手順前後の許されぬ、厳格なる決めごと
「は? 何言ってんすか? 頭沸いてんすか?」
異世界小説の読みすぎで、俺も、騎士道小説を読みすぎたかのドン・キホーテ・デ・ラマンチャなみに頭沸いてるのかもしれない。こういう、どうでもいい固有名の記憶力だけは昔から良い。
「では、お立ちいただいて」俺の抗議を無視して家庭教師は命令してくる。「この帽子をおかぶりください」
そう言うと、世界一有名な配管工の帽子アクションさながらにトップハットをこちらに放り投げてきて、ポスリ、と俺の頭に、見事、おさまった。こいつ、やはりただものではない。
「荘夢くん、これからわたくしの申し上げる通りにしていただければと」
「フォン・ドジスンさん! 」俺ははじめて家庭教師の名前を呼んだ。あれほど最初イキってたのに、意識せず、さん付けで呼んでしまっていた。「その前に1つうかがってもいいですか?」
「なんなりと、どーぞ、です」
「あの、異世界に連れていってくれるって話ですが、それってその、いったん死んでから生まれかわるいわゆる転生なのか、それとも生きたまま異世界に移動する転移のことなのか、どっちなんでしょう? 」
「うーん、それは荘夢くんのお気持ち次第でございます。異世界にお連れはしますが、そこに留まりこちらに戻ってこられないのであれば、それは転生ということになりますし、一方、その逆に、こちらの世界に戻ってこられるのであれば、それは転移ということになろうかと。したがって、それらは結果として判明することであって、事前に申し上げることはできかねます。まあ、これからトラックがこの部屋に突っ込んできてはねられる、というわけではございませんので、その点はご安心いただければと」
「その戻ってこられる、とか、戻ってこられない、というのは、その、尊敬の意味なの? それとも……可能の意味? 」
「HAHAHAHAHA!」フォン・ドジスンは唐突な高笑いを炸裂させた。「れる・られる、の、受け身・可能・自発・尊敬の使い分けをきいておられると。学校の入試問題なら答えは1つですが、異世界への入試問題ではどうでしょうか? そこは、どちらにも解釈できるようにあえてそういう言い方にしておきましたので、荘夢くんの生きざまでもって、ご解答を確定していっていただければと」
フォン・ドジスンは、上体を屹立させたまま、重力を無視するように、身を前方に45度傾け、俺の目を凝視してきた。
「では、よろしいかな? まずはそこで帽子をかぶったまま、目を閉じてください」
「はい」俺は目を閉じる。いよいよはじまるのか、と身を固くする。
「開いてください」
「はい」俺は目を開く。帽子を脱いだ奇怪な紳士が立っている。まだ何も起こってはいないようだ。
「また閉じてください」
「はい」
「開いてください」
「はい」
「閉じてください」
「……はい」
「開いてください」
「はい? 」相変わらず世界はそのままである。「あの、ふざけてます? 」
「いえいえ、航海はきわめて順調ですよ」ロムスカ・パロ・ウル・ラピュタ、かのムスカ大佐の台詞か。どうでもいい固有名なので俺はよく憶えている。
「続けてまいります、いいですか、全力で、全力でですよ、そして高速に、すなわち、できるだけ素早く行ってくださいね! まずは右目を開いたり開いたり、開いたり開いたり、それから次は左目を開いたり開いたり、開いたり開いたり、そして最後に両目を開いたり開いたり、開いたり開いたりしてください、はい!」
俺は憑かれたように、あたう限りの全力で、まずは右目、次に左目、最後に両目をしばたいた。脳内には、死ぬほどウザいが悔しいほどかわいいTikTok女子のウインク動画が、例の音楽を添えて、再生されていた。
「ウェーーーーーーーーーーーイ、荘夢くん、わたくし、何と申し上げましたか? 開いたり開いたり、開いたり開いたり、ですぞ。開いたり閉まったり、開いたり閉まったり、ではござりませぬ、HAHAHAHAHA!」
「えーと……お帰りいただけますか?」
「おっと、これらのやりとりも異世界に行くための必要な儀式なのです。むしろすべて上手くいきすぎているくらいです」
「このバカげたやりとりが?」
「Certainly.、そのとおりでございます」こんどはテレンス・T ・ダービーか? 俺は固有名には無駄に強い。「あの世界的にきわめて高名な技である、融合のポーズを想起していただければと。あるいは究極な力を引き出す際の老師の踊りであるとか。手順前後の許されぬ、厳格なる決めごとがあるものなのです」
「で、次は何をすれば気がすむんですか? 」俺は投げやりに言った。
「もう、何もしなくてけっこうです」
は?
「We're all set. 、準備万端でございます……あなたはだんだん眠くなーる。あなたはだんだん眠くなーる。あなたはだんだん……」
俺の頭上のハットが勝手に回転しはじめる。
どこからともなく、辺りに煙が立ち籠めてきて、嫌でも俺はそのガスを吸い込んでしまう。苺とガリガリくんソーダ味とメロンサイダーとじゃがアリゴと焼け焦げた黒蜥蜴の尻尾の混じり合ったにおい(なんだそれはと思われるかもしれないけど、この時は本当にそう感じたんだ、本当に)がした。俺の意識は、赤・青・緑・光・闇、五色の色彩の流れに染められた。
小学生の頃、斜視の手術を受けるため、マスクをつけて、全身麻酔のガスを吸わされたときの、あの感覚を思い出した。
色彩の流れはやがて渦になり、回転速度をはやめていく。そして俺の意識は今世から遠のいていった。
「最後にご忠告です。くれぐれもその帽子だけはなくさないでくださいねー。とても上質で丈夫なものではあるのですが、なくすと代えのきかないものではありますので」
煙につつまれ姿の見えないフォン・ドジスンの声だけが響く。そのためまるで帽子自体が声を発しているように感じられた。
「そうだ、フォン・ドジスンさん、異世界に行く前に、もう1つきいておきたいことが……」
しかし、俺の質問は間に合わなかった。
そして、今世に、ダスビダーニャ!