書くこと脱稿すること、そのあとさき
文字だけの、文章だけでいいような世界に行きたい。
現し世を歩けば、人ばかり。人の世なのだから、人ばかりなのは当然だ。しかし、そこに居たくない。
文章の世界は、作者の意思と心情を基に紡がれた言葉。その流れ、組み合わせ、それが骨を成し、肉を作り、人となる。
内容が何であろうと、その作品の世界はまさしく作者の血肉そのものだ。純粋だ。
人の世では、意思と心情など二の次だ。大概まずはその美醜を見てしまう。次に遍歴だ。要は着飾ればいい。
そこには、こんな反論があるのを知っている。『より良く見せるために金と時間を掛けて何処が悪い』――なるほど、時間を費やし金を稼ぎ、服飾に金を掛ける。知力を磨き結果を出す。筋トレをして肉体を作るのと何も変わらない。それはまさしく努力だ。意思の、内面の証明と言っていい。
しかし、現し世では、身悶えするような失態があって記録に残ろうが、その後には雰囲気、語気の強さ、声量の大きさ。その時々でいくらでも誤魔化せる。特に、華やかに映されるモニターの向こうではよくあること。外連味ばかり。
だがしかし、文章の世界は……こう思う。
文章ほど内面を写すものがあるだろうか?文章は己の魂を切り刻み、その一片から新たに人、物、果ては世界をも作り出す。そうやって書き出されたモノは、その時分の書き手の一部分とは言え、紛れもない真実を映し残す。そして脱稿すればそれは不変。
だから書き手は、時が経って改めて己の著述を読むと、文章の粗雑さ、その内容の混沌さ、若気の至り、語彙の不足、おぞましさを感じ、身悶えするのではないだろうか?少なくとも、私はそうだ。
そうも考えると、ひどく極論じみた物騒な話であるが、己のすべてを総括するような傑作を一本書いて、書いてしまって、……でも身悶えするのは嫌だから、そのまま首を括ってしまうのが、物書きにはちょうどいいように思える。
ものを書く理由、現実、そこからの希死念慮を綴ってみた。異論が有るのはわかってる。しかし、別で書いてるものがあまりにヒドイもので、片手間にこんなのを書いてしまった。
何を書いているんだろう。どうにも、重ったるいモノを書いてしまう。……理由はわかってる。