第五話
宇宙をながい時間眺めているとまるで楽譜のようだ、と内海は思う。
星々がそれぞれの音符を表す。高い音や低い音。しかし奏でるのは音じゃない。
高い音なら彼女の機嫌がいい。低い音ばかりの年は一年を通して彼女の機嫌は悪い。
今年は高い音がより集まっていた。
「ちょっとアンタ、また星なんか見て。次の死者が来るわよ」
いつの間にか後ろに立っていた道先案内人――サミィ。
「今年は星の向きがいいからサミィの機嫌がいいのかなって」
「星でわたしの機嫌を測るのはやめなさい」
嫌がる素振りだけのサミィを見て笑う男性――因幡内海。二十四歳。死者。
三叉路には死者の次の行き先を決めるシステムとそのシステムの間違いを正す一人の人間。
内海は十年もの間、三叉路でサミィの補佐をしてきた。
「あ、死者が来たね」
「言わなくてもわかってるわよ。ったく、あんたは透明になっときなさい。何かいちゃもんをつけたくなったときだけ出てくればいいのよ。というか出てくるな」
内海は透明マントを捨てずに、いつまでも刻印をその身に刻んでいた。それを活用して死者の案内をするサミィの傍にいる。
おぼろげな光が魂から情報を汲み取って生前の姿を映し出す。
サミィは無表情の仮面をつけた。
最近では、つける時間の方が少なくなった無表情の仮面を。
「あー疲れた疲れた。異世界のチート選びに五時間もかけるなよ。まあ? 五時間どころか十年も悩んでるヤツもここにはいるわけだが?」
部屋に戻るなりフローリングに顔面からダイブするサミィ。後ろをついてきた内海ははははと笑うだけだった。
二人が暮らす部屋には少しだけ物が増えた。とはいっても、たった一つだ。寝ないしご飯も食べない一人とシステムがくつろぐための赤いソファ。
いつもサミィが占有しているけれど、機嫌がいいと内海も座ることができる。
「凝った。肩揉んで」
内海はやれやれとわざとらしく口にした。床に伏せるサミィの長くて青い髪を掻き分けて、露出した肩を二十四歳の握力で揉む。
「昔よりかは腰が入るようになったね」
「年を重ねたからね」
「そういう意味じゃない。技術が上がったってことだよ。いちいち言わせんな」
「そういう意味で言ったんだよ。年を重ねて力もついたからサミィの肩を揉めるんだ」
二人は互いの関係性に名前をつけなかったが、十年前とは違う距離感で接し合っていた。
内海はサミィの露出した肩を遠慮なく触る。サミィはその行為を怒ったりしない。そんな関係性。
肩を揉み解していると、サミィはまるで昼寝のベストスポットを見つけた猫みたいな鳴き声を上げる。内海はそんなサミィの声が好ましかった。
「あぁ……ふぁ~あ」
「眠いなら寝ていいよ」
「ねむくなんかない。わたしはシステムだ。それにそろそろまた死者が来る」
宇宙空間内部において隔絶された一人とッシステムの部屋から、にこやかな笑顔の男女が出てくる。
道先案内人は光の前に立つ。透明マントを羽織った内海はその背に立つ。
宇宙空間に横たわる平面の板の上、光がおぼろげな魂から像を作る。
像から産みだされたのは女性。
よくあることだ。この三叉路には老若男女の死者がやってくる。年若い女性どころか、赤子や小学生もこの十年間で内海は見てきた。
道先案内人は周囲を見渡して狼狽える女性を無表情で見つめる。
内海は女性を酷く狼狽した顔で見た。いや、目を反らした。
フラッシュバックするのは十年前――内海の死の直前の記憶。
――どうして。
「え、なに、ここは?」
酷似した声。内海は、違う彼女じゃないと胸の中で叫ぶ。
「ここは三叉路。死んだあなたの次の行き先を決める場所」
「死んだ? わたしが死んだってか。ナニソレ? つまんないんだけど」
無表情の道先案内人はデータを読み上げる。
「電車にはねられて死んだ」
死因を聞いた瞬間、女性は世界全てをひっくりかえしても満足しない魔王みたいなにらみをきかせた。
「電車……? そんなのありえない。私が電車に乗ることなんて絶対にあるわけがない。ふう……。つうかこれってドッキリ? テレビ? ユーチューブ? この宇宙って仮想空間ってやつでしょ。じゃああんたバーチャルユーチューバーなの? 髪青いし」
「わたしは道先案内人。死んだあなたの次の行き先を決めるシステム」
「……わっかんない」
女性は頭を掻きむしる。道先案内人は説明を追加した。
「針島土建の新社会人歓迎会の場でアルコール摂取量が体内耐性を上回って酩酊。あなたを背負った同僚が電車に乗ろうとしたところ、あなたは暴れてホームから転落。到着した電車の下敷きになった」
「……」
女性は何も言わなかった。
死者がこういう反応を示すことは珍しくない。絶望の顔なんて見慣れたはずの内海は未だに目を反らし続けていた。
道先案内人は確認をする。
「あなたは桐野萌絵。人間。死者。二十四歳。間違いないですか?」
内海は呻いた。からからの喉を更にきつく絞られているようだった。
十年前の記憶が甦る。告白をしたボクをふった桐野さん。死の直前、踏切の中から振り向いたときにボクを見ていた桐野さん。
二十四歳になった桐野萌絵はとてもあか抜けていた。酒やけた声も金髪とピアスも。一言でいえば「遊んできた女」。
中学生時代の清楚だった彼女からは想像もつかない変貌。それでも内海が懐かしむ程度の輪郭がそこにはあった。
嬉しくはないけど、と内海は胸の内で付け加えた。
二十四歳の萌絵はハサミほど切れ味のある目線で道先案内人を睨んだ。
「あんたは?」
「わたしは道先案内人。死んだあなたの次の行き先を決めるシステム」
「女神サマー、とかそういうの?」
「わたしはシステムです。神の系譜に属してはいません」
「……なんでもいいけど。それで、私が本当に死んだって証拠はあるの?」
死んだ証拠。そんなものを求める人も珍しい。あってもなくても死んだことに代わりはないのに。
「あんたが私を拉致っただけかもしれない」
「ではお気の済むまで証拠を探してください」
道先案内人は役割を果たす。
桐野萌絵は走り回った。
一見した程度ではどこまで続いているのかもわからない宇宙空間の上を。
適度な場所で壁を見つけては、逆方向に駆け抜けた。
けれど、いくら宇宙を探し回ったところで桐野萌絵が死んだ証拠なんて出てくるはずもない。桐野萌絵の遺体を写した写真が貼られていることもない。桐野萌絵を轢いた電車がこの三叉路に再現されることもない。
「証拠ならあるよ」
「え……」
「おま……」
桐野萌絵とサミィが振り返る。
その場には死者がいる。
透明化を解いた内海が桐野萌絵の瞳を見る。驚愕の一言では表せないほどの驚きを体全体で表現する彼女の瞳だけは、憎しみが湛えられている。
「おまえ、まさか……因幡、なのか?」
「久しぶり、桐野さん。ボクが死んだのを見ていた桐野さんだから、ボクを見れば死んだ証拠になると思って」
因幡内海は桐野萌絵の目前で死んだ。
ならば、因幡内海という存在は桐野萌絵にとって間違いなく死者だ。
死者が目の前にいることは桐野萌絵も死者になったことを示唆する唯一つの証拠だ。
「因幡………………テメェ!」
十年ぶりの顔合わせ。桐野萌絵の声には一片たりとも喜色が混じっていなかった。
「どうして私の前に出てきた! 私の人生を狂わせて滅茶苦茶にした張本人が!」
内海は喜ばれるとは思っていなかった。だが、人生を狂わせたとまで言われる覚えはなかった。
だがそれも桐野萌絵の生きてきた十年間を聞いたら納得した。
「お前が私に好きだの告白したのをクラスのが見てた。フッたお前が逃げたらクラスの奴らが追いかけろとか囃し立てるから追ってやったさ。そしたら目の前で死にやがった!」
「……」
「十四の少女が目の前で目覚めの悪い死人を見ただけじゃ飽き足らず、お前のせいで私は人殺し扱いを受け続けた。私に告白したら死ぬ呪いの女ってな。親も離婚して地元の公立しか行けなくって地獄みたいな高校生活だった。それが終わっても延々と私の悪評はネットに残った。パソコンもないようなド田舎でようやく見つけた就職先で、なんで、どうして……」
道先案内人は何も言わない。
内海は目を反らしたかった。十年前の選択から逃げた結果から。
「目を反らすな!」
生み出したのは不幸だけだった。
血が出るほどに唇を噛んで荒い息を吐きだす桐野に対して、道先案内人が三叉路の説明をする。
「これからあなたは選択を行います。道は三つ。天国か地獄か異世界。どちらに向かわれますか?」
「こいつはどこへ行くの?」
桐野は内海を指さして尋ねる。
「ボクは――」
保留中の単語が喉の奥に挟まっている。
それを見越した桐野が苛立たしげに吐き捨てる。
「ふん、またなのね。また逃げてるのね」
桐野の一言が内海に突き刺さった。
逃げる。
逃避。
「ち、ちが」
「何が違うの? 因幡は逃げて死んで、死んだ後もまた逃げて。そこまで決断ができないなんて。生きたまま大人にならなくてよかったわね」
口を挟む形で道先案内人が訂正する。
「内海様はまだ大人ではありません」
桐野は指摘が鬱陶しくて踵を床にぶつけた。
「で、こいつはどこへ行くの?」
「こいつではありません。因幡内海様です」
「因幡はどこに行くのかって聞いてるの」
「内海様は異世界に行くことが決定されています」
「え」
サミィは素っ頓狂な声をあげた内海を振り向くことはなかった。
髪を流した桐野は今すぐにでも内海のいる空間から出て行きたかった。
「そう。じゃあ私は天国に行くわ」