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シノブとご令嬢と大討論

 アーベント王国の誇る王立学院、その創設者の一人で創設時のことを知る数少ない語り部。

 エルフたちが北の大国ラススヴェートよりもまだ最果てに旅立った今も人間たちの間を渡り歩いて民草に伝えられる魔術を集めている、数々の功績で魔術師の尊敬を集め、アーベント以外にも様々な国の王からも敬われるハーフエルフ、ヴァルヴァラ ・アカトヴァ。


 半分だけ流れるエルフの血が彼女をこんなにも美しく不思議な見た目にしているのだろうか。

 かなりの長身で、すんなりとした手脚は森の木々のようにしなやかだ。旅から帰ったばかりだというのに、銀糸の髪は垢汚れで粘ついた様子もない。

 顔立ちは中性的で、表情がのっていないと造り物めいて怖いくらいだ。吸い込まれそうな緑の瞳、シミひとつない肌、彫刻家がその顔貌を映しとって作品にしたいと熱望しそうな造形美。


 今まで見た目『だけ』は憎らしいほど美形、金髪碧眼テンプレ美男子のルートヴィヒ様を差し置いてもまだ顔『だけ』はいいエメリヒ・ローゼンシュティール教授を見慣れていただけに、もうどんな美男美女が来ても驚くことはないと変な自信があったけど、それを凌駕する出会いだった。


 もっとも、一瞬後にはその感動もどこかへ吹っ飛んでしまったけど。


「ニホン? 聞いたことあるよ! 極東のエジヤってとこにあるんだよね!」

「……アジアですね」


 私が『旅人』だと知っているアカトヴァ教授は自己紹介もそこそこに、私のことを色々と聞き出そうとしてくる。

 しかも近い。顔なんか鼻先がくっつきそうなほどだ。

 飛んでくるのが美人の唾でもあんまりありがたくない。

 ていうか顔が判別できないほど近くにあるから見惚れるとか緊張するとか以前に圧迫感がすごい。


「それでそれで?」


 マシンガントークとはこのことか。何を答えても次から次に彼女の疑問は尽きない。


「ヴァーリャ」


 不機嫌なローゼンシュティール教授の声が咎めた。

 至近距離のアカトヴァ教授からのけぞったまま目をやると、彼は白い眉間に盛大にシワを刻んで大不機嫌を主張している。

 そして頭ひとつ背の高いアカトヴァ教授の首根っこを引っ掴んでいた。

 珍しい。ゴルト講堂の申請を無断破棄されて怒り狂っていたときも人に向かって手を出すようなことはしない人なので、てっきり他人を触るのに抵抗がある潔癖症だと思っていた。


「あ、ごめんごめん」

「限りある僕の時間を無駄にするな」

「人の子はそれが困るよね。わたしなんかそれで焦っちゃって、あれもこれも聞いておきたくなるんだ。悪かったね」

「いえ……」


 ハーフエルフのテヘペロを見る日がこようとは。私はぎこちなく首を振って、はたと気づいた。

 腕の中に暗幕を抱えたままだ。


「ちょうどいいです。ついでに、大討論で使う暗幕を確認してもらっていいですか?」




 何とかかんとか、暗幕と水晶のチェックも終えて、準備万端何でも来い、は言い過ぎだけど何とかなりそうってところまできた。

 週末にしっかり休めば、週明けにはいよいよ大討論。


 なのに、なのにだ。


「……私の真面目な仕事の話で、笑うところありました?」

「いやいや、その働きぶりが微笑ましくてね」


 目尻に涙まで浮かべて笑い転げる領主様。

 座り心地の良さそうな長椅子の隣には今日はドレスアップした彼の婚約者候補、ジークリンデ・バルリング嬢が座っている。小さな顎を上下させて、ルートヴィヒ様の言葉に同意した。


「アカトヴァ様は子供たちの寝物語にも聞かされる伝説のお方だ。目の前にして動揺せず職務を遂行するそなたの気概は素晴らしい」

「ど、どうも……ありがとうございます?」


 対する私もかしこまった訪問着に身を包んでいる。この間のドレスと一緒に買ってもらってあちこち丈を詰めたり広げたりしたものだ。


 今日の私は『旅人』として領主様の館へ招かれていた。

 あちらの世界のことをジークリンデ嬢に話して楽しませるためということだが、詰まるところルートヴィヒ様の話のタネが尽きたのだ。しゃあねえなあ。


 話しているうちに、ジークリンデ嬢は私の今の暮らしを心配してくださった。

 大丈夫ですよ事務員めっちゃ楽しいですよと学院での奮闘ぶりを身振り手振り付きでお伝えすると、横で聞いていた彼女の婚約者候補の方がバカ受けしてしまい、小刻みに肩を揺らして笑いを堪えながらお耳を傾けてくれやがっていたのだ。

 教授もいい性格してるけど、領主様は領主様で、真面目に頑張ってる小市民をバカにしてんのか? 喧嘩なら買わないぞ?


 ジークリンデ嬢もジークリンデ嬢で、ちょっと褒めるとこがズレてる気もしないでもない。

 けどにっこりと微笑むお顔もこれまた凛々しくて、女性らしい格好をしているのになんかこう、素敵です……。


 私の目がハートになりかけたタイミングで領主様が咳払いした。


「私たちも大討論には行こうと思っているよ」

「はい、ぜひ。教授方も大討論のためにたくさん準備なさっています」


 ジークリンデ嬢が琥珀色の目を細めて嬉しげに頬をゆるめる。


「私は学院に行ったことがないから、楽しみだ」


 ルートヴィヒ様も微笑んだ。少し垂れ気味の緑がかった青い目がご令嬢に向ける向ける視線は、若い貴族の娘ならイチコロになりそうな甘さたっぷりだ。


 学院はあっちの世界でいう、大学みたいな役割だ。

 家庭教師や市井の塾で学びきってもっと知見を深めたい貴族や裕福な商家の次男三男とかが多い。

 学者や魔術師、騎士、商人を目指す人の他に、大店や貴族でも格式の高い家に使用人として入るときに箔をつけたい人が入る。貴族の女性が学院に通うことは現状滅多にない。なので学院は女性の比率がやや低い。


 けれど校舎の中には有望株の男子がゴロゴロいる。


 となると学生以外の女性──事務員の中には下心を持った人がいて。あんまり褒められたことではないけど、いわゆるお手つきというやつだ。

 ヴェーヌスにはそうやってたくましく一夜の相手の容姿を受け継いだ子供を可愛がりながら暮らすシングルマザーも多い。


 おっと、話が脱線してしまった。

 とにかく、ジークリンデ嬢が学ぶと言ったら家庭教師が相手だ。大きな教室で同輩と教授相手に学ぶというのは、少なからず憧れもあるのだろう。

 そういうことを踏まえて、嬉しそうな顔をする令嬢に甘い微笑みを向けている領主様はこりゃ誰がみてもメロメロってやつじゃないですかね。砂糖吐きそう。


 そろそろ帰りたいと思っていると、家令のおじいさんが領主様の元へやってきて何事か耳打ちした。

 ゆるんだ表情を引き締めて、長椅子から立ち上がる。


「失礼、急用が出来たので少しの間席を外すよ」

「では庭を散歩でもしていようか。シノブ殿、一緒に話しながら歩かないか?」

「え、ええ、もちろん」


 領主の館の庭はまずホールから開放できる大きなガラス戸からテラスに出る。


 眼前にはうっすらと雪の積もった生垣が複雑な幾何学模様を為し、氷の張った人工の池の中心には女神が妖精たちとくつろいで横たわっているが、今はそれもうっすらと綿雪布団をかぶっていた。


 白い石を敷き詰めた階段を下って、モザイク風に数種類の色のレンガで彩られた歩道を歩く。


 厚めの上着を着ているが、鼻先を冷気が刺して震えがきた。


 2人分の靴音がレンガを鳴らす。

 ちらりと隣を伺い見ると、ジークリンデ嬢がゆっくりと息を吐くところだった。呼気が白いもやとなって立ち昇る。


「東も雪が降るが、もっと荒涼としているんだ」

「そうなんですか?」

「ああ。東方との小競り合いが止むのが冬の間だけ。それも今度は飢えや寒さにやってくる難民がいる年もある。利を得るための約束を結べれば互いに苦しむことも無くなるのに、彼らは相変わらず奪うことしか考えてない」

「人って、なかなか生き方を変えられませんからね」


 頷く私をジークリンデ嬢が振り返った。琥珀色の瞳はきょとんとこちらを眺める。


「……この別世界で、これまでと違う生き方をしている貴殿がそれを言うとは」

「だって、私だって最初は苦労しました」

「そうか……そうだな。わたしはシノブ殿を尊敬するよ」

「いやあ、ハハハ……ありがとうございます」


 謙遜は日本人の美徳だけど、「いえいえそれほどでも」なんて謙遜するにはこっちに来て色んな人から助けてもらった記憶があまりにも多い。

 彼らのことをなかったフリして一人で頑張ったなんて格好つけは私には出来なかった。


「私が頑張れたのは、領主様をはじめとして学院の同僚、先輩、それに……教授方が私を助けてくれたからです。だから、東方との付き合い方もどうにか……なんて、綺麗事ですけど」


 麗しき令嬢は頰を掻いて言い訳する私にニヤリと笑いかけた。優雅なドレス姿で腰に手を当てる。

 そんなポーズをとるとスタイルの良さが本当に引き立つ。


「任せてくれ、綺麗事を搦め手にするのは代々得意なんだ」

「やだカッコいい」


 思わず本音を漏らしてしまった。慌てて口許を押さえる。キリッとした口調がキュンとくるから仕方ないじゃないか。


 両手で口を覆った私を見て、ジークリンデ嬢が声を上げて笑った。


「その調子だと、貴殿がルートヴィヒ卿に懸想する様子はないな」

「ありえませんよ! そんなこと考えてたんですか!?」

「ふふ、よかった。彼を賭けて決闘することにならずにすみそうだ」


 思わず吹き出しそうになる。いつかの夜に教授が言っていた噂話にそんなのがあった。


「あの、噂話だと思っていたんですけど……」

「ああ、求婚者に決闘を申し込んだことがある。あの男はわたしの友人に結婚を申し込んで恋文のやりとりも密にしていたというのに、わたしにも粉をかけてきたのだ。女を弄ぶような男には痛い目を合わせてやらなければ」

「それは、大変良いことをなさいましたね」


 ジークリンデ嬢の口元から白い歯がのぞく。


「だろう?」


 悪戯っぽく目線をかわして、二人で笑いあった。




 ジークリンデ嬢のお相手は楽しかったけど、英気を養う週末を過ごせたかというと全然だった。

 領主様にはいつかこの大きな借りを返してもらうことにする。


 朝一番。塔はいつにもまして静まりかえっている。

 中庭は作り物の太陽と室温調整の魔法陣でコントロールされているけど、どこかひんやりと感じるのは学院中に広がる緊張からだろうか。

 並木道の入り口に看板を立てて、ひとつ伸びをした。

 隠蔽魔術がかけられていた講堂は術が解かれた後も分かりにくい場所にある。塔に入ってから講堂までの道にいくつか案内を置いた。ちゃんとこれを見て辿り着けるか助手課の皆に手伝ってもらって試行錯誤しながら決めたのだ。


 さて、大討論までにはまだ時間がある。

 もう一度水晶から暗幕に上手く投影できるかチェックをするか、座席のお掃除をするか、見学予定の賓客の席次を確認するか、それとも……。念のために作ったチェック表を眺めると、項目の横にはすでにチェックが入っている。

 緊張してるなあ。肩をすくめ、ちょっとひと息入れることにした。

 お茶でも飲もうと思いつく。ローゼンシュティール教授に差し入れて、自分もついでに紅茶にありつこう。

 さっそく事務棟に戻ってお茶の準備をすることにした。


「おはようございまーす」


 ノックして研究室に入ると、教授は机の前で何か書き物をしていた。

 こんな日でも落ち着き払っている。秀麗な顔を上げて私が入ってくるのを認めると、ふいっとまた書類に目を戻した。無視かよ。


「やあ、シノブくん。早いね」


 机の向かいの応接用の椅子にアカトヴァ教授が座っている。こっちに小さく手をあげる様子は半ば伝説のハーフエルフなのに随分とフランクだ。


「なんだか落ち着かなくって……お茶を煎れてきました」


 ここにくるとイレギュラーな来客が、領主様とか領主様とか領主様とかで、たまにあるのでカップを多めに持ってきておいて良かった。


「お、いいね。ありがとう」

「ローゼンシュティール教授もどうぞ」


 いちおう礼儀として声をかけるが、根暗教授はさっきと同じように顔を上げて返事をしないまままた俯いた。こいつ。


「エメリヒ、緊張しちゃってるんだよ」

「えっ?」

「ヴァーリャ」

「何だよ。ちゃんと自分の心理状態は報告しといたほうがいいんだぞ」

「僕はそういう質じゃない」

「質も何もあったもんか。馬鹿だなあ」

「えっ、緊張してたんですか? ローゼンシュティール教授が?」


 思わず目をやると盛大に顔をしかめている。図星ってやつだ。ぽかんと口を開けてしまう。


「はー……教授も人の子だったんですね〜」

「育ての親はハーフエルフだ」


 子どものように拗ねた表情で減らず口を言う美形に思わず吹き出してしまった。


「緊張してるんだったらなおさら、お茶飲みましょう。身体を温めると少しは違うかもしれませんよ」


 持ってきたポットからカップに教授の分もお茶を注ぐ。

 そしてローテーブルの上、空いた応接椅子の前に置いた。


 薄い唇をぐっとへの字に曲げた後、大きなため息を吐きながら立ち上がった。

 仕方がないと言いたげな態度がムカつくけど、大討論の前だということで大目に見てやろう。


「……少しはましな味になったんだろうな?」

「失礼な。素直に他人の親切を喜べないんですか?」

「親切は大概の場合、押し付けにしかならん」

「はあ〜? じゃあ飲まなくていいです。返してください!」


 ソーサーに乗ったカップをつまみ上げた教授に向かって手を伸ばすが、ひょいと避けられる。


「っく、このっ!」


 もう一度取り返そうとすると今度はカップを高々と持ち上げて私の届かない高さへ。ぐぬぬ。インドアのくせに小癪な。

 睨み合っていると、隣からからからと笑う声がした。


「随分仲良くなったんだな」

「はい?」


 思わず半目になってしまった。ジトッと視線を向けても、偉大なハーフエルフは猫のように目を細めるだけだ。


「こいつはせっかくこの顔に生まれてきたのに、女性を遠ざけているんだ」

「それは、知ってます。研究第一のお人ですからね」


 おかげでこの短い間でどれだけ苦労させられたか。深く頷くと、向かいの席でふんと鼻を鳴らすのが聞こえた。


「私は選べるものなら選びたくなかった。他人から惚れただの何だのと時間を取られるのがどれだけ忌々しいことか」

「これだよ」


 肩を竦めるアカトヴァ教授と頷き合う。


「教授って、えっと、ローゼンシュティール教授って、昔からこうなんですか?」

「ああ、教授がふたりもいると面倒だな。わたしのことはヴァルヴァラでいい。ついでにこいつもエメリヒでいいよ。キミはこの子から魔術を教わってるんだし、師と呼べばいい」

「勝手に決めるな」

「遠慮しときます」


 妙なところで根暗と返事が被ってしまった。苦々しげに歪めた麗しい顔と互いに見合わせる。

 私からしたら、彼は私の師匠というよりは仕事上の上司という側面が大きい。教授のほうもモルモット程度にしか思ってないだろう。




 いよいよ大討論。


 四阿風の講堂には白い柱と柱の間に厚い暗幕がかけられているが、受講者の出入りのために今は上げてあった。


 すり鉢状の席の中央、講義をするための教壇が用意された。

 私は水晶の操作を補助するために、近くに椅子を置いて待機することになっている。


 ローゼンシュティール教授は教壇から少し離れて立った。元々長身だけど、いつもより少し背が高いような気がする。

 不思議に思いながら、受講者の入りを確認するためにぐるっと辺りを見回した。


 受講席には何人か教授の姿もある。

 ギレス教授もいて、そういえば彼はこの偏屈の弟子だったと思い出す。隣にはユリアンがいた。テオさんは担当教授の聴講に行くと言っていたのでいない。二人の周りにはギレス教授目当てらしい女性陣が守りを固めている。男性率の高い座席の中で彼の周辺だけ華やかだ。相変わらずのモテモテぶりだ。

 他に、ゴルト講堂の件でご迷惑をかけたヴュルツナー教授とそのお弟子さん。意外に思えたが、あの教授からすれば生意気な若造のお手並み拝見といったところだろうか。


 そして目玉は若き領主とその美しき客人である辺境伯令嬢。しっかりと最前列に陣取っている。

 顔を寄せ合って何か言葉を交わす様子はもう恋人同士のようだ。あとは本人達がちゃんと気持ちを伝えさえすれば上手くいくだろう。


「しっかりやりな、エメリヒ」


 ヴァルヴァラ様が教授の肩を叩く。そこからふっと力が抜けたように見えて、気付いた。

 彼は普段、猫背なのだ。さっき背が高くなったように感じたのはそのせいだ。

 しっかりと背筋を伸ばして顎を逸らす姿はローゼンシュティール教授らしい傲慢さを取り戻している。ツンとした鼻を膨らませて大きく息を吸った。


「時間だ、始めよう」


 ざわめいていた群衆がしんと静まる。

 補助者の椅子に待機しながら暗幕を下ろす操作をした。

 講堂の中は闇に包まれ、水晶のほんのりとした灯りだけが照らし出す。


「本日お集まりいただいた面々の中には私のことをよく知る者も、知らない者もおられるだろう。私のことを知らない者のために簡略な自己紹介を。


 私はエメリヒ・ローゼンシュティール。


 師のことはご存知でない方が珍しいだろう。この学院の創設者のひとり、ヴァルヴァラ ・アカトヴァだ」


 ヴァルヴァラ様を教授が示した。

 教壇を挟んで私の反対側に立っている姿は、スポットライトもないのにわずかに光を帯びているように見える。気負った様子ひとつなく偉大なハーフエルフは聴衆に向かって手を振った。


「私が師に引き取られることになった経緯は、私が人より魔力が多かったことから始まる。生まれたときから有り余る魔力を暴走させて家族を困らせていた。

 今では広く知られる話だが、そういう者は珍しくない。長じる前に己の力の暴走で命を落とすことが多い。私は運が良かった」


 ローゼンシュティール教授の声は淡々とした調子で講堂の中に響き渡った。教壇の前にまわって足音高く歩く。


 以前、魔術師を選ぶしか道がなかったと彼がこぼしていたのはそういう意味だったのか。

 やっと得心がいく。普通の魔術師の弟子入りがひとしきり教育を終えてからと違い、彼はそれよりも幼い頃にヴァルヴァラ様に引き取られたのだろう。


「魔術に興味を持つきっかけは人それぞれだろう。

 家の壁に描かれた魔法陣に惹かれたという者もいれば、家の中で行われる小さな儀式にという者もいる。


 私の場合は、古い呪文だった」


 そこで一度言葉を切り、手を突き出す。黒いローブの袖がはためいた。


「メルクーア地方の婚礼の誓約に使われる呪文だ。


『月よ、今日この日に結ばれる二人の頭上に永久に輝け。

 彼らが分かたれる日が来るならば、この誓いを破る二人に落ちて離別の苦しみを味合わせよ』


 聞いてわかる通り、これには呪文としての効果はない。だが、現地の人々はこれを今も呪文と認識している。月が落ちてくるなどということが現実に起こらずともだ。


 ではなぜこれが呪文だと言われるのか? ──この誓約には前段階がある」


 そのとき、教授の足元に細く長く光がたなびいた。


 講堂の暗幕が開かれたのだ。


 目をやると、人ひとり分開けられた隙間から女性が入ってくる。


 ふわりと広がる銀の髪に、ほっそりとした肢体を若草色のドレスに包んでいる、絵物語の妖精が出てきたようなたたずまいの美少女。


 私はぽかんと口をあけてしまった。


 あのときの、中庭でキスを奪われ、慰められ、元気付けてくれたあの娘だ。


 その隣には白い布で赤毛の頭を包んだそばかす顔できつい顔立ちの侍女、オリヴィエちゃんがいる。


 ローゼンシュティール教授の婚約者であるご主人様第一の彼女が側に控えているということは、つまり彼女が──


 少女は通路側の中ほどに席を取り、静かに腰掛けた。


 時間にしておそらく数分のことだ。誰もが目を奪われ、言葉を失っていた。目線、静々とした足運び、ドレスの裾の捌き方、どれをとってもおとなしやかな淑女の手本と言えるふるまいだった。


「遅れて申し訳ありません。どうぞ、続けてください」


 透き通った声がシンとした聴衆の間に響き渡る。


 どうしてだろう、優雅で美しいのに、以前聞いたよりもツンとして無感情のように聞こえた。


 教授は一度眉間にシワを寄せ、講義に戻った。


「この婚礼の誓約についてだ。


 呪文に関して詳細な記録が残っていないため、口伝や過去に儀式に立ち合った者たちに調査をした。


 結果、婚礼の儀式で行う誓約だけでは不完全だということがわかった。むしろ段階を踏むからこそ誓約の拘束力が強まる」


 神経質な手つきでこちらに合図が飛んだ。すかさず水晶を操作する。


 教授の背後に古い絵図が浮かび上がった。茶ばんだ紙片の上に描かれたもののようだ。


 片手を上げた男の頭上に月、男の隣には女が立っている。


「かつてメルクーア地方の男は、恋した女に結婚を申し込むとき、月に挑んだ。


『月よ、私は日毎に形を変え、姿を隠すお前のように不実にはならない。永遠に変わらぬ愛を捧げよう。

 愛する人よ、どうか私と夫婦になってはくれないだろうか』


 一語一句を完璧に伝え覚えている者はいなかったので、現在この挑戦は正しく月には届いていない。

 だからこそ、結婚と離婚を繰り返す者が後を断たないのかもしれないが」


 聴講者の中に笑いの波がさざめいた。

 そりゃそうだ、離婚で月が落っこってきたら大変だから誓いを破れなくなるが、実際には離婚者は後を絶たない。月が落ちてきたという騒ぎもない。


 ローゼンシュティール教授は大袈裟に肩を竦めた。


 授業をする姿が意外と様になっている。なるほど、他からはともかく弟子や学生から評判がいいのはこういうことか。


「私がなぜこの呪文に心惹かれるか、疑問な者も多いだろう。


 ハーフエルフに育てられ人の心の機微がわからない。

 旅から旅で育ち、人間関係への興味も薄い。

 呪文のことばかり考えている。

 人間の癖にエルフのように物事をただ傍観するだけ。


 ──確かにそうだ。


 私がこの宣誓の呪文に惹かれたのは愛情の繋ぐ絆などという陳腐なものではない。


 吹けば飛ぶような人間の感情を、満ち欠けはするが存在の揺るぎない月で縛ろうなどという大それた傲慢さ。

 そしてそのために呪文を作り上げる、愚かさだ」


 水晶が映像を映す光だけが照らす中、美しい形の青い目には爛々とした光が宿っていた。


 うわあ。変なやつだとは思ってたけど。

 何? 私たちを馬鹿にして見下すどころか愉快に観察してたってこと? ちょっとどころじゃなくドン引きだった。


エメリヒ師は実際はそれほど他人を下に見ている訳ではないし、自分自身の心の機微にさえ疎かったり共感性が低いという己の不具合を嫌というほど自覚しているので、ちゃんと人間らしく生きている人たちの中に自分が混ざれるはずがないと距離を置いている、のですが……そして講義のこの前説もそういうことを言いたかったわけですが、勘違いされるというね。そりゃそうだ。

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