シノブと夜道と石板
私の基礎魔術の授業。早々に『基本呪文集』はぶん投げられた。そして週2の授業が週5に増やされた。
基礎の日常で便利に使えるはずの魔術の威力がことごとく強火になるのである。基礎とはなんぞや。
代わりに使える呪文を探した末、各地に伝わる呪文詩を集めた『地方呪文集』が教科書になった。
もちろんネプトゥーン地方の呪文のページは使用禁止だ。『緑ちゃん』? なんの話かな?
とは言いつつ、髪を乾かすときはこっそり使ってる。
『緑ちゃん』って連呼しやすいのだ。他の呪文も短縮形を使えるなら楽だろうけど、私が使ってる呪文はまだまだ基礎の段階なので小難しくちょっと長い。逆に基礎もまだ終えてない私がどうして短縮形の『緑ちゃん』を使えているのかも疑問だけど、そこはあの陰険教授の逆鱗なのでもう触れないことにしておく……。
授業自体は教科書片手に、各地方(ネプトゥーン除く)の詩を読み上げて、ああでもないこうでもないと言いながら私に合った呪文を探していく。
風の次は水で、花瓶に満たすくらいの水は簡単に出せるようになった。そして次は土、草、これは珍しく外に出ての実習だった。まず呪文で土を育てて、植物の種を植え、呪文で芽を出す。最後は火だ。これはかなり用心して、燃えるものがない場所でやったけど、危うく前髪を焦がしそうになった。
教授のお気に入りのメルクーア地方の呪文はだいたい威力が増しやすい。その度に般若の顔を見る羽目になる私の心労もわかってほしい。
そう、授業自体はそこそこ順調だ。初歩的な要素が終わりつつあるから、次は少しずつ強い呪文を覚えていくことになっている。それは楽しみだった。『緑ちゃん』よりも一瞬で髪を乾かせる呪文とか、あるかもしれないし。
問題は別のところにあった。
授業が終わって帰るころになると、だいたいはいつもすっかり日が暮れている。
学院には『旅人』がもたらしたという最新技術で街灯が立っているけれど、一歩外に出れば月明かり以外頼るものがない。
片手に光の魔術を入れてもらったランタンを持っているので、別に夜道が怖いとか、いや経理のお姉さまが何してくるかわからないって意味では怖いけど、気にするほどでもない。そういう性格だ。
なんだけど、なんだけど。
「…………」
私は止まりそうになる脚を叱咤して歩いた。
背後から土を踏む足音。
ここ数日、誰かが私から一定の距離をとってついてくる。
自意識過剰だろうか。
もしかしたら同じ寮の子かもしれない。でもいつも寮に着いても後から入ってくる子はいない。
いやでも寮より向こうに住んでる人かもしれない。……領館の敷地が広がっているだけだ。その向こうは森に続く道。
いやでも、でも。立ち止まりそうになる恐怖を振り払いながら、家路を急いだ。
すると、寮まであと少しというところで ついてきていた足音が急に駆け足になる。
ビックリして脚が地面に縫い付けられたように止まってしまった。
足音の主は私の行き先を封じるように立ちはだかった。
月明かりで人相はよくわからないが、夜目にもはっきりとわかる赤毛だ。かなり背の高い、身体の大きな男の人で、手を出してこられたらとてもじゃないが太刀打ちできそうにない。
それだけで心臓がギュッと縮み上がった。
「……お前、『余所者』のシノブだな?」
低い声だった。声音だけで憎憎しげな感情が立ち上ってきそうだ。
面識のない相手からもたらされる憎悪にますます脚がすくむ。
「お前のせいで妹は酷い目に合った」
「い、妹?」
そこで赤毛と記憶が繋がる。
収穫祭の日、オリヴィエちゃんはいつもの白い被り物を外して、赤毛があらわになっていた。
赤毛って目立つしあんまりこの世界でもいないから、よく覚えている。
「あ、オリヴィエちゃんのお兄さん?! お兄さんいたの?」
「っ!」
バレてしまったか、みたいな舌打ちした。よくよく見れば顔立ちも似ている。
妹の敵討ちってやつか。大ピンチ。
「お前みたいなあばずれのせいでオリヴィエは肩身の狭い思いしてるんだ! 少しは人の痛みを知れ!」
「いや人の痛みを知れって」
妹思いのお兄ちゃんなんだろうけど、すごい逆恨みだ! たぶんオリヴィエちゃんが自分の都合のいいように吹き込んだんだろうな。
オリヴィエ兄はジリジリとこっちに近づいてくる。同じようにこっちも後退するが、殴りかかられたら一発終了だろう。
何か隙をついて逃げられないだろうか。
そこでふとある呪文が思い浮かんだ。
「『ここに遊べ』!!!」
いつかの旋風よりも激しい風が舞い込み、大きな身体の相手が虚を突かれる。
今だ! すり抜けるように走り、あと少しだった寮の入口に駆け込んだ。
「待て!」
背後から呼び止める声が制止したが、聞く気は無かった。
そんなことがあって翌日。
「気が重い……」
仕事中はそんな気にならなかったけど、一日の仕事も終えて、魔術の授業を受けるために塔を登り始めた途端、脚が重くなった。
基礎魔術の授業自体は楽しい。
けど終わって帰る頃、またお兄ちゃん来たらどうしよう。
茶化してるけど、そうでもしないと今でも心臓がキュッとなりそうだった。
そうだ、今日だけ休みにしてもらえないだろうか?
「却下だ。お前の魔術習得は王国にとっても必要なことだ」
即却下かよ。恐る恐る希望を口にすると、ローゼンシュティール教授は能面みたいな顔でさらりと言った。がっかりして肩を下げる。
あまり話したくは無かったけれど、意を決して切り出すしかなかった。
「あのー、ゾフィ嬢の侍女の件、覚えていらっしゃいますか?」
彼の眉がピクリと跳ね上がった。あの件は彼が一介の事務員ごときに謝罪を余儀なくされた事件だったので、忌むべき記憶なのだろう。
「ああ、もちろん。それがどうした?」
「それが、昨日……」
感情的になりそうなところを抑えて、詰まりながら昨夜のことを話す。
段々と教授の眉間のシワが深い渓谷になり、これ以上は底なしになってしまうという辺りで何とか説明を終えた。
すると、彼は険しい顔のまま立ち上がる。いつもは椅子に座っているか床に広げたレポートと向き合っているので忘れがちだが、結構な長身だ。
「……少し待っていろ」
そう言って本棚の裏に一旦姿を消し、すぐに戻ってきた。
手には水晶がのっている。何事かボソボソと唱えたあと、ぼんやりと水晶が光り、そこから声が聞こえてきた。
『なんだい? 今日はゆっくりできそうだったのに』
「今すぐこっちに来い」
『強引だねえ』
「お前の大事な『旅人』に困りごとだ」
『ああ、そういうことか。わかったよ、すぐ行く』
水晶の光が消える。通信が終わったようだ。ローゼンシュティール教授はひとつ息を吐くと、また本棚の裏に水晶を戻しに行く。戻ってきた彼に、私は恐る恐る訊ねた。
「あの……今のって、もしかして……」
「ルートヴィヒだ」
「ぎえっ」
領主様! あんな軽々しく呼びつけていい相手じゃない!
血の気が引いた私に教授は腕組みして言いつけた。
「あれでも領主だからな。もてなしに茶を淹れておけ」
「は、はい……」
ルートヴィヒ様のことを『あれでも領主』なんて言うのはきっとこの傲岸不遜が服着て歩いているような教授くらいだろう。
お茶の用意をして研究室に戻ると、領主様はもういらっしゃっていた。
いつの間に。塔の階段をのぼる姿は無かったはず。
「やあ、お疲れ様」
「こ、こんにちは……」
うーん、領主様と呪文の書かれたボードと本だらけの部屋、違和感ありすぎだ。
布張りの1人がけの椅子に優雅に座る姿は王子様然としている。いや、領主様然?
並ぶように同じ1人がけの椅子に座るローゼンシュティール教授。以前同じ美男でも光と闇だと言ったけど、全然そんなことなかった。
むしろ神々しさが増す。私が日々の苦労で心が濁ってなかったら眩しくて目が潰れてたな。
2人の前にお茶を用意して、向かいの長椅子に腰掛ける。ちなみにこっちにも紅茶みたいなものがある。色、匂いと味と紅茶に似てるけど、どこか違うんだけど。
「不味い」
一口飲んだ教授は顔を上げてこっちを睨んだ。流れるような手つきでカップを手にしたルートヴィヒ様が窘める。
「こら、そういう言い方はよくない」
「他にどういう言い方がある? 不味いものは不味い」
しれっとした顔で言い切りやがった。こいつ。
「えーえ〜すみませんねえ。それじゃあ無理して飲まなくてもよろしいのに。あら二口目飲んでるじゃないですか」
「……」
「ふはっ!」
領主様が噴き出した。美男子がお腹を抱えて笑う姿、目の保養です。教授は嫌そうな顔になる。
ひとしきり笑い終えたルートヴィヒ様がいくつか世間話を振ってくれて、お茶で喉も潤った頃に昨夜のことを説明した。
その間ローゼンシュティール教授は拗ねたように腕組みをしてツンとしていた。
「オリヴィエは商家の娘でね。街でも三本の指に入る。問題を起こした後別の侍女に変えるということもできたはずだが、ゾフィ嬢はそれをしなかった。……普通は体面を気にしてすぐにクビにするんだが。それぐらい嫁入り前の令嬢のお付きは厳しい基準がある」
「オリヴィエちゃんの実家に何かあるとかですか?」
「いや、あそこは彼女の両親とも、先祖代々堅実な商売で信頼を得ているから。でも息子はそうでもなさそうだね」
「あー……いえ、まだ若いということもありますから」
そう言うと、領主様はにっこりと微笑んで足を組み直した。
「それでいくと、私もまだ若いけど?」
「……申し訳ありませんでした」
「うん、無礼を許そう」
鷹揚に頷いた後、彼は茶目っ気たっぷりに笑った。
「シノブは優しすぎるね。そういう優しさは別の機会に取っておきなさい」
「はあ、はい」
別の機会っていつだろう。わからないまま、コクコク頷く。
私の様子に「よろしい」と領主様ぶった後、ルートヴィヒ様は腕を組んだ。隣でローゼンシュティール教授も同じポーズをしているのがまた奇妙な感じだった。
「さて、となると、あれを用意するかな」
「あれ?」
疑問に答えてくれないまま、領主様は教授に笑顔を向けた。
「エメリヒ、水晶貸してくれるかい?」
「勝手に使え」
目も向けないまま本棚の方を指差す。それだけで置き場所がわかったらしい、ルートヴィヒ様は椅子から立ち上がり、本棚の向こうに姿を消した。
水晶で何か話しているのだろう、ボソボソした声が聞こえてくる。
「あのう……あれって何ですか?」
沈黙のままというのも気まずくて、ローゼンシュティール教授に恐々訊ねた。彼はツンと顎を逸らして、まだこっちに一瞥もくれない。
「すぐにわかる」
「ソウデスカ……」
気を使って振った会話も即終了。
幸い領主様がすぐに戻ってきた。彼はうんざりした顔でどさりと椅子に沈み込む。
「参ったよ。通信でまで結婚を急かされるなんて」
「結婚ですか?」
「そう。うちは兄弟もいないし、父も早くに亡くなったから。前々から言われてるんだけど、ピンとくる相手がいないんだからしょうがない」
「お前が選り好みしなければ済む話だ」
「選り好みした方が後々私が楽になるんだよ」
フンとローゼンシュティール教授は鼻で笑う。
「結婚などただの契約だ。さっさと終わらせてしまえばいいものを」
「ゾフィ嬢が可哀想になってきたよ」
「彼女はよくできた令嬢だ」
教授の言葉になぜか胸の内がモヤっとした。なんだこれ? 首を傾げながら胸元をさする。
顔を上げるとふとルートヴィヒ様の碧い目と視線がぶつかった。
「そうだ、シノブ。私の妻にならないかい?」
「はっ!?」
「書類仕事の経験もある、学院のこともわかってる、容姿も整っている、身分も『旅人』だからまあ何とか工夫できる。今のところ全部ピッタリじゃないか!!」
「いやいやいやいやいやいやいや!」
私は両手を前に突き出してただただ首を横に振った。こういう動きするオモチャあったよね。そうじゃなくて、何を言い出すのかこの領主様は!
「何ですかそれ、その条件?」
「ルートヴィヒは前から言っている。妻にするなら普通の令嬢ではダメだと」
「そうそう、俺と同じ目線で領地を一緒に治めてくれないと困る。そこら辺のご令嬢は計算も書類仕事も自分にはいらないと思ってるしさ」
「いや、それ。ルートヴィヒ様が楽したいだけですよね?」
「まさか! そんなことないよ」
輝かんばかりの笑顔で両手を広げた。なんだか、白々しい後光が背景に見える気がする。
「ただ、仕事に関わって共に乗り越えることで夫婦の絆は深まると思うんだ」
「なんて都合のいい……」
そうだ。教授にモヤっとしたのもこれだ。
女性をなんだと思ってるのか。『よくできた』なんて野菜や果物とか芸術作品みたいな言い方していいものでもない。
でも物申すにしても私はこちらの世界の常識を理解しているわけじゃないし、所変われば常識も変わる。領主や教授というどんなに立派な方々も、既存の貴族社会の考え方にははまってしまうということだろう。
「どっちにしろ、私は謹んでお断りします」
「そうか、残念だな……」
「……受けられても困る癖に。バルリング辺境伯の騎士姫が見合いに来ると聞いたぞ」
「それもそうだ。騎士姫にバレれば一大事だな」
「騎士姫?」
ルートヴィヒ様はお茶のおかわりを所望して、もう一度脚を組み直した。カップを受け取って保温効果の魔術がかかったポットから注ぐ。
「北はこのヴェーヌス地方、西はザトゥルン地方、南はネプトゥーン地方、そして東のゾンネ地方が各国との境界を守ってきたんだ。それで気性の荒い騎馬民族を東国のシア・ウーと上手く協力してやりこめてきたのがゾンネ地方のバルリング辺境伯家。代々苛烈な性格の軍人が多く輩出される地方だが、領主も代々そんな感じなんだ」
「それで、その騎士姫様もそういう方だと……?」
「噂だよ。24で、令嬢としては行き遅れと言われているんだが、後継の弟が生まれるまで父君を手伝って領主の真似事をやっていたらしい」
24。日本なら十分まだ適齢期だが、こっちではもう行き遅れになるらしい。
ん? ってことは私もそうじゃん! アジア人マジックとかで若く見られてんのかな。そういやユリアンもたまに舐めてんのかって態度とるし、あれは同い年か年下だと思ってたのかもなあ。
「だいぶ言葉を選んだな」
「お前みたいにあけすけじゃないんだ」
「? なんか他にあるんですか?」
「色々ある。気に入らない求婚者に決闘を申し込んだ話や……」
「あれはわざと大げさに誇張してるだけだろう、普段から男装して馬にまたがるというくらいで」
「へえ〜、なんか、気が合いそうな気がしてきました」
想像したのは宝塚の男役やオスカル様のような凛々しい女性だ。この領に来るということなので遠目でもチラリと目にする機会があるかもしれない。
相槌を打つと、珍しく教授が能面のような表情から一転にこりと笑った。
「お前の求婚を断ったこいつと気が合うということは、見合いは破断だな」
「何てこと言うんだ」
ムッとするルートヴィヒ様の表情には疲れが見える。
これが初めてのお見合いじゃないらしいから、それまでの苦労でも思い出しているんだろう。
それからいくつか取り留めもないことを話して、ルートヴィヒ様は椅子から立ち上がり、軽く伸びをした。
「そろそろ僕は戻るよ」
「お気を付けて」
「気を付ける必要はないかな」
領主様はいたずらっぽく笑った。
私は首を傾げる。決まり文句を否定するものだろうか。いくら事務棟の石板から帰るにしても、道中何があるかはわからないのに。
「シノブは今夜は事務棟の仮眠室に泊まるように」
「え?」
「石板を寮の君の部屋に置く。悪いけど人を部屋に入らせてもらうよ」
「石板?」
「そう。見せた方が早いかな」
そう言いながら領主様はまた本棚の裏に入り、重そうなものを持って戻ってきた。
私も見覚えがある。事務棟の精霊の像が手にしている石板だ。
「事務棟の石像は装飾も兼ねてるけど、転移には石板だけで十分」
「なるほど……気を付ける必要はないって、こういうことですか」
「そういうこと」
「僕のところに勝手に置いて、人の仕事を邪魔しに来る。領主の癖に」
「でもそのおかげで今回は助かっただろう?」
「結果論だ」
教授は不機嫌そうな顔でそっぽを向いた。ルートヴィヒ様は苦笑して肩をすくめる。
2人が一緒にいるところを見るのは初めてじゃないけど、今日は夜も更けてきたせいかすっかりくだけた感じに見えた。
「準備に時間がかかるから、シノブはしばらく仮眠室で寝泊まりしなさい。着替えは用意して、私の屋敷の者に届けさせるから。あと必要な物は?」
「あ、ええと、石鹸とか、化粧道具とか、ですかね……」
「ふむ。それもこっちで用意してもいいかい?」
「は、はい。むしろありがたいです」
「よろしい。──それじゃあ、今日はこれで失礼するよ。おやすみ、エメリヒ、シノブ」
「おやすみなさい」
「フン」
今回、今までのと比べたら短めですね。文章量は毎回どの文量が読みやすいのかわからないままです。話の流れの切れ目で1部分にすればいいのか、文字数を見て切れ目を入れればいいのか……
書けば書くほど領主様と教授が年齢より幼くなってしまって困ってます。こんなはずでは……