侍女と令嬢と 怪物
今回も短いです。それと、百合的な表現があります。
「オリヴィエ、この方が今日から貴女がお仕えするゾフィお嬢様よ」
輝きながら流れる銀の髪、長い睫毛の下の澄んだ緑色の瞳。小さく薔薇色に色づく唇。
ゾフィ・アレンスという少女は齢十二歳になったばかりの頃から人間離れした美しさで知られていた。
そんな主人に侍女として仕えることになったオリヴィエは、この出会いに打ちのめされた。
言葉を失ってしばし作り物のような少女の美貌に魅入ってしまう。
「オリヴィエ、ご挨拶をなさい」
「はっ、はい。オリヴィエと申します、ゾフィお嬢様」
妖精のような少女はにっこりと微笑んで頷いた。十二歳の少女とは思えない落ち着きと気品が滲んでいる。
「オリヴィエね。わたくしにはお姉さまがいないから、貴女が来てくださってとても嬉しいわ。どうぞよろしくね?」
オリヴィエは恐縮してただお辞儀するしかできなかった。それもどこかぎこちないものになってしまった。
アーベント王国第二の都市ヴェーヌスで商人として栄華を誇る家に生まれ、中流貴族の令嬢もかくやという何不自由ない暮らしをしていた彼女は、商人の持つ裕福さでは勝てないものがあることを悟った。
美しさ、優雅さ、洗練、知性。
それらで圧倒して貴婦人の、女の頂天に立つべく生まれてきたのがゾフィ・アレンスだという少女だとオリヴィエは強く衝撃を受けた。
ただ残念なことに、少女と年齢の釣り合う身分の高い貴族男子には既に婚約者が宛てがわれてしまっていた。
選定に引き合わせたりお茶会に招こうとすると不思議なことに彼女は決まって高熱を出して寝込んでしまい、そうこうしているうちに相手に別の縁談が持ち上がってまとまるということの繰り返しだったそうだ。
少女の父親は嘆きながらも娘可愛さで悲観してはいないようだった。
きっとお嬢様なら王子様と一緒になることも出来る。オリヴィエは出会って数ヶ月で主人を崇拝するようになっていた。
「お嬢様には気をつけたほうがいいわよ、オリヴィエ」
主人のお召替えを運んでいるときだった。自分と歳の近い使用人の少女が自分を呼び止めた。
不躾な言葉にオリヴィエは眉をひそめる。
「どういうこと?」
「そのうちわかるわ。お嬢様の侍女は今まで長続きしたことなかったのよ」
「だからあたしもそうなるって? 馬鹿にしないで」
「だから、そのうちわかるわ」
クスクスと不快な忍び笑いを残して彼女は去っていった。苛立った気持ちでその背中を見送る。
あんなのただの嫉妬だわ。自分が使用人であたしが侍女だからやっかんでるだけ。お嬢様は素晴らしい人だもの。
オリヴィエのその思いの通り、少女は容貌の美しさだけに留まらない聡明で優しい主人だった。
細やかにオリヴィエの仕事ぶりに気を使い、その都度貴女のおかげで助かっていると礼を述べて褒美に菓子やドレスのお下がりまでくださる。
幼いながらにオリヴィエの主人として尊敬に足る主人ぶりだった。
「オリヴィエ、今夜も一緒に寝てくれる?」
最初のうちは少女にも年相応なところがあるのだと、不安そうに訊ねてくる姿が愛らしいと思っていた。
あたしでよければ一緒にいますよと柔らかい寝台に滑り込み、小さな少女の添い寝をしていた。ぎゅうっと抱きつかれても可愛いばかりだった。家族は男兄弟ばかりで妹がいればこんな感じなのだろうかと抱きしめ返していた。
少々胸や太ももを撫でまわされても、幼さと母親恋しさからだろうと気にしないようにしていた。
オリヴィエにとって不運だったのは、いき過ぎた主人への崇拝と姉妹がいなかったせいで少女の異様さに気付くのが遅かったことだ。
オリヴィエは少女が十四になってもそれが続くとは思わなかったし、主人の婚約者はいつまでも決まらなかった。
「オリヴィエ、今夜も……」
上目遣いにこちらを見上げてくる美しい顔が恐ろしかった。
以前不快な忠告をしてきた使用人の言葉が脳裏にちらつく。それがどういう意味なのか理解したくなかった。
「お嬢様。お嬢様ももう十四ですし、おひとりで眠れるようにならなければいけませんよ」
そのときの傷付いたゾフィ・アレンスの顔。一瞬のことで見間違いだったかもしれない。
けれど、オリヴィエのなかの恐怖を増長させるには充分だった。
「そう、そうよね。ごめんなさい、オリヴィエ。ちゃんとひとりで寝るわ」
それから、少女はひとりの寝台で眠るようになった。
まもなく、主人に久しぶりの縁談が持ち上がった。
公爵家の次男、王の甥、家を継ぐわけではないが魔術師として王立学院で教授をしている。年は少し離れているが親子ほどというわけではない。社交の場にはあまり顔を出さないらしいが、その容貌の美しさは噂になるほどだった。毒舌で押し寄せる令嬢を切って捨てる冷たい人だとも聞くが、浮気者よりかはマシだ。
少女の父は未だに乗り気では無いようだが、この機を逃せば次はいつになるかわからない。
「きっととても素晴らしいお方ですよ、お嬢様」
「そうかしら」
「ええ、そうに決まってます!」
少女の銀糸のような髪を梳かしながら、熱心にすすめる。つい力が入ってしまって主人が髪を引っ張られる痛みに顔をしかめていても気付かなかった。
「……オリヴィエは、わたくしが結婚すると嬉しい?」
手を止めると、鏡越しに透き通った瞳がじっとこちらを見つめていた。
そこに縋るような色が含まれていたことに気付かないフリをして、頷く。
「ええ。お嬢様、きっと幸せになれますよ。お相手の方が幸せにしてくださいます」
「……そう」
ゾフィ・アレンスとエメリヒ・ローゼンシュティールの婚約が決まったのはそれからすぐのことだった。
ただ一度の顔合わせで、縁談はまとまった。
婚約期間は二年、しかるべきところでローゼンシュティール教授がヴェーヌスに邸宅を買い、結婚後は主人も家を出て暮らす。
侍女はもちろん必要だが、本人の意思で着いていくもいかないも自由だ。
オリヴィエはローゼンシュティール教授の元へ贈り物を届けに通った。
「そんなに頻繁にしなくてもいいんじゃないかしら?」
「いいえ、お嬢様。こういうことは細やかにするのが肝心です」
「それでも、わたくしじゃなく貴女が行くのは……」
「いけません!」
自分でも驚く程大きな声で遮っていた。目を見開いた主人の顔にハッとして言い繕う。
「お、お嬢様が学院を出歩いたりしたら大変なことになりますわ。男性が多い場所ですから」
「そう……それじゃ、お願いね。オリヴィエ」
いつからから主人がオリヴィエに向ける微笑みが仮面のようにどこか硬くなっていたのには気付かないフリをした。
ローゼンシュティール教授の周囲には女性の影が無かった。学院は男子生徒が多い。事務員に女性はいるが、教授と直接関わる人間には含まれていなかった。これは幸いなことだとオリヴィエは喜んでいた。
結婚まで目前という時になって、異世界人の娘が彼の周辺をうろつくようになった。
目障りで仕方ない。彼にはよそ見をしてもらっては困るのだ。絶対にお嬢様と結婚してもらわなくてはいけないのに。
日に日にオリヴィエは妄執に囚われるようになった。
美しく聡明なゾフィ・アレンスの内側には人知れぬ化物が巣喰い、オリヴィエを喰らおうと狙っている。
逃れるには彼女と同じく完璧な美貌のエメリヒ・ローゼンシュティールと添わせなければいけない。なのに。
異世界人の女に苛烈な悪口雑言を投げつけて、遠ざけようとしてもオリヴィエの思うようにはいかない。
挙げ句の果てにはローゼンシュティール教授の他にハーラルト・ギレス教授まで誑し込んで、楽しそうに二人で笑い合っている。
お嬢様がローゼンシュティール教授とそうしていたなら、どんなにか安心したのに!
憎らしさのあまり罵るとオリヴィエも思ってもいなかった方向へ気が昂った。
「貴女の仕えるゾフィお嬢様とやらもたかが知れてるわね」
「なんですって!!」
あんたにお嬢様の何がわかるというの! 同時に優美な外見の内側に潜む怪物がオリヴィエを恐怖させる。
気付かれるわけにはいかない、お嬢様は美しいままでいなければいけない!
気付けば手を振り上げていた。
自分のしでかしてしまった失態に、けれど内心では安堵していた。
これでお嬢様の侍女を辞められる。
実家に戻って森の妖精と讃えられたゾフィ・アレンスの綺麗な思い出だけを持って生きていける。
「オリヴィエ、お父様にお願いしたの。貴女を辞めさせはしないわ」
「どうして……」
崖の下に突き落とされたようだった。
主人は愁眉を開いてオリヴィエの腕に触れる。
呼び出されたのが彼女の寝室では、オリヴィエにとっては恐怖でしかなかった。身体が強張る。
まだ数年前はこの部屋で同じ寝台の上でただ眠ったこともあったのに、この部屋はこんなに狭くて息苦しかっただろうか。
「……気付いてしまったのね」
「お嬢様……」
震える手で腕に添えられた繊手を払いのけた。
彼女は悲しげに微笑む。その表情さえも美しいのに、今のオリヴィエには主人の皮をかぶった気味悪い怪物にしか見えなかった。
「貴女を裏切ったりはしないわ。ちゃんとローゼンシュティール教授と結婚する。だから、それまで一緒にいてちょうだい。お願いよ、オリヴィエ」
「……」
「オリヴィエ」
伸ばされた手に、オリヴィエは後退った。
「……必ず、教授と結婚してください。お嬢様が幸せになるにはそれしかないんです」
震える声で訴えた。ゾフィ・アレンスは悲しげに微笑んだまま、頷いた。
「……ええ、約束するわ」
主人に約束をさせるなど大それた侍女だという罪悪感が無いわけではなかった。
けれどそれ以上に、オリヴィエの憧れるゾフィ・アレンスを壊してほしくなかった。
美貌も聡明さも優しさも何もかも、オリヴィエの自慢の主人で周囲が羨望する令嬢のまま、そのまま幸せを手に入れてほしかった。
冬越しの夜会が終わればあと数ヶ月、お嬢様は結婚なさる。だから、早く。早く。
大討論の日。学園を訪れる主人に付き従い、講堂へ向かった。
若草色のドレスに身を包んだ主人はいつにもまして美しかった。目映い宝石などほとんど身につけていなかったが、彼女自身が内側から光り輝くようだった。
暗幕のかかった講堂へ入っていくところはよくできた演劇のようで、主人を空いた席に先導する仕事も忘れて見入ってしまっていた。
細くたなびいた外の光が彼女のいく先を照らし、誰もがゾフィ・アレンスに目を奪われる。
彼女こそがこの世界の主役で、誰よりも愛され、称賛され、幸せになるべき人だ。
オリヴィエは恍惚としながら確信した。
「ローゼンシュティール教授とお話ししてくるわ。貴女は待っていてちょうだい」
「かしこまりました」
教授の発表の後、講堂を出て並木道の前で主人はそう言った。
言いつけの通り、オリヴィエは学院の門の前で主人の帰りを待った。
お嬢様はちゃんと婚約者を愛そうと努力なさっている。安堵が胸の中に広がった。
だからこそ、戻ってきた主人の様子に気が付かなかった。
この視点はすごく書くことを悩みました。