかな。あと、きみの今日の予定も知りたい」
「ショッピングセンターの土地とタワーマンションの売買について揃えてあります。それから今日の予定はぎっしりです」
「じゃ、明日は?休みだろ」
「明日は山に登ります」
「え、冗談だろ?山って、登山、だよね?」
「登山以外に山に登るのなんてあるんですか?」
「いや、意外だから」
「学生時代からなんです」
「そう」
僕も趣味が一緒、などと言われなくて良かったと千恵は思った。まあ、登山する体型では失礼ながら彼はない。
「ほんとに行こうかな」
「え、なに?」
「いえ、なんでも」
ヤバい。ひとりごと聞いてやんの、こいつ。
朝は起きるのが辛かった。起きてしまえばどうってことないのだが、起きるまでに何度自分と戦ったか。起きない理由をあれこれ考えだしていて、結局目が覚めてしまった。
学生時代に使っていたリュックと雨具、昨日渋谷で買った上下のウェア、靴も学生時代のもので間に合うはずだ。パンプスばかり履いていたので、違和感が強い。駅までの道で慣れるとありがたいが。
新宿までは早朝ということもあって人も少なく、ただ久しぶりの登山の格好が気恥ずかしかったが、新宿に着くと同じような格好の登山者が多く、秩父までの電車の中はもうその専用列車のような感じだった。
女性はみんなパーティを組んでいるようで、ソロの登山者は千恵だけのようだったが、なんとなく一人になれるのは嬉しいと思ってしまっている。いつも一人なのに。バスから降りて、登山口に向かうと、また沢山の登山者がいて、トイレや給水をしている。
登山道は森がずっと続き、山らしくなるのはまだ先だった。紅葉にはまだ全然早く、森の木々はまだ青々している。黄色の葉っぱが茂っているのは、夏の台風で倒された木のあたりで、少し無残な感じだった。
時折聞こえる鳥の声、と言ってもカラスらしく、とてもさえずりには聞こえない不快な泣き声で、辺りを暗く湿らせていた。もう登山者の数は減ってきて、すれ違う人も少なくなってきた。正直人が多いと、あいさつするのもうんざりしてくるのだ。
追い抜いていく男の人たちは一様に「がんばって」とか「むりしないでね」とか声をかけてくる。ウザい。
この地球にはたくさんの人がいるんだから、ちっぽけな私ぐらい見逃してくれてもいいじゃない、と思う。自分じゃよくわからないけど、そういうのって鬱の気があるんじゃないか、と考えたりもする。もう、はやく死んじゃいたいと何度も思った。
ひたすら登り続けていると、ふと、考える。なんで自分はこんなことをしているのだろう、なんでこんな苦しい思いをして歩いているんだろう、と。少子化、ゆとり、社会に甘やかされてきた自分らの年代は、楽をし、怠けてても生きていける連中を横目に、必死で何かにしがみついてやってきた。あきらかに損をしている。冷房の利かない古い教室で、眠くなるようなゼミ。レポートレポート、課題課題。要領が悪いのだ。高校の同級生たちは適当に働き、適当に遊んでいる。終電間際までシュレッダーにかける資料のホッチキスの針を一本一本取り除いたことがあるのだろうか、あいつらに。
山頂には神社がある、というより大きなお墓のようで、しかし狛犬がいるんだから神社なんだろう、と妙な納得をしながら休憩をした。
実はさっきから気になっていたのだが、中学生くらいの男の子が辺りをぐるぐるまわっているのだ。なにかを捜しているのか、あちこちの木々の間を覗き込んでいる。印象的なのは、古いデザインの短パンとシャツ、そしてあれはスニーカーでなく布製の靴?であることだ。
今どきの中学生は男の子でもおしゃれだ。穴の開いたランニングシャツなど着ないだろう。むかしテレビで見た山下清画伯、というドラマに出てくる主人公を思い出してしまった。
ちょっと離れたベンチで、コンビニで買ったおにぎりを食べていると、その子はどんどん近づいてきて、わたしが座っている後ろをちょろちょろと行き来してきた。
うっとおしい、とも言えず、まあ、無視していたが、気になる。
しまいには、「うーん、あれだな」「こっちにはこないか」「や、まてよ」とこれ見よがし的に言うものだから、なんかイライラしてきて、つい、声をかけてしまった。
「こんにちは、なんか探してるの?」
彼は今どきほんと珍しい刈り上げた頭を傾げ、しかしこちらをうかがうような目で私を見た。
「あんただれ?」
こういうヤツに普通に答えてはいけない。
「ごめんなさい、勘違いでした。気にしないで」
「ふん」
彼は鼻で答えると、また探し物をしているようだった。
捜す、もしくは探すという行為は、人間の最も深い欲求と言える。古代世界より、人間は食物をさがさなければならないという、原罪を背負っている。そして見つけた時、この生物の脳はこの生命体にご褒美をあげる。ドーパミンやアドレナリン類である。大学ですこし習った。
「なにを探しているの?財布かなんか?」
恐る恐るだが聞いてしまった。聞いて、シマッタ、と思った。
彼は私の顔をじっと見ると、やがて口をとんがらせて言った。
「おねえちゃんじゃ、言ってもわかんないと思うけど、俺はオオカミを探してんだ」
「オオカミ?」
なにそれ、大丈夫?この子、頭マジいかれてる?やっぱりかかわるんじゃなかった。
「オオカミだ。日本にいる、ニホンオオカミだ」
「そ、そんなのここら辺にいるの?」
「ここら辺だかどこら辺だかわからないけど、いる」
「オオカミって、あれよね。赤ずきんちゃんとか食べられちゃう」
「食われんのは婆さんの方じゃないか?」
「あ、ああ、そうね」
このやろ、なんなんだ。
「日本にいるオオカミはそんなんじゃねえ」
「はい?」
「そういうおっかないやつなんかじゃないんだ。もっと、こう、臆病で、可愛いんだ」
「可愛いんですか?」
「そうだ。きっと餌やるとぺろぺろ舐めてくるんだ」
「想像ですか」
「ばかやろ。おとうさんがそう言っていた。死んじゃって、今はいないけど。嘘じゃないって言ってくれるのはもう誰もいないけど、でもきっとそうなんだ」
「あーそうね。いたら、きっとそうよ」
「お前も信じないんだろ」
彼は本当に真剣な目をしていた。
こんな目を見たことがあるだろうか?誰かこんな目をしたことがあるだろうか?あたしの記憶の中で、こんな目をしていた人が、かつていただろうか。急に、恥ずかしくなった。
ダレモ シンケンニ アタシヲ ミテイナイ
「そ、そんなことないよ」
「うそ、つけ」
ウソ イッタダロ オマエハ イマ ウソヲ イッタダロ
やめて、やめてやめて
「でも、なんか、ねえちゃんなら、わかってくれる気がする」
「え、なんで?」
「ねえちゃん、やさしそうだからな」
「おにぎり、食べる?」
彼は山のふもとにある、民宿のひとり息子だそうだ。『成田屋』というけっこう歴史のある民宿だそうで、温泉こそないものの、いずれ温泉をぶち当てると彼は豪語した。競馬の馬券じゃないっていうの。
「オオカミを探してるの?」
「そうだ。ニホンオオカミ」
「そんなのいるの?ここら辺に?」
「明治時代にもう絶滅したって学校でならった」
「じゃあ、いないんじゃない」
「いや、俺は聞いた」
「なにを?」
「やつらの声を」
「やつら?」
「そうだ、ニホンオオカミの群れの声だ」
この子、本気なんだ。本気でいると信じている。でも、おねえさん大人なんだよ。現実を教えないとね。
「ふふ、それはね、山犬の、声でした。じゃん」
「ああ、そうだよ」
「え、だから」
「やまいぬなんだよ。むかしはそう呼ばれていたんだって」
「へー」
あたしはやま犬って野犬のことかと思ってたけど、なんか違うんだ。
彼はなんでも話してくれた。この山のこと。四季のこと。ドングリを銜えたヤマネが巣に入れないで困っていたこと。ヤマカガシが冬眠に間に合わず、しょうがなくてテンの巣穴で一緒に冬を越したこと。そしてニホンオオカミは、ほんの少しだけど生き残って、この秩父の山の深い森にいる、ことも。
陽が少し西に傾いた。山の日暮れは早い。
「もう帰んなきゃ。家の手伝いしなきゃ」
「あ、ごめん。色々聞いちゃって」
「うん、いいんだ。ねえちゃんなら、ね」
「ぷ、なによそれ」
「またな」
「あ、気をつけてね」
「いや、ねえちゃんのほうだろ、それ」
彼の予言は的中した。下山する途中、三回こけた。
ボロボロになってバスに乗り込むと、座席に座っていたお婆さんがあたしに席を譲ろうとした。
「その子と座りなさいよ」
「え、だれとです?」
あたしはまわりを見回した。
夕暮れのバスの中は、登山客で一杯だったが、ちいさい子、というほどの子供はどこにも見当たらない。
「あ、ごめんなさい。小さい子を連れていたと思ったからねえ。勘違いだったわ」
急に寒気がした。
あれから気になって、けっこう仕事にも差し障った。頭のなかがニホンオオカミで一杯になったからだ。
田辺が見透かしたように言い寄ってくる。
「どうしたの、最近、さえないね。ストレス?それとも恋の悩みかな?そういう時は誰かに相談するといいんだよ。幸い僕は今夜は時間が奇跡的に空いていて」
「実は並行宇宙に関する論文が書きかけで、あと少しなんです。今夜で仕上げないと量子力学的に電子の加速値が素粒子の質量を大幅に変異させてしまう気がするんです」
「あーなんかわかんないけど、わかった。またこんど、ね」
次の休みの日、大学に行った。前日、同じサークルにいた友人に連絡をしたのだ。
「やだー、元気だったー?」
あまり連絡したくない相手だった。サークルにいくつも所属してほとんど男あさりしていたとしか言えないやつだったから。しかも親のコネで一流商社に入っている。なんにも苦労しないで、楽しくやってる。
「いえ、ほら日本の動物に。いえ、絶滅危惧種とか絶滅しちゃったとか、そういうのに詳しいほら、なんて言ったっけ」
思い出せないほど印象が薄かった人がいた。思い出せるだけでも奇跡のような。
「えーと、ああ、尾崎くんね。根暗で、尾崎まっくら、とかからかわれてたじゃん」
「ちょっとひどい。わらえるけど」
「あいつならまだ大学残ってんじゃない?一応ポスドク(博士研究員)になって教授のあとくっついてるみたいだし」
「まだ、大学いたんだ」
「あいつがどうしたん?あいつならダメよ。誘っても石みたいなんだから。女よりミイラのほうが好きなのよ。でも最近どうしてんのかうわさも聞かないよ。死んでんじゃね?きゃは」
「誘ったんだ」
「一年のときからね。けっこうあいつイケメンじゃん?もー持ち腐れいいとこ。ところでアンタは何の用で?まあ穴場っちゃ穴場かもね、あいつ」
「え、あ、勧誘に、宗教のマルチっぽい政治団体がらみの」
「そう。まあ無駄だろうけど、がんばんなさいね」
『博物館学研究室』
わりとおおきな部屋だった。大学にこんなとこあったなんて。ていうか、博物館学ってなに?
「ごめんください」
「え?」
「あ、りゃ?」
「ややや、あの、あー、佐伯、さん?」
「ででで、いあその」
「佐伯さん、落ち着いて」
「あ、はあ。いえ、なんであたしの名を」
「だって同じサークルだったじゃないですか」
「ああ、そうですが、あんまり話したことも」
「そ、そうですよねー。まあ、そうですね」
尾崎くんは、すこし寂しそうな顔をしていた。
「え、びっくりしたけど、今日はなんで?」
「あ、そう。実は聞きたいことがあって。いや、もしかしたら知ってるかなーと」
「え、何をですか?僕、女の子のスカートの色とか形とかわかんないですよ」
「誰が聞く?ほとんど初めて口きく相手にスカートのカタチ聞く?」
「いっつも佐伯さん、サークルでみんなとそんな話してたから」
あたしだった。おしゃれにしか関心なくて、楽ばっかして。誰のことも気にしなくって。頑張っているのも見せかけだった。
ホントノ アタシハ コンナンジャ ナイ
「佐伯さん?」
「え、あ、はい」
「すいません。余計なこと言いました」
こんな、いいひとだっけ?いつもうつむいて、ただ黙ってみんなについてくる。あたし、何見てたんだろ。
「オオカミ、なんですけど」
「オオカミ?」
「はい。ニホンオオカミって言うらしいんですけど」
「そんなのどこで?」
秩父の山で、その中学生の話をかいつまんで説明した。
「じつは、おととい、秩父の猟友会の人が、おかしな犬を仕留めたと。それが獣医学会を経由してうちに連絡があったんです」
「獣医、ですか?」
「この業界、意外に横のコミュニケーションとれてんですよ」
「へーえ」
「もしかして、絶滅したニホンオオカミじゃないかと」
「ええっ?」
「明日、現地に向かう準備をしてたところです」
「何時に集合なんですか?」
「来るんですね」
万全だった。目覚まし時計五個。しかし必要なかったのだ。
はじめて自分に勝てた。人生ではじめて目覚まし時計なしで朝五時に起きた。
秩父駅で尾崎くんと落ち合った。そこからはバス。
次第に山深くなってきた。
猟友会の人の家に着いたのは昼過ぎになっていた。
ごく普通の大きな民家だ。犬が寝ている。
誰もいなかったが、ちょっと待っていると軽トラックに乗って主が帰ってきた。
大型の冷蔵庫に入っている犬らしきものを見せてもらった。
「これはニホンオオカミじゃない」
「え?」
「犬だよ。雑種の」
「間違いなく?」
「骨格が違うし」
「そうよね。そんなに簡単に絶滅した山犬がみつかるわけないもんね」
「やまいぬって、どこで聞いた、嬢ちゃん?」
猟友会のおじさんが不思議そうに聞いてきた。
「地元の民宿の子が教えてくれました」
「そんなこと言う地元のヤツはあんまりいねえからな」
「『成田屋』っていう民宿の子らしいんですよ。中学生くらいで」
猟友会のおじさんは急に青い顔になった。
「おめ、俺は爺さんに聞いたんだけっども、『成田屋』は明治の終わりに火事になってさ、そこの親父と息子、息子は十二、三歳だったらしいけど二人が焼け出されてな。その子はまだこの辺をさまよってるって言われてる」
「え?」
「あんたが会ったのは、その息子かも知んねえな」
「ちょっと」
「あははは。まさかー」「そうよー」
ばーか。昼間なら怖くないわ。
わたしたちは丁寧におじさんにお礼を言って家を出た。
「なんか残念だったわねー」
「そうだね。ほんとにやまいぬだったらよかったのにね」
木々がこの前来たときより緑色を失っている。広葉樹は色付きはじめている。山が赤く染まっている。
「福原オレンジというのがあるんです」
「え?なにそれ」
「およそ百年前に千葉県で偶然できた柑橘類です」
「へー」
「柚子とオレンジを接ぎ木して突然変異で生まれたらしい」
「それが?」
「ニホンオオカミも、何かの突然変異種かもしれませんね」
「オレンジもオオカミも変異?」
「変に聞こえるかも知れませんが、交配は命の戦いなんです。その種をかけた戦い。そして命をかけた臨床実験場。より強い次世代を残すため、生命はおよそ何でも、そして我々の考えつかないことをするんです」
「オレンジとオオカミ、ですか」
「標本がほしいですねえ」
「あの」
アナタトナラ
「彼女とかいるんですか?」
「唐突ですね。もちろんいませんが」
「もちろんとか言われると、引く」
「あはは。しょうがないですよ。こんな貧乏研究員」
「そうね。ふふふふ」
「ちょっと悲しくなりましたよ」
「大丈夫、たぶん」
「たぶん?」
「まあ、あたしもほら、頑張ってるし」
「意味わかりません」
アナタトナラ スナオニ ナレル
遠くで犬の遠吠えがする。都会では絶対聞けないな、と思っていたら尾崎が顔色を変えた。
「あれはもしかすると」
「はい?」
「オオカミかも」
「まさか」
「行ってみましょう」
山道をひた走る。なぜこんなに山道を楽々と走れるのか、自分でもわからない。とにかく尾崎の手を握っているだけでどんどん走れた。
また声がした。さっきよりはっきりと聞こえる。山に満月がかかっていた。
「どこにいるのかしら?」
「しっ」
声がしたのは少し先だ。誰かいるのか?
「あ、おねえちゃん。どうしてここに?」
「え、あんた、えと」
「誠。俺は成田まこと」
「あんたんちって明治に燃えて、あんたは幽霊だって」
「それは親戚んち。俺んちは燃えてません。よく間違われるんだ。誰に聞いたんだよ」
「猟友会のおじさん」
「あのハゲの?」
「そういえばハゲ?」
「もー」
「ダメな人なのね」
「それより静かに」
「なにがいるのよ?」
「やっとみつけた」
「ニホンオオカミ?」
「やまいぬっていってよ」
「どうでもいいけど、すごくない?」
「あたりまえだろ。大発見だ」
「みんなに知らせなきゃ」
「なんで?」
「だって」
「みんなに知らせたって、いいことなんか一つもない。静かにここにいればいいんだ」
「だって学術的な研究が」
「おまえは学者か」
「なによ、ちゃんとここに博士もいるんだし」
「どこに?」
「あれ?」
「さっきからお前ひとりだったぞ」
「はい?」
「おまえはひとりごとぶつぶつ言いながらここへ来たんだ」
月をめがけ、やまいぬが吠えていた。
冷たい風が呼応するように、千恵と誠のあいだを吹き抜けていく。
ニホンオオカミを探している人たちは今もいると聞いています。どこかに生き残っていることを願うばかりです。