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シノブとスクロールと老執事

 お母さん、お元気ですか。


 異世界に来てから早いことにもう一年が経とうとしています。


 こちらに来る前、最後の記憶に残っているのは就活です。

 何十社と履歴書を送っても面接に辿り着いたのは十社あるかないか。

 就活スーツに身を包み、どうにかこうにか、集団面接を潜り抜けました。


 その苦労の末に、あの日はきつい圧迫面接に遭遇した日でした。大学の同期からの情報で、そういうのがあるとは知っていたけど、人格否定されるのはしんどい。

 受かったとしても御社には絶対入りたくないやーい! と精神擦り減らされました。


 ひとり暮らしの部屋に帰る前にひと休みしたいと、駅前の噴水前のベンチに腰を下ろしたんです。


 ぼーっとしていたら、気が付いたときにはもうこちらに来ていました。

 ……日本とは世界自体が違うってことはもう嫌ってほど思い知らされた。

 もう戻れないのかな。ここは地球には存在していない世界、異世界なんだって。お母さん、信じられる?


 私がいるのはアーベント王国の北の都市、ヴェーヌスっていうところです。

 ここは王立学院っていう国立の大学みたいな機関があって、魔術師や騎士の卵がゴロゴロいます。

 北の国境に接しているから、昔は王立学院で防壁の役割を担う人たちを育てつつ配備していたみたい。


 それでねお母さん、そのアーベント王国の王立学院、助手課が私の職場です。

 就活に苦労していたときも大変だったけど、働くのも大変です。

 でも、いろんな人がいて、いろんなことを知れて、結構楽しいものですね。




 窓の外はうららかな日差しに溢れている。まだ風は冷たいけど、北方のヴェーヌスにやっと訪れた春らしいお天気だ。


 どうして働いているのか不思議になるほどのまぶしい陽気に満ちた午前、今日も今日とてお仕事だ。私は腕の中のレポート巻の束を抱え直して前に向き直った。


 アーベント王国王立学院の魔術科は『塔』と呼ばれる建物にある。

 上に行くほどお偉い研究をしている魔術師の教授がいらっしゃる。私は階段を登って担当教授の研究室へ向かう。エメリヒ・ローゼンシュティール教授。若き呪文構築の名手、スペルクラフトマスターと呼ばれている。天才だそうだ。その名の通り、教えているのは呪文学。


 目当ての教授の研究室にたどり着き、分厚い樫の一枚扉を叩く。中から呪文を唱える魔術師らしい、涼やかな声が答えた。


「入れ」

「失礼しまーす」


 中に入ると、壁一面天井まで備え付けられた本棚が出迎える。丸めた巻物──スクロールが詰め込まれていたり、本が積み重なっていた。

 その手前には黒板が立てられていて、白墨で何やら書き付けられている。これは教授の専門である呪文であることが多い。詩句を最小限に削って、どんな発音と抑揚が最適か、そういうものが記号で書き込まれているみたいだ。

 基礎呪文をどうにか全部覚えたばかりの私には火系の呪文ぽいなくらいしか読み取れない。

 まあ、なんとなくでも判別できるようになったのもねちっこい教授の講義のおかげではあるんだけど。


「昨日締切のレポートです。教授の言いつけ通り、期日を過ぎたものは受取拒否しました」

「そこに置いてくれ」

「はい」


 教授は書斎机の前で何やら書き物をしている。少しだけ顔を上げてちらりと青い目をこちらに向け、本棚の空いた一角を指差した。

 指示されるまま、そこに突っ込もうとすると待てと咎められる。


「巻き癖が付いていると読みづらい。広げておけ。それから、上から大陸文字順に並べて」

「いつも通りにですね。はーいわかりました〜」


 私の口の利き方が気に障ったらしく、教授は白い顔を上げた。

 宝石のような青い目がジロリと細められてこちらを睨め付ける。


「ちゃんとやれ」

「はいっ」


 おー、怖い。私とそう変わらない歳のはずだけど、あの迫力はやっぱりただならぬ美形のせいだろうか。

 背筋を伸ばして、本棚の手前の台に向かった。脇にスクロールの束を置いて、1枚ずつ広げて伸ばしていく。文鎮で重石をして、またスクロールを取って広げて、重石を外して伸ばしたスクロールの上に重ねていく。これを繰り返して、全部終わったら今度は名前順に並べていく。

 大陸文字はなんとなくアルファベットと似ているから……と並べていると唐突に本棚の裏からひょこりと客人が現れた。転移用の石板が置いてあって、それを知る人間だけがやってくるのだ。


「やあ」

「ルートヴィヒ様」


 金髪碧眼の華やかな顔立ち、正に王子様って感じの容姿の青年がひらひらと手を振る。

 上等の仕立ての衣服に身を包み、髪は亜麻色のリボンで束ねられていた。彼こそがこの学院の経営者であり、このヴェーヌス領の領主である、ルートヴィヒ様だ。


 リボンの色は恋人で婚約者のジークリンデ嬢の髪の色だ。昨年の冬越しの宴で無事に両想いとなったお二人の仲は順調らしい。

 年が明けると結婚の支度を整えるためにジーク様は領地に帰ったけど、頻繁に手紙や贈り物を送りあっているそうだ。


「仕事中に悪いね」

「全くだ」

「ルートヴィヒ様こそ、お仕事中では?」

「そうなんだけどね。エメリヒに客人を連れてきたんだよ」

「客人?」


 言われて目線を少し動かすと彼の隣に見慣れない人物が立っていた。静かな佇まいの老紳士だ。

 生きてきた年月を物語る白髪まじりの灰色の髪。シワの刻まれた思慮深げな顔立ちの中で突き出した鉤鼻には片眼鏡をひっかけている。

 旅装束なのだろう、腕には厚い上着を抱えて、ピンと背筋を伸ばして立つ姿は洗練されていた。

 ルートヴィヒ様や教授と同じ、貴族だろうか。


 老紳士は右手を胸元に当ててひとつ頷いた。


「お久しぶりでございます、エメリヒ坊っちゃま」

「ぶふっ!」

「……久しぶりだな、フォルクマー」


 教授は白い眉間にシワを寄せながら手にしていた羽根ペンを置いた。

 一瞬青い目がこちらをギロリと睨む。おお、怖〜い。


 でも私が吹き出したのは無理からぬことだろう。教授が『坊っちゃま』だなんて── 確か貴族のいいとこのお坊ちゃんらしいけど。──ハーフエルフで偉大な魔術師のヴァルヴァラ様に見出され、弟子として子供の頃から諸国を漫遊して、呪文構築専攻のエキスパートになり、天上天下唯我独尊、生まれたときから自分は完璧でしたと言わんばかりのこの冷血漢の呼び名としては笑いを誘われてしまう。


 フォルクマーと呼ばれた老紳士ははてと首を傾げながら宙を見た。老人らしさを利用したわざとらしくおとぼけな仕草だ。ちょっと茶目っ気のある人なんだろうか。


「かれこれ5年ぶりでございましょうかな。アストリット様がたいそうご心配されておいでです」

「姉上の……、姉上の心配はいつものことだ」

「左様でございますか。……ああ、マクシミリアン様は文の一つもよこさないととてもおかんむりでしたな」

「……」


 教授は唇を引き結んで押し黙った。立て板に水のように罵詈雑言と文句を言うこの陰険をやりこめるとは、かなりの強者だ。


「エメリヒ、君が買った邸の管理に人がいると言ってただろう?」

「邸?」


 ルートヴィヒ様の言葉に思わず口を挟んでしまった。

 呪文狂と言っても過言ではない研究大好きな教授だ。家に帰っているとか、家がどこにあるとか聞いたこともない。朝は早くから、夜は遅くまでずっと研究室に引きこもっている。私は教授は研究室に住んでいるという疑惑を抱いていた。


「ああ。エメリヒは結婚する予定だったし、新居を街に構えたんだよ。大きな邸だし、人手がいるからと、ローゼンシュティール家からデューリングが家令として派遣されてきたんだ」

「家令……」

「ご挨拶が遅れて申し訳ございません。私めはフォルクマー・デューリングと申します。ローゼンシュティールの本家で家令を勤めておりました」

「あ、丁寧にありがとうございます。『旅人』のシノブです。初めまして」


 挨拶を返すとデューリングさんはヒョイと白いものの混じった眉を持ち上げた。よくわからない表情だけど、『旅人』が珍しかったのだろうか。


「そうだ、お前は父上の右腕だったはず」

「坊っちゃま。お父上はマクシミリアン様に領主の座を譲るべきときのために、色々と準備なさっておられます。思慮深い旦那様のために、私めは一足先に倅の教育を終えましてございます」

「なぜそれでフォルクマーがヴェーヌスに来る必要がある。家令なら他の人間にもできるだろう」

「ローゼンシュティール家の末子である坊っちゃまの家令でございます。他の者になど任せられません。ですからこの私めが、隠居前の最後のひと仕事としてエメリヒ坊っちゃまにお仕えする運びとなりました」


 老紳士は鼻に引っ掛けた片眼鏡を直しながら答える。

 さっきから不機嫌ですと主張していた教授の渋面にさらに眉間の大渓谷が追加された。


「他にご質問は?」

「……家族を置いてきたのか」


 責めるような口調に私はギョッとした。仕事が遅いとか気に入らないとかで文句を言うことはあるけれど、教授がこんな風に他人を咎めることはない。理性的なのに、たどたどしさが幼子のようだった。


 デューリングさんはふと微笑んだ。恭しく胸に当てていた手を解く。


「坊っちゃま。私めの息子も娘も、もう子どもを育てている歳です。妻もとうに亡くなりましたし、やるべきことは全て終えました。老いぼれがいつまでも上に立っていると邪魔でしかありませんからね」

「だが……」

「それでは、遥々ユーピター領からやってきた老骨を休む暇もなく追い返しますかな?」

「……父上に、確認の書簡を送る」

「ご一緒に兄上にも近況をお知らせなさいませ」

「……わかった」


 教授はひとつ大袈裟なため息をついて不機嫌を引っ込めた。おお。私は驚嘆した。

 ルートヴィヒ様がたまにお姉さんやお兄さんの名前を出して彼を動かすけど、それだってここぞというときにしか使ってないみたいだし、言われた教授は納得いかないって態度を改めもしない。この我の強くて口の悪い陰険をここまで黙らせられる人間を初めて見た。


「ではさっそくお邸に向かわせていただきます」

「ああ、ちょっと待ってくれ」


 ルートヴィヒ様はその場を下がろうとしたデューリングさんに片手を上げて制止した。


「邸の件で相談したいことがあってね。エメリヒとデューリングで判断してもらいたい」

「相談、でございますか」

「ああ。こちらの都合で悪いんだが、私が婚約したことで人手を増やすことになってね」

「それは当然のことでございましょう。奥方になる方のためにも、領地のためにも必要なことです」

「この春に新しく入る使用人で、使用人用の居館が手一杯になってしまうんだよ。それでここにいるシノブに貸す部屋がなくなってしまうんだ」

「へっ!?」


 思わず声を上げてしまった。領主様に目をやると、彼は軽薄なウィンクで謝った。


「悪いね」

「えっ、そんな! じゃあ私、春からどこに住めば……」

「私も考えたよ。君は『旅人』だし、街の貸家に住ませるには不用心だからね」


 そう言われると自分の立場を思い出させられる。異世界からやってきた私はこちらの住人と比べて魔力が桁違いに大きいらしい。

 それに、個人差があるけど有用な知識を持っている人間もいるので手厚い保護という名目の元に確保される。金の卵を生む可能性がある鶏をそうそう放っておくことはないのだ。


 ルートヴィヒ様はにっこり笑って人差し指を立てた。


「そこでだ、エメリヒの邸に住まわせてもらえないかと思ってるんだ」

「げっ」

「は?」

「はあ」


 三者三様の反応が出た。拒否、不満、困惑。


「な、なんで教授の家に私が? 使用人さんが教授の家に住み込んでもいいんじゃないですか?」

「シノブ、よく考えてみなさい。彼は学院屈指の短縮呪文の使い手だ。元々うちの寮の警備にも不安があったんだ。彼ほど心強い護衛はいないよ」

「いや、でも、教授が家に帰るところを見たことないんですけど。護衛にすらならないんじゃないですか?」

「家に帰っていない?」


 私の抵抗にデューリングさんがほうと声をあげた。キラリと片眼鏡が光る。くいっと持ち上げながら彼は新しい主人に詰め寄った。


「坊っちゃま。予想はしておりましたが、やはりそのような暮らしをなさっておいででしたか」

「……どこも不自由していない」

「不自由のないこととローゼンシュティール家の威厳を保つことは別でございます。身だしなみや顔色から読み取れる暮らしぶりというものもあるのですよ。そんな青いお顔ではろくなお食事をなさっておりませんでしょう」

「スープで何とかなる」

「嘆かわしい! それに何ですか、そのローブは。何日前のものです?」


 教授は鬱陶しそうに顔をしかめながら、老紳士のお説教に何とか反論しようとしている。


 ふと領主様を見るとニヤニヤしてなんだか楽しそうだ。こういうときのこの表情には嫌な予感がする。


「まあまあ。そこで私の相談に戻るわけだよ、デューリング」

「……はて、どう戻るのでしょうか」

「ここにいるシノブは、エメリヒの助手であり、弟子だ」

「……業務上となりゆきで、ですよ」


 そこはどうしても訂正したいと口を挟んだけど、楽しい企みの最中のルートヴィヒ様は知らん顔だ。


「私もギレスが一人前になってからずっと心配していたんだよ。彼が弟子だったころは寝起きから食事の世話、服の支度なんかの細々したことまでやってくれていたからね。デューリングが邸にいればそれは問題ないだろうが、まず家に帰らなければ意味がないだろう?」

「なるほど。そこをシノブ様に付き添っていただくというわけですな」

「はっ!?」

「はあ?」

「その通り。シノブはエメリヒから基礎魔術の手ほどきを受けている。授業を邸でやってしまえばいい。邸に石板を置いて、学院から家へ帰るようにさせよう」

「ちょ、ちょっと待ってください!」


 両手を振って勝手に話を進める二人を止める。


「そうは言っても、教授の家から学院に通うとなると、変な噂が立っちゃうかもしれませんよ?」

「大丈夫、そのための石版だよ」

「え? あ、まあ……確かに石板で移動すれば、どこから来てどこに行くかかわかんないですけど……」

「そうそう。他に不満は?」


 ありまくりだけど、悔しいかな私のおつむではとっさには上手い返しができなかった。

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