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シノブとダンスとハンカチ

今回長めです。後ちょっとバイオレンス? ちょっと百合的な表現あります。

 やっと恋人同士になったルートヴィヒ様とジークリンデ嬢。

 今夜の二人のダンスは誰もが記憶に残すだろう。

 服も元々同じ色味で合わせられている、そしてどちらも見応えのある美男美女だ。

 まさに一対のカップル。似合いの二人だった。


 夜会でのダンスっていうと社交ダンスをとっさに思い出すけど、こっちの世界はちょっと違う。

 フォークダンスに似てるけど、うーん。とりあえずお互いの身体はそんなにくっつかない。

 横並びで手を繋いで、ちょっと歩いて右足を前に出したり戻したり、手を伸ばしたり、スカートを摘んで裾をひらひらさせたり。のんびりした動きだ。

 でも地味に覚えることも運動量も多いし足運びに神経使うんだよね。


「シノブ殿、僕たちも踊りましょう!」

「えっ、ヨハン様!?」


 抵抗する暇もなく領主様達の後ろに引っ張り出された。

 最初の曲が終わった後は私たちも自由に混ざっていい。


 これは最初の位置に戻ってきた彼らにくっついてホールを進み、踊っていく。そして数分で相手も入れ替わっていく。

 ヨハンくんの楽しそうな顔と言ったら。大人に混じる夜会ってそうそう無いのかな。社交は年頃になってから始めるものって、家庭教師がついたときに教わった記憶がある。


 踊り始めた頃は相手の足やドレスの裾を踏んで転ばないかで必死で、誰の手を取っているかに意識がまわらなかった。一応ダンスもこっちにきたばかりの頃に家庭教師から習ったのだ。

 だんだん思い出してきてステップも安定してきた頃にまた新しい相手に変わる。

 私の手をすっぽりと包んでしまう、乾いてひんやりと冷たい手だった。

 ふと顔を上げて思わず叫んだ。


「ヒエッ」

「なんだその間抜けな声は」

「す、すみません」


 エメリヒ・ローゼンシュティール! ダンスなんて興味なさそうな奴がなんでここにいんのよ!

 端正な顔とスタイルで淡々と踊りこなすところは普段の根暗インドア貧弱ぶりからは意外な姿だった。

 腐っても貴族ってやつか。


「えーと。教授って、本当に貴族だったんですね」

「……」


 おい、返事ぐらいしろ。深い色の瞳を白い瞼が少し覆い隠す。

 長い睫毛の奥の感情は複雑そうだ。

 辛抱強く返事を待っていると、薄い唇が少しだけ動いた。


「名ばかりのものだ。僕は幼くして家を出ている」

「ああ、そうでしたね」

「今思い出したのか、馬鹿め」

「すみません……」


 あんたみたいに記憶力いいやつばっかり世の中にいるわけじゃないんだよ。とは言わないでおいてやろう。

 それにしても、荷物持って歩くだけでゼエゼエいう奴が、今日は余裕で話している。


「随分踊り慣れてるんですね?」


 今度はしかめ面になった。待っても答える気はないようだ。

 教授の肩越しに眩しい銀髪の少女が踊る姿が見えた。淡いドレスと髪がシャンデリアの灯りできらめく。


「婚約者さん、とても素敵な人ですね」


 あと数小節で入れ替わる。組んだ教授の手は相変わらず冷えたままだった。


「彼女は……」

「え?」


 聞き返すことも出来ないまま、次の相手と入れ替わった。

 気のせいだっただろうか。けれど、はっきりと記憶に残っている。よくわからない複雑な感情の浮かぶ青い目。悲しげなのとも違う、いつもの不機嫌そうな様子とも違う。

 他人に感情移入なんてしたことなさそうな冷血漢があんな顔をするなんて。愛情ではないにしろ、婚約者に思い入れがあるのは喜ばしいことなのに、何だかモヤモヤした。

 よくできた婚約者だの何だの、女を都合のいい道具扱いしていたことに苛立った時とも少し違う。

 この解消できない蟠りは、彼女の髪と瞳の色がヴァルヴァラ様と同じだと気付いた時からあったように思う。


 もうそろそろ疲れてきた、その場を離れたいと思った頃。ギレス教授がパートナーになった。

 大きくて乾いた手のひらが包み込む。自分の手がちょっと汗ばんでることに気付いて焦った。


「こんばんは」

「こ、こんばんは」


 相変わらずの美男ぶりだ。盛装している分いつもより威力がすごい。にっこり細められた目はシャンデリアの照明を受けてキラリと輝いた。


「今夜の貴女は美しいですね」

「……お上手ですね。ギレス教授こそ、素敵です」


 ドレスの内側はじっとりと汗ばんでいるし、もう息が上がりそうだ。よれよれの女のどこが美しいのか。


「お世辞じゃありませんよ。そのドレス、よく似合ってます」

「……コルセットが着られなくて。時代遅れの型だって聞きましたけど?」

「確かにそうかもしれませんが、周りを見てください。かえって貴女のドレスが引き立つ」


 促されるまま周囲に目をやる。コルセットで締め上げた細い腰に、大きく広がったスカート。とても優雅だ。

 この中だと私の身体の線に沿ったストンとしたドレスは華やかさが足りない気がする。仕立屋さんがすごく綺麗に仕上げてくれたけど、白鳥の中にカラスが1匹混ざり込んでるみたいな感じは否めない。

 ギレス教授ってやっぱり感性がちょっと人と変わってるか、あばたもえくぼな好きになった人の全部を好きになるタイプの人なのかな。


「……あの、ギレス教授」

「なんでしょう?」

「私、疲れてきちゃって……どうやってここ離れたらいいんでしょう?」


 おずおずと訊ねると、ギレス教授は破顔した。


「僕を頼ってくれて嬉しいです。次の曲に変わる前に誘導しますよ」


 彼はとてもスマートに私の手を引いて舞踏の群れから連れ出してくれた。


「どこかで休みますか?」

「涼しいところがあれば……」

「この二階に、バルコニーがありますよ。シノブさん、上がれますか?」


 そのぐらいの体力はまだ残っていたのでゆっくり誘導してもらって階段を上る。

 なるほど、中二階はこんな風になっていたんだな。絨毯が敷き詰められ、大きな花瓶にクリスマスローズっぽいのが飾られている。いくつか並べられた長椅子はビロード張りで座り心地が良さそうだ。


 アーチ型に大きく切り取られた壁の向こうにバルコニーがあった。アーチにはカーテンがかかっていて、外からの気温を遮る魔術がかかっているようだ。


 外は雪景色だったけど、踊って火照った身体にはありがたい冷たさだ。

 ホッと息をつくと、隣でギレス教授がクスリと笑った。


「今夜の貴女は別人のように綺麗だから、そういう仕草をすると安心する」

「褒めすぎですよ……」


 やっぱり彼の目には分厚いフィルターがかかっているに違いない。美男なのにもったいない。

 半目でジトッと見るとギレス教授は残念そうに首を振った。


「シノブさんは自分のことをよくわかっていないようだ」

「え? わかってますよ、たぶん」

「たぶん?」

「はい、たぶん」


 憮然として頷くと、彼は整った唇を意地悪そうに吊り上げた。音もなく距離を詰められる。


「それじゃあ、僕とこうやって二人きりになったのも、少しは期待していいのかな?」

「へっ?!」


 思わず固まる。そうか! こういうところで二人きりになると誤解されるし、そもそもダンスの輪から連れ出してもらうのもまずかった。

 上がっていた体温はすっかり冷え切った。グルグルと頭の中で懊悩していると、彼は困ったように眉を下げて両手を上げる。


「ごめん、冗談だよ。半分だけね」

「……半分は本気だった?」

「僕を頼ってくれたのは嬉しかったんだ」


 ギレス教授はバルコニーの手摺りを掴んだ。それからちょっと俯いた。


「でもよく考えたら、君はこの世界に知り合いが少ないから。こういう場では僕を頼るのも無理はない」

「……」


 答えられなかった。その通りだったけど、肯定すれば彼を傷付けることになる。

 自分の狡さに自己嫌悪してしまいそうだ。肌寒さを感じてきた腕をさする。

 ギレス教授を置いて中に戻るわけもいかない。気まずい沈黙が降りそうになって、彼は苦笑する。

 大きな手が無造作に私の頭を撫でた。


「気にしないで。そういう顔をさせたかったわけじゃないんだ」

「……中に戻りましょう」

「そうだね」


 カーテンを潜る前に、そっと肘を引かれた。振り返ると、ギレス教授が真剣な顔をしている。


「シノブさん、オリヴィエが夜会に来ています」

「え……オリヴィエって、あの……?」

「ゾフィ嬢の侍女の、オリヴィエです」

「そっか、大きな商家のお嬢さんでしたっけ」

「ええ、招待客の中には彼女の家族も来ています。何もないとは思いますが、気をつけてください」


 ぎこちなく頷いた。家族の目もある場所でこの間みたいな傍若無人な真似はしないと思うけど、なるべく彼女の前に姿を見せないようにしよう。


 そのままギレス教授に階段手前の長椅子に連れて行ってもらって、足を休めた。

 思っていたより疲れていたみたいで、足の裏にじんわりと血の気が戻るのを感じる。


「ゆっくりしているといい。僕は何か飲み物をもらってくるよ」

「ありがとうございます」


 階下に降りていく背中を見送って、あたりを見回す。階段を上る労がいるからか、人の数は少ない。

 奥の方で恋人らしきひと組の男女が寄り添って親しげに話していた。音楽はまだ階下を賑わしている。


 まるで夢の中にいるようだ。

 目が覚めたら、日本の自分の家のベッドで、お母さんが起きなさいって叫んでいる。私はやけにファンタジーな夢だなあって思いながら、また就活用のスーツを着て、硬いパンプスを履いて面接に出かける。

 そうやって忙しくしているうちに何もかも忘れてしまうんだ。目を開けたら、現実が待っている。


 ゆっくりと瞼を持ち上げると、そこには真っ青なドレス。

 銀糸の刺繍や宝石の縫取りが豪華だ。

 何度か瞬きして、観察する。自分の目の前に誰かが立ちはだかっている。

 ゆっくりと顔を上げて、相手を確かめた。


「げ」

「あら、余所者は挨拶も知らないのね」


 オリヴィアちゃんだった。

 赤毛を黒と金糸で編み上げたヘアネットで覆い、紺色の帽子をかぶっている。

 青いドレスは商家のお嬢様らしく華やかで、悪く言えば派手だ。レースの手袋で上品にゴブレットを持っている。


 ギレス教授がせっかく警告してくれたのに、こんなにすぐ出会してしまうとは。それとも噂をすればってやつだろうか。


「嫌味を言いにくるなんて、よっぽど暇なのね」

「あたしはただアンタに身の程を思い知らせてやりたいだけ」

「十分思い知ってますけど」

「そのよくまわる舌でローゼンシュティール様もギレス様もたぶらかしたのね」


 言葉が通じない。忌々しげな口調は本当に私が悪女みたいな気がしてくる。

 思わずため息を吐いた。この子には何を言ってもねじ曲げて受け取られてしまう。話しても無駄だ。


 それがオリヴィエちゃんの癇に障ったらしい。

 手にしていたゴブレットを私の頭上に掲げてひっくり返した。中身が蕩々と流れ落ち、私の頭を濡らしていく。


「アンタは邪魔者なのよ。お嬢様とローゼンシュティール教授の美しい絆を邪魔する、醜い馬鹿な女」


 額を冷たいものが伝い降りていく感覚に茫然とする。

 ツンとワインの酒精の匂いが鼻をついた。顎からしたたった滴が膝を濡らしていく。

 ドレスが。手のひらで遮ろうとしても、不定形な液体は止まってくれず、贅沢な刺繍の施されたスカートに大きな赤いシミを作った。

 せっかく作ってもらったドレスなのに。領主様がお金を出してくれて、仕立屋の店長さんとお針子さんが寝る間も惜しんで縫ってくれた。


「オリヴィエ!」


 高い声が二人の間を劈いた。

 コロン、とゴブレットが絨毯に転がる。

 けれど、私はショックで顔を上げられなかった。


「お嬢様……これも全部、お嬢様のためですわ」


 目の前で青いドレスが揺れる。彼女は気圧されたように後退った。

 相対しているものを視界に入れるため、ノロノロと顔を上げる。


 そこにいたのは彼女の主人、ゾフィ嬢だった。愕然とした美しい顔は血の気がひいて青白くなっている。背中に広がる銀色の髪が逆立つような張り詰めた空気を漂わせていた。


「貴女は、自分のしていることがわかっているの?」


 オリヴィエの主人は一歩、踏み出しながら掠れた声で詰問した。追い詰められた侍女は声を張り上げる。


「ええ、ええ! お嬢様は幸せにならなければならないんです! お嬢様のためならあたしは、何だってできます!」

「いいえ、オリヴィエ。こんなこと、わたくしは望んでいない」

「お嬢様!」


 オリヴィエを一度睨みつけ、ゾフィ嬢は私の手を取って膝をついた。床にはワインの滴が水たまりを作っている。


「ごめんなさい、シノブさん。わたくしのせいで、貴女を大変な目に合わせてしまった」

「貴女は悪くありません。立って、ドレスが汚れちゃう」

「優しいのね」


 白い手がドレスの隠しを探り、ハンカチを取り出した。私が避ける暇もなく、顔を拭われて、手の中へ押し込まれる。


「今度は返さなくてもいいわ」


 美しい顔で柔らかく笑った後、表情を引き締めて立ち上がる。ドレスの裾には赤いシミが広がっていた。


「なんで! お嬢様、なんでそんな女に……!」

「オリヴィエ、わたくしはもう決めたわ。教授とは結婚しません。婚約は解消しました」

「かい……しょう……?」

「ええ。男の人を愛せないのよ。そんなわたくしが結婚するのは不誠実だわ。何より、自分自身にもう嘘は吐けない」


 ゾフィ嬢の言葉はしっかりとした力がこもっていた。


 中庭で出会った頃のような、どこか現実感のない妖精のような令嬢はもうそこにはいない。しっかりとした意思を持った少女だ。

 小さな手をぎゅっと握りしめて、彼女はオリヴィエに訴えた。


「ごめんなさい。許して、オリヴィエ」

「そんな……ダメ、ダメよ……許さない……」


 赤毛の侍女は狂ったように頭を掻きむしった。ヘアネットから髪がこぼれ、せっかくの装いが台無しになる。


「嘘吐き!! 裏切り者!!!」

「オリヴィエ……」

「教授と結婚するって言ったじゃない! 嘘吐き!」


 オリヴィエは荒々しく両手を突き出し、ゾフィ嬢を押した。

 声ならぬ悲鳴を上げて後ろに倒れる少女。

 背後には階段が。転がり落ちれば、ただの怪我じゃすまない。

 とっさに身体が動いた。ドレスの裾を踏んづけて転ばなかったのは奇跡だった。


 周りの景色が全部スローモーションだ。

 伸ばした手がかろうじて細い腕を掴む。空中で細い身体を抱え込んだと思ったら、衝撃が背中に走った。視界が揺さぶられる。

 段差に身体のあちこちがぶつかるのを感じた。


「キャァアアッ!!!」

「人が落ちてきたぞ!」


 賓客たちの悲鳴で、一階まで転がり落ちて衝撃がおさまったのを知る。

 痛みがあるのかないのか、もうよくわからない。


「シノブさん!」

「医者を! 早く!」


 騒ぎがどんどん広がっていく。目の端で何かが動いた。

 覗き込む誰かの顔。視界がぼやけていくのを感じた。意識が遠のいていく。


「──どいてくれ」


 よく通る静かな声。傍で誰かがかがみ込む気配。

 冷たいものが額を撫でる。切れて血が出ているのか、ヌルッとした。

 誰かの指先だとわかって、重たい瞼をどうにかしてこじ開ける。真っ黒な人影かと思ったら、その中に白い顔が浮かんでいた。

 宝石みたいな真っ青な瞳に見覚えがある。


「……教授?」

「黙っていろ、愚か者」


 その憎たらしい返事は紛れもなくエメリヒ・ローゼンシュティールだ。

 こんな状況なのに、ちょっと可笑しくなってふっと息が漏れた。途端に痛みに呻く羽目になった。


「応急処置をする。寝ていろ。目が覚めればマシになっているだろう」

「二度と、目が覚めない、なんてことは……?」

「馬鹿者」


 ぺちんと目元を覆われた。冷たく乾いた手。意外と大きい。


「眠れ」


 眠れといわれて簡単に眠れるわけはないはずなのに、どんどんと意識は深く沈んでいった。

 もしかして、これも教授の得意な呪文だったのだろうか。




 ピリピリ甲高い音。あまりのうるささに抗議するように呻いた。

 ついでに寝返りを打って、布団を頭からかぶる。

 うるさいなあ。眠気は重たく心地よく全身にまとわりつく。


 これ、スマホのアラーム音だ。最近は自然に目が覚めるのに任せていたから、すごく鬱陶しい。


 ……ん? 自然に目が覚めるってすごくない?


「シノブー、朝ごはん食べなさーい」


 一階からお母さんの声がする。

 朝ごはん。白いお米だといいなあ。最近食べてなかったから。


 ……食べてなかったっけ?


 変だなあ。

 大きくあくびしながらスマホを探し出してアラームを止める。

 もぞもぞと布団から顔を出した。カーテンから朝日が漏れている。ベッドの上で起き上がって部屋の中を見回す。

 羊模様のカーテンは一目惚れして買っちゃったお気に入りだ。本棚の中の漫画もずっと好きで続きが出たら発売日に即買いに行ったもの。ローテーブルの下のラグもふかふかでごろ寝するのにぴったり。

 どれも全部私の好きなもの。でも。


 私の部屋ってこんなんだっけ?


「シノブー!」

「はーい!」


 慌ててベッドから飛び出して、一階のダイニングに駆け込んだ。


「ごはん! お米だ!」

「何言ってるの、うちはずっと朝はお米じゃない」

「それがいいんだよ〜」

「変な子ねえ」


 お母さんは焼き鮭にお醤油を垂らしながら首を傾げた。私も自分で変だなと思った。こんなにお米好きだったっけ。普通にパンも大好きだったはず。


「お昼はちょっと控えめにするからね。今夜はお祝いだから」

「お祝い?」

「あんたの就職祝いでしょ。とぼけちゃって」

「そうだっけ?」

「就活が大変すぎて記憶喪失にでもなっちゃったの?」

「違うし」

「お箸くわえないの」


 お箸をくわえたまま返事をしたのに注意されて、その話はうやむやになった。


 就職? ……したような気はする。すごい大変な仕事に。大変? うーん?


「お母さん。私、何の仕事に就職したんだっけ?」

「何バカ言ってるの。あんたの就職先はねえ、──よ」

「え?」

「だから、──よ」




 今度こそ目を覚ました私は陸にあがった魚のようだった。

 勢いよく吸った酸素に驚き、びたんと身体が跳ねる。あまりにも無様でリアルな感覚に、こっちのほうが現実だと思い知らされた。


 だんだん落ち着いてきて、自分が大きな天蓋のベッドに寝かされているのだと理解する。

 柔らかい寝台が身体を受け止めてくれているおかげで、どれだけの怪我なのかいまいちはっきりと推し量れない。


 さっきまでのが夢だとしたら、私は領主様の館で、オリヴィエに突き飛ばされたゾフィ嬢を庇って階段から転がり落ちた。ホールの中二階とはいっても、かなりの高さだったはず。

 階段の角にぶつかった痛みもあった。無傷ではすまないはずだ。


 両腕をついて恐々身体を起こそうとすると、鋭い痛みが走った。


「うっ!」

「寝ていろ」


 声のした方に顔を向けると、応接椅子に身体を沈めたローゼンシュティール教授がいた。

 気怠そうに肘掛に腕をつき、額に手を当てている。


「私……」

「無事だ。しばらくはベッドの上で大人しくしていなければならないがな」

「本当に?」

「私が信用ならないなら、医者の見立てだから安心するがいい」

「信用、してないわけじゃありません」

「そうか」


 教授は深いため息を吐いた。とても疲れているように見える。

 もしかして、治療のために魔術を使ったりしたんだろうか。

 あれからどのくらいの時間が経っているのかわからない。


「あの、治療してくれたのって、教授ですか?」

「僕は、というか魔術は医術とは違う。僕がやったのは水や風を助けにしただけだ」

「はあ……」


 ちょっとよくわからない。けどじゃあ、あのときすんなり眠ってしまったのは、単に意識を失ったのだろう。


「すまない」


 その言葉を、よく理解できなかった。


「はい?」

「すべては僕の過ちだ」


 教授は顔を背けたままでいる。思わず押し黙ってしまった。

 何それ。こんなときだけ格好つけるなよ。いつも偉そうにしてる癖に。


「説明してもらうだけの理由はありますよね、私」

「……愉快な話ではない」

「いいです。どうせ私は寝てなければならないんだし」


 珍しく教授が逡巡した。身体を深く預けていた椅子から一度身体を起こし、浅く座り直す。

 心許なさそうに、膝の上で両手を組んだ。長い指が落ち着かなさげにうごめく。


「ゾフィ嬢と婚約したのは、2年ほど前だ。兄の紹介で──彼女と対面して、見合いだと気付いた」


 またため息を吐いた。白い顔に影が落ちる。

 私は寝返りを打つことさえもできないので、上掛けを整えながら彼の話に耳を傾けた。


「僕は人を愛することがわからない。彼女との見合いが正式な婚約になる前にと正直に話したんだ。

 ──そうしたら、彼女はそれでいいと。自分も男を愛せない、でも家族や、侍女……オリヴィエを悲しませたくないから、自分と結婚してくれと言ったんだ」

「それで、婚約したんですか?」

「ああ──元々貴族は政略結婚が多い。私は次男だから子を作る義務もない。

 家族や世間の目……期待は貴族である限り続く。私たちは、これなら誰も不幸になる者はいないからと。契約した」

「でも、不幸になった……ゾフィ嬢は」


 自分に嘘を吐くことはできない。

 2年間耐えてきたものがどれほどか私には想像できないけど、塔の中庭で自分のことを『籠の鳥』と言った彼女の気持ちは追い詰められていたように感じる。


 誰かの平穏を守るために己の心を殺す行為を続けてきたのは、それを望む人を愛していたから。オリヴィエの酷い言葉を思い出して、眉根を寄せる。

 嘘吐き。裏切り者。

 勝手な偶像を押しつけて、期待通りに演じる少女に喜んでおきながら、自分の愚かさからは目を背ける。

 それでもゾフィ嬢が耐えてきたのは、つまり──偏屈朴念仁教授は気付いていないようだから、言及はしないでおく。


「オリヴィエは、どうなったんですか?」


 教授は目を伏せて首を振った。


「ゾフィ嬢が彼女のことを庇った。全ては自分の責任だと」

「……そう、ですか」


 彼女は自分の初恋を守るつもりなんだ。相手から拒絶されるという最悪の結果になってしまっても。


「領主の夜会で、ルートヴィヒの庇護下にある『旅人』を害した罪は逃れられない。

 その罰を、ゾフィ嬢が受けると言っている。自分が『旅人』を突き飛ばしたと」

「ちが……!」


 思わず声を張り上げようとして、身体に負荷がかかって咳き込んだ。


「彼女は悪くありません!」

「……彼女からお前に言伝がある。『オリヴィエが罰されれば、平民として生きづらい立場になってしまう。何も言わずにいてくれ』と」

「そんな……そんなのって……」


 上掛けをぎゅっと握る。少しも身動きのきかない自分の身体が悔しかった。


 ここを飛び出してゾフィ嬢に言いたい。どうしてそこまでするの。そんなに大切なの。

 貴女自身はどうでもいいの? 幸せにならなくてもいいの?

 私よりもまだ若い少女があんな小さな身体で、好きになった人のために傷付く必要はないんだよと、抱き締めてやりたい。


 喉が潰れるように痛んで、自分が泣きそうになっているんだとわかった。じんわりと目頭が熱くなってくる。しゃくりあげるような嗚咽が出て、もう止められなかった。


 ひくひく不格好な泣き方をしていると、教授が椅子から立ち上がってこっちにやってくる気配がした。

 上掛けを握る手に細長い指が触れて、何か布切れを握らされる。


「ゾフィ嬢が夜会でお前に渡したものだと。使ってやれ」

「これ……」


 それは白いハンカチだった。白百合のモチーフを蔦や葉が囲い、リボンに名前が刺繍されている。

 中庭で会ったときに差し出されて、断ったものだ。夜会で差し出されたのは同じものだったのか。


「ドレスもハンカチもワインで汚れていたが、領主の使用人は腕がいいからな。シミひとつなく整えてくれた。これぐらいは、また汚しても洗いなおしてくれるだろう」


 教授の言葉はただ事実を述べたにすぎないのかもしれないけど、余計に泣けてきて、受け取ったハンカチに顔を埋めた。


 その後はただただ子どもみたいに泣いて、身体中の水分が枯れてしまったせいか、もう涙も鼻水も出なくなってしまった。

 ろくに身動ぎもできないし、身体の痛みと泣いた後の頭痛でぐったりしながら、腫れて厚ぼったくなったまぶたを擦る。


 椅子に目をやると、まだ教授がそこにいた。腕を組んで背をもたせかけるようにしている姿は、起きているのか眠っているのかよくわからない。


「教授?」


 話しかけると、呻き声が返ってきた。顔は反対を向いていてよく見えない。

 寝てるのかな。ていうか、私の様子見にしてもここでじっとしている必要はないだろうに、なんでここにいるんだろう。

 けれどタイミングよくハンカチをもらえたことには感謝する。あれがなければ私は顔中ぐちゃぐちゃになっていた。


「……人の愛し方がわからないなんて言うけど、ちゃんとできてるじゃないですか。友情でも、家族愛でも、相手のために手を差し伸べる。

 ヴァルヴァラ様のために宿泊場所や講堂にこだわったり。私にハンカチ渡してくれたのだってそうです。

 ……一番大事なもの、教授はちゃんと持ってます」


 起きてたら言ってやらないけど、ハンカチのお礼に少しは褒めてやろう。


 もし私がベッドから降りられて教授の顔を覗き込めていたら、あの恐ろしく整った顔が真っ赤になっているところを目にできただろう。

 冷血根暗陰険なあの男が、人間に一歩近付いた姿を。

memo:ダンス、ドレスの流行はルネサンス期盛期くらいを想像しています。タエシノブだけドレスはそれより前のコルセットいらない型のやつです。ダンスはヴォルタ、パヴァーヌ、ガイヤルド辺りを想像してます。でも他はたぶん考証あやふやです。好きなところだけ本や動画で調べてみました。ドレスはあるんですけど、男性服は手持ちの資料が痒いところに手が届かないものでした……。

あとヴァルヴァラ師どこ行ったのって話ですが、ヴェーヌスに寄ったのがバレて国王様のところで冬越しです。

ゾフィ嬢の処罰について、事情を察せないルートヴィヒくん領主としてどうなの問題ありますが、次章で何とかしたいと思っております……。

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