シノブと新居と新たな『旅人』
エメリヒ・ローゼンシュティール教授の新しい邸宅は学院と街の間にある。
裕福な貴族の邸が並ぶ中では比較的こじんまりと……そうはいっても庶民の感覚からしたら敷地と建物合わせても豪邸だ。
新婚さん向けの建物だったせいか、優雅な白い外壁に、飾り枠まで手の込んだ窓がいくつもはめこまれている。明るく華やかな印象だ。
今日まで寝起きしていた寮から出ることになり、一旦仕事を抜けることになって馬車のお迎えまでやってくるとなれば、もう腹を括るしかなかった。
一年でそこそこ増えていた私物を荷造りして、乗ってきたデューリングさんに手伝ってもらって積み込んだ。
そのままこの大きなお邸に連れてこられて、車寄せでおろされた。
「わあ……」
感嘆の溜め息でもあるけど、もう逃げ道がないという諦めの嘆息でもある。
柱や扉に施された美しい彫刻や大理石の床の玄関ホール。高い天井。
……絵画や花瓶のインテリアがないあたりが新居っぽい。
老執事然としてデューリングさんが案内を買って出る。
「シノブ様のお部屋は西翼の客室にご用意いたします。私めも到着したばかりでまだ整っておりませんので、大変申し訳ありませんが応接間でしばらくお待ちいただければ……」
「そ、そんな、荷ほどきと掃除くらいなら自分で出来ますからお構いなく……」
「そうは参りません。エメリヒ坊っちゃまの客人ともなれば、相応のおもてなしをしなければ……」
「でしたら、私は客人とはいっても、教授の部下で教え子ですので、エメリヒ教授の方が立場は上です。教授のお部屋の準備もあるでしょう? どうぞそちらを優先してください」
正直なところは丁重な扱いがむず痒いだけだ。本音は老練の相手にも筒抜けだろう。気にしない気にしない、ここで大事なのは建前だ。
デューリングさんの本音としても私というイレギュラーな客人の相手よりも主人の世話やお邸の手入れなんかを優先させたいだろう。
彼は私の言葉にひょいと片眉を持ち上げて、それから気を取り直したように片眼鏡をかけ直した。
「では、大変申し訳ございませんが、お言葉に甘えさせていただきたく存じます。せめて晩餐は召し上がってください。腕によりをかけてご用意させていただきます」
「ありがとうございます。楽しみにしてますね」
教えてもらった西翼の部屋に向かった。
荷物は後で運び込んでもらうことにして、窓を開けて空気を入れ換えたり、埃を払ってベッドメイキングし直したり、自分で出来るところは手をつけるつもりだ。
突き当たりの客室にたどり着き、扉を開ける。
想像はしていたけど、寮で暮らしていた部屋よりも広い。
「あっ、バルコニー!」
思わず荷物を放り出して、窓に駆け寄った。
掛け金を外して開け放つと、まだ初春の金色の陽光とひんやりした風が部屋の中に滑り込む。
中庭はまだ若木の生垣や庭木が蕾をつけていた。植え込みには淡い色の花が植えられている。
新婚の住まいらしい彩りだ。
それもそうか。教授が婚約していた貴族令嬢のゾフィ・アレンス嬢が昨年末の冬越しの夜会での騒動の処分を受けていなければ、二人はそのまま結婚、この新居で暮らしていたはずなのだ。
バルコニーの手すりに頬杖をついて身体をもたせかけながら、私は唸った。
ゾフィ嬢は今、ロッテと名乗り、ヴェーヌスの街で平民のお針子として暮らしている。
森の妖精と呼ばれるほど美しく儚げな外見の美少女で、彼女は男性を愛せない。
そして自分の侍女に淡い初恋をしていた。けれど、相手の侍女にとってはそんな気持ちは理解不能だったのだ。
拒まれて、ゾフィ嬢は自分に嘘を吐いた。恋心を捨てて、教授と結婚する。それまでは一緒にいてほしいと、侍女のオリヴィエと約束した。
けれど、想いを偽るなんて無理な話だ──二年続いた婚約は、オリヴィエの逆上と八つ当たりになぜか私も巻き込まれて、冬越しの夜会で大怪我する羽目になった。
そして私が領主さまが庇護する異世界人──『旅人』だったからさあ大変。
私がベッドの上で身動ぎもままならない間に、誰が責任を取るかという騒ぎがあったらしい。
そして、ゾフィ嬢を平民に降格させるということになった。表向きは厳しい処分だけど、男性との結婚が苦痛でしかない彼女には新しい人生を歩む契機となった。
貴族令嬢としてのゾフィには辛い結末。それでも、ひとりの少女としてのロッテにとっては円満解決、だったんだけど。
現実は物語とは違うから、こうやって新婚生活のために用意していた家や、家令として働くためにやって来たデューリングさん、しわ寄せがいろいろと出てくるんだ。
……一番納得できないのは、もう関係ないはずの私がどうしてここでも巻きこまれなければならないのかってことだ。
頰を撫でる風がモヤモヤしかけた気分を紛らせた。
ふと顔を上げて目をやれば、白い蕾をつけた庭木の向こうに領館を囲む城壁、その向こうに高く伸びる学院の塔が見える。
ぼやけた山陵の向こうはまだ雪に閉ざされている。日本では絶対にあり得ない光景。まだ帰りたい気持ちはあるけど、この幻想的な眺めは悪くない。
すっかり冷え切った頰を両手で叩いて気合を入れた。
「さーって、掃除だ掃除!」
小一時間ほどで新しい部屋を整えて、また学院に戻った。
ええ、お仕事中でしたからね。やることは山積みなんですよ。
それからいつもなら魔術の講義を受けるところを、教授を強制連行だ。
嫌がる根暗の罵詈雑言をのらりくらりとかわして、腕を引っ掴んで付き添い石板移動。
教授の新居に戻ってきた。
「おかえりなさいませ。坊っちゃま、シノブ様。晩餐のご用意が整っております」
デューリングさんが出迎えてくれて、機嫌の悪い教授をパスする。
私は一旦荷物を置きに部屋まで行って、食堂へ向かった。
「お二人ともお疲れでしょうから、本日は略式でご用意いたしました」
長卓に案内されて、奥の席に教授、私は斜め向かいに座らされた。
確かに、疲れているところにマナーガチガチで食事はしたくない。ありがたくサーブされた温かい料理をいただいた。
「食事が終わってから講義だ」
「……言うに事欠いてそれですか」
「他に何かあるか?」
こいつ。スプーンを持つ手も止めないわけにはいかない。
多少は人間らしくなったと思っていたけど、根本的なところがなっちゃいなかった。
普段は私が睨まれる側だけど、今日だけは私が半目になって睨む。
「あのですね、せっかくデューリングさんが夕食を用意してくださったんですよ。もっと、美味しいとか、温かいとか、感謝の言葉とかあるでしょう!」
次の食事を載せたワゴンの横で控えている老紳士を手のひらで示す。彼はギョッとした顔で訂正しようとした。
「いいえ、シノブ様。私めは家令ですから、主人に食事を召し上がっていただくのは当然のことで……」
「でも家令のお仕事って、ご飯作ったりまではしませんよね? 本来は料理人がすることです。いわば業務管轄外のことをやってくれているわけですよ!」
「いえ、ですが私めも長く勤めてまいりましたから、このくらいは……」
「教授、今ここで言うべきことを、デューリングさんに言ってください」
さあ! と促すと、教授は白い眉間に深々と大渓谷を刻みながら澄んだ青い目でこっちをじっと見た後、デューリングさんに顔を向けた。
「フォルクマー、温かいスープを飲んだのは久しぶりだ」
「そ、それはよろしゅうございました。温かいうちに召し上がってください」
老執事は面食らいながら主人の言葉に微笑んで頷いた。
ぎこちないな。けどまあ、及第点としてやろう。
食事を終えて、デューリングさんが食後のお茶を用意してくれた。
略式ではあったけど自分でちゃちゃっと作って食べるものよりも数段上のご馳走だった。温かいお茶は膨れたお腹を休めるにはありがたい。
教授には不味いと不評の私のお茶だが、確かにプロの家令さんのお茶は香りもよくて温度も適温だ。渋みもほとんどないし、色も綺麗に出ている。これと比べられたら私のは……でも不味いは無いと思う!
複雑な気分でお茶を堪能していると、何処かからカラーンと鐘の音がした。
どうして鐘の音がと首を傾げていると、デューリングさんが給仕の手を止める。
「来客のようです。見てまいりますので少々お待ちを」
そう残して素早く食堂を出て行く。しばらくして、彼は剣を携えた制服の青年を連れて戻ってきた。
「領主様からの使いの者です」
教授は首を傾げて怪訝そうにする。
「どうした? 領主なら石板でいくらでも出入りできるはずだ」
そっか、私たちが学院から石板でこっちに戻ってきたってことは、ルートヴィヒ様も同じことが出来るってことだ。
教授の問いに青年は右手を胸に当てる。
「領主様は急ぎ現場に向かいましたので……教授に同行してほしいとのことで、お連れするために私が参りました。冬の騎士団所属、エーミール・クレーマンと申します」
「冬の騎士団……国境警備か。ラススヴェートが何か仕掛けてきたのか?」
「いいえ……ですが、妙な女が現れまして……」
「女?」
「はい……ラススヴェートの毛皮の下に、変わった格好をしていまして。『旅人』ではないかと」
「『旅人』だと?」
教授がスラリと立ち上がった。私からは目が鋭く光ったようにも見えた。
獲物を見つけた目だ。教授の研究には異世界からやってくる魔力の豊富な『旅人』は希少な研究材料なのだ。
ヴェーヌス領には私しかいなかったところに、もう一人増えるかもしれないとなれば落ち着いていられるわけがない。
「ルートヴィヒ様はそのようにお考えです」
「あいつの見立てなら可能性は高いな。わかった、すぐに向かう」
「上着をご用意いたします」
デューリングさんがマントを持ってきて、あっという間に出掛ける準備をしていく。
私はただただ彼らの様子を眺めるだけだった。私がこっちに来たときも、そういえば領主様の後にすぐ教授がやってきた。
やたら見た目のいい男が二人も揃ったもんだから、ファンタジー映画の撮影かドッキリでもやってるんじゃないかと疑ってしまった。
まあ、二日もすれば生活様式のあまりの違いに現実を受け入れざるを得なかったわけだけど。
「いってらっしゃいませ」
「遅くなれば領館に泊まる。私の帰りを待つ必要はない」
「かしこまりました」
家令の送り出しで食堂の扉口をくぐろうとする辺りで自分も何か言うべきか迷った。
「き、気を付けて、いってらっしゃい」
声が裏返ってしまった。かっこ悪! 気まずくて唇を真一文字に引き結ぶ。
教授はこちらを振り返り、目を細めた。
「どういう意味だ」
「は? いや、普通に、見送るときの挨拶ですよ。えーと、その、道中気を付けて、無事でいてください、くらいの意味……です」
自分の咄嗟の発言をわざわざ説明させられることほどいたたまれないことはない。
野暮なことをさせる教授を恨みがましい目で睨めあげるが、相手はぴくりとも動かない表情筋の持ち主だ。何を考えているかわからない顔でこっちを見つめている。
「……そうか」
「はい」
「では、行ってくる」
「はい」
そのときはまさか、教授がこの邸に戻らなくなるとは思いもしていなかった。
また間隔が空いてしまいました。文章データの入ったやつを入院生活の母の動画観賞用にうっかり貸し出してしまって、今週やっとデータ取り出せました。




